……はい、言い訳です。すいません。睡魔だけに。
ホテルの裏手にはちょっとした広場があった。周囲を色とりどりの花に囲まれているその広場の中央には噴水があり、人の通り道にはレンガが敷き詰められている。
噴水の縁には女性が一人腰掛けていた。左肩の辺りに花柄があしらわれている黒い着物のその女性は、とてもこれから結婚する花婿の母親とは思えぬほどに若く、美しかった。事実、その女性の肉体年齢は、烈火とは十も離れてはいない。
「あまりはしゃいじゃダメよー?」
陽炎はそう言いながら、目を輝かせながら走っていく我が子に手を振った。花菱家の次男坊の薫は、母の声に反応して大きく手を振り返す。あの様子では、母の忠告を聞き入れてくれたかは怪しいものだ。
「まったくもう、父親と兄、どっちに似たのかしらね?」
あるいは、どっちにも似ているのかもしれない。いくつになっても騒がしいのは、花菱家の男子の共通点だ。
そしてそれは、薫の名を頂いた彼も同じだった。
「きゃっ!!」
「あたっ!!」
声に驚き、薫のかけていった方を見ると、見知らぬ女性と一緒に尻餅をついていた。
全く、物思いに耽ることも許してくれない、手のかかる息子だ。
陽炎は慌てて駆け寄って、薫を立ち上がらせながら女性に謝罪の言葉をかけた。
「ごめんなさい。大丈夫だった?」
「いえいえ平気ですよっと!いやー大変元気のよろしいお子さんだことで……」
まるで西洋人形のように大きな目と長い睫毛の女性は苦笑しながら立ち上がり、陽炎と目を合わせる。そして、大きな目をさらに見開いて驚きの声を漏らした。
「あっ!?」
「え?」
「陽炎さんじゃないですかー!!」
「は、はぁ。確かにそうですが……」
女性はこちらを指差しながらわなわな震えたかと思うと、嬉しそうに陽炎の名を呼んだ。しかし陽炎には、この女性が誰なのかさっぱり思い出せない。
どこかで聞いたような声ではあるが……。
いまいち反応が悪い陽炎を見て、女性は自分が誰だかわかっていないことに気づいたらしい。今度は悲しそうな顔をして、陽炎の手を握った。
「えぇー、私のこと忘れちゃったんですかぁー!?」
「いっ、いえ、違うのよ。あの、ここまで出掛かってるんだけど……」
「やっぱり忘れてるんぢゃないですかー!!」
わんわん泣き出す女性にしどろもどろになる陽炎。しまいには薫まで「かあちゃんひどーい」と責め立ててくる始末。陽炎は脳味噌をフル稼働させて女性の顔を記憶から引っ張り出そうとするが、こんな美しい女性は陽炎の記憶野には存在していなかった。
と、女性はぴたりと泣き止んで、手を打った。
「あ、そっか!」
何を思いついたのか、女性はガサゴソと懐を漁ると、どこからかサングラスを取り出して、それを顔に装着した。
「これでわかるでしょ?」
「……!あなた、鬼凜ちゃん!?」
サングラスをかけたその顔は、陽炎もよく知るものだった。かつて、裏麗に在籍し、烈火たちや陽炎の前に立ちふさがった鬼凜の姿が、そこにあった。
「イェース!鬼凜ちゃんでぃーっす!」
鬼凜はそう言ってVサインを作って見せた。
「……変わらないわね」
陽炎は思わず苦笑してしまう。裏の世界に身を置いていたとは思えないようなこんな軽いノリも、彼女のトレードマークだ。
朗らかな笑みから一転、鬼凜は顎に手をあててしかめっ面を作る。表情がコロコロ変わるところも相変わらずだ。
「むむむ……ずっとサングラスかけてたからみんな私の素顔知らないのかなー。他の人にも気づいてもらえなかったし……。ねー、やっぱりコレつけて出てった方がいいんじゃないかな、螺閃ー?」
螺閃。
その名もまた、陽炎にとっては縁が深い者の名だ。
「必要ないよ。素顔がわからなくても、君のキャラクターは忘れたくても忘れられないさ」
鬼凜が歩いて来た道を辿るようにして、男がやってくる。
