Fate/無明長夜【日本の英霊限定・オリジナル聖杯戦争】 作:世木維生
Re:prologue
浜風。
ライトスタンドからレフトスタンドに吹き抜けていくその海風は、この球場ではそう呼ばれていた。
足繁くそこに通わずも野球に明るい人々には知られた、その球場の名物とも言える風。
その風がごく一般的な海風と違う点とは、決して穏やかに吹き抜けるだけの風ではなく、時に強く吹き荒び、投球や打球に影響を与えることも多いことだった。
今までこの舞台で繰り広げられた、互いに球史に名を刻んだ投手と打者による幾つもの名勝負。そして、単に試合試合の1つの投打に留まるだけでなく、春夏と言わず行われる様々な大会にも、シーズンを通して行われるペナントレースの行方にをも左右した重要なゲームの勝敗にさえ、その浜風という風は大きな影響を与えてきたのである。
しかし、そんな浜風を少年は決して厄介なものだとは思えず、単純に炎天下に晒された身体に帯びた異常な熱を、幾分か和らげてくれるものとしての認識しかなった。
ともすれば。今、自身の達成しようとしている球界に於いて偉業とされているものが、その恩恵を受けたものとして、或いは惜しくも達成目前で潰えた要因として、後の誰かに語られる可能性が存在することなど思えもしないのだ。
────疲れた。もう、辞めたい。
酷く遠くにスタンドからの声援や応援曲を聞きながら、マウンドの少年は、ただ現状、心の奥でそう愚痴る。
しかし、それは完全なマイナス方向のベクトルでけで構築された独白ではなかった。
確かにその言葉は少年の本心には違いない。だが、その実、それは後ろ向きに発せられたものでは決してなく、むしろ逆の方向を目指すためこその言葉だったのである。
喩えるとするならば、それは弓を引く動作と同じような心理的行為に他ならない。
より遠くに
敵を射抜き仕留めんがために────。
己が総力を持って、弦につがえた
自らを奮い立たせるために。今、切り捨てるべきである感情を明確にし、意識的に切り捨て去るために。マイナス思考そのものの声とは、そのための吐露だったのである。
そうやって、この競技を今日まで行ってきた上で、幾度となく繰り返されてきた精神調整の作業を少年は心底で行う。
ネガティブな感情を切り捨て、殺し。ポジティブな意識だけで眼前の打者へと挑む。
確かに130は優に投げきった利き腕は疲労に苛まれ、既に心ゆく投球を可能にするものではない。
初めて立った大舞台の重圧も少年の疲弊を加速させ、倍加させている。
逃げたい。投げ出したい。帰りたい。休みたい。
一方では、先の弱音同様にそれらは少年の紛うことなき本音でしかない。
だからこそ。己を鼓舞するために。せめて心だけを万全へと近づけるべく。
眼前の打者を、あと一人を抑えるために。
この大事な初戦に勝ち、先に見据えた頂に立ち、深紅の大優勝旗を仲間達とその手にせんがために。
それは必要な行為だったのだ。
しかし、果たして────故に少年は解らなくなる。
この重責とは、この辛苦とは、本当に自分で望み選んだ末の課せられているものだったのだろうか?
だから、往々にして自問する。
此処に立っているべき人物とは本来ならば自分などでは決してなく、さらには当然の如く、此処に至るまでの過程で得られた様々な経験は、苦楽を共にした得がたい友人たちは、そういう貴重な財産の総ては自身が授かるべきものではなかったのではないか?
────或いは。
或いは、何か。
何も残ってはいなかった空っぽの自分が、本当に情熱を傾けるべきモノが、情熱を注ぎ込んでいたモノが――それとも情熱などという言葉では空き足らず、“固執”とか“執着”とかいう一種、負の感情さえ内包した言葉で括られ心酔できるようなモノが──死を賭してでも得たいというモノが自分に在ったのだとしたら────
──俺は変わっていたのだろうか?
──否。変わるのではなく、“俺”は白紙に戻る前の本来の“俺”として、今も存在出来ていたのではないのだろうか?
──有り得ない!
────それは断じて有り得ない!
