最後の段ボール箱の口をガムテープで封じてから、末原恭子はふう、と一息ついた。立ち上がって、背中をぐっと伸ばす。程良い疲労感が、体を包んでいた。
見回せば、自室はすっかり殺風景になっていた。ベッドやテーブル、電化製品といった重量物も全て処分し終わり、入居当初に見たきりだったフローリングの床が顔を覗かせている。
高校を卒業し、東帝大学に進学してから丸四年。その時間の分だけ、この部屋で過ごしてきた。一人で黙々と課題をこなす日があった。大学の友人、麻雀部の部員、たまに高校時代の知人を部屋に呼び、騒がしく過ごす日もあった。全てが、まるで昨日のことのように思い出せる。初めての一人暮らしということもあり、実家の自室よりも思い入れが深くなっていた。だが、この部屋との付き合いも今日までだ。
「早かったな」
ぽつりと呟いた独り言は、段ボール箱だけの部屋に、思った以上に響き渡った。
――明日をもって、恭子は東帝大学を卒業する。
時間通りにやってきた引っ越し業者に荷物を預け、いよいよ部屋の中は空っぽになる。残されたのは、最低限の生活用品を詰めた鞄一つのみ。
後は明日の卒業式を待つのみ――ではあるが、布団も枕も目覚まし時計も片づけてしまった。この部屋で眠るのは、かなり難易度が高い。かと言って、徹夜して式に臨むのもはばかられた。実家は遙か遠く大阪の地、着付けの都合もあって帰京に間に合わない。
故に恭子は、一晩の宿を外に求めた。
大家に鍵を返し、最後の挨拶を終えてから、目的地へと移動する。最初は、ビジネスホテルに一泊するつもりだった。しかし、それは後輩たちに却下されることになった。
訪れたのは、ここ二年で最早見慣れてしまったアパート。予定時刻よりも早く、階段の下で待っていたのは同級生の松実宥だった。いつもの厚着とマフラー、そして手に提げているのは旅行鞄だ。
「お待たせ、宥ちゃん」
「ううん、私も今来たところだから」
宥は微笑んで首を振り、「行こっか」と恭子を促した。一段一段、階段を踏みしめるようにして二人は上る。彼女たちの付き合いも、既に四年。ややぶっきらぼうなきらいがある恭子と、元来人見知りをする性質の宥――それでも二人は、顔を合わせれば会話の弾む仲となった。
だというのに、今日はどちらも口を開かない。開けない。恭子はちら、と宥の横顔を盗み見したが、その表情はどこか暗い。それでも恭子は、何も言えなかった。
目的の部屋の前まで着いて、チャイムを鳴らす。どたばたと足音を立てて、玄関口まで駆け寄って扉を開けたのは、
「いらっしゃーい!」
部屋の主――ではなく、きらめく金髪をたなびかせる麻雀プロ、大星淡だった。
「……うちら、部屋間違えとらへんよな?」
わざとらしく部屋番号を確認しようとする恭子の腕を、淡が引っ掴む。
「待って待って! 間違ってなーい!」
「あんたの部屋は二つ向こうやん」
「そうだけど! おじゃましてるの!」
「じゃまするなら帰ってー」
「もう! キョーコの意地悪!」
ぷんすこ怒る淡の頭を撫でて、恭子は朗らかに笑った。
「何しとるん、宥さんが後ろで困っとるやん」
じゃれ合う二人に声をかけたのは、奥から姿を現れた真の部屋の主、園城寺怜だった。昨冬よりもさらに髪を伸ばし、毛先が背中ほどにまで届いている。二年前に再会したときと比べ、彼女もどんどん変化している。外面も、内面も。
「遊んどらんで、はよいらっしゃい。準備はもうだいたいできとるから」
「ん、じゃまするで」
「おじゃまします」
宥に背中を押され、淡に手を引かれて、恭子は怜の部屋に足を踏み入れる。彼女の部屋は、久しぶりだ。麻雀部員で集まるのは部室か恭子の部屋であったし、恭子が引退してからはその頻度もぐっと減っていた。
狭い玄関には、予定されていた人数分の靴が置かれている。全員、既に集まっているのだろう――恭子と宥は、遅い集合時間を指定されていたのだから当然ではあるが。
