11-1 賛否問答
全日本学生麻雀選手権大会、通称インカレ。
地区リーグ戦を勝ち抜き、上位成績を残した大学のみが出場できる、大学麻雀最高峰の大会である。何年にも渡る雀士たちの努力がぶつかり合う、アマチュアの大会でも一、二を争う注目度を誇っている。
その夏の熱闘が、今まさに終幕を迎えようとしていた。
『決ィまったぁああああ! 最後は竹井選手、地獄単騎待ちを見事ツモって試合終了! 優勝は、中部リーグ一位、長野の信央大学だああああっ!』
やけにテンションの高いアナウンサーが、勝敗を告げる。誰もがはっとさせられる通る声だが、しかし尭深は表情一つ変えずにテレビ画面を眺めていた。
他には誰もいない、静かな自室。光源はテレビ画面のみで、暗がりの中尭深は独り膝を抱えていた。
勝利に右腕を掲げる竹井久の姿は、三年前のインターハイでも見た。そう、あのときもしてやられた。
『強豪聖白女、三橋、西阪敗れる――! 東京と大阪以外に優勝旗が持ち帰られるのは五年ぶりのことです!』
苦々しく顔を伏せている弘世菫の姿を、カメラが捉えた。これもまた、三年前の焼き直し。普段であれば、尭深も深く悲しんだことであろう。大学ではライバルとは言え、高校でお世話になった先輩なのだ。
けれども、今の尭深はその菫の姿さえ、無感動に見つめるばかり。菫が悪いわけではない。ただ、どんな出来事でさえも、尭深の心を動かすことはできない。
『竹井選手は三年前もインハイ団体戦を制しており、再び名声を――』
リモコンを操作してテレビの電源を落とす。アナウンサーの声はぶつ切りになったが、それで良かった。何もかも、雑音にしか聞こえなかった。
ばたん、と尭深はベッドに倒れ込む。既に夜も更けている。このまま眠ってしまおうか、とも考えたが、寝付ける気がしなかった。
自然とスマートフォンに手が伸び、画面をタップしてしまう。
恭子から送られてきた文面を読み返し、電話でも聞いた内容が頭の中でリフレインする。
『須賀に麻雀留学の話が来た』
その度に、胸がざわめく。
ずっと一緒にいられると思っていた。大学生活は長いと思っていた。他の誰かと一緒になって、自分の傍から離れていく想像をしたことはあった。
だが、この展開は予想外だった。欠片たりとも、考えつかなかった。
ごろん、と寝返りを打つ。
どうすれば良いのか、分からない。明日彼に会って、何と話せば良いのか皆目検討がつかない。いつもなら、少しの胸の高鳴りを幸せに感じながらそっとお茶を出していれば良かった。それから他愛もない世間話をして、講義とレポートの愚痴を聞いて、そして麻雀を打つ。それだけで良かった。けれども明日は、いつもと同じようにお茶を出せる自信がない。
寝ても覚めても、彼のことばかり。
いつの間にか、尭深の心の中の大部分を、彼が占めていた。
――みんなは。
麻雀部のみんなは、どうするのだろう。応援するのだろうか。引き留めるのだろうか。
そうだ。みんな、彼と離れ離れになるのは嫌な筈だ。まだ確実に京太郎が留学すると決まったわけではない。彼だって、望んで東帝大学に進学してきたのだ。みんなで引き留めれば、残ってくれるはずだ。
尭深はそう結論づけ、ようやく訪れた睡魔に身を任せる。
彼女が眠りに就いた時刻は、午前三時を回っていた。
◇
翌日、朝から始まった麻雀部の活動は目に見えてぎくしゃくしていた。六人全員が同時に顔を合わせるのは久しぶりだ。積もる話もあるはずなのに、しかし会話は少ない。
しかも、明らかに京太郎の留学の話は避けられていた。恭子も、まるでそんな話はなかったかのように振る舞っている。尭深には、その本心までは見抜けなかった。
卓を囲むのは、恭子、宥、煌、怜の四人。
尭深と京太郎はあぶれてしまったが、二人の間にやはり会話はなかった。
お茶を淹れながら、尭深はちらりと京太郎の様子を窺い見る。彼はカバーのかけられた書籍を読み耽っている。いつもなら麻雀の教本だと考えるところだが、今日は違った。英国に関する本なのではないだろうか、と尭深は疑念を抱く。彼は留学に乗り気で既に準備を始めているのではないか、と思うのだ。
――どうしよう。
何を読んでいるの、その一言が出てこない。普段であれば簡単に訊ねられたのに、口が全く開いてくれない。
原因は、分かっている。話し始めれば、留学の話題になるのは当然の流れだ。そして、もしも彼から「行くつもりだ」という答えが出てきたとき、平静でいられる自信がなかった。
