ファンの皆様を傷つけるような描写があれば、どうかお叱りを願います。
私の名前は黒桐鮮花。礼園女学院に通う16歳の一年生だ。
今日は、魔術の師匠である蒼崎橙子師の事務所である、伽藍の堂へ向かう日だ。
伽藍の堂では、私の兄であり、片思いの恋の相手である幹也が働いている。
私は、一週間ぶりに彼に会うことが出来る喜びで胸を一杯にしながら、伽藍の堂の階段を上り、橙子師のオフィスのドアを開く。
「おはようございます。橙子師。兄さん」
そんな私を出迎えたのは、
「お早う鮮花。お前、朝早いんだな」
ソファに我が物顔で座り、仏頂面で挨拶を返してくる、私の恋敵・泥棒猫・いつか必ず倒さなければならない宿敵――両儀式の姿だった。
そして、オフィスに彼女以外の人間はいなかった。どの机にも、幹也と橙子師の姿は無かった。
「どうしたんだ鮮花? 喫茶店に入った途端に頭上から水をぶっかけられたみたいな顔をしているぞ」
入り口でショックのあまり硬直した私に、式が言葉をかけてくる。って、私をどんな状態に例えているのよこいつ!
私は、きっ、と引き締めた顔を式に向けて、聞いた。
「橙子師と兄さんはどこ? なんであの二人がいないで、あんた一人がくつろいでんのよ?」
式は無言で、橙子師のデスクを指さした。私がそこに近寄ると、デスクの上には、橙子師の筆跡で描かれた書きおきがあった。以下は、その文章である。
「鮮花へ。本来今日は私がつきっきりで指導する予定だったが、急な仕事で出かけなければいけなくなった。本来なら黒桐に行かせてもいいような内容なんだが、あいつめ、今月分の給料を払えないことを伝えたら、金策するからって早退した。我が儘な社員を持つと、経営者は苦労させられる。まあそんなわけだから、今日は私が帰って来るまで、ルーン文字解説書の内容をノートにまとめていろ。式が留守番しているだろうから、仲良くするんだぞ。橙子より」
は~~~。私はため息を付いた。給料をろくに払ってくれない経営者を持った社員も、苦労すると思いますよ。橙子師……。ブラック企業よりひどい。
だがまあ、仕方がない。幹也に会えないのは残念だけど、本来の目的は修行なんだし。私は書置きの隣に置いてあったルーンの本を持って、自分の机に座った。本とノートを開き、自習を開始する
式はソファーに座って、本を読んでいる。カバーをかけた状態なので、本のタイトルは分からない。
十分間、私がペンを動かし、式がページをめくる以外の音が、室内から消えうせる。
十分後、私は沈黙を破った。
「ねえ式」
「ん?」
「幹也もいないのに、何であんたはここにまだいるのよ?」
「帰ったってやることが無い。なら、ここにいようが部屋にいようが同じだろ? それとも、オレがここにいちゃ都合が悪い理由でもあるのか?」
「別にそんなことはないけれど……。ちょっと待ちなさいよ。やることが無いなんてないでしょ。あんたは仮にも学生じゃないの。勉強しなさいよ。ちょうど試験の季節でしょ今は」
「勉強? あんなの、教科書を一通りざっと読むだけですぐわかる。試験に備えてわざわざやることなんて皆無だよ」
ぐ、何よこの天才発言。嫌味なの。
それからしばらくまた、沈黙が続く。ペンを走らす音とページをめくる音だけが、室内に在りつづける。
沈黙を破ったのは、またしても私だった。
「ねえ」
「何だ今度は」
「あんた今、なんて本読んでるのよ」
私はノートを向いていた顔を上げて、式の手元の本を指さした。
「お前には関係ない」
式は本から目を離さずに、答えた。そう言われると、なぜかますます好奇心がわいてくる。
「教えてくれてもいいでしょ」
「オレが何を読もうと、オレの勝手だろ」
式の頬に、わずかに赤みが差しているのを、私は発見した。
「あっそ。じゃいいわ」
私はまた、ノートに目を戻す。
