10-1 失踪
――後に清水谷竜華の変と語られる事件から、遡ること数日。
じわじわと蝉が鳴き、何もしなくとも汗ばむような暑気。怖いくらいに青い空を見上げれば、入道雲が立ち上っている。行き交う街の人々も、うだるような暑さに辟易としている様子だった。
夏である。花田煌はペットボトルの水を一口含み、ふぅ、と息を吐いた。
『――ついに始まります全国大学麻雀選手権、今年の注目校はやはり関東リーグ一位を奪取した三橋でしょう』
街頭モニターに映るニュースは、もう間もなく始まるインハイ・インカレの特集が組まれていた。注目選手として紹介される後輩、同級生、先輩たち。インハイが注目されるのは毎年のことながら、近年のインカレも「宮永世代」の目覚ましい活躍によりこれまで以上に脚光を浴びている。
『また中部リーグでは、天江衣擁する龍門渕大学を破った信央大学にも期待が寄せられています。大将を務める竹井久は、三年前のインターハイでも母校清澄高校を優勝に導きました』
「あ、竹井さん」
知った顔がモニターに映り、思わず煌は声を上げていた。共通の後輩を介して親交を深めた相手である。同郷出身であり、中学の公式試合で見かけたこともあった。彼女のインタビュー動画が流され、しっかりと受け答えする様子が見て取れた。常に自信ありげな彼女特有の雰囲気が、モニター越しにでも伝わってくる。
ほんの二年前までは、自分もあの手の番組や雑誌で小さいながらも取り扱われていたかと思うと、煌は感慨深くなった。
もっとも、感傷に浸るばかりではいられない。来年は、あの舞台に立つのだ。先輩たちにとっては最初で最後のチャンスだ、取りこぼしの出来ないリーグ戦はまだ続く。
――足を引っ張るわけにはいきませんからね。
防御力だけで言えば、部内でもトップの自信がある。だが、それだけでは真なる強者に通じないのは過去に経験済みだ。大学に入ってからさらに実力を磨き上げた者もいる。今から来年のインカレを見据えて練習しなくてはならない。
『来春に開催されますU-21では――』
引き続き麻雀関連のニュースをぼうっと眺めながら思索に耽っていると、
「花田」
ぽん、と肩を叩かれた。振り返ればそこにいたのは、今日の待ち人で高校時代の同期。
「姫子!」
「久しぶり」
鶴田姫子だった。どこか人を惑わす小悪魔染みた容姿は相変わらず可愛らしい。ただ今はベレー帽とメタルフレームの眼鏡という、高校時代には着けていなかったアイテムを装備していた。お洒落に気を遣うほうの彼女にしては、地味目の洋服である。
「なにその格好、どうしたの。変装?」
「そうなんよ。最近街で呼び止められること多くて」
「流石有名人は違う。すばらです」
「からかわんで」
苦笑して煌を小突く姫子だったが、事実彼女は有名人である。昨年度プロデビューし、めきめきと頭角を現した有望株。それが、チーム名古屋ハイランドの鶴田姫子である。
二人は喫茶店に場所を移して、旧交を温める。
「直接言ってなかったから、改めて、ルーキーオブザイヤーおめでとう」
「ありがと。そうは言っても、ほとんど哩さんのおかげそいけんね。私自身はまだまだよ」
「謙遜ばっかり」
煌と姫子の先輩、白水哩もまた、プロとして活躍していた。所属チームは姫子と同じで、学生時代から変わらず彼女たちは強力無比なリザベーションで強敵らと渡り合っているのだ。
「謙遜なんかなかばい。とんでもなか後輩も入って来たし、うかうかしていられなか」
「後輩、というと高鴨さんか。阿知賀の」
「そうそう。最初はちかっと戸惑ってたばってん、今は下馬評通りの活躍しとる
」
今年度麻雀プロに転向したルーキーたちは軒並みレベルが高いと言われている。その中でも、三人のスーパールーキーと呼ばれる少女たちがいた。名門白糸台のエース・大星淡。宮永世代もう一人の体現者・宮永咲。
そして、深山幽谷の化身・高鴨穏乃。今年、彼女が姫子と同じプロチームに加わったのだ。
「私ももっともっと頑張らなかと。花田もそうやろ」
「正しくその通りで。来年はインカレに出たいから」
「そんときは私が解説したか」
「姫子はインハイ解説してそうだけど。今年はそうなんでしょ。先輩たちの試合を解説するのもやりづらそうだし」