淹れたお茶を、恭子たちに配り終える。後は京太郎だけだった。
「……どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
湯飲みを受け取る京太郎の顔を、直視できない。いつものことだが、今日は意味合いが違った。胸が締め付けられるようで、苦しい。
「……渋谷先輩?」
気が付いたら、ずっと京太郎の前に突っ立っていた。心配そうに、彼が顔を覗き込んでくる。尭深は慌てて一歩後退った。
「あの」
衝動的に、言葉が溢れそうになる。異変に気付いたのか、恭子たちも尭深に視線を送った。
「須賀くん――」
尭深が彼の名前を呼んだ瞬間、
「失礼しまーす」
ノックと同時に、部室の扉が開かれた。
部員たちが全員、そちらの方向に振り向く。
あ、と尭深の口から短い息がこぼれ落ちた。昨日、テレビで見た顔。今日本で一番話題になっていると言っても過言ではない大学生。
ふわりとした髪を揺らし、自信に満ちた笑みを浮かべる女性。三年前、インハイで自分たちを打倒した長野清澄高校で部長を務め、そして今は信央大学麻雀部大将。
――かつての京太郎の先輩。
竹井久、その人であった。
「おっと、いたいた。久しぶりね、須賀くん」
「部長! お、お久しぶりですっ」
「あらあら、私が部長だったのもう何年も前の話よ」
高校時代から周囲よりも大人びた雰囲気を醸しだしていた彼女だったが、その美貌には磨きがかかっていた。それでいて、くつくつと笑う姿は幼く愛らしくも思える。尭深にとって、恭子や菫と言った部長として仰ぎ見た先輩たちとはまた違う、不思議な女性だった。
さらに久の背後から、眼鏡の女性が現れる。こちらも見覚えがあった。竹井久の後輩、染谷まこだ。
「ああ、染谷先輩もお久しぶりです」
「久しぶりじゃな、京太郎。元気にしとったか」
「お陰様で。――すみません、お二人とも。団体戦の応援に行けませんでした」
「ああ、良いの良いの。事情は聞いてるから」
掌をひらひら振って、久は頭を下げようとする京太郎を制する。
三人の間に流れる空気はとても気安く、年月を感じさせられた。実際には久と京太郎は一年間しか高校生活が被っていないはずだが、それでも尭深にはそう感じられたのだ。
僅かなやり取りで垣間見た青春時代の積み重ねに、尭深は戸惑う。彼らの中に、入っていけない。
しかし、
「――竹井さん」
そこに堂々割って入ったのは、我らが部長、末原恭子だった。尭深はそろりと後ろに下がり、煌、宥、怜と横並びになって彼女たちの様子を窺う。
「あ、ごめん、末原さん。練習中に突然お邪魔して」
「や、気にせんでええ。それよりもどうしたん? まだインカレ個人戦残っとるやろ」
「個人戦は明日からで、今日は中一日お休みだから。大会期間が終わったら、すぐに長野帰らなくちゃ行けないし、須賀くんに会っておこうと思ってね」
「ああ、なるほど」
元々久は、この場のほぼ全員と面識がある。すんなりと恭子は得心した。
しかし京太郎は、まだ少し困惑しているようだ。
「それにしたって急すぎですよ。どうしたんですか」
彼がそう訊ねると、久は笑って、
「まあ応援に来なかった後輩は無視してさっさと帰ろうと思ってたから。元々予定になかったもの」
「うっ、やっぱり気にしてるんじゃないですか……」
「冗談よ、冗談」
「久、あんまり虐めんほうがええ」
まこに窘められ、はーい、と久は調子外れの返事をする。どこか緩い空気に、ただ挨拶に来ただけなのかと、尭深は納得しそうになる。
しかし久は、次の瞬間には真剣な表情を作っていた。
「実際、今日来たのは例の件を聞いたからよ」
例の件、と京太郎が不思議そうに首を傾げる。一方で尭深は、すぐに理解した。心にずきり、と痛みが走る。止めて、と叫びそうになった。
「留学の話、来てるんでしょう? 昨日の晩、知り合いのプロから聞いたわ」
久がその言葉を口にした瞬間、部室の空気が凍るのを尭深は感じた。煌も宥も怜も――そして恭子でさえも、横一文字に唇を引き結ぶ。
今日ここまで、誰も触れようとしなかった話題。それが、こんな形で白日の下に晒されるとは思いもしなかった。
京太郎は、少し視線を彷徨わせる。彼を見つめていた尭深は、当然、彼と目と目が合ってしまう。だがすぐに、尭深は顔を伏せた。見ていられなかった。
「……ええ、まあ」
居心地の悪い想いをしているのだろうか。京太郎は、歯切れ悪く答える。一方久は、高い声を上げた。
