「ふぃーっ」
水道水で濡れた手をハンカチで拭いながら、風子は女性用トイレを後にした。
用を足して、次にしないといけないのは知人への挨拶だ。式の参列者には、風子と共通の知人も数多くいるだろう。
「おっと、そういや着いたってこと願子たちに伝えとかないと」
今日の式には、居候含め風子の家族全員が参列する。風子と烈火は幼なじみであり、昔はよく霧沢家に入り浸っていたものだ。そのため、烈火は霧沢家の人々にとってはもう一人の家族のような存在だ。
もっとも、風子自身は烈火とはしょっちゅう殴り合いの喧嘩をしていたのだが。
「さってとー。願子願子っと」
鞄からケータイを取り出して、電話帳から願子の番号を探す。画面に釘付けになりながら角を曲がろうとすると、ドンッと何かにぶつかった。
バランスを崩し、尻餅をついてしまう。ケータイが手から放れて床を滑り、誰かの足に当たって動きを止めた。
「あたた……」
「おっと、これは失礼」
どうやら、人にぶつかってしまったらしい。男性の声が謝罪の言葉をかけてくる。落ち度はこちらにあるのに申し訳ない、と風子も謝罪しようと口を開きかけると、スッと手を差し出された。
「立てますか?」
ずいぶんと紳士的な人だ、と思いながら風子はその手をとって、立ち上がる。
「あはは、すんません。こっちこそぶつかっちゃってごめ……あっ」
「おや」
今度こそ謝りかけた風子の言葉は再び途切れてしまう。目の前に立つ人物が、あまりに意外だったから。
「ら、雷覇くん!?」
「お久しぶりです、風子さん」
元麗十神衆の雷覇がそこに立っていた。
昔と変わらぬ優男ヅラが、爽やかな微笑みを作った。
「どうぞ」
雷覇は足下のケータイを拾い上げ、風子に手渡した。
「あ、ありがと」
「いえいえ、お礼を言われるほどのことでは。お怪我はありませんか?」
「ヘーキヘーキ!昔っから頑丈だもんね」
風子は大きく笑い飛ばした。中学や高校の時は烈火や土門と毎日のように喧嘩してたのだ。これくらい、どうということはない。
雷覇はそうですか、と再び微笑む。
どこか、懐かしさを感じるやりとりだった。
「そういやさ、雷覇くんと初めて会ったときも、私が雷覇くんにぶつかっちゃったんだよね」
「そういえば、そうでしたね。懐かしい話です。あれから、ずいぶん経ちましたね」
裏武闘殺陣二回戦の試合前、雷覇と初めて会った時のことを回想する。
思えば、雷覇との奇妙な縁もあの時から始まったのだ。
「雷覇くんはちっとも変わんないなー。ずーっとあの頃と同じ、優しいお兄さんって感じ」
「そうですかね。そういう風子さんは、とてもお綺麗になられました」
「んなっ!?ちょ、ちょっと冗談やめてよねー」
「いえいえ、冗談などではありませんよ。昔も魅力的なお方でしたが、今はさらに磨きをかけられた」
赤面しながらパタパタ手を振る風子の言葉をやんわり否定し、歯の浮くようなセリフを口にする雷覇。
狼狽している風子とは違い、落ち着き払った様子である。相変わらずのマイペースぶりだと風子は思った。
なんとも気恥ずかしいので、風子は話題をすり替えることにした。
「そ、それにしても、まさか雷覇くんまで来てるとはねー」
「私だけではありませんよ?音遠たちもいますし、螺閃たちとも会いました。元麗・裏麗の者がたくさん招待されているようです。烈火さんのお心遣いですかね」
「へえー。あいつ、ほんとなんでもありだな……」
恩師や同級生たちだけでなく、まさか敵だった連中まで呼んでいたとは思いもよらなかった。だが、烈火らしいと言えばらしい話だ。