今回の姫子の上京も、その仕事関連あってのことだ。他にもメディアインタビューなどなど仕事山積みで、今日彼女が来たばかりのこの時間だけしか空きがないというほどの忙しさらしいのだ。新道寺の同窓生らもインカレ関連で東京に来ているので、軽く飲み会もしたいところだったがそれも叶わず。同じチームの哩も同様に多忙のようで、東京入りもタイミングがずれたという。
「まあね。でもその辺は麻雀協会とチームの方針次第そいけん、どうなっかは分からなかかな。ばってん振られた仕事はちゃんとこなすよ」
「おお、プロっぽい」
「こいでも一応社会人そいけん」
軽口をたたき合い、二人はくすりと笑う。懐かしい空気に、煌はほっとする。後輩にも敬語で接する煌だったが、姫子だけは数少ない例外であった。対等に接することのできる、友人。学生とプロで立場が別たれた現在においても、変わりはなかった。それがたまらなく、嬉しかった。
アイスコーヒーの氷をストローの先端でいじりながら、「そう言えば」と煌は少し気にかかっていた案件を思い出す。
「ねぇ、姫子。『麻雀仮面』って知ってる?」
煌にとっては、あまり踏み入れたくないワードだった。春先、東京神奈川近郊で話題をさらった仮面の雀士。東帝大学麻雀部は、「それ」を抱えている。
この騒ぎ、すぐに沈静化に向かうかと思われたがその実噂の火種は未だに燻っている。五月にあった辻垣内智葉の乱の後も、時折麻雀仮面の影を追う者が現れているのだ。智葉も協力してくれる話も、そこまで有効ではないようだ。放置するという方針は変わらないが、しかしここにきて煌は良からぬ情報をキャッチしていた。
――近頃、大阪にも麻雀仮面が出現したという情報だ。さらに煌固有の情報網では、名古屋近辺にも姿を現したというのだ。もちろん、真の麻雀仮面である園城寺怜が今更そんな真似をするはずがないし、物理的にも不可能である。
まだ恭子にも相談していない。
しかし悪意ある人間の行為の可能性を考えると、状況くらいはを把握すべきと判断し、煌は情報収集に当たっていた。
「麻雀、仮面?」
それ故、現在名古屋在住の姫子ならあるいは、とも思って訊ねてみたのだ。しかし彼女は首を傾げるばかりで、そこに演技のような様子も見受けられない。もっとも、それも当然だろう。あくまで拠点が名古屋だということで、年がら年中試合で引っ張りだこだ。地元の、おぼろげな噂話など耳に入るはずもない。
ただ煌は、新たに出現した麻雀仮面の正体はプロではないかと踏んでいた。インカレに出場するレベルの大学生を軒並み打倒しているというのだから、相当な実力者であろう。そういった意味でもプロである姫子の耳に入っていないかと期待していた。結局は、空振りだったが。
「胡散臭さしか感じなか、そいがなにかあっの?」
「いや、知らないなら良いの良いの」
「えー、気になっよ」
「ほんとにつまらない噂だから」
適当に誤魔化しつつ、煌は話題の矛先をずらした。これ以上は藪蛇だ。
「新道寺の同窓会もちゃんとやりたいね」
「安河内先輩たちもインカレで東京来てるもんね」
「今回は時間合わなかったけど、秋のコクマとかどう? きっとまたみんな東京に集まるよ」
「良いね良いね。今から哩さんと相談しとく。同じ時期にU-21の強化合宿もあっし、うまくいけばまた一緒にお泊まりしーゆっかも」
「そんなところインカレトップはともかく、私は呼ばれないっての」
「分からなかよー?」
そうこう話し込んでいる内に、あっという間に時間は過ぎ去っていく。そろそろ解散かという時刻になって、姫子が一つの話題を切り出してきた。
「あ、そーだ。さっきの高鴨の話で思い出した」
「ん? 高鴨さんがどうかしたの?」
「花田ん部に、須賀くんっていう男子が入ったんでしょ? 清澄出身の」
まさか姫子の口からその名前が出てくるとは思っておらず、煌は目を瞬かせる。姫子が一体言い出すのか、検討もつかなかった。
「須賀くんがどうかしたの? 姫子と知り合いだったっけ?」
「ううん。直接話したことはなかったかな。インハイの会場でちらっと見たことはあったと思う。ばってん、そんだけやけど」
「それならなんで?」
「そいけん高鴨の話。高鴨がその須賀くんにご執心みたかなんよ」
「ご執心……」
全く無関係であれば、煌ももっと食い付いていたかも知れない。有名人のゴシップという括りではそうでもないが、知った人間の恋愛事情には煌も少なからず興味があった。ただそこに須賀京太郎の名前が絡むと、話は別だ。彼自身を責めるつもりはこれっぽっちもないが、彼絡みの恋愛事となると煌は胃が痛い。