後輩である花田煌に、渋谷尭深、そして須賀京太郎。家主の怜に、宥と恭子自身を加えると、インカレ制覇メンバーだ。若干一名異分子が混じっているが、今更気にしていられない。
入ってすぐのリビング、その中央に鎮座するテーブル上には、出来立てのオードブルが用意されている。いずれも京太郎と尭深のお手製なのだろう、二人は奥のキッチンでさらに料理を作っている。煌は忙しなくグラスと皿を運んでいた。よく見た光景。――けれども、もうよく見ることは、なくなる光景。
恭子と宥が選んだ宿が、ここ、怜の部屋だった。正確には怜からの提案で、半ば強引に引きずり込まれる事となったのだ。
「今日はたこパやでたこパ。私のたこ焼き作りの腕、見せたるから」
自信ありげに怜は胸を張るが、恭子の視線は冷たい。
「同じ大阪人のうちを満足させられるか怪しいもんやけどな」
「そこは京ちゃんと尭深さんが他にも色々作ってくれとるから」
「他人任せかい」
恭子の突っ込みにも、怜は気にする素振りを見せず、鼻歌混じりにたこ焼きプレートの準備をしていく。その「いつも通り」ぶりに、恭子はちょっと安心した。
山盛りのたこ焼きと付け合わせの料理が所狭しと並べられたテーブルを、七人で取り囲む。
「おお、これは絶品ですね!」
「やるじゃんトキー!」
煌と淡が明るい声で舌鼓を打ち、怜もまたふふん、と得意気に鼻を鳴らす。宥と尭深もまた、スローペースながら順調にたこ焼きを消化していく。その隣では、さり気なく各人のグラスにお酒を注ぐ京太郎の姿があった。少しばかり、鼓動が速くなる。
この騒がしい雰囲気が東帝大学麻雀部らしくて、恭子は口元を綻ばせる。大学生活最後の日を、こうやって過ごせるのが、たまらなく嬉しい。
――のだったが。
「い~や~や~!」
アルコールで顔を真っ赤にした怜が、宥にまとわりつく。宥は困り気味に怜の頭を撫でて落ち着かせようとするが、大した効果はないようだった。
「麻雀部随一の太股とおもち持ちの宥さんが卒業してもうたら、もう寄生先が尭深さんくらいしかおらへんやん!」
「あはは、トキー、それセクハラ!」
「宥さん今からでも留年してー!」
「ちょ、ちょっとそれは無理かな……」
先程まではあれだけドヤ顔をしていたと言うのに、まるで子供だ。呆れ果てて、恭子は突っ込む気にもなれない。黙々とたこ焼きを口に運び続ける。
「怜さん、本当は恭子先輩にも甘えたいんですよ」
恭子の隣に座る煌が、小声で耳打ちしてくる。
「生地を作ってるときなんか、『恭子……』ってアンニュイに呟いてましたから。ですからあまり宥先輩に嫉妬しないであげてくださいね」
「……嫉妬なんかしとらんわ」
そう言い捨てるも、強固は顔が熱くなるのを自覚する。それを誤魔化すためにアルコールを煽るが、煌は全てを見透かしたかのようにくすりと笑った。
部としての追いコンは、既に実施された後。別れの言葉も、ひとしきり交わしあった。でも、それでも。この最後の夜を、気心の知れた仲間達と、過ごしたかった。怜は、言葉にしなかったそんな気持ちを汲み取ってくれたのだと思う。
「宥さん最後におもち! おもち触らせて! 一回だけでええから!」
――おそらく、たぶん、きっと。
引き剥がしにかかった尭深へと、セクハラの魔の手は伸びる。さらに助けようとした京太郎にもまとわりつき、それに対抗心を燃やした淡が場をしっちゃかめっちゃかにする。いつもなら、「大人しくしろ」と恭子が注意するところだった。けれども彼女は笑いながら、麻雀部の姿を瞼に焼き付けていた。
――疲れがあったのか、ハイペースで飲んでいたためか。
気が付けば、一人、また一人と寝息を立て始めていた。残ったのは、恭子と、宥と、それから京太郎だけだった。
「手伝うわ」
「私も」
「あ、すみません」
三人で手分けして、使用済みの皿やグラスを洗う。京太郎を挟んで並び立つにはあまりにキッチンは狭く、どうしても肩と腕がぶつかってしまう。心臓の鼓動が早鐘を打つのは、お酒のせいだけではない。多分、宥も同じだろう。
最低限片づけ終えると、いそいそと京太郎は帰る準備を始める――と言っても、隣の部屋にだが。