「私としては、招待状を送ったことよりも、それに応じてこれだけの人が集まったことの方がすごいと思います。特に我々は、一度はあなた方の敵であった身。しがらみは全て取り払われたとはいえ、そんな人間たちまでもが烈火さんの結婚式に顔を出すのは、ひとえに彼の魅力のお陰ですよ」
雷覇も、音遠も、紅麗に忠義を誓い、全てを捧げて生きてきた。そんな紅麗の忌むべき敵であった烈火は、彼らにとってもまた敵だったはずだ。
「麗が解散したとはいえ、紅麗様への忠誠心が失われてしまうことはありません。ですが、私や
音遠個人にとっては、烈火さんは大切な友人です。烈火さんがいたから、私たちは紅麗様のお心を知ることができたのですから」
紅麗の為に生き、紅麗の為に死ぬ。彼等が紅麗に抱いてきた想いがどれほど強いものか、風子も知っている。
彼はそのために刃を、魔導具雷神をとって、風子と闘ったのだから。
「……ね、一つ聞いていいかな」
「なんですか?」
風子には気になっていたことがあった。それ程の忠誠心を持ち、それ程紅麗を信奉しているのなら。
「あの時、雷覇くんはなんで紅麗について行かなかったの?」
風子の言葉に、雷覇は神妙な面持ちで俯いた。
「あっ、ごめん!変なこと聞いちゃって!気悪くさせちゃったかな……?」
「……いえ、別にそういう訳ではありませんよ」
風子を安心させるように笑って、雷覇は遠い目になった。まるで、当時の自分に思いを馳せるかのように。
「あの時私が思ったのは、紅麗様に代わって、月乃様をお守りしなければならない、ということです」
「つきの?」
知らない名前に首を傾げる風子に、雷覇は苦笑しながら教えた。
「月乃様は、紅麗様の義理のお母様です。紅麗様を実の子のように可愛がっていらっしゃった、優しいお方ですよ」
森光蘭が紅麗の義理の父であったことは知っている。つまり月乃は森の妻だった女性ということになる。
紅麗を道具のように扱っていた森とは真逆の人物のようだ。
「紅麗様が旅立たれたら、月乃様はお一人になられてしまう。だから私は残ろうと思いました。この時代に残り、紅麗様が愛していた月乃様をお守りする。それが、私の麗十神衆としての最後の使命である、と。そう、考えていました」
そう言って、雷覇は悲しげに首を振った。
「……ですが、果たしてそれで良かったかはわかりません。無論、月乃様のこともお慕いしていますし、紅麗様も彼女の幸せを何より望んでおられたとは思います。しかし、本当にそれが正しかったのか。紅麗様が望んでおられなかったとしても、彼の元に馳せ参じ、彼の力となることが部下としての務めではなかったか。そんな風に……思うこともありますね」
紅麗を想う雷覇の気持ちが誰よりも強いということを風子は知っている。
我が身かわいさに里から逃げ出した火影忍軍の裏切り者の血を引く雷覇を、火影忍軍頭首の息子であり、その戦で父と母を喪った紅麗が必要としてくれたこと。それが、雷覇が紅麗を慕う理由であることも知っている。
だから、雷覇の葛藤も理解することは出来た。
しかし、
「悩むことないじゃん」
「……え?」
「悩む必要なんてないって言ってんの」
言葉の意味が飲み込めていない雷覇に、風子は続けた。
「紅麗が雷覇くんの選択をどう思ったかなんて私は知らない。でもさ、それは雷覇くん自身が選んだ道でしょ?他でもない、紅麗のために。結果はどうあれ、紅麗のことを想ってやったことならそれでいいじゃん」
たとえどんな選択であっても、自分の忠臣が自分の為に決めたことを喜ばないはずはない。
風子自身は、紅麗が嫌いだ。しかし、雷覇のことは気に入っている。そんな雷覇が慕う紅麗なら、きっとそう思っているはずだ。
風子は右拳を軽く握って、雷覇の胸にそっと当てた。