「ほら、須賀くん、例の大星との騒動があったでしょ。あんときも相当ショック受けてたみたか、そいで東京行きたいって悩んでたりしてたの。ばってん、もちろん試合があるから行けんかった」
「へ、へぇ……」
「高鴨、彼の写真見ては溜息ばついたりしてね。ねぇ、ほんなこてに大星とは何もなかったん?」
「あれは大星さんの空回り。否定する報道も流れてたでしょ」
「そん大星に直接訊いてみたら、思わせぶりなことばばっかり言うとるから」
さもありなん、だった。
「先輩としては後輩の好きな相手がどぎゃん奴か知っておきたくて。大星と噂されるごたっ奴だし。ね、煌の後輩なんでしょ。ちかっと紹介してよ」
「姫子」
「ん?」
「それ一番面倒な頼み」
「え、なんで?」
「なんでも」
ええー、と姫子は不満気に頬を膨らませる。しかしながら煌としては悩ましい限りだ。
「会わせてくれるくらい良いでしょ。花田は何がそぎゃん嫌なの?」
「私自身は別に良いんだけどね……」
「? やったらどうして?」
「問題は周り。――姫子、そろそろ時間では?」
「あっ、まずっ。行かなきゃならなかっ」
慌てて姫子が席から立ち上がる。
「それじゃあね、姫子」
「うん。近いうちにまた会お」
手を振り合い、煌は親友と別れた。
その近いうちが、本当に近いうちになるとは、まだ煌は知らない。
◇
それから数日、煌はオープンキャンパスの手伝いやら課題やらで、しばらく世間から遠ざかっていた。精々インハイやインカレの経過を追うくらいで、同じ麻雀部員とさえ最低限の連絡しかとっていなかった。
だから、気付いたときには麻雀仮面の噂があちこちで飛び交っていた。悠長に構えていたのが仇となった。
この、インカレが開催される時期に東京に現れた麻雀仮面。「彼女」は雀荘に現れては、全国クラスの打ち手を相手取り、ばったばったと薙ぎ倒しているという。
様々な仕事を片付け夜になって帰宅するも、ゆっくりできずに、煌はベッドの上で携帯電話を手に取った。
最初に連絡をとったのは、
「――もしもし、怜さんですか?」
本家本元麻雀仮面、後輩にあたる園城寺怜であった。
『そやけど』
電話口の向こうから聞こえてくる声は、どこか苦々しさを伴っていた。煌でなくとも、不機嫌と即座に見抜けた。
「……不味いときにかけちゃいました?」
『ん、や、ごめん、そんなことないんやけど、ちょっと色々あって、疲れとるんや』
「なにがあったんですか」
『その内話すわ。それより煌さんこそどうしたん? 急に電話なんてしてきて』
煌はどう話を切り出すべきか一瞬悩み、それから、
「麻雀仮面――」
『もう会うた』
煌の声を切り裂くように、怜は言った。それからかいつまんだ事情を説明され、煌は溜息とともに頷いた。
「なるほど、そういうことでしたか」
『麻雀仮面の名前使うて何したいんか知らんけど、私はもうスルーさせてもらうで』
「え、どうしてですか?」
『負けたもん。それもラス引いて完敗。口出す資格ないわ。それに麻雀仮面絡みは私関わらへんほうがええと思うんや』
「……分かりました」
怜がそうだとしても、煌としては無視できない。単純な興味もあったし、この話は白黒はっきりさせておきたかった。怜から聞けるだけの情報は聞き出す。
『……私が知っとるんはそんくらい。後はきょーちゃんに聞いたほうええと思う』
「ええ、ありがとうございました。大変参考になりました」
『煌さんに押し付ける形になってごめんな』
「なんのなんの。こういう仕事は好きですから。それでは、また」
それで怜との通話は終わり、今度は京太郎の番号をプッシュする。
しかし、
『おかけになった番号は現在電波の届かないところか――』
「あら」
不通であった。まあそんなこともあるだろう、講義は終わっているだろうがアルバイト中の可能性もある、もしかしたら誰かとデートしているのかも――とまで考えるが、煌はどうにも嫌な予感がした。明確な根拠などどこにもない。直感がそう告げていた。
「仕方ありませんね」
だが、今はこれ以上どうしようもない。切り替えた煌が次に連絡を取ったのは、我らが部長、末原恭子だった。
長いコール音の後、こちらはきちんと繋がった。
『もしもし』
「あ、恭子先輩。今大丈夫ですか?」
『あー、んー、少しなら。どうしたん? 何かあった?』
「もしかしたら聞いてるかも知れないんですが、麻雀仮面のことで」
『ああ』
