Fate/無明長夜【日本の英霊限定・オリジナル聖杯戦争】 作:世木維生
「本当によろしいのですか? この神剣を受け取り、召喚の儀を行ってしまえば、もう後戻りできないのですよ? 伊万──」
「──
暗がりに問う声を──決別すべき名を遮り、そう自らを名乗ったことこそが巫女の決意に他ならなかった。
その巫女装束の少女の表明に、意志を訊ねた束帯姿の妙齢の女性は悲しげに目を伏せ、その背後に控えた背広を着た壮年の男は薄っすらとほくそ笑む。
「────第七百二十九聖杯。そう取り繕われた魔術師たちによる願望機の争奪戦……聖杯戦争とは、貴女が思うよりも遥かに熾烈を極めます。本当に解っているのですか? それを独りで臨むなどと────」
第七百二十九聖杯。同じ極東の地にて確認された第七百二十六聖杯──つまりは冬木の聖杯とは、非常に酷似していながら異なるモノ。
冬木の聖杯とは違い、考察するまでもなく、その特異性や限定性故に聖堂教会からすれば早々に贋作の烙印を押されて然るべきそれは、しかし、未だに女性の語った通りに“第七百二十九”と認識番号を頂く。
『願望を叶える』という事実。
それは、ただその一点のみによる識別結果のもたした結論だった。
「
低い声が室内に響く。女性を
「塚本さん。良いのです。陰陽頭の発言は、ただ私の身を案じてのこと──
確かに陰陽頭の言うように、計画は予定通りとは行きませんでした。ですがご安心ください。何があっても、私の心は変わりません」
宮内庁参事官・
それが巫女と共にいた二人の人物の身分と名前だった。
晴歌の所属する陰陽寮とは、占術や暦作成により皇族の公務スケジュール作成の補佐を行い、また、陰陽道の魔術を行使し、呪的にその身辺警護の一端を担っている政府機関である。陰陽頭は、その機関の最高位に在る役職であり、陰陽寮に所属する魔術師──陰陽師たちを束ね、頂点に立つ者だった。陰陽寮はかつて
そして、宮内庁は言わずもがな皇族の国家事務、国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務を司る政府機関であり、つまり両名は裏と表という立場は違えども、天皇家を補佐する役人だったのである。
ならば、その有栖川宮里子という少女は────。
社という建物に対して一般的に抱かれるイメージとは、それこそいわくありげなエピソードの一つや二つを持ち、長い年月を経た歴史を誇るという類のものだろうか。しかし、その社は決して古い建造物ではなかった。
新築とまではいかないものの、その築年数などたかが知れているであろうことは専門家でなくとも外観だけから容易に窺い知れるのだ。
それは晴歌の言った“聖杯戦争”という魔術師たちによる争奪戦のために用意された土地と建物だったのである。
この街でも有数の霊地であった場所に公共事業という名目の免罪符を用い、かつての住人たちを強制的に立ち退かせ築き上げた、社であると同時に砦であり、そして非公式の
その地下に設けられた一室。
3人の人影が在るだけのがらんどうの室内は、しかし、厳かな空気で満たされていた。
一つ大きく息を吐くと、里子は眼下に目を遣る。
そこには幾何学模様がそこかしこに
「──いよいよ、なのですね……」
それは決意を呟いた彼女と命運を共にする者を呼び寄せる門──魔法陣である。
時は満ちようとしていた。
事を成すに最たる時節を読むのに長けた魔術師──というよりも、陰陽師とは魑魅魍魎退治などでなはなく、本来はそういう分野こそが本業の魔術師である。
その長たる者である晴歌こそが占じた結果。奇蹟を発現させるために最も適していると判じた、天地の理にかなった祭祀を行うべき日時が、すぐ直前に迫っていたのだ。
