Fate/無明長夜【日本の英霊限定・オリジナル聖杯戦争】 作:世木維生
生活に適した河川が存在する土地には、人口が自然と集中していく。
それは日本史のみならず、むしろ世界的な人類史こそが雄弁に物語っていることであり、今更に掘り下げて語ることでもない。
夏川という街が一大都市とは言わずも市制を敷くにまで発展するに至れたのも、この街を最初に拓いた魔術師の一族の力だったわけではなく、結局はこの街の中央を流れる河川──
園埜という一族は人々の集まる些細な最初のきっかけをこの土地に作っただけに過ぎず、おそらくは彼らの手が加わることがなかろうと程なく何者かが入植し、夏川が今日の発展を見ただろうことに疑う余地もない。
或いはむしろ、魔術師たちの戦争の舞台としての側面が失われる分だけ、園埜という魔術の徒の力が街の発展に介することがなかった方が、結果として夏川には遥かに有益だったとさえ考えられる。
水源。狩場。肥沃な土壌。その上で居住と耕作に適した平たい大地。実に様々な恩恵を人類に与えてきた河川。
しかし、その畔で暮らすことに全く弊害がないわけではないことは、想像に容易い。
水害であったり、その結果として治水工事等の施策の対象になり易かったりと、生命や財産に関わる大きなリスクやデメリットも確かに存在するわけである。
そして、程度としては極めて低いことではあるのだが、夏川のオフィス街が“陸の孤島”と揶揄されることとなったマイナス要因の一端も、その既近川が担っていたのだった。
北西から南東へと夏川市の中央を袈裟懸けに分断して海洋へと流れ出る既近川は、その川幅が国内の河川のものとしては比較的に広く、結果、橋を架けるための建造費が平均的なものよりも極めて高額になってしまうのだ。
国や県が建造費用の大部分を受け持つとはいえ、その残額とて末端の地方自治体が負担するには十二分に巨額と呼べる金額なのである。所詮はしがない地方都市には公共事業費として捻出できる予算に相応の限度があり、そのために市内には、その両岸を結ぶ主要な橋が2本しか存在しないのだった。
既近川は夏川市の交通の利便性を明らかに阻害していたのである。
そんなわけで僅か2本しか存在しないそれらの橋は、共に市内の交通の要所となっているかと言えば、だが、必ずしもそうではないのだ。
市民を始めとして、主に多くの人々が利用するのはその内の1本。
憩いの場として親子連れや恋人たちに支持される海浜公園を足元に臨む、既近川河口の入り江付近に架けられた夏川ベイブリッジだった。
夏川ベイブリッジは市の大動脈である幹線道路を上段に、他都市とのアクセスを支える鉄道を下段に敷設した鉄道道路併用のトラス橋で、正に市の交通の要所と呼ぶに値する橋なのである。
そして、対するもう片方の橋──つまりは現状、建造費用と利用状況が不釣り合いである無駄な公共工事の産物とも呼べる代物。それが夏川ベイブリッジからは内陸、山側に架けられた夏川大橋だった。
夏川大橋は市の大動脈である国道から分岐し、住宅地から山林部を沿線上に臨み“陸の孤島”の西端へのアクセスを可能とする市道を通した
この橋は、まだ夏川市が本格的な発展を見る前段階──その計画期に、主要幹線道路を渋滞させることなく現オフィス街への建材を搬入することを主眼として建造されたもので、そういった意味では既にその役目を終えた橋だと言っても過言ではない。
しかし、当然、たったそれだけの短期的な利用目的のために莫大な建造予算を政的に計上できるわけもなく、当時の行政は第二期都市計画によってその沿線上のなだらかな山林部の開発を行い、工業区或いは第2オフィス区画、または人口の増加によっては新たな住宅区画として、そこを利用することを企画・立案・公表をしている。一応、有権者を始めとし対外的には、そのように夏川大橋の主要交通網としての存在意義を継続させる腹積もりで市は税金の巨額投入を行ったわけなのだ。
