錆の希望的生存理論   作:時雨オオカミ

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「自由って言葉は本当に素敵だよね。だって、それってずっとそばにいられるってことでしょ?」






No.4『自由』ー錯誤ー

 

 

 

 そこらにある色と同じ真っ白いシーツと、真っ白い布団が真ん中から徐々に汚い緑色に染まっていく。それはやがて黒くなり、ベッドの真ん中にしがみついて永遠に離れなくなるだろう。これがあるいは、正常なものだったのなら立派な日の丸ができていたのかもしれない。

 

 戻ることのないそれがドクドクと音を立てながら更に大きくなる円を見つめる。ある種の芸術品のようなその光景に私はうっとりとして、ただただ見つめるのだ。

 熱い視線に気がついた芸術品もこちらを見て、青い顔を更に青くしながら細い音声を発する。それはとても穏やかなもので、思っていたものとまるで違ったが、私にはその方がとても嬉しく思えた。

 

 特別な夜。

 特別な相手。

 特別な行為。

 特別な言葉。

 

 ああ、なんて素晴らしい響きなのだろうか。

 こんなにも胸が踊る出来事なんてもう一生味わえない。

 

 自然と口の端が上がり、緩んだだらしない姿を晒す。それを見た芸術品もまた同じように口元を緩め、そっと視線を交わせる。その瞬間は何十分にも感じられたし、もっとあったような気もするが実際にはそこまで時間は経っていないだろう。

 

 

 

 

 

 大きく遅れて酷くのろまな警報が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 それにピクリと反応した芸術品は弱々しい手で扉を指差す。それから、間に合ううちにと自らの生命が流れる箇所に手を添えた。一層青白くなった顔に私はキスをしてその場を後にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後悔など、選択肢には入っていない。お互いにやりたいことをしたに過ぎないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、うろちゃんが始めて訪問してから一月と半分ほど経った夜のことだった。

 

 真夜中の深夜二時。いつものように悪夢へと誘われていた私はけたたましい警報ベルによって叩き起こされた。現実でも飛び起きるような唐突さだ。それが夢に反映され、〝 偶然 〟雲タイル通路で足を踏み外し、ベッドから落ちる強制起床が発生してもおかしくはない。

 

「なになに?」

 

 ぶつけた頭をさすりながら辺りを見回すが、自分の部屋ではなにも起きていない。当たり前だ。そう簡単になにかあっては困る。きょろきょろと忙しなく視線を動かしていると扉が開き、メイ子さんが顔を出す。

 

「凪様、少し厄介なことになってしまいましたので今夜中はこの部屋に留まり、決して外には出ないでください」

 

 暗い顔をしたメイ子さんが一通り部屋を見渡し、何事かに気が付くと同時に 「驚かせてしまいましたか?」 と心配そうな声で言った。

 

 なぜそんなことを言うのかが分からず、彼女の視線を辿るとベッドの上からずり落ちたような形で布団が私の肩にかかっていた。私自身も起床してから立ち上がりもせずに状況把握に勤しんでいたので、端から見ればベッドから落ちたことは丸分かりである。

 

「あ、だ、大丈夫だよ。メイのせいじゃないから!」

「そうですか? なら、いいのですが」

 

 大丈夫だと言っているのに、メイ子さんはそのまま私の傍にしゃがみ込み、頭を撫でる。どうやら、怪我がないかを確認していたようで、「たんこぶはできていないようですね」と言って立ち上がる。それから、これからは起こしに来た本題のようなので私もそれに倣い、立ち上がって気持ちを切り替える。

 

「先ほど申した通り、今夜中はお部屋に留まって頂くことになります。お手洗いに行かれるのでしたら私がいる今のうちに済ましておいたほうが良いでしょう。」

「分かった」

 

 一体なにが起きたというのだろう。侵入者? それとも患者の症状が急変でもしたか? はたまた、どちらともだったりするのか? 思考を巡らして考えるが何一つ答えは出ない。説明を受けたわけでも、ましてや現場を見たわけでもないのだから。

 

「わかった。トイレに行く」

 

