Fate/無明長夜【日本の英霊限定・オリジナル聖杯戦争】 作:世木維生
そもそも、少年の体力は満足に歩行を可能とするレベルにまで回復するに至ってはいなかったのである。
伊達裕樹が自身のサーヴァントによって消費した生命力とは、それこそ一般的な人間であれば昏倒できるに十分な分量だった。或いは場合によっては死に直結する可能性さえあっただろう。
それでも僅かばかりのインターバルで祐樹に独歩を成そうとさせたものとは、日々休むことなく継続された鍛錬によって彼が身につけた強靭な精神力以外の何物でもなかったのだ。
しかし、その鍛えられた強固な意志の力も、予想だにしなかった耐性の皆無である方面からの揺さぶりには極めて脆弱で、ものの見事にぽっきりと折られてしまったわけである……。
そういう事で腰砕けた色恋沙汰に極めて純情な少年は夏川大橋に到達した時点と同じく、結局、左右を少女2人に支えられた状態で、その斜張橋を渡り終えるに至ったのだった。
「……アサシンのように、気配遮断のスキルを使って闇討ちすることができないだけマシなのでしょうが……今後も先程までの様に周囲に張り付かれる可能性を考えると、少し厄介ですね……」
ゆっくりと歩を進めながらも、今尚、懸命に息を整えて体力の回復を図っている裕樹。そんな彼を右側で支えて歩んでいた少女──有栖川宮里子が彼方に目を遣りながら不意にそう独りごちると、続けて舌打ちに似た白い溜息を零す。
行く手。舗装道路の先。
少女の視線の先にあるのは山林。
山道を拓いただけの人工の道。その左右に広がった原生の闇。
再び会敵するのならば、其処からソレは現れるのだろうか。
──とは言え一度は完璧にアーチャーが補足してみせた敵影は、今は完全に少女たちの索敵圏外へと消え失せていた。
その暗然の中にもキャスターの式神が存在せぬであろう確信を少女は────少女たちは持っている。
それが揺るぎない事実であるということに、索敵能力の高さを自負する少女は少なくとも絶対の自信を持っていた。もとより、あれだけの魔力の塊ともいうべき存在を知覚的に繊細で秀でた魔術師が一定距離下に於いて見逃すはずもないのだ。
──では何故にその存在が急にその姿を消したのか?
残念ながら、その原因とは彼女らにとっては定かではない。例えこの場で幾ら推論を繰り広げたところで、そのどれもに確信は在りえないのだ。
確かなことは、本当に今は彼らが彼女らが周囲には存在してはいないことだけ。だが、しかし同時に里子の危惧は決して現実味の薄いものではないということ。
何時とも知れず、彼の偉大なる陰陽師の
「……ええ。ですが、闇討ちや不意打ちといった直接的な行動を実行するよりも、あるいは常に精神的な負荷を敵対するマスターに与え続け、追い詰めることこそが彼らの狙いなのかも知れません」
その可能性を示唆する者がここにもう1人いるということが、その信憑性を強める。
今は伊達裕樹が側にいる──。
他のマスターの存在。即ち、現状、相槌を打ってくれた彼女──彼のサーヴァント・アーチャーが側に控える以上、彼女は杞憂の対象に戦力的な不安を一切抱えてはいなかった。
しかし、彼女自身のサーヴァント──セイバーは消滅する寸前レベルの深刻な損傷を受け、現界でさえもが完全に不可能な状態であることは事実である。
もしも、単独行動を余儀なくされる事態に直面するのだとすれば──駒である式だけではなく魔術師のサーヴァント自身もが直接動いたとして、アーチャーがその相手をすることになったのだとしたら。または他のサーヴァントの襲撃等の何かしらイレギュラーなハプニングが発生してしまったのだとしたら──里子にとってキャスターの式神とは喉元に突き付けられたら
キャスターの自律宝具である十二天将はサーヴァントならば互角、または互角以上に争うことができるだろう。
だが、如何に魔術師とはいえ人間程度の脆弱な存在が対峙するには、非常に危険な存在であることに間違いはないのだ。
彼女が祐樹に同行を求めたのは、落ち着ける場所で彼の置かれた状況を逐一説明し、全てを納得させた上で、この魔術師たちの殺し合いの舞台からその意志で降板させるため──あくまで“一般人”を巻き込みたくはないという想いからではあった。