だが、現状は前記の通り、夏川大橋には、かつての昼も夜も無く大型車輌が橋上を行き交った名残はなかった。
現に3人はこの橋に到着するまで、遂に1台として走行する自動車と遭遇することはなかったのである。
オフィス街の眠る夜明け前に在っては、その建造物とは既近川を跨ぐだけの単なる街の発展を追懐させるモニュメントでしかないのだった。
「……ありがとう、
──アーチャーもすまない。ありがとう」
ここまでの道のりを無言で歩んできた伊達祐樹が不意に口を開く。
その左右の肩をそれぞれ貸してくれていた少女2人に礼を告げると、そして、その細くも柔らかで触り心地の良い2つの肢体から半ば強引に自身の身体を離した。
「え? でも──」
「しかし、祐樹──」
「──ふぅ。ここまでくれば、もう大丈夫だろ?」
異口同義の言葉がもたらされそうになった2人の少女の口を少年は己が言葉で塞ぐ。
大きく息を吐きながら、夜空を見上げた少年の顔は明らかに赤く染まっていた。その上気した顔は、果たして酷い疲労に苛まれた身体を無理矢理に動かして歩んで来たことだけによるものではない。
裕樹と共に聖杯戦争の戦場と化したオフィス街から移動してきた少女たちは、共にあまりに魅力的過ぎて、その体温を感じながらに歩くことが全く異性に対する耐性のない初な少年には些か刺激が強かったのだ。
正直なところ、祐樹の体力は十分に一人歩きできるまでに回復はしていなかった。
とはいえ、裕樹とて思春期を終えようとしている年頃の男性なのだ。しかし、だからこそ、自身を助けてくれた少女たちに、決して不純な想いを抱かぬよう自らを律する必要性を感じていたのである。
そんな雑念を完全に払拭するべく、そして、自らを省みるかのように少年は後方へ視線を送った。
確かに無理を押して歩んできた時間に比例して、オフィス街のビル群は遠い。
安堵。または親友を取り戻せなかった歯がゆさ、無力感。
「……遠い、な」
どちらともつかない大きな息を祐樹はもう一度零す。
「……いいえ、祐樹。残念ですが、まだここでは安全圏とは言えません」
しかし、夏川大橋を境界として、さも非戦闘区域に到達したのだとでもいう感じで独り立ちした己がマスターに、そのサーヴァントが表情を曇らせながら警告した。
「ええ。まだ気を抜くわけにはいきません」
アーチャーのその言葉に、祐樹たちの道先案内を買って出ていた少女もまた真剣な面持ちで頷く。
「なんでさ? どういうことだよ? 2人して?」
そんな少女たちに対して、少年はさも不思議とばかりに首を傾げた。
敵に見つかる可能性を、例え極々僅かでも減少させるために貫いていた沈黙をようやく破ったことも。移動速度が落ちることを理解した上で、こうして1人で歩くことを遂に選択したことも。
オフィス街は既に遠く、身に危険が及ぶことはもうないだろうと確かに祐樹自身は判断したからなのだ。
「伊達さん……私たち、ずっと尾行されているんです──」
その表情で。その口調で。
だが、少女たちはそれを強く否定する。
ツインテールの黒髪を川風に靡かせたセイバーのサーヴァントのマスター──有栖川宮里子が振り返った先、裕樹同様に遥か後方を見遣りながら、彼が感知していない夜闇に潜んでいる真実を伝えた。
「──いいえ。癪ですが、泳がされている……そう言っても差し支えないとさえ思います」
「え!?」
俄には信じられない里子の言葉。
だからと言って、それを鵜呑みにできるほど、裕樹は決して世間一般的に外界の動きに対して鈍感な部類の人間ではないのだ。むしろ常日頃鍛えてきた動体視力、反射能力を始めとする知覚的肉体能力は鋭い方だと彼は自負している。実際に運動能力テストによって計測したそれらの能力を数値化すると、伊達祐樹という少年は抜きん出て優れた水準にあるのである。
だからこそ、己の感覚を強く信じるが故に、その声音には疑いが在った。
「いや、さすがにそれ────」
だが、それは思い過ごしとか、勘違いじゃないのかと告げようとした祐樹の声は、少女を前に容易く飲み込まれてしまう。