 強制起床だからといって目が冴えわたるわけでもないし、寝ぼけ眼を指で擦る。目を擦るのは良くないことだとよく言うが、眠気には抗えない。大きなあくびで再び目元を涙が濡らしたので、もう一度それをぐいっと拭った。それから片手を彷徨わせてメイ子さんの服の裾を掴む。一人で行ったらそのまま廊下で寝てしまいそうだったからだ。

 

「では凪様、お一人で出来ますね?」

「うん」

 

 流石にこの年でできなかったら問題だ。メイ子さんは 「冗談ですわ」 と口元を押さえて笑っている。こちらをリラックスさせようとしてくれたのだろう。いつの間にか肩に入っていた力が抜けている。

 

 私も少し冗談を、と思って声を出したが、 「メイこそ寂しくないの?」 という面白みもない言葉になってしまった。それにメイ子さんは 「成長をすぐ傍で拝見できて感無量ですわ。嬉しくて涙が出てしまいそうです」 と律儀に答えてくれている。つまりは〝 寂しくは感じず、むしろ喜ばしいことだ 〟と返答してくれたのだ。こちらも、ここまで想ってくれると気持ちが良いし、嬉しい。まったく、良い意味で期待を裏切ってくれる人だ。

 

 お手洗いを出てメイ子さんのところへと戻る。手はしっかり洗って石鹸のフローラルな香りがする。それを子供らしくいい匂いだとメイ子さんに自慢してから自室に戻った。

 

 これから朝までずっと病室に留まっていなければならない。いつもなら飲み物を買いに行くくらいは許してくれるメイ子さんが駄目だと言うのだ。大人しく寝ることにしよう。

 

 部屋の前でメイ子さんと別れる。これから二度寝に入るわけだが、未だに〝 腕 〟が取れていないのである意味幸運だったのだろうか。今夜は〝 腕 〟を取るために真面目にやろう。未だに怪物君は出現していないのでできるだろう。

 

 

 ガラリ

 

 

 扉を開けてすぐに私は凍りついた。今まであった眠気は吹っ飛び、背中が氷水を浴びせられたかのように一気に冷えていく。先程まであった安心感はとうにない。

 

 

 

 

 

 なぜなら、誰かの瞳がベッドの下で輝いていたからだ。

 

 

 

 

 

 「ひっ」 と短い悲鳴をあげて慌てて口を押さえる。しかしもう遅い。なぜならメイ子さんはすでに帰ってしまっているし、自分が硬直している間に随分と遠くに行ってしまっただろう。それならば気がついていないふりをするか、この場から逃げ出すか。しかし気がついていないとするならば硬直しすぎている。これは駄目だ。なら今すぐにでも逃げてメイ子さんに追いつけばいい。そう判断して逃げ出そうとするが、後一歩遅かった。

 

「ねえ待って」

 

誰が大人しく待つものか! そう言おうとしてから気がついた。どこかで聞いたことのある声だ。扉にかけた手と、反対の手がその人によって掴まれる。怯えながら振り返ったそこにいたのは果たして、空井織月その人だった。

 

「おねぇ、ちゃん?」

 

 搾り出した声は震えていて、か細い。こんなときでも思わず〝 うろちゃん 〟と呼称しそうになり、慌てて言葉を変えた。

 

「驚かさないでよー」

「あはは、ごめんね。びっくりさせるつもりはなかったんだけど」

 

 苦笑いを浮かべて頭を掻くうろちゃんはどこか憎めない。それが彼女の効果なのか、あるいは知っている人であったからなのかは分からないが、私はすぐに安心した。知識は沢山持っているが体に釣られて精神は子供のようになっているのか、すでに涙目である。

 

 しかしその安心感もつかの間。すぐに〝 何故今の時間に彼女が此処にいるのか 〟が気になりだして止まらなくなる。再び硬直した私に彼女は不思議そうに問うた。

 

「どうしたの? 凪ちゃん」

「こっちのセリフ、だよ」

 

 また声が震え、体も随分と涼しくなってきたところだが大きな声で、しっかりと逆に問い返す。はぐらかされても嫌だからだ。

 

「なんでこんな夜中に入院してないお姉ちゃんがいるの? どうして?」

「アキラが心配でこっそり見に来たんだよ」

 

