京太郎が高校二年時のお話です。
京太郎が高校一年時のインターハイ、その女子団体戦決勝で清澄高校と阿知賀女子学院が相見えて以降、二校の間で定期的な練習試合が開催されるようになった。長野と奈良、決して近所ではなかったが、原村和、松実玄、新子憧、そして高鴨穏乃の四人が幼馴染という縁も手伝って、良好な関係が築かれたのだ。時折他校も交えるこの練習試合は、麻雀名門校で行われるそれらと遜色ないレベルである。
清澄高校唯一の男子部員である京太郎も、ハイレベルなこの練習に欠かさず参加していた。彼の目標はインターハイ出場。今回の定例練習試合――普段と比べてやや時期外れだが――が開かれた時点で、既に高校二年の二月。目標達成のために残されたチャンスは、後一回しかない。高い意識を以て、彼は奈良阿知賀女子学院に乗り込んだ。
それに、今回は現三年の壮行試合の意味合いもあった。清澄の染谷まこ、阿知賀の鷺森灼と松実玄、いずれも麻雀推薦で既に大学進学を決めていた。そのため受験シーズンとは関係なく、また引退した身でありながら、全員参加している。彼女たちと打てる残り少ない機会に、滾らないわけがなかった。
「……ふーっ。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
初めて訪れた頃は緊張した女子校の雰囲気にもすっかり慣れた。昼間からずっと集中して打ち続け、一区切りついたところで京太郎は椅子に背中を預けた。この半荘も、かなりの激戦だった。
広い阿知賀女子麻雀部の部室には、四台の自動卓が設置されている。その席全てが埋められていた。近年の活躍により、清澄も阿知賀も新入部員がどっと増えた。今回はある程度選抜されているとは言え、抜け番は必ず発生する。
「じゃ、一旦俺はこれで」
もう少し打ち続けたい気持ちはあったが、いつまでも自分だけが卓を占拠するわけにもいかず、京太郎は席を立った。
他の卓の様子でも観に行こうか、と視線を彷徨わせていたら、
「お疲れ」
「お」
湯気の立つ紙コップを、胸元に突き出された。隣を向けば、阿知賀女子麻雀部の現部長、新子憧がそこにいた。強気そうな眼差しと垢抜けた雰囲気は、清澄の女子とは少し印象が異なる。ややどぎまぎしながら、京太郎はコーヒーを受け取った。
「サンキュ。わざわざ悪いな」
「良いの良いの。今回はこっちがホストなんだから」
ひらひら手を振りながら、憧は何ら含みなく笑った。出会った当初は彼女に警戒されていたというのは京太郎も承知だったが、ここ一年の付き合いでかなり打ち解けられた。間に入ってくれた和のおかげだったが、同時に好きにモノを言い合える性格だと気付けたのも大きい。――「まぁ、どういう出会い方をしてもあんたとどうにかなるなんて思えないけどね」、というのは憧の弁であるが。
「調子、悪くないみたいね。今も玄相手にプラス収支で終わるなんてやるじゃない。去年の夏前からすると見違えた」
「トップは玄さんにとられたから、まだまだだって」
「謙遜する余裕も生まれたか」
「からかうなよ」
二人は窓際に移動して、隣に並ぶ。熱いコーヒーに口をつけると、ほっと一息つけた。憧はぐるりと部室を見渡して、うん、と頷く。
「染谷さんも楽しそうで良かった。企画した甲斐があったわね」
「今回は何から何まで世話になりっぱなしだな。夜もレクリエーション考えてくれてるんだろ?」
「遠路はるばる来て貰ってるからね。それに、下心だってあるわよ。――悠長に構えてたら、あっという間に春季大会始まっちゃうでしょ。新入部員確保とか考えてたら、今から準備してても時間が足りないくらいだから。清澄には今回来て貰って大助かり」
「……腹立つくらいしっかり者だよな、新子」
ふふん、と憧は得意気に笑った。それから思い出したように彼女は、小さな紙包みを取り出した。