可憐で、どこか儚げでさえある少女には、酷く似合わない殺気。
その視線に込められたものが間違いなくそうなのだと、魔術師たちとは違い、殺し合いなどという不穏な日常を持ちはしない裕樹にさえ感じられたからだった。
「……泳がせる? 成る程。そうですね。当然、あまり良い感じはしませんが、確かに如何にもその様な感じがします」
ぽつりと里子の言葉を反芻し、アーチャーは妙に納得して見せる。
「──裕樹。セイバーのマスターの話したことは事実です……この感じは間違いなくキャスターの式神のものでしょう」
「──っ!? キャスターって、アイツが!?」
そして、続けた言葉でアーチャーは里子の発言を裏付けた。
その言葉は少女が似合わず見せた敵意の意味を、祐樹に納得させるものである。
その少女は長浜将仁を強く敵視しているのだ。
何故なのかは解らないが、彼女は少年の親友の命を確かに自らの意志で奪おうしていた。それ程に、その少女は将仁を危険視していたのである。
それは少女と出会ったとき──結果としてかも知れないが、裕樹が彼女にその命を救われたときから、将仁が彼女の名前を伊万里とそう呼んだときから、変わらない事実だったはずだ。
「──アイツ、まだ」
そして同時に。親友と一緒に居たいけ好かないと感じた涼しげな青年の顔が、歯軋りをした少年の脳裏には浮かんでいた。
裕樹にとっての聖杯戦争とは、現状、彼との戦いが総てといって過言ではなく、おそらくそれはこの先も変わらないはずなのだ。
それは彼を打倒することが、親友を取り戻すこととイコールだと少年が考えているからだった。それを成し得たのならば、目の前の少女の抱いた将仁に対するわだかまりも、きっと誤解だと判明して消える去るはずなのだと裕樹は信じて疑いはしない。
長浜将仁が自らあの様な凶行に及ぶはずはないのだ。
ならば、その原因とはキャスターという青年以外有り得ないのである。
伊達裕樹にとっては長浜将仁という人物は、間違いなく誰からも愛される公明正大、品行方正、極めて穏健な好人物であるはずなのだから──。
「ご安心下さい。裕樹に危害は一切加えさせませんから」
強張った表情を見せた少年。
その身体を再び支えるべく、その間近に寄り添ったアーチャーが祐樹に穏やかな微笑を向ける。
──気が付けば、その様子を里子は羨望の眼差しで眺めていた。
そんな自分を認識し、少女は下唇を噛み締める。
アーチャーの微笑には言葉同様──或いはそれ以上に強い意志と決意が込められているのだと、里子には感じられたのだった。
もしかすると、彼女の言葉は少年の見せた表情の原因を排除するものとは違う、無意味な言葉だったのかもしれない。
だが、硬い表情を不意に見せたマスターをリラックスさせるべく、彼女は彼女なりにマスターを深く気遣っているだろうことが明らかに見て取れるのである──。
その関係性がセイバーのマスターには
「え? ──あ、いや」
「どうかしましたか? 裕樹?」
ごく自然に自身を支えた少女に、祐樹も違和感を感じることなく応えていた。
「……いや。気持ちはうれしいけどさ。
──でもやっぱりさ、自分の手で将仁を止めたいんだ。どうしても」
「……祐樹」
「だからさ、アーチャー。俺は単に守ってもらいたいんじゃくて、そのための力をアーチャーに貸して欲しいと思ってる。あんな目には合ったけど、アーチャーをあんな目に合わせてしまって、本当に申し訳ないと思うけど……それは変わらない──」
そして、少年が見せた顔はやはり恐怖に因るものではなかったようだった。
「──いいかな? 将仁を助けるために、これからもアーチャーに頼っても?」
決意を露わにしてサーヴァントと祐樹は視線を交わす。
「──はい。お任せください、祐樹。告げたはずです。私は貴女と共にあると──」
一瞬、きょとんとした顔を見せた弓兵の少女は、直後、満面の笑みを少年に返していた。