 笑顔を崩そうともせずに彼女は続ける。大きな動揺もなく、しかもその言葉一つ一つを聞いても、なんら罪悪感など見当たらない。無邪気にただ笑っているだけ。それくらいしか私には分からなかった。しかも、その判断が合っているかなど分からず、全ては推測でしかない。いつもは優しいと思っていたその笑顔が、今は不気味で、怖くて仕方ない。

 

 無駄だと思いながら、震えがこれ以上大きくならないようにカタカタと震える腕で体を抱きしめた。口を引き結んでおかないと歯が上下して音が鳴ってしまいそうだ。視線が一定に定まらず、目が泳ぐ。彼女の笑顔を直視できない。怖い、怖い、怖い。

 

「嘘だよ。面会時間は絶対。受付にはいつも人がいるし、こんな時間に来たら追い返されちゃう。それにお姉ちゃんくらいの年なら警察呼ばれちゃうよ」

 

 彼女に合わせてはならない。そう判断して徹底的に攻める。納得してはいけない。彼女の言葉に乗ってはいけない。瞑りたくなる瞼を押し上げ、泳ぐ目で彼女を見る。

 私が怯えていることなんてすぐに分かってしまうだろうが、これが私にできる精一杯の虚勢だった。

 

「あらあら、やっぱりアナタ頭いいんだね。そこは普通、知人だったことに安心して泣きついた挙句、泣きつかれて寝ちゃうってところだろうに」

 

この病院のことならばよく知っているんだぞ。そう暗に示して言うと彼女は嬉しそうに言った。…… 嬉しそうに? どういうことだ。自分の所業がばれそうになれば普通焦るものではないのか。そんな疑問が頭の中を過ぎり、ますます彼女の笑顔が不気味に感じる。しかし、そんな些細な疑問は後回しにしなければならない。

 

「この騒ぎもお姉ちゃんのせい?」

「騒ぎって、まあ大事件かもね。人一人死ぬんだから」

 

胸中に衝撃が走る。間抜けにも「は?」と息が抜けるような声を出し、唖然とする。もはや私は棒立ち同然だ。震えすらも一瞬で飛び、脱力して腕をだらんと下げた。

 

 どういうことだ? 人が死ぬ? そんな事件をこの子が起こしたというのか? そんなのありえない。ありえてはならない。信じたくない。そんなことをしておきながら笑っている彼女が理解できない。したくない。圧倒的な悪を目の前にしたかようなこの虚脱感。知人が恐ろしい人であったことへの恐怖感がないまぜになってぐちゃぐちゃだ。

 

 それは単純な恐怖よりも複雑で、震えが出ることもない。全ての反応を拒否して、なにもしようとは思えなくなる。胸の奥に無理矢理錘を押し込まれたような感覚。濃く、深く、それは私の心の中に浸透し、冒して行く。

 

 私を冒すそれはきっと、「超高校級の幸運」(こまえだなぎと)がなによりも嫌悪する感情(ぜつぼう)

 

「前に、話したでしょ? 病院側がいけないんだよ? アキラを縛り付けて、寿命まで明かしちゃってさ。そんなの知りたくなかった。知らずにずっと遊んで、一緒にいて、全部終わってから泣きたかったんだ。でももう無理。無理矢理延命されてる上に体をいじくられて、私達は引き裂かれた」

「お姉ちゃん、ちょっと」

 

 気持ち悪い感情を押し流し、言葉を遮ろうと思った。でも、それはできなかった。彼の言葉が蘇ってくる。織月はかなりの〝 マイペース 〟なのだと。

 

「だからね、解放してあげたの。これでアイツはもう自由。どこにでも行けるし。私の傍に来ることだってきっとできる。病気と、この病院から自由にしたの。アイツは最後に笑ってくれた。全部同意の上でやったこと。全部アイツとした約束なんだよ」

 

 ああ、だめだ。彼女は笑顔を崩さない。心底、良い行いをしたのだと思っているからこそできることだ。罪悪感なんて微塵もない。それどころかそれをいけないことだと欠片も思っていないのだ。

 

 それは狂気。誰かの隣で笑っているときと同じように笑っているのに、今の私には恐ろしさしか感じられなかった。

 

 静かに泡立つ肌が、まだ私が正気であることを教えてくれる。彼女の言葉に揺さぶられる中、僅かな良心が耳を貸してはいけないと訴える。

 