数分の沈黙ののち、私は、立ち上がった。
静かに、ゆっくりと、ドアに向かう。式は本に夢中で私の動きに気がついていないようだ。私の机からドアに向かう道筋は、自然と式の座るソファーの近くを通ることになる。
だから、彼女のすぐ前を、通ろうとした瞬間に。
「もーらいっ!」
「あ!」
式の読む本を、素早く手元から抜き取って、机に駆け戻った。急いでカバーを外す。
露わになった本のタイトルは、
「家庭料理大全~夏の彼の胃袋をゲット♡しちゃう、女子必見レシピブック~」
料理の本だった。それも、若い女性向けの、読むだけで頭の中に砂糖が湧いてくるような、スイーツ臭の香り立つ。
「返せ!」
慌てて駆け寄ってきた式が、すごい力で私から本を奪い返し、胸に抱えた。顔が、すごく赤くなっていた。
私は「ふ~~ん」と彼女の顔をにやにやしながら眺めた。
「な、何だよ。気持ちの悪い顔をして」
「あんたも結構、可愛い所があるじゃない」
「~~!」
式の顔は、燃え盛る炎のように真っ赤になった。
「うるさい!」
彼女はずかずかと歩いてソファーに戻り、どん、と座り込んで、また読むのを再開した。
「もうカバーかける必要なんてないでしょ」
「黙れ」
式の言葉は、どこかどすが効いていた。これ以上からかうと私を殺そうとしてくるかもしれないので、私はまた、勉強に戻ることにした。
午前も終わりに近づいた、十二時近くになってのこと。
「鮮花、お前、今日昼飯はどうするつもりなんだ?」
もう本を読み終えたらしい式が、両手に頭を載せてソファーに寝転びながら、聞いてきた。
私はちらっと、時計に目をやって、そろそろ食事時であることを確認した。いつもは、橙子師が食事を用意してくれるのだけれど、あいにく今日師はいない。
私は立ち上がった。
「近くのコンビニで、お弁当を買ってくるわ。何なら……」
私はちらっと、式を見る。
「あんたの分も、買ってきてあげるけれど?」
「いや。オレは用意があるからいい」
式はソファーから立ち上がると、傍らのカバンから風呂敷包みを取り出して、私の机の正面の机の上に置いた。風呂敷を解いて現れたのは、二段の重箱だった。
「……もしかして、お弁当箱?」
「ああ」
式は二段の箱を分離して、並べて置いた。
「ん? でも、あんた一人でそんなに食べるの? なんで二箱も……て、ああ……」
「何だよ」
式は私を睨んだ。微かな頬の赤味と、不機嫌そうな、拗ねたような仏頂面。多分もう一つの弁当は、幹也のために作ってきたんだろう。でも、式が来た時にはもう幹也は早退していて……って事情が見えた。
「欲しいのか」
「え?」
「オレだって二人分なんて食えないからな。お前が食いたいなら、一つは食っていいぞ」
恋敵が好きな人のために作った食事を頂くなんて、本来の私のプライドからすれば、絶対ありえないんだけれど、敵の戦力(どれだけ料理が出来るのか)を知っておくのも、今後の戦いのためには必要かもしれない。
「ええ、いただくわ。ありがとう」
「ほれ」
式が、私の机に弁当箱を片方、つつっと押してきた。私は蓋を取った。鮮やかなグリーンピースごはん。から揚げ。だし巻き卵。イチゴ。それらの食べ物が整然と調和よく詰められていた。
(まあ、形は良い感じに整えているわね……。どれ、味の方はッと……)
「いただきます」
ちょうど、式が自分の弁当を開いて箸を入れるのと同じタイミングで、私も弁当の中のご飯に、箸を差し入れた……。
一分後、私は完全に打ちのめされていた。
式の作った弁当が、すごく美味しかったからだ。
これに打ち勝つには、私はかなりの修業を必要とする。橙子師に加えて、プロの料理人に弟子入りするべきレベルかもしれない。
「すごい美味しいわよ、式。悔しいけれど……。習ったことでもあるの? 料理教室とかで」
