Fate/無明長夜【日本の英霊限定・オリジナル聖杯戦争】 作:世木維生
「──祐樹」
小鳥の鳴き声が心地よいBGMとして流れ、朝日の産み落とした柔らかな木漏れ日が差し込む暖かい部屋。
そんな景色の中。
優しく穏やかな声が少年の耳には聞こえた。
いつか──まだ幼い頃。
記憶を失う以前――伯父と伯母の家で暮らすようになる前には、それは決して特別ではなく、当たり前に見受けられた朝の光景だった────
────否。
無くしてしまった記憶の中に存在していたという過去を、彼自身が己の
自分を実の息子のように扱ってくれた伯父と伯母のためにも。
それは表面的には平気だと強がり、取り繕いながらも、少年の深層で描かれ続けた憧れそのものである儚い幻想でしかないのだ。
亡くしてしまった“しあわせ”。
強く。強く。どれほど強く求め欲そうとも、それは再び少年が手にすることの叶わないモノ。
それは絶対に再び少年の元に訪れることのない“安息”という名の願望──。
しかし、彼女の声は祐樹の心を、最も安らかな状態へと導いていたことは確かだった。
少年の脳裏に残されている僅か数年の記憶の中に、これほどの安らぎを覚えた記憶などなかったのだ。
少なくとも。
祐樹には、それが事実として認識されていた。
──だからだろうか。
そんな彼女の声は、決別したつもりだった、深く深く埋葬させたはずだった想いを、少年に掘り起こさせたのだ。
「……お母さん?」
涙が流れていた。
すぐ傍で感じる安らぎに満ちた気配。
眠りから呼び起こしてくれた思慕を募らせ続けた存在を、少年は微睡みの中で呟く。
祐樹が母という存在を示す言葉を口にしたのは、一体いつ以来のことだっただろうか?
「──よかった」
ようやく反応を見せた祐樹に、声の主は安堵の息を漏らす。
それは図らずも、やはり少年のイメージしていた母性そのものたる存在の声音に違いない。
「無事なのですね、祐樹──」
そして──。
しかし──。
「──では、状況は理解できていますか?」
彼女は続け様にそう問いかける。
その言葉が突き付けたのは、現実。
少年が再認識すべき、母の死という非情な現実だった。
「──!? アーチャー!?」
祐樹は彼女が、己が口が告げたように自身の母親などではなかったことを知る。
曖昧な思考。涙に擦れていた視界。その向こう。
はっきりと目醒めた彼の視界に入ったのは、自分に仕えると告げた美しい女性の姿だった。
崩れ去った幻想の風景の欠片など、微塵にも感じさせることのない乾いた灰色の世界。
2人を取り囲んでいたのは、木漏れ日溢れる部屋などとは程遠い、暖かさを決して思わせることのない冷たい殺風景な空間だった。
緩和ではなく、緊張を。
そこは、この場所に席を置く者を
静かに月の光が差し込むだけのOA機器が並んだ室内。
そこには2人の他に人影は窺えず、
「──! アーチャー! 将仁は!?」
しかし、その静寂が事態の収拾を意味しているわけではないのだ。
知るべきだと思うこと。
知る権利があると思うこと。
意識が明瞭になり、受け入れるべき今を把握し終えると、祐樹は上半身を起こしながら声を荒げる。
「落ち着いてください、祐樹」
「──!? す、すまない、アーチャー……」
恐らくは戦場から遠く離れているわけではないだろう。或いは意識が飛ぶ直前同様に、臨戦態勢であることに変わりはないのかも知れない。
安全が完全に確保されているというわけではなく、未だ切迫した状況下にあるという緊張。
親友であったはずの少年と死闘を演じたオフィス街。その区域であろうと容易に判別できる近景と、自身を諭したアーチャーの表情と声からそれらを推測して、祐樹は素直に詫びた。
軽率な言動が、彼女をも危険に晒す事態を招きかねなかった愚行だったと知ったからだ。
だが、そんな祐樹を前に彼女は怒ることも、たしなめることもなかった。
ただ、いいえ、と首を振るとやさしい微笑みを見せる。
その反応にほっと息を吐き、少年は胸をなでおろした。
「……将仁という名のマスターと、そのサーヴァントであるキャスターは、現在、セイバーと交戦中だと思われます」
ひと息吐いたマスターに、サーヴァントは先の問いの答えを伝える。
「セイバー?」
「最優とされるサーヴァント……剣士のクラスに配された英霊のことです」
サーヴァント。聖杯戦争に参戦する魔術師に付き従える使い魔。
聖杯戦争とは、聖杯を求める魔術師たちとサーヴァントたちによって繰り広げる戦争。
戦争とは──即ち、殺し合い。
将仁たちと本格的に交戦する直前の僅かな時間に、アーチャーから教わった知識。
祐樹の持っている聖杯戦争という儀式についての情報とは、それで全てだった。
だから、大まかなルールどころか、そのような敵対するであろう存在を示す重要な単語に関する情報でさえ、彼に在りはしなかったのだ。
所有する情報の掘り下げを開始することもなく行き当たったアンノウン。
今という現実に於いて、無知とは自らの生命を脅かす最大の敵に為り得るということを、少年は先ほどまでの経験から思い知っている。
しかし、この機を利用して更にアーチャーに問い掛けて『聖杯戦争』というものを学習していく以前に、意識を失う寸前の光景や状況が祐樹には強く思い返されていた。
──視界一面を染める白。
──夜空を覆った光の柱。
──初めて目の当たりにした魔術戦。
そして、倒れた自分のすぐ側に立った、将仁と言葉を交わしていた少女。