「……私の準備はできています。神剣をこれに」
「かしこまりました」
その言葉を待ち兼ねていたと表情で語ると、少女の声に従い、一歩、一歩と博昭は彼女の元に歩みを進める。
持っていた白い絹に包まれた細長い物体を、男は大事にその両手で献上するべく運ぶ。
魔法陣を門だと喩えるのならば、その神剣こそが鍵だと形容されよう。
門と鍵と、そして扉を開く者と。
陰陽寮と宮内庁。それはその両組織が画策した
「────里子様。
博昭が自らの横を過ぎた矢先、晴歌はもう一度だけ少女に決意を問うてみた。
それは自らの、自らが率いる組織の無力さを認めるが故の問いかけに他ならなかった。
考え直すならば、今よりないのだ。
少女がその儀式を完了させてしまえば、以降、彼女は同じく聖杯を欲する者たちとの凄惨たる争奪戦を繰り広げなければならない定めにあるのである。
その女王、
西暦でいう230年頃に君臨していた彼女の遺品。それが突如と、この夏川の街に姿を現したのは200年ほど前のことである。
1800年近い長きに渡る沈黙を破り、冬木の聖杯に呼応したかのように世界に顕現した、その聖杯『らしき』ものは完成に至るまでに、何故か、やはり冬木の聖杯と同じのルーチンを欲していた。
────即ち、あらゆる願いを叶える聖杯を得るために、聖杯に選別された7組の
その聖杯
過去2回。200年前、100年前の争奪戦に於いて検証された、その特異性とは、この日本という国、その極東の極一部の狭小な地域に於いて崇められた英霊のみしかサーヴァントとして召喚されないという点である。
聖杯とは神の血を受けた杯。
つまりはキリスト教における聖遺物。
しかしながら、そのキリスト教の聖遺物であるはずのものから、関連性の極めて希薄な存在にだけしか儀式システムの支配性が及んでいないのである。
ならば、それはその官僚の持つ神剣同様に、この国が所有権を声高々に謳っても十分に説得力のあるものであるはずだった。
だが、それができない現実が、晴歌の抱えた葛藤の原因である。
その争奪戦挑む里子を陰陽寮は直接的に助力できない。その行為はともすれば、自らの組織と比較すると圧倒的な力を持った大きな二つの組織を敵に回す行為に他ならない可能性があったからだ。
それ故に計画の上では必勝を期するべく彼女を補佐するべき強力な両翼が、この場には用意されているはずだった。
しかし、それとて、その片翼さえもが最早ここには存在しないのだ。
長い黒髪を二つ、両耳のやや上方で結んだアップスタイルの髪型──サブカルチャー的に表現するならば所謂ツインテール──がくるりと動く。
そこにあった晴歌の見た里子の表情は、曇りのない笑顔だった。
「ありがとう、陰陽頭────。でも、その為に私は生きてきました。それに、私は一人ではありません。私には最も安心して身を預けられるであろう、最強の英雄が側に在ってくれます」
博昭に恭しく差し出された神剣を皇女は迷いなく細く白い手で受け取ると、纏われた絹を剥ぎ取り、再び魔法陣へと向き直る。
「それは貴女が保障してくださるのでしょう? 陰陽頭」
「──申し訳ございませんでした。里子様」
彼女の言葉通りに、万全の体制を自らが指揮する組織で作ってきたはずだった。
自分こそが、そのための教育を幼い頃から彼女に行ってきたはずだった。
この時を迎えるため、二人で入念に準備を行ってきたはずだった。
迷いなく死地に赴こうとする弟子であり、妹であり、娘である一回り年下の巫女の背中。
そこには陰陽頭が予想だにできなかったまでの、皇女としての誇りと使命と威厳とが確かに感じられている。
────果たしてそれが本当に良しとすべき結果だったのか?