至り抱いたのは、己の自我を根底から覆しかねない疑念だった。しかし、それを認めるわけもなく、そして、それを強く、強く少年は否定していた。
過去の自分がどうであったかなど、知り得る術はない。だが、今の自分に、自分に対する嘘偽りなどは一切ないと少年は胸を張って言えるのだ。
まして、それを肯定することとは自身を取り囲む環境に対する全否定に他ならないのである。
また。
浜風がマウンド上を吹き抜けた。
天を仰ぎ、少年は忌々しい太陽を一瞥する。それは相対する打者同様、彼の体力と精神力を削り取る敵なのだ。
大きく息を吐くと、止め処なく額から流れ出る汗を少年はとりあえず手の甲で拭った。
心地よいとは微塵にも思えない只管に不快感を感じさせるだけの汗は、当然、そこだけに留まるものではなく、ユニフォームの下のアンダーウェアを益々ぐっしょりと濡らしていく。
嫌悪感を忘れんがためのように、少年は足元のロジンバックに手を伸ばすと2、3度宙に弾ませた。
そうして、滑り止め利いた指でグラブからボールを取り出し、感触を確かめるように少年は手の中でそれを転がし
──ただ。
──ただ、俺には何も残ってなくて。
──ただ、これだけしか、あの頃の自分には術がなかった。
否定はしてみたものの、しかし、それは紛れもない事実──。
少年の手に在る硬球は、かつては軟球だったという差異はある。
だが、確かに。今の少年がその白球を初めて手にしたとき、彼はありとあらゆるものを失っていたのだ。
父も、母も。そして、自分自身にまつわる記憶の全てすらを無くしていたのだ。
顔も名前も忘却していた伯父と伯母と、そんな自分とを新しい家族として結んでくれたのは、その小さな白球だった。
それは事故によって一夜にして両親を、その思い出までもを失くして塞ぎ込んだ少年に伯父が与えてくれたものだったのである。
そして、その白球が繋いだものとは、単にそれだけに留まるものではなかった。
最初は伯父だけが相手だったキャッチボールは、気がつけば多くの友達と、目的を同じくする仲間とするものに変わっていったのだ。
野球というスポーツは、当初は少年が外界と繋がる媒介としての意味合いこそが強かったのである。
────だからと言って、それが否定を肯定するものではないはずだ。
白球を初めて手にした動機が、本当に自分の意志だけによるものだったという球児が10割であろうはずはない。
同時に。
全てを失った自身を護り、育んできた環境があったからこそ、今の“自分”という存在が、今の“舞台”が、今の“幸せ”があると少年は理解している。
そして、ここまでの道程であれ、決して平坦なものではなかったはずだ。才能だとか、そんな与えられたものだけで少年は此処に至ったのではなく、至れたのではない。此処に立つためにあれだけの時間を、努力を仲間たちと費やしてきたのだ。
それはくだらない劣等感を討ち払うに十分な骨子であり、それは少年の誇りでもあった。
────俺はここに居ていい! 俺は、ここに居るべくして居る!
晴れた迷いを体現するかのように、力強く少年は白球を握り締める。
視界をずらすと、そこには3塁アルプス席中ほどにある伯父と伯母の姿が在った。
祈るように両手を組み、深く座席に座す2人の姿は、興奮して沸きに沸いているスタンドに於いて異なるものとしてはっきりと認識できる。
過度な期待をせず、実の子のように育ててくれた2人は、今も変わらず見守ってくれていた。
そして、2人の横には。無二の親友の優しい笑顔も在る。
その笑顔は。確かに自分へと向けられていて。少年を力強く後押ししてくれる。
もう不快感も感じはしない。
その心をただ満たすものは、安堵と感謝。
────少年の精神調整作業は完了した。
精神が限りなくフラットになったのならば、後は放つ白球に在るだけの闘志を込めるだけでいい。打者を打ち取ることに集中するだけでいい。
だから、少年は確信していた。
最後の1人とて自分を打ち崩す可能性は決して無い、と。
投球モーションに入ると同時に全身総毛立ち、
その後に、その指から想いが乗せられたイメージと共に鋭く強く放たれる、“投球”したというよりもむしろ正に“発射”したと認識される白球。
その投球ができたとき、少年は一度とて打球を浴びたことはなかった。
今。過去、ベストピッチングの際に体感してきたことを、間違いなく再現できると少年は確信していたのだ。
泥沼のように纏わり抜け出せないような疲労に苛まれながらも、その口元には薄っすらと笑みさえも浮かべて。
灼熱のマウンド上に在る少年は、ゆっくりと、大きく振りかぶる────。
◇
────白球に想いを込める。
それはそう特別なことなんかじゃない。
そんなこと高校球児であれば誰もがやっていることだ。
阪神甲子園球場。
その最高の舞台を目指し、夏休みも冬休みもなく、盆も正月もなく、日々ただ練習に明け暮れる。
そうやって僕らは人生を振り返る時に『青春』などという最も貴重な時間のほぼ総てを費やして、確実にその小さなボールに想いを積もらせていくのだ。
投げる。打つ。捕る。
口にすれば単純な、それだけの行動の全ては、たった1球の硬球に集中して行われるからこそ。
その1球の生み出すドラマに、一喜一憂しながら。
勝利も、敗北も、喜びも、悲しさも、達成感も、無力感も、希望も、絶望も────。
全国約7万5千人もの高校球児たちは、間違いなく自分たちのあらゆる想いを、あらゆる意志を白球に込めているのだ。
────だから、それはみんなと同じ類の感覚だと思い続けていた。
高校での────。
いや。野球人生の全てが終わった春。
「どうやら私を貴方が呼び出したのは必然だったようですね、マスター」
そう言って突然、目の前に現れた、この世の者とは思えない美しい少女。
「────問いましょう。貴方が私のマスターですか?」
命の灯火が消えようとする最中、優しく穏やかな声で語りかけてきた彼女と出会い、本当の自分を知ることになるまでは────。