「いや、特にない。だけれどまあ、オレの家の専属料理人は腕前が良いからな。あの味に近づけようって独学でやってたら、褒められる程度には上達した」
さらっと、「専属料理人」なんて言葉を出すあたりに、私とこいつとの家柄の差を感じてしまう。庶民の黒桐家に対して、こいつは良いとこのお嬢様なのよね……。
「鮮花は、どうなんだ。料理を習ったりしたこともあるのか?」
式が、聞いてきた。顔には、純粋な好奇心らしきものが浮かんでいた。
「そりゃあるわよ。兄さんを手に入れるためにね。男は料理の上手い女に弱いんだから」
悔しいのは、私だってこれまでの人生でそれなりに研鑽を積んできたというのに、それでも式の料理の腕前には到底かなわないって、確信できてしまうことだ。
式の方はといえば、私の答えに顔をしかめていた。
「お前、よくもまあ堂々と、あいつを手に入れるだなんていえるな。オレにも兄貴がいるけれど、そんな感情一度も覚えたことないぞ。この変態」
「あなたにだけは変わり者呼ばわりされたくありません」
「……あんな奴の、どこがいいんだ?」
式の問いに、一瞬私は考える。一体私は、幹也のどこが好きなんだろう。
だがすぐに、そんなことを彼女に話す義理なんてないって気が付いた。答える代わりに、質問で返してやった。
「あんたは兄さんのどこが好きなの?」
式はもちろん、それには答えなかった。
「はー、終わっちゃった」
私はペンを手から離し、座ったままで伸びをした。時刻は午後の三時過ぎ、橙子師の帰って来ないうちに、ルーン文字解説書のまとめを、私は終えてしまったのだ。師が帰って来るまで、何をして待てば良いのだろうか……。
ちらっと、私はソファーにいる式に何気なく目をやった。
式は、仰向けの姿勢で、ソファーに横たわり、目をつぶっていた。。
「式?」
暇つぶしに、私は、呼びかけながら彼女の傍らに歩み寄る。
ちょうどソファーの肘掛の部分に頭を寄りかからせている彼女の顔は、明らかに眠っている人間のそれだった。
肩をゆすってみても、耳元でささやいてみても、全く反応しない。相当の熟睡のようだ。ゆったりと上下する胸の動きだけが、彼女を死体ではなく生きている人間だと証明している。そのぐらい深く眠り込んでいる様子だった。私はそんな両儀式の寝顔を、じっと観察した。
そうしていると、ため息が出てしまう。確信してしまう。
こいつは、両儀式は、とても綺麗だ。
幹也がべたぼれなのもわかる。二年ほど前、帰省した実家で初めて式と会った時、私はショックを受けたものだ。
よりによって、こんな美少女が、幹也の前に現れるなんて。
しかも、幹也と、カップルになるなんて。
ただでさえ、実の妹なんてハンディキャップがある私が、どうすればこんな人から、幹也を奪えるって言うの……? 私は人生で初めて、絶望に近い感情を覚えた。
今でも時々、私はそんな感情に襲われてしまう。どんなに頑張ったって、こいつから幹也を奪うことなんて出来やしない、と、そんな風に考えてしまう。
今日のように、両儀式と身近に接する時が、多くなればなるほどに。
一人の人間として、同性の少女としてなら、幹也を巡る対立さえなければ、多分私は、彼女を好きになれると思う。彼女は、同性の私から見ても、魅力があるのだ。
凛々しくて。
料理が上手で。
なんだかんだで優しくて。
男のそれではあっても、決して粗野ではない口調で話すところとか。
上品に着物を着こなすところとか。
そのくせどこか見ていると危なっかしくって、庇護欲をそそるところとか。
「………」
私は、何となく、周囲を見渡した。
橙子師が帰ってくる気配はない。
ここで私が何をしようとも、それを目にするものはいない。
ところで、私は禁忌というものに弱い。
幹也に恋をするのも、兄への愛が、禁断の愛であるからだ。