その答えを晴歌は導き出せはしない。
しかし、迷う師に反して、少女には一抹の迷いも見受けられなかった。
晴歌の視線を背後に、里子の唇はゆっくりと開かれる。
その口から発せられるものは、聖杯戦争という一連の儀式の中でも、最も神秘たる神秘を発現させるための言葉だった。
裸身になった神剣を魔法陣に
「ひふみよ いむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか──」
少女の声に反応し、魔法陣を構成している線や図形は、ぼんやりと発光し始めていた。
「うおゑに さりへて のます
あせえほれけ」
詠唱に合わせ、宙を踊る少女の持つ神剣。
──その神剣の名を
それは天皇家に神代から伝えられた、三種の神器と呼ばれる宝具の一つ。
世界的にも数少ない“現存している宝具”の一つであった。
その神剣は、不特定多数の英霊から選ばれるサーヴァントを、特定の英霊に指定して呼び出すための触媒として利用されているのである。
────そして。彼女自身の血こそまた、触媒に他ならないのだった。
この魔術円も、彼女自身の血を利用し、歳月をかけて完成させられたものである。
「ひふみよいむなやここのたり──」
少女の唱えるものは
それは神道の
「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」
清音で構成された
それにより少女は、場を清め沈め、神気の増幅を図る。
詠唱に呼応して、魔法陣は明らかなる変化を見せていた。
本来目視できるものではないはずの神気──正確には陰陽寮の作図した魔術術式円形図により変換された魔力──その奔流が外円に沿い、見る見ると質量のない渦を形成していく。
巫女の千早の袖が、緋袴の裾が魔力風に揺らぐ。
「────
その魔法陣は陰陽寮の英知の結晶だった。
本来、一つではない祝詞の効果を繋げ、増幅し、魔力として変換してみせる。
そして、何よりも。聖杯戦争において召喚された英霊が分類されるセイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、バーサーカー、アサシン、キャスター、その七つのクラスより、最優とされるセイバーのクラスとして彼の英霊を召喚するために。
それは多くの陰陽師たちが前回の聖杯戦争終結以降一世紀の歳月をかけ研究し、作成されたものだったのである。
「アハリヤ アソバストマウサヌ アサクラニ
招神の
神降ろしの祝詞が完成すると、陰陽道の象徴とも言うべき魔術記号である
薄暗がりの部屋を唯白色一色の世界へと変える光の暴走が始まる。
魔力の生み出した渦もまた、一陣、暴風とも形容できるような物理的な影響を及ぼす風を産み、里子を、晴歌を、博昭を襲っていた。
風が抜けると、室内には静寂が訪れていた。
凪いだ空間の中央には、新たな人影が一つ窺える。
「────
身体に感じられた異変、違和感──その正体。
魔術円の
令呪とは、サーヴァントのマスターであるという証。
それこそが、召喚の儀が成功したという証明だった。
里子は左手の甲にいつの間にか刻まれていたその令呪から、魔法陣の中央へと視線を動かす。
そこに立っていたのは里子の予想よりも遥かに幼い姿をした、まるで──自分の生き写しのような少年だった。
少年。そう感じることができたのも、自分が召喚した英霊がおそらく何者か解っていたから判別できたことである。その知識がなければ彼が異性だとは──いや、別の人物でさえなくともすればドッペルゲンガーだとしか認識できなかったのかも知れない。
そんな自身の呼び出した英霊の姿を前に、驚き、里子は言葉を失っていた。否。驚きの声は出せないのだ。
その愛らしい姿をした小柄な少年と里子には絶対的な違いがある。
それは威厳に満ちた、その雰囲気。現界した少年は、その身に纏う威光だけで辺りを完全に支配していたのである。その圧倒的な威圧感に何者も、彼の許可なく声を発することが叶わない。
その存在を前にし、晴歌も博昭も呑まれ、ただ立ち尽くしていた。
彼は確かに敬うべき、畏怖すべき、この国の英霊の中で上位に数えられる存在だと、それだけで誰もが理解できていた。
再び訪れた沈黙。
それを破れるのはその英霊だけであり、そして、それを破ったのは、やはりその英霊に他ならなかった。
天叢雲剣の担い手である英霊は里子を威圧的に真っ直ぐと見据え、尊大な口調で問いかける。
「────女。お前がオレ様のマスターか?」