服の色とは正反対の白い髪をオールバックにしたその男は、かつて、四百年の呪縛から解き放った時のままだ。
「螺閃くん……」
「……どうも。久しぶりだね、陽炎」
鬼凜とは逆に、表情を変えることなく螺閃は小さく会釈した。
◇
「しかし驚いたよ」
陽炎が再び噴水に腰掛けると、螺閃もその隣に座った。そしてぽつりとそう呟くのだった。
「あの子のこと?」
鬼凜との鬼ごっこを楽しむ我が子を眺めながら、陽炎は聞いた。ドレス着ていることを気にする様子もなく、子ども顔負けの元気溌剌ぶりを発揮する鬼凜は、薫にとっても嬉しい遊び相手であるようだ。家で烈火に遊んでもらっている時にも劣らぬはしゃぎように、頬が緩む。
「それもあるが……名前のことかな」
「ああ。風子ちゃんたちも、最初は驚いてたわ」
小金井薫──薫の名を頂いた、花菱家の“もう一人”の息子だ。
二人目の我が子が生まれたとき、陽炎と茂男、そして烈火はそれぞれ紙に名前を書いた状態で伏せて、同時に捲った。そして三枚の紙に書かれた『薫』の文字を見て、笑ってしまったものだ。
「別に、湿っぽい気持ちで名付けたつもりはないの。薫ちゃんがいなくてみんな寂しがってたのは確かだけどね」
四百年の時を越え、戦国時代へと旅立って行った彼。
紅麗を兄と慕い、その後に続いた彼。
天真爛漫な彼の姿をもう見ることはできないということを、花菱家の住人も、友人たちも、寂しく思っていたのは確かだ。しかし同時に、彼がそんな悲しい別れを望まなかったことも皆知っていた。
「薫ちゃんみたいに優しくて、元気いっぱいで、つらいこと、悲しいことがあってもめげない子に育ってほしい。私はそう思ってあの名前をつけたの」
多分茂男も、烈火も、同じ気持ちでつけたのだろう。言葉にしなくとも、そのことは汲み取れた。
「……そうか。良い名前だと思うよ」
螺閃の顔が、微かに優しい微笑みを作ったような気がした。
初めて会った時の、心を閉ざしていた彼ではこんな顔はできなかっただろう。
「……あなたは結構、変わったみたいね」
「そうかな?……いや、そうなんだろうな。あなたと、烈火のお陰だよ」
かつて彼は烈火と闘ったことがある。母を消してしまった魔導具『光界玉』を使って。
その時知った、烈火の心。母を、愛する人を守るために闘う烈火の信念を。
そして、陽炎の前に現れた。烈火が救おうとしていた母を、彼の代わりに救うため。光界玉の能力で、陽炎に架された不老不死の呪縛を消し去るために。
陽炎を蝕んでいた悪魔も、螺閃の母を消してしまった悪魔も、共に滅んだ。彼の閉ざされた心は、開かれた。
螺閃は言った。
「烈火が、あなたがいてくれなければ、僕はいつまでも母を消した悔恨と自責の念に囚われていた。本当に、感謝している」
「違うわよ」
陽炎の否定の言葉に、螺閃は釈然としないという風に視線を投げかけた。その意味を悟って、陽炎は螺閃の手を握った。
「私や烈火のお陰なんてとんでもないわ。今のあなたがここにあるのは、あなたがこの手で道を切り拓いたから。お母様を消してしまった自分を許すことができたのは、愛する人を守りたいっていうあなたの意志があったからよ」
誰かのお陰ではない。誰かのために生きようとする彼自身の心が、彼を変えたのだ。
陽炎もまた、優しく微笑んだ。
「うちの子も、そうだったでしょ?」
愛する人を守り、愛する母を救わんと、闘い続けた息子のように。
螺閃は、何も言わない。ただ黙って、自分の手とそれに重なる陽炎の手を見つめていた。
「それに」
陽炎は螺閃の耳元に口を寄せ、囁いた。
「あなたももうすぐ父親になるんだから、少しは自分に自信持たないと」
イタズラに笑う陽炎に、螺閃は大きく目を見開いた。
「……鬼凜に聞いたのか?」
「あら、私だって二児の母ですもの。妊娠してることくらい、見たらすぐわかるわよ」
かなわないな、と螺閃は頭を掻いた。そして、視線の先を鬼凜に向けて、尋ねる。