「胸張りゃ良いさ!アンタが選んだその道は誇れるモンだって、私が保証するからさ!」
強ばっていた雷覇の表情が緩んで、また、いつもの優男に戻った。雷覇は風子の手をとって、愛おしそうに両手で握りしめた。
「……ありがとうございます。やはり、あなたは前以上に素敵になられた」
脈拍が速くなり、顔が熱くなる。風子が手を引っ張り、雷覇の手からスルリと逃れた。自身の手を胸元に置いて、風子は尋ねた。
「雷覇くんは今、なにやってんの?」
雷覇は少し残念そうな表情を見せたが、にこやかに答える。
「先ほど申した通り、私は月乃様に仕えております。ですから、今は彼女のお仕事のお手伝いをさせていただいてます。C-COMという会社をご存知ですか?」
風子もよく知る大企業の名が飛び出した。慈善事業で
有名であり、国内外問わず恵まれない子どもたちの環境改善に努めていると聞く。
「元は森の会社でしたが、今は月乃様が引き継いでおられます。あの頃は裏で汚い仕事も行っていましたが、今ではそういったことからも手を引いて、本当に素晴らしい会社になりました。それともう一つ」
雷覇は風子の耳元に口を近づけ、囁いた。
「実は、ここの社員の多くは裏の世界にいた人間なんですよ」
「ってことは、麗や裏麗にいた奴らばっかってこと?」
「ええ」
目を丸くしている風子に、雷覇は続けた。
「麗や裏麗にいた人間の多くは、表社会で生きていく術を知らない者達です。月乃様は、そんな者達が夢を見つけられるよう、また見つけた夢を叶えられるよう、様々な形で援助を行っておられます」
そう言えば、葵が言っていたことがある。ある人に、戸籍や学歴のことで助けてもらったと。それが多分、月乃のことだったのだろう。
「私がしているのは、そんな者達に仕事を斡旋し、技術を伝えることです。彼等が一人で表社会に出られるように、ね」
殺しを生業にしてきた者達が、それ以外の方法で生きていこうとするには、かなり大きな苦労を強いられることだろう。
雷覇は続けた。
「月乃様は仰られました。これが妻として、森の暴挙を止められなかった私の償いである、と。背負う必要のない十字架を背負われてしまっている彼女を、少しでも支えて差し上げるのが今の私の仕事です」
紅麗と同じくらい、月乃のことも慕っているのだろう。嬉しそうに語る雷覇の表情は、輝いて見えた。
「風子さんは、どういったご職業に就かれているのですか?」
だから自分のことを話すのは少し気後れした。しかし、雷覇も話してくれた以上は自分が黙秘を貫く訳にはいかない。
「あー……。あんな立派な話聞いた後だと言いづらいけど、私は普通のOLやってる。経理担当でね」
大学を出て、なんとなく就職した会社だ。自宅から通えて、残業が少ない。ただそれだけの理由だった。
「まっ、正直なところあんまり楽しくはないかな。数字キライだし、スケベ親父の上司にセクハラされるし、辞めちゃおっかなーって思ってる」
「……でしたら」
雷覇は懐から名刺を取り出し、風子に手渡した。
シンプルなデザインの名刺には、指名の手前に“取締役”の文字が打ち込まれていた。
「またいつでもご連絡ください。風子さんさえ良ければ、ポストを用意させていただきますので」
風子は逡巡し、
「……ありがと。でも、せっかくだけど遠慮しとく」
雷覇に名刺を突き返した。
「実はさ、もう転職先は考えてあるんだ」
「……それは残念。よろしければどちらをお考えかお聞きしても?」
雷覇の問いに、風子はしばし考えて、
「んー……花屋の社長夫人、かな?」
太陽のように明るく笑い、そう告げた。
雷覇は少しだけ、寂しそうな表情を見せると、またいつものように柔らかく笑った。