「はい、これあげる」
「ん? 何だよ、急に」
「ちょっと早いけどバレンタインのプレゼント」
おおう、と京太郎は戸惑いと喜色の入り混じった歓声を上げた。女子の多い麻雀部に所属しているため、去年もバレンタインチョコは頂戴した。ただ、他校の女子から貰うという予想外のイベントは男心をくすぐる。それが例え、明らかに市販の小さなチョコレートであっても。
「ありがたく貰っとくよ」
「ふふふ。ホワイトデーは三倍返しで良いわよ。うちの学校の住所は分かるわよね?」
「お前やっぱりしっかり者って言うよりちゃっかり者だよな……」
何言ってんのよ、と憧は肩をぶつけて抗議してくる。コーヒーがこぼれそうになり、京太郎は慌てふためく。
「っと、お前、危ないだろうがっ」
「あんたがちゃんと立ってないのが悪いんでしょうが」
などと言い合いながら、京太郎と憧はじゃれ合う。当然部室は対局中なのである程度は声を潜めていたが、咎められても仕方ない――京太郎はそう危惧し、そして実際、がたりと音を立てて席を立つ人物がいた。
彼女は、対局者たちにぺこりと頭を下げてから、京太郎と憧に振り返った。それから大股で歩み寄ってくる。
この場で唯一人、制服ではなくジャージを着用している少女――阿知賀女子学院が誇る不動の大将、高鴨穏乃。
彼女の性格は天真爛漫の一言に尽きる。常に明るく前向きで、諦めという言葉とはほど遠い。どんな不利な盤面でも、絶望的な状況でも、笑顔を作って強敵に立ち向かう姿は京太郎の眼にも焼き付いていた。今の自分にはない力。目標にするべき在り方の一つ。そう、京太郎は認識していた。
――特に、一年のインターハイの頃は。
と言うのも、練習試合を重ねるにつれて彼女の態度に変化が生じ始めたのだ。出会った当初は距離も近しく、屈託のない笑顔を向けてくれた。
だと言うのに今は、避けられている気がするのだ。声をかけても、逃げ出されてしまう。一瞬目が合っても、すぐ逸らされてしまう。馴れ馴れしくし過ぎたせいで嫌われてしまったのかと和に相談したことさえあったが、「穏乃はそんなことを気にする子じゃありませんよ」と一蹴されてしまった。
「た、高鴨さん……?」
しかしながら、事実として彼女が他者に向ける態度と自分に向ける態度は異なると、京太郎は実感していた。
「ごめん、うるさかったよな。ほら、憧も謝れって……あっ、おいっ」
いつの間にか、隣にいたはずの憧は穏乃の背後に回り込んでいた。彼女は京太郎の言葉はどこ吹く風で、穏乃の背中を押す。
「ほら、しず」
「あ、う、う」
口ごもる穏乃に、ますます京太郎は戸惑う。全くもって、彼女らしくない。赤面を俯かせ、もじもじと身動ぎして、
「その、これ」
どこからか取り出したのは、立派な箱包みだった。彼女はそれを京太郎に向けて突き出す。
「も、貰ってくれるかな」
「え、俺?」
「う、ん。うちの家で作ってるいちご大福だから」
一度言葉を切って、穏乃はぎゅうっと目を瞑って、付け足した。
「ば……バレンタイン仕様なんだ。食べて」
穏乃の緊張が伝わってきて、京太郎もごくりと生唾を飲み込む。しかし突っぱねるわけにもいかず、
「あ、ありがとう」
大きな箱を、受け取った。
穏乃はほっと安堵の息を吐き、強張らせていた顔を緩ませる。少女らしい可愛げな笑みと共に京太郎を見上げ、京太郎もまた彼女を見下ろす。視線と視線がぶつかり合い――穏乃の頬の朱色が、さらに濃くなる。
「高鴨さん?」
不安になった京太郎が声をかけた途端、
「わあぁぁっ!」
穏乃は踵を返すと、咆哮と共にあっという間に部室から姿を消してしまった。彼女の叫び声に驚いた麻雀部員たちは、しかしぽかんと見送るしかできなかった。それは京太郎も同じで、彼に残されたものはいちご大福だけだった。
「受け取りどーも」