「……僕は、立派な父親になれるかな。母を消してしまった僕でも、生まれてくる子を烈火のような立派な人間に育てられるかな」
陽炎は、螺閃の背中を叩いた。不安がる螺閃が前に歩けるよう、後ろから押してあげるように。
「私が保証するわ。あなたなら大丈夫!鬼凜ちゃんも一緒だしね」
螺閃は笑った。柔和な笑みを浮かべて、呟いた。
「ありがとう」、と。
◇
「つっかまえたー♪」
鬼ごっこは終わりを迎えた。鬼凜にガッチリとホールドされて、そこから逃れようと薫はじたばたもがき続ける。
「お姉ちゃん強いよー」
「お姉ちゃんをなめちゃいかんぜよ。昔キミのお兄ちゃんに勝ったこともあるんだからー」
薫は動きを止めて、キラキラした視線を鬼凜にぶつける。
「マジ!?」
「マジマジ!キミのお兄ちゃんもなかなか筋は良かったが、私の敵じゃなかったねー」
「ねーちゃんすっげー!!」
憧憬を向けられて、鬼凜は鼻を高くする。
嘘はついていない。烈火を完封したのは事実だ。もっとも、その後発情ゴリラにあまりに情けない負け方をした事実を隠してはいるが。
「へっへーん。お姉ちゃんってば天才美少女だからね!」
ポンッと、鬼凜は薫の頭に手をおいた。
「薫くんだってお兄ちゃんより強くなれるよ」
「ほんと?おれにーちゃんより強くなれる?」
「ほんとほんとー!薫くんがいつも元気いっぱいなままなら、兄ちゃんにだって父ちゃんにだって勝てるようになるよ!キミの元気はそのくらいスゴい武器なんだ」
薫の頭を撫でながら、鬼凜は笑う。笑いながら言った。
「お姉ちゃんの赤ちゃんも、キミぐらい元気に育ってくれたら嬉しいなぁ」
薫はキョトンとして、辺りをくるくる見回した。
「……?赤ちゃんなんて、どこにもいないよ?」
「フッフッフッ……実はここにいるのだ!」
鬼凜はお腹を指差し、薫の手を掴んでお腹に当てさせさた。
「赤ちゃんがいるの、わかる?」
薫はしばらく神妙な顔でんー、と唸って、高らかに告げた。
「わかんない!」
「あら」
ずっこけてしまいそうになる鬼凜だが、なんとか体勢を持ち直して薫の肩に手を乗せる。
「わかんなくてもね、赤ちゃんは確かにここにいるんだ。だから、お姉ちゃんから薫くんに一つお願いがおるの」
「おねがい?」
「そ。薫くんにしか頼めない大切なお願い」
何事かと背筋を伸ばす薫に、鬼凜は言った。
「薫くんの元気、お姉ちゃんの赤ちゃんにわけてもらえないかな?」
「どーやって?」
「うーん……お姉ちゃんのお腹に手を置いて、『がんばれ!』って言ってくれたらいいかな」
「らじゃー!」
薫は素直に返事をすると、鬼凜のお腹に手をひっつけながら、がんばれ、がんばれと念仏のように唱え始めた。
鬼凜はニコリと笑ってしゃがみ込むと、薫の頬を撫でてやった。
「ありがとね、薫くん」
薫は照れ臭そうにはにかんで、鼻をすすった。
「もしうまれたら、おれにもだっこさせてね!」
「もっちろん!可愛がってあげてね!」
互いに親指を立てて、了承を示す。鬼凜は立ち上がり、螺閃の方に目を向けた。
「さーて、そろそろ話は終わったかな?」
そう呟いた直後、螺閃が立ち上がり、こっちに向かって歩き始めるのが見えた。どうやら向こうもお開きらしい。
「よしっ。それじゃ私もいきますか!」
鬼凜は薫に手を振った。
「バイバイ薫くん、またね」
薫も千切れんばかりに手を大きく振り回す。
「ばいばいねーちゃん!また遊ぼうね!」
「らじゃー!」
ビシッと敬礼のポーズを作った鬼凜は、くるりと背を向け、螺閃の方へと走って行った。
自分のお腹をさすって、いつか、自分と螺閃が築くであろう、明るく、暖かい家庭を思い浮かべながら。
なんだかカオリンが故人みたいな扱いですね(まあ多分故人になってるでしょうけど)。
ごめんカオリン!またいつか元気な姿を書いてやりたい!