里子の前で交わされた誓い。
彼女とセイバーの希薄な信頼関係では望めぬ遣り取り。
マスターとサーヴァントの信頼関係の表れ。
否。
それさえを超えるような
──それを感じたとき、少女はマスターとしての自身よりも、単なる少女としての強い意識を目覚めさせていた。
「アーチャー……貴女がマスターを思う気持ちは解りますが──」
「どうかしましたか? セイバーのマスター?」
目の前を過ぎる祐樹と寄り添い歩き出したアーチャーに対して、里子自身は無意識ながらも感情のままに、明らかに険のある声をかけていた。
「──ですが、マスターを思いやるというのならば尚更、貴女は今、すぐにでも、即、霊体となって彼の負担を少しでも軽減させるべきなのではないのですか?」
「お言葉で──」
「──大丈夫です。伊達さんなら私が支えて歩きますので安心を」
「ですが──」
「それにキャスターの式神についても問題はないと思います。ここまで大きな動きを見せてはいない以上、おそらく単に斥候として打たれた
「しかし、セイ──」
何かを告げようとするアーチャーの言葉を待たず、里子は感情に任せ、矢継ぎ早に続ける。
「幸いここまで来れば、私1人でも伊達さんをフォローしつつ、移動はできます。目的地はもう近いですし。ですので、何も貴女が常に実体化していなくても十分に対処可能なはず──」
「聞いて下さい、セイバーのマスター。私はアーチャーです。単独行動スキルを有する私は、祐樹の魔力に頼らずとも戦闘を行わなければ数日は現界できます。ですので、私が祐樹を支えて歩くことに何ら支障はありません」
だが、遂に少女の声は遮られた。
「私は祐樹のサーヴァントです。私が祐樹を支えます」
荒げずとも割り込んできた凛とした声は、続けてその意志を里子に明確に知らせる。
「──ぐうっ! 確かに……」
ぼそりと誰にも聞こえないように呟いた彼女の短い一言は、だからこそ。
そのアーチャーの言葉は、祐樹の負担を軽減すべきであるという里子の発言の根本にあったものを覆し、反論の余地を与えなかったのだった。
単独行動スキル。
それはアーチャーのクラスに配されたサーヴァントが聖杯から授かるクラス別スキルだった。
その効果とは彼女の発言の通りのものである。本来、サーヴァントはマスターからの魔力供給無しには活動することが叶わないのだ。それ故にサーヴァントにはマスターが絶対に必要なのである。
しかし、単独行動スキルはマスターからの魔力供給が遮断されようとも、スキルレベルに応じて一定期間の存命と活動をサーヴァントに可能とさせるのである。
「……で、でも──」
だが、認めたくはない事実を拒絶するように、少女はぽつりと零す。
「でも、キャスターに備えるなら、私が祐樹さんと歩いて、アーチャーが自由に動けたほうが絶対いいはずなんだからっ!」
そして、抑えきれない感情を終いに暴発させるに至ってしまった。
「────ぁ!」
極めて感情的になったことで素の自分が露呈し、それを悟った里子は顔をこれでもかと言わんばかりに真っ赤に染めて、アーチャーと──祐樹の視線から逃げるように顔を背ける。
夜明けはまだ遠かった。
夜の冷たい大気が辺りを静けさと共に支配する。
聞こえるのは橋上を抜ける風音。そして、微かに微かに届いた足元を流れる川音。
「……セイバーのマスター。確かに貴方の言う通りなのかも知れません。ですが、私にも想いがあるのです──」
暫しの沈黙の後、少女は艶やかな唇を開く。
そして、吐息の掛かる距離にある自身のマスターを見上げた。
少女の視線と少年の視線が正面から交わる。
「……祐樹。せめて安全な時は、私は貴方とできるだけ一緒にいたいのです……」
瞳を逸らさず、瞳を逸らせず。
「──駄目ですか?」
そして、少年の瞳が映した美しい少女の花唇がそう告げる。
「────い゛!?」
「────えええええっ!?」
そのサーヴァントの発言に少年と少女──2人のマスターはそれぞれ要因となる