気がついたら私はどこかの部屋に立っていた。
葉脈のような電子線が張られた、黒と灰色の世界。四方に伸びていて、それぞれ扉へ続いたエントランス。橙子に始めて会ったときと似た既視感を感じたが、私はそれを無視して目に付いた左側の扉を開けてみる。
真っ暗な世界に鉄錆た匂い。手術道具のような針がそこかしこに突き刺さり、どこからか煩いサイレンの音が響いている。
私にはその世界が気持ち悪くて仕方なかった。頭の中身がこんがらがってぐちゃぐちゃにかき混ぜられたように思考が食われる。寒気が走る身体を震わせて煩く響くサイレンの素を探そうと、そっと歩きだした。
吐き気と纏まらない思考は無理矢理つなぎ止めて、重たい足を動かす。今にも何処かへ走って逃げ出しそうになる体をあえてゆっくりと動かし、周囲を探る。
やがて見つけたサイレンの発生源は地面に根付いたスピーカー。色とりどりに光るそれは、ここが夢だというのなら警鐘の具現化なのだろうか。針が突き刺さるサークルの中央に血だまりができているが、私は一層強くなった鉄錆た…… 血の匂いを振り切るようにそこから遠くへ、遠くへと逃げ出した。
「また既視感……」
黒い世界から黒い部屋に入り階段を下る。それだけで頭痛と吐き気は少しずつ薄れていった。
カン、カンと鉄でできた階段を下ると、そこには真っ白い壁が広がっていた。一度も見たことがなかったが、外見からそこが病院であると確認できた。もしかしたら、ここは私の住んでいる病院の外なのかもしれない。
そして、見慣れた待合室と受付が外から見えて入口に入る。周りは不気味なほどに静かで、私はもぬけの殻となった病院をひたすら上へと登って行った。病院の奥に進む勇気は残念ながら私にはなかったのだ。
屋上に着き、これまた見たことのない景色が広がっている。ふと、起きたら屋上に行ってみたいなどと考えながら真っ暗にあいたトンネルへ入る。屋上にトンネルなんて、普通はあるわけがないのだけれど。
不思議と、トンネルを抜けたらそこは美しいガラスの回廊だった。そこでまた、既視感。私は何を忘れているのだろう? それともこれは何処かで見たことがあるのだろうか? 分からない。知るためにはここを探索する必要がある。
「結構綺麗かも」
ガラスで出来たタイルの下は赤い空洞が広がっていたが、繊細なガラスの道に赤いコントラストはなかなか綺麗だと思えた。
暢気にこんなことを言っているべきでないことは分かっている。サイレン響くあの空間の気持ち悪さなど忘れて鼻歌まで出てくる始末。我ながら呆れる。そして道なりにガラスの回廊を進んで行くとベッドが三つ佇んでいる場所にたどり着いた。そして、一気に現実へと引き戻されるのだ。
ベッドには膨らみが二つ。一つは長い黒髪が少し見えていて、足元の膨らみが極端に小さい。そしてもう一つは頭のほうから僅かに包帯が覗いていた。捲らなくても自然と誰か分かってしまう自身が恨めしい。
最後の一つは包帯が覗いているベッドの隣。…… 私は入るつもりなんてない。二人には悪いがどこかが欠損するような痛みは御免だ。
無視してまた下へと続く階段を見つけて入り込む。少し下がったところで大きく広がる空間。そしてまた下り階段がある。
ザリ…… ザリ……………
響くノイズに顔を顰しかめる。なんだか、思い出してはいけないことを思い出しているような気分になってくる。そういえば、砂嵐は胎児の聴く音に似ているのだったか。心象風景を表す夢の中だということは解っているが、夢に出てくるものはどこか抽象的で混ざり合っていたり分離していたり、どうにも信用できない。
ザリザリザリ……
