「あぐぅッ! ぐるじい"、だずげ、でぇ…ッ!」
「しっかりしなさい! 意識を失ってはいけません!」
屋敷の調理場では人集りが出来ていた。
白衣を着た医者が患者と思われる横たわったまま暴れている青年を抑え込んでいた。
青年は苦痛と共に絶叫を上げている。まるで苦しみを少しでも紛らわせようと必死にしているようだ。
「レイシス先生、こいつはどうなるんですか! 助かるんですよね!?」
「…この病には薬の効き目は期待できそうにありません。もはや譜術で痛みを和らげさせる事の方が最善となるでしょう……」
「…………ッ!?」
つまり、助かる見込みが低いという意味だ。
彼が言うには有効と考え得る薬を服用させても効果がない限り、これ以上打つ手は無い。
「もう少し、もう少しだけ治療してやってください! こいつはまだ半人前ですが、料理人として頑張って来た事は私が一番良く知ってる奴なんです! なのにここで短い生涯として終わらせるなんて…酷過ぎるじゃないですか」
「しかし、これ以上の投与は患者に却って害を――」
「お願いしますッ!」
「むぅ…」
高いトックブランシュを被った料理長と見受けられる顎髭の男が深々と頭を医師に下げていた。
医者にとって患者が縋ってくる姿ってのは実を言うと、あまり気分の良い物じゃない。
力不足を思い知らされ、どこまでも自分を卑下しようとする考えが出てしまうからだ。
これこそが、俺を含めた医者にとっての恐怖そのもの。
医者は病気だけでなく、人の心までも相手にして闘わなくてはいけない。
「こっちか? さっき言った場所は」
「ん?」
「「殿下――ッ!!」」
俺達二人は現場へとようやく辿り着いた。
集まっていた使用人達はこの屋敷における主人が突然現れたためか、一斉に頭を下げて膝を下ろした。
「今は楽にしていい。それに、そんな場合じゃないだろ?」
「はッ!」
ピオニーはそれをすぐに諌めた。
なんせ人の命が掛かっている状況だ。
王族として相応しくとかそういう体面を保っている暇なんざありゃしない。
むしろここで使用人に「礼儀がしっかりしていない!」等と文句を言おうものなら、人として最低の部類に仲間入りを果たす事だろう。
「ちょっと失礼します」
「君は…誰かな?」
「紹介は後でさせてもらいます。『邪魔』ですから…」
「…………」
――失礼な奴だ。
医師――レイシスさんには申し訳ないが、本当に構っている時間がない。
この一言で上記のような印象を持たれたのは間違いあるまい。
俺は別に悪気があってこう言った訳ではないのだが、患者に意識を集中し始めると他の余計な事には乱雑な言葉を選ばずにはいられない。
素がこうなるのが俺の特徴だと割り切って貰いたくもある。
俺の事は後回しにしてと、今は病人だ。
「すみません、幾つか質問よろしいですか?」
「う"ぅ"ぅ…」
言葉の返事は無かったが、首を縦に勢いよく振って肯定の意を示してくれる。
もはや喋る事も難しくなっているようだ。
「ここまでお腹が痛くなる前の話になりますが、初めの頃はどこら辺が痛いと感じてましたか?」
「…ま、まん…なかッ!」
始めは腹の中心。すると、今は――。
俺は青年の右脇腹へと指二本を使って軽く押してみた。
本来は腹圧ですぐ戻る筈の腹部が“ゴリュッ”と異質な感触が伝わってきた。
「があぁぁぁ――――ッ!! 痛えぇぇぇ――――ッ!!!」
「き、君! いったい何を!?」
傍にいたレイシスさんが俺のした行動によって苦しむ患者を守ろうと警戒する。
だが俺の意識は診察に全て持っていかれていた。
「右脇腹…」
痛い部分が広がり、患部が固くなり始めている。
これは――。
「盲腸(急性虫垂炎)だ!」
しかもこの様子では完全に腹膜炎を起こしている!
まずい…腹膜炎が起きているとなればこの患者は…。
――半日で死ぬ!
手術しなければこの患者は助からない!
どうする…意識が明瞭な以上、痛覚は過敏に反応する。
麻酔が必要なくても何とかしてやれる条件じゃない。
これじゃあたとえ症状が分かったとしても手術が行えない。
患者が意識下の中で麻酔なしで執刀なんかしたら激痛で臓器が飛び出す!