「もうちょっと、ゆっくりしてったらええやん」
これもお酒のせいなのだろうか――恭子の口から、するりとそんな言葉が出てきた。隣にいた宥が少しびっくりしたように目を見開いたが、
「……どうかな」
結局、上目遣いで京太郎に打診する。二人の先輩からのお願いに、彼が断れるわけがなかった。
「分かりました。でも、酔い醒ましに風に当たりたいんですけど」
「ん。それじゃ」
「私たちも、付き合うね」
三人揃って、部屋を出る。先程と同じように、京太郎を挟んで歩き出す。三月の夜はまだ冷え込んで、恭子はぶるりと身体を震わせた。これはさぞ宥には辛かろう、とちらりと横を盗み見ると、ぴたりと京太郎に寄り添っていた。なら自分も良いか、と不思議な納得をして、恭子も京太郎との距離を詰める。彼が緊張しているのは、すぐに伝わってきた。一瞬宥と目が合い、二人は微笑み合う。そして、彼女達はさらに後輩をぎゅっと挟み込むのだった。
明確な当てもなく、三人は夜の街を練り歩く。沈黙が続き、どことなく湿った空気がまとわりつく。それを払拭するように、恭子は一際明るい声を絞り出した。
「あー、もう卒業かー」
「振り返ってみれば、早かったねぇ」
しみじみと言った様子で、宥が相槌を打つ。
「宥ちゃんには、ほんま感謝しとるわ。宥ちゃんがおらへんかったら、燻った四年間になったやろうし」
「私も同じだよ。恭子ちゃんが麻雀部に誘ってくれて、本当に良かった。次の年には、煌ちゃんと尭深ちゃんが入ってきてくれて、もっと楽しくなったね。合宿もできたし、一緒に小旅行にも行けたし」
「うん。あの子らにも、面倒かけてばっかりやったなぁ。無茶なスケジュールにも着いてきてくれたし、今では部を引っ張っていってくれとるし」
「そうだね。……それからまた、一年経って、怜ちゃんと――」
「――あんたが、入ってきてくれた」
示し合わせたわけでもないのに、恭子と宥の足が止まる。抜け出した形で、京太郎が三歩分、前に出た。しかし、彼は振り返らなかった。
「あんがとな」
「ありがとう」
あるいは、振り返ることができなかったのかも知れない。彼の背中が、とても小さく見えた。
「……卒業で」
ぽつり、と京太郎が呟く。
「中学でも、高校でも、先輩を見送ってきたのに。……慣れないもんですね、お別れって」
「そう、やな」
寂しげに目を伏せて、恭子は頷く。目の奥に、熱が帯びる。何度も目を瞬かせねば、ならなかった。
「でも」
しかし彼女は、微笑んだ。彼がこちらを向かなくとも、微笑んでみせた。
「一度結んだ、うちらの縁やん。――それは、きっと」
「絶対に、切れないよ。別かたれることは、きっとない」
宥が、彼女らしからぬ強い声で、恭子の言葉を引き継ぐ。二人は、自然と肩を寄せ合っていた。
「俺こそ」
何かを堪えるように、京太郎は空を仰ぐ。
「ありがとう、ございました……!」
ぽろぽろと、六つの瞳から水滴がこぼれ落ちていく。けれども彼らは、彼女らは、笑っていた。屈託なく、迷いもなく、ただただ純粋に。
笑顔で最後の夜を、過ごすことができた。
◇
「二人とも、もっと寄って寄って!」
大講堂の正面出口の脇で、京太郎はカメラを構える。行き交う人の数はあまりに多く、場所も時間もさほどない。
ただそれでも、二人の先輩の晴れ姿だけは、ここで収めておかねばならなかった。彼の背後には、揶揄を飛ばす怜と淡、ごしごしと目元を拭う煌、しゃくりあげる尭深がいた。そんな後輩達の様子を見つめながら、二人の先輩はレンズに向けて、昨晩と同じ笑顔を作る。
がっちりと、しっかりと。
――彼女達の手は、繋がれていた。
不離不可分のグラデュエイション おわり
イラスト:おらんだ15
冬コミ(C95)にお手伝いとしてサークル参加します。
12/29 東チ03b「おらんだ15」です。
残っている「泡沫夢幻のキラリティ」と、可能なら京太郎SSのコピ本出したいなあと思っているのでよろしくお願いいたします。