既視感を憶えてふと考えた。今まで既視感を感じた場所と、そうでない場所があることに。エントランスとサイレン響く気持ち悪い世界には既視感を感じた。しかし、何かが足りないような気もした。次に辿りついた病院は知っている場所だったがなんだか違う気がした。知っているのに、そこに病院があることが間違っているような、そんな違和感。そしてガラスの回廊。ここには既視感を感じて、またテレビ画面の砂嵐じみたノイズが走るこの場所に。そして私はこの先に行こうとしている。まるで導かれるように。
既に既視感の正体には気づいていたが、私はその結論を意識の外に追いやってそのまま階段を下りた。
…… 私は何度警鐘と既視感を無視してきたのだろうか。そのツケが精神に順調に罅を入れ、そして今ここに現れる。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁ!」
辺りに響く声。上を指差す人。咄嗟に目を瞑る人。耳を塞ぐ人。その両方をする人。別の方向を見ていて気づかない人達。
そして直様響いた耳が破裂したのではないかと勘違いする程の鉄と煉瓦がぶつかる轟音。それに混じって僅かに聞こえた、柔らかい何かが潰れる音。
響く悲鳴と一時的に止まった足音。遠くから聞こえてくるけたたましいサイレンの音。でも私は知っていた。その救急車が乗せるべき患者などいない。なぜなら全てすり潰された肉と、血だけになってしまったからだ。だから私が今ここにいる。
〝 私 〟が潰された場所を見ると、その向こうに涙を流す少女。そして、少女と目が合って暗転…… 赤が塗りつぶされ、黒に染まっていく。
目が覚めると、今度はよく知る天井が目に入った。まあ、真っ白なだけなのだが。
「凪様?」
「あ……」
そこには心配そうな表情をしたメイ子さんが水差しを持って佇んでいた。どうやらずっと私が起きるまで傍に居てくれたらしい。目が潤んで今にも泣きそうだ。いつも優しそうだけれど少し憮然とした気の強そうな態度は何処へやら。
しかし私が寝た理由。それを考えるとあまりにも不安だ。彼女を疑いたくはないが、それでも彼女はあくまで父が寄越したメイドなのである。
「あなた、昨夜見たんでしょ?」
「一体なんのことでしょうか。お嬢様は昨夜お休みになられたあと一度も起きておりませんよ」
貴女は何も見ていないし、何も聴いてない。そう言ってほしいという願望を込めた目で静かに彼女は言う。いつも接する時よりも硬い表情。緊張と悪夢で湿った病衣の袖を握り、私は「怖い夢を見たの」と呟く。
全て夢の出来事。
そう、昨日見たカルテも、悲鳴も、病院の真実も全て質の悪い悪夢。そう思っておくことにする。彼女と、私のために。
「あのね、変な夢なの。鉄の匂いと黒い場所をずっと歩いてたの。風邪をひいた時みたいに頭が痛くて、気持ち悪かった」
「それは…… 凪様。夢は人に話すと少しずつ楽になると聴いたことがありますわ。私が毎日少しずつ読みますから、覚えている限りを日記にしてみませんか?」
引鉄は引かれた。彼女に言われてしまったのならもうやるしかない。一番に信頼する彼女のために。きっと、ドロドロとした、読むだけで不愉快な夢日記ができてしまうだろう。だって、そういう夢になってきてしまっている。若干六歳にて既に暗い記憶を引きずる私に〝 ゆめにっき 〟は重すぎる。
鉄錆た世界
未だ未完成のようだがあの世界はまだまだ広がり続ける。私自身の死を引きずる限り、そして、この病院の狂気を見続ける限りずっとずっと。そしていつか赤黒く、凄惨な光景広がる世界になる。そう、記憶の奥底に嫌なものがこびれついて、錆びつくことはもう止められない。自覚してしまった時点で終わりなのだ。知りたくなかった。始めての既視感で既に気づいていたはずなのに私は放置した。そして止められなくなった石ころはどん底へと転がっていったのだ。
二重死亡フラグが建っているなんて聴いてない! 神は私に死ねと言うのか!
・ゆめにっき?
次話でちゃんと説明されるのであしからず