しかし、単純に今という結果だけを見れば、その勧誘とは彼のサーヴァントの立場からすると、無知なマスターを
「──同時に複数使役可能な式神たちを、戦力的に不足していることを理解しながらも、僅か1体だけしか私の元に
そんな少女の不安を他所に、アーチャーは共に歩み始めてからは里子に対して敵意を向けることは決してなかった。
「敵勢力の最新の情報を常に収集しながらも、自らはほとんど労せず疲弊さえも狙う……嫌になるほど慎重で、その上に狡猾でありながら、非常に合理的な戦術と言えます。敵ながらに見事な如何にも、あのキャスターが好みそうな一手です。私も我が身がキャスターに配されたのであったのならば、似たような戦術に出たかも知れません」
そして、今もこうして自身が交戦して身をもって入手した生きた情報からの推測を、包み隠さずに語って共有しようとしている。
それは祐樹の身体を挟んだ向こう側から聞かれた美声だった。そうなのだ。それどころかアーチャーは自身のマスターの身体を半身、里子に預けているのである。
「アーチャー。貴女にはキャスターの適正もあると?」
「……実際に喚ばれてみなければ解りませんが──恐らくランサー以外のクラス適正が私には在るものと自覚してはいます」
少しだけ。助走をするように交わした軽い里子の言葉。
そんな歓談的な声に返される気軽なアーチャーの答え。
果たしてどこまでが本音であるのかは少女には解りはしない。それとて彼女の真名に──弱点に繋がるやも知れない情報なのだ。
しかし、不思議と少女はその答えに納得して見せると、さっと表情を変えた。
「……アーチャー。貴女は私が貴女のマスターを謀殺しようとしている────」
僅かばかり躊躇して、だが、少女は抱いていた懸念を
「──そうは疑わないのですか?」
「……当初から、それを全く危惧してはいなかった……そう言えば、それは確かに虚言になります」
「……そう、ですよね」
「ですが今は、十分に貴女が信用に足る人物だと認識しています。セイバーのマスター」
「……アーチャー」
「──勿論、聖杯を獲得するために覇を競い合う相手であるということは忘れていませんが……」
アーチャーの言葉に、ぴくりと少女の身体が反応して強張った。
それは伊達祐樹という少年と、このままの状況であれば、いずれ殺し合うという事実を意味しているのだ。
それもそれは決して遠い未来の話ではない。
恐らく、つい数日と経たずに遭遇することとなるであろう少女にとっては極めて残酷な現実なのだ。
「……ですが、少なくとも、今は貴女方と雌雄を決するその時ではないようです。祐樹には貴女と争う意志が全く以ってないのですから……」
微笑みながらもどこか呆れたように呟いたのは、やはり彼女とて聖杯を欲するが故に聖杯戦争に参戦した
サーヴァントを現界できない、つまりは完全に無防備な状態と同義である
「……それは……本当に有難く思います。そして、本当に申し訳なくも思います。特に貴女に。アーチャー……」
「なんか、色々とごめん……
弱々しく消え入りそうな少女の謝罪。
そんな少女たちの遣り取りに、不意に少年の声が割り込んだ。
少年の突然の介入に驚きながらも。その平然を取り繕いながら傍らに居るからこそ解る少し息苦しそうな言葉が、彼の優しさの表れなのだと里子は察していた。
恐らく話の流れの中で、一方的に少女が弱者にならぬようにと少年は配慮したのだ。
でなければ、そんな声を発することさえ辛い状態ながらに突如と会話に口を──それも行う必要もない謝罪の言葉を──挟んだ理由が他に見当たらないのである。
彼女の記憶の中に存在する少年の人となり。
その発言こそが、例え今に在ってもそれが変わってはいないのだと教えていた。
だから、里子の眼にはうっすらと涙が浮かび、頬を薄く紅に染めて確かに微笑んでしまうのだ。
そんな歓喜を即座に殺すと、少女は言葉を搾り出す。
「……い、いいえ。アーチャーにも話したように、むしろ私の方こそ謝罪するような立場です。私は状況的に伊達さんたちに生かされている……そんな立場なんですから──」