「良かったじゃない! 貴方に麻雀の手解きをした人間として、鼻高々だわ。それで、いつから行くの?」
「え、い、いつからって……」
「行くんでしょう? イギリス」
当たり前だろう、と久は目を瞬かせる。
「いや、決めたわけではなくて」
「もしかして、悩んでるの?」
「それは……そうですよ。留学となると、色々と――」
「行くべきでしょ」
京太郎の言葉を遮って、久はあっけらかんと言ってのける。尭深は呆気にとられて、何も口を挟めない。自分より気の強い恭子や怜も同じようであった。と言うより、今この場は圧倒的に竹井久が支配していた。
「言葉とか気にしてる? ポンとチーとカンとロンとツモさえ言えればなんとかなるわよ。大体貴方、こんな大学に入ったんだから英語くらいちょっとやれば喋れるでしょ。一生過ごすんじゃあるまいし、文化の違いも楽しむくらいで行かなきゃ。――何よりね」
びしりと久は京太郎を指差して、言った。
「こんなチャンス、二度やってくる保証なんてないわよ。ここでリスクを恐れて、前に進めないようじゃ雀士としては失格だわ」
「――……部長」
「だから部長じゃないってば」
呆れたようにくすりと笑って、久は京太郎から距離を取る。
「ま、好き勝手言わせて貰ったけど、決めるのは須賀くんよ。貴方が納得するよう道を選べば良いんだから」
「ありがとうございます。わざわざアドバイスしに来てくれたんですね」
「そういうことよ、感謝してよね」
「調子乗りすぎじゃ」
まこに突っ込まれて、久は悪戯っぽく笑う。これが他人事なら、微笑ましい光景に見えただろう。しかし尭深にとっては、苦々しいやり取りであった。
まさか、こんなタイミングで背中を押す人が現れるなんて。しかも、高校時代の部長。彼に与えた影響は大きい人物のはずだ。
「話は――終わりか?」
ずい、と恭子が今一度前に出る。
「竹井さん。あんまりうちの部員に、余計なこと言わんといて貰える?」
今や彼女は、剣呑とした空気を隠していない。はっきりとした怒気が、漏れ出ていた。これには尭深が、逆に冷静になる。相手はあくまでお客様。大学間でも名だたる打ち手。余計なトラブルが起きてはいけない。
「余計なこと?」
しかし――敵もさることながら、だった。
久は、恭子の敵意を鼻で笑う。
「私はただ、彼の初めての師匠として助言をしただけよ?」
「もう須賀はうちの部員や。悪いけど竹井さん、あんたはもう関係ない」
「部の方針には確かに口を出せないわね。でも、個人がどう思うかまで文句を言われる謂われはないわ」
火花が、散る。かつてインハイで、直接ではないにしろ学校同士で戦った二人。彼女たちが、今一度矛を交えようとしていた。
「部員が一人いなくなるかも知れんのや。うちらが一緒になって考えなあかん話や」
「あら。須賀くんがいなくなっても、女子が公式戦に出るのは問題ないはずでしょ。元々男子部員は須賀くんだけ、団体戦には初めから出られないんだから、誰にも迷惑かけないでしょう」
彼女の言葉は正論だ。ぐうの音も出ない、正論だった。
「須賀くんはっ」
そして、胃がむかむかする正論だった。一瞬で沸騰した尭深は、彼女にしては極めて珍しく声を荒げていた。
「須賀くんは、私たちにとって大切な部員ですっ。いなくなっても迷惑がかからない、なんてことはありませんっ」
部室の空気が、凍り付く。恭子を初めとする、東帝の麻雀部員でさえもぽかんと尭深を見つめていた。注目を浴びる尭深は、頬を赤らめて顔を伏せる。しかし、逃げ出すような真似はしなかった。
「……機嫌を損ねたなら、謝るわ。それに勘違いした発言だったことも」
意外、と言っては失礼だろうか、久はぺこりと頭を下げる。
「ただ、私個人は、条件を鑑みたとき須賀くんは留学に行くべきだと――そう思った上での発言と、理解して頂戴」
しかし、そこだけは久は譲らなかった。途端に、尭深は激しい羞恥心に襲われる。
彼を真に想っているのはどちらなのか――それを、まざまざと見せつけられた想いだった。久はしっかりと現実を見据えて、彼のことを一番に考えて話していた。例えそうすることで、反発を招くものだとしても。それさえも覚悟の上で、彼女は発言していた。対する自分はどうだ。子供染みた我が儘な感情を、ぶつけただけだ。
「尭深さん」
「尭深ちゃん」
怜と宥が、肩を抱いてくれる。情けなかった。
どうしようもなくなったこの場をとりなそうとしたのは、やはり部長の恭子だった。彼女は久とまこに詰め寄って、