「……そうですか。では、もし花が必要になったときはよろしくお願いしますね」
「はいよ!友達料金で、安くしとくよ!」
それだけ言って、風子は雷覇に手を振った。
「それじゃ、雷覇くんまたね!」
「ええ、また」
駆けていく風子の背を、雷覇は少しの間目で追いかけ続けていた。
◇
「あんたも懲りないねぇ」
物陰から、声がした。それが誰のモノなのか、雷覇にはすぐわかった。
「……聞いていたんですか、音遠」
「トイレの近くで長々話し込んでんじゃないわよ。入りにくいでしょ」
姿を現した元同僚は、呆れたように首を振った。
「やれやれ。同じ女に二回振られるなんて、情けないったらありゃしない」
「意外でしたか?」
「べっつにー。あんたが頑固なことなんて、昔っから知ってるわよ」
歯に衣着せない言われように、雷覇は苦笑した。
「我ながら、何をムキになっているのかと思いますがね」
そう自嘲する。
「どうにも、彼女の前だと冷静ではいられなくなってしまいます。私もまだまだ、修行が足りませんね」
「いいんじゃない?」
しかし、音遠にかけられた言葉は、意外にも優しいものだった。
「好きな人の前で冷静になれるやつなんて、三十路過ぎてもそうはいないわよ。人を好きになるって、そういうことよ」
紅麗を愛し、紅麗に尽くした彼女の言葉は、雷覇の心に波紋のように伝わった。
さっき風子に聞かれたこと、雷覇も同じように音遠に尋ねた。
「音遠はなぜ、紅麗様と一緒に行かなかったのですか?」
先ほどの自分とは違い、これを聞かれることを想定していたようだ。音遠は間を空けることもせずに、口を開いた。
「魅希と亜希を置いていけなかったのも、あるんだけどね」
だけどそれは理由は一つに過ぎない。
そう、音遠は語った。
「『お前は来てはいけない』、あの方が、そう仰っていたように聞こえたんだ」
雷覇は知っている。紅麗が一度は音遠を戦いから遠ざけようとしたことも、音遠がそれを知りながら、再び戦いへと舞い戻ったことも。
「たとえ必要とされなくても良い。私の自己満足でも良い。あの方の力になれるなら、どうなっても構わない……そう、思ってたはずなんだけどね。どうも、私には、仲間との別れを選んだ小金井ほどの覚悟はなかったみたい」
音遠は自分のお腹をさすった。優しく、儚げに。
「ひょっとしたら、あの時もうあの子がお腹にいることに気づいてたのかもしれない。紅麗様が遺していったこの子を感じていたから、すんなり諦めちゃったのかもね」
くくっ、と音遠は笑いを漏らす。
「よくよく考えたら、私も二回振られてんのね。あんたのこと、笑えないわ。全く、小金井が羨ましいよ」
雷覇にはわかった。
彼女は多分、慰めてくれているのだ。不器用なりに、気を遣わせないような言葉を選んで。彼女がそういう人間であることは、自分と、“もう一人”がよく知っている。
「どうですか?振られた者同士、今度一緒に食事でも」
「なによ、口説いてるつもり?やーよ、あんたタイプじゃないし、二人で食べててもつまらなさそうだし」
「おや、残念ですね」
「でもさ」
苦笑する雷覇に、音遠は一枚の紙切れを見せた。
「“三人”でなら、良いわよ」
ボロボロになったその紙切れを見て、雷覇は微笑む。
「ええ。たまには、同窓会でも開くことにしましょう」
それぞれに、それぞれの忠義を抱いて、二人の士は君主との別れを選んだ。
迷うことも、後悔することもあるが、これからも、彼等は彼等の忠義を果たすだろう。
なんで雷覇と音遠がついて行かなかったのかは、自分なりの解釈です。
もちろん原作には紅麗と音遠の子どもなんていないので、そこを除いてですが。
ところで、雷覇の一人称『私』であってましたっけ?(笑)