――マズイ…出来ない……。
いいや、まだだ! 諦めるな、考えろッ!
この世界でも麻酔の代用になる薬があるかもしれない。
駄目元でも聞いてみるとしよう。
「あの、ちょっと聞きたいんですが…」
「…何かな?」
「――エーテルってありますか?」
麻酔の起源である大麻から進化した末による全身麻酔法の薬剤――エーテル。
麻酔の歴史は前世では紀元前から始まり、16世紀と18世紀に大きな転換を見せていた。
ここに至るまで合成されてきた麻酔は毒性と依存性が強い物ばかりであり、エーテル麻酔の開発は当時人体に最も害の少ない麻酔とされ、画期的な発明と評された物だった。
吸入から始まり、開放点滴法による導入が確立されてからは多くの外科手術に貢献してきた偉大なる発見ともいえよう。
この世界にもそれと同じような薬効のある物もあるらしいが、ほとんど麻薬同然の代物であり、薬効成分といった名前が全く違っていた。
俺は記憶の中からオールドラントにある物として一番安全で効果が望められる薬剤を求めた。
「…エーテル…エーテル…ひょっとして君が言う物とは『アトミックエーテル酸』かい?」
「アトミックエーテル酸?」
「そうだよ、フォ二ミンと混ぜると血中酸素を分解させる薬として有名なものだ」
――違う、それじゃない…。
そんな物じゃ麻酔の効果など一割も期待できそうにない。
もはや今から地道に探し出すしか術はないのかもしれない。
時間がもう…ないというのに……。
「そういえば、間違えてその煙を吸ってしまってその為の解毒剤を服用したけど分量が多すぎて仮死状態にしてしまったという事故があったなぁ――」
反射的にレイシスさんへと詰め寄った。
「その解毒剤です!」
「えぇ?」
「その解毒剤を仮死状態にするくらいの分量でください!」
「…そんな物をどう使うと言うんだい?」
「お話します!」
俺は患者の病名、治療法について詳しく迅速に説明した。
それを聞くやレイシスさんは驚愕を露わにする。
「…つまり君はこの患者が腸の一部に炎症を起こしているため、それを切除しなければならないと。そのためには痛みを一時的に感じなくさせるための薬が必要って事かな?」
「仮死状態にさせる薬ならば、使い方次第で痛覚を麻痺させる薬として使えるかもしれません!」
「そんな馬鹿な…疲労を誤魔化すならまだしも、激痛を完全に遮断しつつ患部を切除する治療法なんて今まで聞いたことも無いぞ!?」
「正しいかどうかを探るのは後にしてください。早くその薬を飽和状態になるまで溶かして持ってきてください!!」
「しかし…」
レイシスさんは俺の言葉をいまいち信用出来ていない。
理由は分かる。彼から見れば俺は部外者であり、まだ子供と呼べる年齢の男に未知の知識を提示されても判断に困るのは悪くはない。
すると、そんな状況にて助け舟を出した人間がいた。
「レイシス、こいつに任せてみろ」
「で、ですが殿下!?」
「お前にも分かっているんだろう、お前が考え得る最善の療法では限界がある。それに、こいつの実力はさっきの診断で薄々と感じてる筈だ。たった数十秒で病名を言い当てるという慧眼が全てを物語っている」
「た、確かに…私も消化器系における異常だと診断を下しましたが……」
「う"あ"ぁ"ぁ"ぁ"――――ッ!!!」
レイシスさんは思い悩む部分が多く、未だに判断出来かねていたが、患者の苦悶が大きくなった事で意を決した。
「わ、分かりました! 直ぐに用意しましょう!」
薬は頼む、じゃあ俺は手術道具となる物を取りに行こう。
「必要な物があるなら何でも言ってくれ。すぐに用意してやるぜ?」
「そうか、じゃあ宿屋に俺のカバンがあるんだが持って来てくれないか? 俺は患者に目を向けていなければならない」
「よし分かった。おい、誰か宿屋へ使いを出してくれ!」
「は、はいッ!」
ユリアシティで使った疑似手術道具をいざという時のため、整理して荷物に入れておいたんだ。