「悪いけど、出てって貰えるか。練習せなあかん」
「むぅ。見学させて貰いたかったけど、遠慮しとくか」
「初めから見学なんてさせんわ」
「どうして?」
訊ねる久に、恭子は鋭い視線をぶつける。
「あんたらは、うちらが倒すべき相手や。その相手に、手の内を見せるわけにはいかんやろ」
「挑まれる立場っていうのも悪くないけれど」
ふふん、と久は鼻で笑う。こればっかりは、完全に挑発だった。
「東帝は今二部リーグだったわよね。『ここ』まで上がって、来られるのかしら?」
その問いに、答えたのは。
恭子でも、宥でも、煌でも、怜でも、ましてや尭深でもなかった。
「来ます」
京太郎、だった。
「東帝は、来年必ずインカレに出場して――部長たちを倒して見せます」
「……だから部長じゃないってば」
久は一瞬鼻白んだが、すぐにおどけて言い返す。
「でも分かった」
インカレの頂点に君臨する女性は、ぐるりと東帝大学麻雀部を見渡して、宣言した。
「待ってるわよ」
◇
「三日以内に、結論を出します」
その日の部活動を終え、京太郎は尭深たちにそう伝えると、帰っていった。今日ばかりは、怜は彼にひっついていかなかった。「友達と会う約束がある」と見え見えの嘘をついて別の方向に去って行った。
「尭深ちゃん」
「は、はい」
帰り際、恭子に声をかけられる。
「夏期合宿の件、準備進めといてくれとる?」
「あ、はい、それは大丈夫です。今日も宥さんと打ち合わせする予定で」
「そっか。ありがとな」
「いえ、春季合宿は末原先輩たちに任せっきりでしたから」
僅かな間、沈黙した後、恭子は言った。
「須賀が、留学しようがしまいが、合宿には参加するって。時期的にも可能やからな。人数、減らす必要ないで」
「……分かりました」
尭深は、こっくりと頷く。恭子はしばらく心配げに尭深の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、「ほな、また」と帰途に就いた。
「私も帰りますね。バイトが入っているので」
「煌ちゃん」
背中を叩かれ、尭深は振り返る。珍しく、少し疲れた顔をした友人は、どこか物寂しげな苦笑いを浮かべている。
「気をつけて帰って下さい」
「うん。大丈夫。宥先輩と一緒だから」
「はい。では」
煌も、自分のことを心配しているようだった。それを自覚し、また尭深は溜息を吐きたくなる。
最後に部室から出てきたのは、宥だった。
「それじゃ、私の家まで行こっか」
「はい」
合宿の打ち合わせは、宥のアパートで行う予定だった。尭深は彼女と肩を並べて、大学の構内を歩く。既に陽が落ち始めていたが、まだまだ気温は高く軽く汗ばむ。しかし宥にとっては過ごしやすい環境のようで、自然と頬が綻んでいる様子だ。
尭深は、勝手ながら宥に親近感を抱いていた。どこか似た者同士だと。煌や恭子、怜たちとは違った意味で、そばにいて気安い。
だから、思った。
彼の留学に関する、彼女の意見。それは――
「宥先輩は」
「うん?」
「須賀くんの留学について、どう思われてますか?」
その問いかけには、無自覚の期待が含まれていた。
しかしそれは、あっさりと裏切られることになる。
「行くべきだと、思ってるよ」
「え」
「須賀くんに相談されたら、そう答えるつもりだった」
尭深は、足を止める。三歩遅れて、宥も歩みを止めた。
「尭深ちゃん?」
「……どうしてですか? 須賀くんが、遠くに行っても良いんですか?」
詰問するような口調になるのを、尭深は止められなかった。宥は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの優しげな顔に戻っていた。
「良いか悪いかで言ったら、悪い、かな」
「なら」
「でも、私は知ってるの」
穏やかな宥の声が、尭深の声を遮らせる。
「慣れ親しんだ場所から遠くに出て行って、初めて見つかるものもある。色んな出会いがある。そういうのが全部、自分を豊かにしてくれるんだ」
私はそれを知ってるの――と、宥は、自分に言い聞かせるように繰り返す。
「だから」
「宥、先輩」
「行くべきだと、思ってる」
尭深は、何も言えなくなる。
健気に微笑む彼女を前にして、それ以上何か言えるわけがなかった。
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