突っ立っている京太郎の肩を叩いてきたのは、憧。彼女はにやにや笑いを浮かべながら、京太郎の顔を覗き込む。
「味わって食べて上げてね。後、ちゃんとお礼しなさいよ」
「言われなくても分かってるって。こんな良い物貰っといて無視できないだろ。ま、みんなで美味しく頂くさ」
「ばか」
容赦なく、頬を抓られた。
「あんた一人で食べなさい」
痛い、と京太郎が文句を言う前に憧はその場を離れていった。別の卓についてしまい、もう一度声を掛ける隙はない。
仕方なくいちご大福の箱を鞄に詰め、京太郎は空いた卓に向かう。その大福一つ一つが穏乃の手によって丹精込めて作られたことを彼はまだ知らない。
◇
阿知賀女子学院との定例練習試合を終え、清澄一同が帰路につく中、京太郎は一人だけさらに西へと向かった。
訪れたのは、北大阪。練習試合の度に毎回、というわけにはいかなかったが、学生の身空早々西日本まで出てこられるわけではない。だから、できる限りこういう機会を逃したくなかった。大切な友達と、直接会える機会を。
「園城寺さん」
待ち合わせに指定された病院の正門で佇む彼女――園城寺怜の姿を、京太郎はすぐに見つけられた。
「おー、久しぶりきょーちゃん」
表情の変化に乏しい怜だが、うっすらと微笑むのは京太郎にもすぐに分かった。
「外に出ていて大丈夫なんですか? 今日はまた冷えるでしょう」
「心配してくれるんは嬉しいけど、あんまり過保護にされてもなぁ。このくらい平気や。あんまり引き籠もってたら体力つかへんし」
「でも、今日も検査だったんでしょ?」
怜はうん、と素直に頷くと――僅かに眉を潜めた。はて、と京太郎が首を捻るよりも早く、
「きょーちゃんはそんなことまで気にせんでええの。ほら、うち行くで」
むくれた怜が歩き出してしまう。慌てて京太郎は彼女の後を追うが――何だか突然機嫌が悪くなったみたいで、困惑してしまう。
「あの、園城寺さん?」
「なんや」
「何か俺、変なこと言っちゃいました?」
「なんも」
「だったら……」
「きょーちゃんさん」
ああこれダメなパターンだ、と京太郎は察する。察したところでどうにもできないのだけれど。
「阿知賀との練習試合は、どうやったん?」
「ああ、ええ、そうですね。凄く身になりましたよ。ようやくみんなのレベルが実感できてきたというか」
「きょーちゃんさんもレベルアップしとるもんな」
「ま、まぁ、ほとんどトップは穫れなかったんですけどね」
「ふーん」
信号が赤になり、怜はぴたりと足を止める。京太郎は、その隣に並ぶ勇気がなかった。何だか末恐ろしい気がした。
「でもなぁ、きょーちゃんさん」
「な、なんでしょう?」
「トップは獲れんくても、チョコレートは一杯貰ってきたんやろ?」
「えっ」
「めっちゃチョコの匂いするで」
怜の指摘は、正しかった。まだまだ育ち盛りの体、怜と合流するまでに小腹が空いた京太郎は、阿知賀で頂いたバレンタインチョコをいくつか抓んでいたのだ。
どうやら、それが怜の不興を買ったらしい。別に怜と自分はそういう関係ではないが、確かに不誠実だったかも知れない――京太郎は反省する。謝ろうと口を開きかけ。
――あれ、これってもしかして。
はたと気付く。嫉妬、されているのだろうか。彼女は自分に特別な感情を抱いているのではないか。その考えに至るのは、ごく自然な流れであったろう。
「お、園城寺さん」
「どうしたんや、チョコレート一杯貰うモテモテのきょーちゃんさん」
「いやいや、全部義理ですって。憧なんか三倍返ししろって言いながら渡してきたんですよ?」
「じゃあ、その手に持っとるんはなんなん?」
指摘され、京太郎は手提げ袋に目を落とす。そこに入ってるのは、穏乃がくれたいちご大福だ。立派な箱包みは、隠しようもない。
「義理でそんなん、貰えるん?」