魔術という実在するものと認識したばかりの力に因り発現された電撃に打たれ、その後遺症か、不思議な状況を描いた思考の最中で聞いた、その少女の声。
親友が呼んだ彼女の名前──。
「……伊万里って呼んでたよな、将仁……」
それが自分を助けてくれた、セイバーというクラスに配された英霊のマスターであろう人物。
「── ! !? あ、──れ?」
そして、不意に祐樹はその異変に気付いた。
腕の深い刺し傷。感電による全身に及ぶであろう火傷。
自身の身体は、その少女の名前を将仁から聞く前には既に、大きなダメージを受けていたはずなのである。
細かい外傷も考慮すれば、痛覚の働いていない場所など体中どこを探しても見当たらないはずがないのだ。
しかし、どこにも痛みを感じる部位は存在せず、その変わりに認識されたのは、何故か酷い脱力感・疲労感だった。
「──っ、く!?」
全身に感じられた、重く圧し掛かる感覚。
それは何ら特別な加重などではなく、単にこの惑星が、全ての生命に平等に課している重力という力に過ぎない。
しかし、それにさえ抗うことができず、力が思うように入らない少年の体。糸の切れた操り人形よろしく、その身体は彼の意に反して、ぐらりと揺らぐ。
あの夏。
甲子園という大舞台に、意図せずも名前を刻んだ日。
その試合を終え、球場を後にし、高揚が、緊張の全てが去った時に感じた著しい肉体と精神の疲弊。
その時と同等か、或いはそれ以上の度し難い疲れを認識したと共に大きくふらついた祐樹の半身を、アーチャーはやさしく支えていた。
「……ア、アーチャー……す、すまない……」
間近にある美しい少女の顔。
ばつの悪そうに、照れを隠すかのように、祐樹は弱々しい笑顔を浮かべると同時に顔を背ける。
しかし、その実、少年の見せた表情が、反応が、真に隠そうとしたものとは、それらとは全くの別ものだ。
「……祐樹。貴方はここで休んでいてください」
アーチャーがそれを容易く看破したのは、彼女が英霊であるとか、彼と運命を共にするサーヴァントであるとか、決してそういった類の理由ではなかった。
垣間見せた祐樹の顔が、気丈を装うも、明らかに無理を押し通すべく作られた表情なのだと、誰もが安易に看破できるような濃い憔悴の浮かんだものだったのである。
「……い、いや。大丈夫、だよ。もう1試合くらい、完投できる、だけの余力は、あるさ」
「試合? 完投?」
「は、ははっ……、ごめん。野球に、例えても、アーチャーには、解らない、か……でも、ま、だまだ戦える、って、ことさ……」
取り繕うとするも、表情や言葉の端々から容易く推し量れる少年の状態。
しかし、アーチャーには推測、憶測ばかりではなく、マスターが疲弊しているであろう事実、その確信も存在してた。
「……キャスターのマスターとは、私が責任を持って引き合わせます。ですから、祐樹は安心して休んでいてください……その方が私も助かります」
反論をしようとした少年の唇は、次の瞬間にはきつく噤まれていた。
「……す、まない、アーチャー。アーチャーを、自分で、引っ張り込みながら、あ、足を、引っぱったみたいだ……」
僅かな沈黙を挟むと、彼女の語尾に全てを察した祐樹はただ詫びる。
戦う術だけでなく、抗う力をも失った現状。
今の少年は、確かに彼女にとって足手まといでしかないのだ。
己の無力を責めた少年を前に、アーチャーは哀しげに長い睫毛を伏せた。
そして、そんなマスターの身体をゆっくりと横にすると、弓兵のサーヴァントはすっと立ち上がる。
「……いいえ。そうではありません。私の責任なのです」
祐樹から顔を背けると、アーチャーはぽつりと零す。
その声を、少年が聞き取ることはなかった。
再び意識を無くした少年の、規則正しい寝息が彼女の耳に届く。
少年が意識を取り戻す以前に、既に結界は張ってあった。
その身はキャスターとして召喚されたわけではなく、まして、マスターは完全なる魔術師ではないのだ。
己が居城に立ち入ろうとする者を3年もの間、彷徨わせる迷宮の結界。
かつて自身が張ったものと全く同じものをここに作り出したのだとは言えども、現状の結界では、侵入者を3年もの年月に渡り強制的に拘束させるほどの効果を有するものではないだろう。
それでも。この部屋はその結界に因り、少なくとも自分が解かぬ限りは、一昼夜程度ならば十分に外界からの干渉を許さぬはずだ。
その結界をかつて越えて来た者を、一瞬、アーチャーは横たわるマスターに重ねていた。
「申し訳ありません、祐樹。だから、貴方は休んでいて下さい──」
謝罪と共に。
その想いを振り払ったのは、もう1人の『彼女』の意識か、彼女自身か──。
安全な場所。
この場に自身も留まれば、彼の無事は約束されるのだろう。
しかし、その場に留まることは、アーチャーにとって本意ではなかった。
聖杯戦争に巻き込まれる形で参戦することとなった祐樹とは異なり、彼女には参戦するという、勝ち残るという、確たる意志があるのだ。
僅かな邂逅であれ、最強と謳われるに十分な力を感じさせたセイバー。
刃を交え、その力量を知ったキャスター。
強敵、難敵の潰し合いが為された現状は、完璧な状態で召喚されたわけではないアーチャーにとって、聖杯をその手にするための明らかな好機だったのだ。
だからこそ、祐樹の体内に残されていた
「──それでは行って参ります」
呟いた出陣の言葉が夜に溶けるより早く。
決意を秘めた天女と鬼女という二面性を持ったサーヴァントの姿は、マスターの傍らから消えていた。