「……そんなことはないよ。ほら。だって、元々、君が将仁の前に立ち塞がることがなければ、僕らは────」
祐樹が息を呑んだのは、身体的な負担だけであろうはずもなかった。
「──死んでいた……将仁に殺されていた、と、そう思うから……」
それが果たして、少年の願望通りに、親友が第三者の意志に操られていたからこそ行った凶行であるのか否かは別にして──。
親友を打倒しようとした少女を前に認めたくはないのだろう現実を、自ら口にして少年は静かに受け止める。
「……だから、君が謝ることなんてない。それどころか、本当に感謝してる。ありがとう、伊万里さん」
「い、いいえ! そんな! こ、こちらこそ、ありがとうございます! 伊達さん」
そして、互いに感謝の言葉を送りあった後、気が付けば2人は心底からの笑顔を向け合っていた。
不意に。
山林を割るように伸びたアスファルトの路面に、少年と2人の少女の身体に暖かい光が差す。
徐々に。徐々に。明るみを帯びていた空は、遂に陽を迎えていた。
朝陽が辺り一帯を、夏川の街を包む。
重い雰囲気を溶解させるかように。
魔術。聖杯。そんな非日常を夜の闇と共に消し去るかのように。
柔らかい日差しは、昨夜まで少年の知っていたものと同じく目覚めのときを世界に告げていた。
例え出会った変異こそが
新しい1日の始まりに、彼らが感じたのは決して負の感情ではなかったのだから。
「……そう言えば伊達さん。私の名前は伊万里じゃありませんよ?」
悪戯な表情を浮かべ、少女は小悪魔的に口を開いた。
「え? でも、将仁が君を伊万里って──」
「違います!
──私は里子です。私の名前は、有栖川宮里子です」
「──そ、そっか。なんか本当にごめん。名前をずっと間違えてたなんて、本当に失礼だよね、俺……」
「いいです。特別に許してあげます」
慌てて謝罪を告げた少年に向け、くすっと少女は歳相応に微笑む。
「改めてありがとう、有栖川宮さん」
「……り、里子でいいです。里子って呼んでください。伊達さん……と、言うより、その、そ、そう呼んで欲しいデス……」
少女の頬が朝日に染まると、今度は慌てて少年から視線を逃がす。
それが本来の彼女の姿なのだと、祐樹には思えた。
それが昨夜の強がったような印象でなく、唯々ごく自然なものに少年には捉えられていたから──。
「あ、あのさ。だったら、こっちだけ堅苦しく呼ばれるの、変だから……俺のことは祐樹でいいよ。さっきも咄嗟に名前で呼んでくれてただろ? アーチャーもそうだし、親交のある奴は大体みんな名前で呼ぶからさ。そうしてよ」
「よ、呼べませんよ! そ、そんな──! だ、だって、伊達さんは学年が私より1つ上なんですよ!?」
「そうか……君は2年生なんだ。って、あれ? 何で俺の学年だなんて、そんなこと知ってるの?」
「……伊達さんは有名人ですから」
「そんなことはないけどね……」
「そんなことありますよ!」
コホン、と。
そこでゆっくりと歩む3人の、残されていた1人が咳払いをして己が存在をアピールする。
「……祐樹? セイバーのマスター? 私もいることを忘れてはいませんか?」
「──アーチャー、もしかして、やっぱり妬いてる?」
「いいえ。妬いてません」
にっこりと笑顔ながらにきっぱりと即座に否定する様は、どこか祐樹の背筋を凍らせるものがあった。
「おに──ぁ。……せ、先輩! 祐樹先輩じゃ駄目ですか?」
そんな身の危険を察した少年に間髪入れずに届いたのは、そんなアーチャーにめげなかった明るい声。
「──っと、ああ。それでいいなら、それで。名字で呼ばれるよりぜんぜんいいよ」
2人の少女の温度差に僅か気後れするも、里子の提案に対して祐樹は笑顔で了承する。
「伊達さ──せ、先輩?」
「うん。どうしたの? 里子」
続いた里子の呼びかけに然も自然に答えた祐樹のそれは、どこかもう何年も続いた2人の関係を感じさせるものだった。
まるで通学途中に何時も出会って交わされる挨拶の後の遣り取りのように、2人は言葉を交わしている。
「も、目的地まではもう少しです。さ、いきましょう!」
そして。
少年の手を引いて学校まで急かすかのように、少女はまたも微笑んだ。