ところで、私の通う礼園女学院には、同性愛的というか、少女同士で単なる友達以上の関係を育む子が、結構多い。
無論それは、全寮制で、男っ気が皆無に近い環境からくる、一種の代償行為であって、本気の恋愛感情を少女同士で育んでいるものは、少数だろう。
ただ、女の目でも美しいと思えるような子は、周囲から羨望の視線を受けたりしていて、お互いに美しいと感じている者同士だったりすると、始終一緒に行動したり、クラスメイト見ている前で体を密着させたり、見ていない所ではキスをしてたりして……。
かくいう私も、同級生の女の子から、「付き合ってください」と言われたことが、1,2回はあったりして。
そんな環境下に置かれていて、しかも禁忌愛好家である私の前に、神の創造物の中でも特に美しい部類に入る式がいて、しかも無防備な眠りの中にいるというこの状況。
……私が、誘惑に負けたとしても、しょうがないことだと思う。
私は式の顔に顔を近づけ、彼女の唇に、私の唇を重ねた。
式の唇は、柔らかくて、温かかった。
そのまま、十秒ほど、私は彼女の唇を味わった。
私が唇を離した時も、式は眠りを覚まさなかった。
午後三時半ごろ、式は目を覚ました。
ソファーの上で体を起こし、ちらっと、机から彼女をじっと見る私の方へ、怪訝な視線を送った。
「どうしたんだ? 鮮花。耳が赤いぞ」
「うるさい」
私はぷいっと、顔を背けた。
その日、橙子師が帰って来たのは、午後四時過ぎだった。私も時間までに礼園に戻らなければならなかったので、その日の直接指導は、結局無しになった。
それから、さらに一週間後。私は、伽藍の堂にきた。
「おはようございます。橙子師。兄さん」
「お早う鮮花」
今日は、橙子師はいた。自分のデスクで、タバコを吸っている。そして……。
「お早う、鮮花」
ああ。今日は幹也がいる。その顔を見ただけで、私の胸が高鳴った。
式もいた。やはりソファーに座っていて、コーヒーを飲んでいる。
……先週の事を思い出して、私は式をまともに見ることが、ちょっと出来なかった。
「鮮花。先週は直接指導してやる約束だったのに、破ってしまって悪かったな。今日は代わりにたっぷり教えてやる」
橙子師が、言った。
「だがその前に、一つ話がある。こっちにこい」
何の話だろう。私は、怪訝に思いつつ、橙子師のデスクに近寄った。彼女は、私の耳元に口を寄せ、ひそひそと小さな声で話した。
「鮮花。もう君には、使い魔の事は話したな」
「はい。魔術師が使役する、下等な生物ですよね。既存の生き物を元にして作ったタイプと、魔術師自身の肉体から作るものとに大別されます」
「そうだ。それでだ。私も魔術師の端くれとして、使い魔を複数持っている。その中には小さな虫型タイプもいてね。そいつは自分の見た光景を映像として保存して、後で主である私に見せてくれる機能を持っている」
「……」
何だろう。嫌な予感がした。
「私は普段、ここを留守にするときには、そいつを天井のあたりに張り付かせておくんだよ。監視カメラ代わりにね。例えば、先週みたいな日にはね」
「……!!!」
「君が式にしたこと、見させてもらったよ。礼園に在籍しているのだから遅かれ早かれそういう趣味に目覚めるんじゃないかと思っていたが、まさか式に興味を覚えるとはねえ。やっぱり黒桐の妹だ。嗜好がそっくりじゃないか」
ク、ク、ク、と橙子師は含み笑いを漏らす。
「橙子さん。式がどうかしたんですか?」
幹也が、私たちの方を向いて、聞いてきた。
「ああ黒桐。実はな、昨日鮮花がこの部屋で、もが?!」
私は急いで橙子師の口を塞いで、兄さんに微笑む。
「な、何でもないんですよ兄さん」
橙子師の耳元で、囁く。
「お願いですから、兄さんにも、式にも話さないでください! 一生のお願いです!」
必死に懇願しながら、私は先週、誘惑に負けた私を、これ以上ないってくらい、呪うのであった。