恭子もすぐに理解したようだ。どうやら一番時流に乗り遅れていたのは自分のようで、少々情けなくなった。
何はともあれ、恭子と今後の対策を話し合えると思ったのだが、
『放っとき放っとき』
「ええ?」
意外にもあっさり、突き放されてしまった。
「な、なんでですか? また何かあったら不味くないですか?」
『今回は心配せんでもええから――ちょっと洋榎! 何しとるん!』
急に恭子が大声を出し、煌は体をびくりとさせた。どうやら何かしらトラブルがあったようだ。ばたばたと物音が聞こえてくる。
「どうかしたんですかっ?」
『大したことはあらへんけど――あーもー、こら、このっ! ごめん煌ちゃん、また今度でええ? 来客があって……なっ! こら! 洋榎! その写真はあかん!』
「は、はぁ……」
『麻雀仮面は無視してええから。インカレで後輩の応援でもしてあげてな。それじゃ!』
ぶつりと電話が切られてしまい、かけ直せる雰囲気でもなく、それ以上追求できなくなる。
麻雀仮面案件はもっと恭子が積極的に食い付いてくるかと思っていたが、逆に切り捨てられてしまった。確かに恭子が先に情報を入手しているのなら、煌に相談が来ていてもおかしくはなかったのだから、当然と言えば当然と言える流れだ。
「何があったんですかねー」
ともあれ、部長に放っておけと言われれば放置しても問題ないのだろう。そのくらいには煌は恭子を信頼していた。もっとも、それだけで好奇心や反骨心を抑え付けられるわけではなく、むしろ煌は独自に麻雀仮面を追うことに決めた。
ひとまずは目撃情報を集めようとパソコを立ち上げようとする。が、その直前、煌のスマートフォンが震えた。
「っとと」
怜、もしくは恭子が折り返しかけてきたのかと思ったが、ディスプレイに表示されている名前は違った。
「原村さん?」
中学時代の後輩だった。今は同じ東京住まい、ただしあちらは名門三橋大学のルーキー。今年度のインカレにもレギュラーで出場している優秀な選手だ。
「もしもし、花田です」
『良かった、やっと繋がりました。原村です。夜分遅くにすみません』
「いえいえ、こちらこそすみません。どうしたんですか? まだインカレ中でしょう?」
三橋は明日に準決勝を控えているはずだ。多少なりとも心配になるが、後輩はいえ、と軽く流した。
『それよりも、花田先輩に訊きたいことがあって』
「はあ。なんでしょう」
やや焦りを伴う声は、彼女らしくなかった。のほほんと構えながらも、煌は嫌な予感がした。
『須賀くん……知りませんか?』
「え? 須賀くんですか? ああ、さっき電話しようと思ったんですが、繋がらなくて」
『やっぱり。最近会ったりしていません?』
「いえ。私も忙しくて。何かあったんですか?」
訊ねると、やや躊躇いがちに彼女は口を開く。
『今日はゆーきと咲さんと私と須賀くんで集まろうっていう話があったんです』
「宮永さんも東京に来てらしたんですね」
『仕事とオフを兼ねて、だそうです。――それで丁度タイミングも良かったので、同級生で集まることにしたんですけど』
「けど?」
『須賀くんが、姿を現さなくて』
「……」
一気に話がきな臭くなった。その彼は、先ほど電話に出なかった。
『電話には一度出てくれたんですが、よく分からないことを言っていて会話にならないまま切れちゃって、それきりです。それからはメールにも返信がありません。急に都合が悪くなったからと言って、一方的に約束を破る人ではないはずですが……もしかしたら同じ部の花田先輩なら何か知ってるかと思って』
「……申し訳ありません。さっきも言った通り、私もここのところ連絡をとっていなくて」
『そうですよね……杞憂だったら良いんですけど……咲さんも、ゆーきも凄く心配していて』
――何かしらの事件や事故に巻き込まれていたとしたら。
可能性はゼロではない。和の言うとおり、彼が何の理由もなく全てを放り出す人間とも思えない。じわりと、煌は汗が浮かぶのを感じた。
「原村さん」
『はい』
「その、電話で須賀くんが言っていたよく分からないことって……覚えている限りで良いんです、教えて貰えませんか」
『……そうですね』
しばらく和は考え込んでいたが、やがて、
『確か一言、こう言っていました』
煌の頭を抱えさせる単語を口にした。全くもって、すばらくない。
『――麻雀仮面、と』
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