「あ、当たり前ですよっ。ほら、高鴨穏乃って覚えてます? 和菓子屋の子だからこういうのくれただけですよ。そもそも最近避けられてるくらいで……」
「ふーん。ふーん」
言い訳を重ねても、あからさまに機嫌が悪くなっていく。もう京太郎の手には負えない。ここにはいない清水谷竜華に心の中で助けを求めるが、当然現れるわけもなかった。
「モテモテのきょーちゃんさんは、これ以上チョコは要らへんよな」
「えっ、な、なんですか急に。どういう意味ですか」
「言葉通りや」
信号が、青になる。だが、怜は横断歩道を渡りだそうとしなかった。冷えた道路にぴったりと足の裏がくっついてしまったかのよう。そしてそれは、京太郎も同じだった。
「分かってへんとは、言わせへんで」
「園城寺さん……?」
ひんやりとした、あるいは緊張感とも言い換えられる沈黙が、二人の間に落ちる。ともすればそのまま一時間でも二時間でも突っ立っていられそうだった。
しかし怜は、振り返った。京太郎と、目と目を合わせた。逃れられない呪縛が、京太郎の体を絡め取る。
「私も……ちゃんと、用意してたんやからな」
「そ、それは――」
「きょーちゃん」
怜が、小首を傾げる。僅かなその仕草が、しかし彼女の中に潜む妖艶さを引き立てる。
「受け取ってくれるんなら……目、閉じて」
「っ!」
もはや、京太郎に逃れる術はなかった。憧れの人は、いる。だがそれは恋愛対象としてではない――少なくとも今は。
何よりも、今の怜を前にして拒絶できる男がどれだけいるというのだろうか。
意を決し、京太郎はゆっくりと瞳を閉じた。乾いた足音が、聞こえてくる。近づいてくる怜の気配。鼻腔をくすぐる彼女の匂い。全てが、チョコレートよりも甘美だった。
身構え、体を強張らせ、ついに鼻先で空気が揺れ――
固い感触が、唇に押し付けられた。
「……は?」
断じて人肌などではない。目を開けると、口元に突き付けられていたのは桃色の紙袋だった。その向こうで、怜がにやにやと、そう、心底にやにやと笑っていた。
「はい、きょーちゃん。私からのバレンタインチョコやで。そこのコンビニで買ってきたもんやけど、受け取って」
「……」
「実はさっきまでバレンタインのこと忘れててなぁ。ほんま慌てたわ」
「…………」
「あ、コンビニやからって舐めたらあかんで。割とええの買ってきたんやから。まぁ、一番高いやつは止めといたんやけど」
「………………園城寺さん」
「どうしたん、きょーちゃん?」
「行きますよ」
「あっ」
肩をいからせ、ずかずかと京太郎は歩き出す。縋り付こうとする怜を、意にかけようともしなかった。
「もう、きょーちゃん怒っとるん?」
「怒ってなんかいませんっ」
「やっぱり怒っとるやん。ちょっとした茶目っ気やから許して」
「だから怒ってなんかいませんってばっ」
「ほら、ちゃんと受け取って」
「……はいはい、分かりましたっ」
「なんだかんだ言うて貰ってくれるきょーちゃん、好きやで」
「もうからかわないでください!」
二人は冬の街を歩いて行く。少女の楽しげな笑い声と、少年の拗ねた声を混じり合わせながら。
この日以降、京太郎は怜の「好き」をなかなかまともに取り合わなくなった。
◇ ◇ ◇
長野に帰る京太郎を見送り、怜は自室に戻ってくる。コートとマフラーを脱ぎ捨てて、海溝よりも深い溜息を吐いた。
「あああああもおおおお私なにやっとるんんんんんー!」
そしてそのまま、彼女はベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋め、ばたばたと足を振る。肝心なところでへたれてしまった自分を、全力で殴りつけたい気分だった。
彼に渡したチョコレートが、既製品のわけもなく。
ベッドはぎしぎし悲鳴を上げた。母親が部屋に飛び込んでくるまで、悲鳴を上げ続けた。