これなら初めから態々かき集める必要はない。念を入れといて助かったぜ。
「道具の煮沸消毒完了…」
さて、ここからが問題だ。
次はこの薬剤をどう使うかだ。
この解毒剤は血中酸素を分解するのを阻害する効果がある。
だか、副作用として筋弛緩剤と同じ効果を発する。
つまり、大量に服用すると心筋まで弛緩させてしまう事があるから仮死状態になるという原理を持っている。
そもそも、全身麻酔は患者を仮死状態にするのと同等の役割を持つ。
全身麻酔では静脈麻酔薬と筋弛緩剤を両方使うからな。
生命活動に必要な臓器以外は全て機能を停止させる。
そこで本来ならこのような大きな手術では効果が薄い冷却麻酔――首、脇、患部の周りに冷水を包んだ布を挟ませる方法だ。
「…仮死状態になる一歩手前の状態になればいい。そうなれば麻酔は成功だ」
「つまり、昏睡状態に近づけるという事かい?」
「痛みとは、人間は意識してこそ初めて痛感する脳の防衛反応ですからね」
「しかし、全身麻酔、か――麻薬効果がある薬で末期・致命傷の患者に対して痛みを取り除き、安楽死を促す方法は従来存在していますが、健全な状態を保ったまま痛みを消す方法など今まで聞いた事がありません」
「ですが、これは本来の方法とは程遠く、完全とは言えない代物です。患者が『気づいて』しまうと専ら効果はすぐに消える不安定な処置と言えます」
「危険は承知の上…か」
「では、始めます。まずは冷水を含ませた布を指示する場所へ…」
「…分かりました。悔しいですが、私ではこの病に対して効果的な治療法を見出せない以上、藁にも縋る想いで君の指示に従います」
「ありがとうございます。では、レイシスさんは後に脈を測って随時変動の様子を報告してください」
レイシスさんは俺の指示した部位へ持ってきた冷水タオルを挟んでいく。
冷水タオルが接触すると同時、患者の肌は赤みが引き始めていく。
血管が委縮して血液が流れにくくなっている証拠だ。
この場合、良い傾向だと呼べる。
「では次にこの解毒剤を…開放点滴法で少しづつ使用していきます」
「カイホーテンテキホー?」
【開放点滴法】
エーテル麻酔でも使われていた昔ながらの吸入麻酔法。
本来の形はいくつにも重ねた布製のマスクに揮発性麻酔薬を垂らし、徐々に麻酔を施していくという物だ。
「よし…いくぞ………」
10滴――まだ変化なし。
20滴――同じく変化なし。
40滴――同じく変化なし。
一分間に徐々に垂らす液を増やしていく。
二倍方式にして掛けていくのがコツだ。
「ゲボッ…ゴホッ…!!」
「すまない、今は耐えてくれ…」
開放点滴法は効果が表れるのに時間が掛かるというのが欠点となる。
患者が異物として認識して生理現象で涎を多く出すため、良く口元を拭いていく必要がある。
80滴――異変あり!
「む…ッ!?」
青年の身体が“ビクンッ!”と微弱な震えを生じ出した。
「痙攣だ」
「薬が…効いているのか?」
ならここからは少し慎重に――。
この解毒剤は仮にも劇薬の分類に入る。さじ違い一つで効果は大幅に変わる。
やがて、痙攣が止まった。
呼吸は――。
「――落ちました」
「上手くいったのかい!?」
「脈拍は?」
「あ、あぁ…一分間に79回って所かな」
「呼吸も安定している…見た限りとして麻酔導入は成功と言えるでしょう」
――よし、ここからだ。
荷物のビンに入れてあった酒を蒸留して作り上げたアルコールをガーゼに沁み込ませ、それを患部に塗布していく。
アラミス湧水洞で野宿していた間に白ワインから作っておいた物だ。
ちなみに、物資の少ないユリアシティのどこで嗜好品といえる白ワインが? という疑問に答えるならば――察してくれ。
消毒完了、それじゃあ――。
簡易式手術着をまるで戦場に向かう者の必需品とされる鎧のように装着し、手袋がきっちりと嵌まっているのを確認し、最後に深呼吸をしてお決まりの言葉を自分にかけた。
「手術――開始――」