「私、嘘はついてないよ。心配してた。だからこそ自由にしてあげた。夢は見るよ。怖い夢。そこはとっても綺麗だけどアイツがいないの。それが私が怖い夢。でもそれも今日で終わり。ずっとこの先一緒だから」

 

 間違った正義と言うのだろうか。翠君も決して嘘はつかなかった。甘いものが好きで、彼と一緒にいるのが好きだった女の子。

 

〝 あいつはあいつなりに一点を見つめてて、それに向かって歩いてる。いや、走ってるのかな?ともかく、何があってもあいつは信じたことをそのまま貫くんだろうと思うよ。それにかなりのマイペースさだ。よっぽどのことがない限り少しも変わらないだろうね 〟

 

 彼は最初から気づいていた? なのになぜ、自分が死ぬことを受け入れてしまったんだ? 確かにお似合いのカップルだとは考えていたが、私はこんな悲劇が見たかったわけじゃない!

 

 彼女が貫いている道は一般人(ひと)とは圧倒的に違ってしまっている。他人との錯誤をものともせずに貫き通し、そして今ここにいる。思っていることとやっていることは殆ど一致しているのにもかかわらず、微妙にズレがある。そしてそのズレが致命的なのだ。あんなにも仲の良かった翠君が〝 変わらない 〟と言っているのだからきっと彼女は変わらない。変えられない。そもそも、知人でしかない私が何か意見を言っても聞き入れてはくれないだろう。

 

 

「狂ってるよ」

「褒め言葉だね。その狂いでアイツを自由にできたなら満足だよ」

 

 涙目で訴えてももはや意味はない。これ以上彼女の言葉を聞いてはいけない。ぎしり、ぎしりと心が悲鳴を上げ、どうにかなってしまいそう。

 流されたほうが楽なのでは? 一瞬浮かび上がった考えを振り払い、話を翠君のことから逸らす。

 

「どうやって入ったの? 受付も、警備もいるはずなのに」

「一ヶ月間なにもしてなかったわけじゃないんだよ? そのためにアナタの病室も覚えたんだしね」

 

 彼女はうっとりとした恍惚の表情で言う。ああ、話題逸らしに失敗したようだ。これは地雷。知らなければよかったことまで知らされてしまった。

 

 初めて会ったときの彼女を思い出す。

 

 きょろきょろとしながら、笑う彼女を道案内した。

 何度も面会時間ぎりぎりまで訪問してきて、見かねて私の部屋に案内した。

 部屋で色々な愚痴を吐いた。

 何度もされる彼女の質問に疑いようもなく答えた。

 分からないだろうと高を括り、父と看護師のことを話した。

 

 私はずっとずっと利用されてきたのだ。

 

 そうはっきり宣言されたようで言いようのない悲しさに襲われる。が、それも一瞬で奪われた。

 

「私達、もう共犯者なんだよ。そこは分かってる? アナタが頭いいのは最初の会話で分かってた。だからね、ほら朝まで話しましょ?」

 

 目の前が真っ暗になった気がした。暢気に話をしている間に逃げ道を塞がれた。知らなかったとはいえ、彼女に情報を与えていたことは事実なのだ。今日、この場で話したことは、利用されたことは誰も知らない。

 

 私はこの人を部屋に匿うしかない。

 

 

 私はそこで人生初の悔し涙を流した。どうしてこうなってしまったのだろう? いくら考えても、やっぱり答えは見つからなかった。

 

 病院は人を狂わせる。今日一日だけで今までの平和の分、代償を支払わされた気がする。しかしまだ私は六歳。この病院から離れることは当分ないのだ。絶望と狂気と身に受けて苦味とえぐみを味わい、涙を流す。心が悲鳴を上げる。もう、これ以上は無理だと危険信号を出している。

 

 やがて、耐えられなくなった私は口を押え、しゃがみ込んだ。すると、彼女は先ほどまでの異様な雰囲気はどこへというくらいに変化した。私の気も知れず、心配そうな顔で近づいてきた彼女と目が合い、限界を迎えた私はえづいてベッドへ倒れ伏す。その瞬間だけ、織月の驚いた表情が目に入って少しだけ気が晴れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして私は防衛本能が発する眠気に身を任せ、静かに意識を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回は「うろつき」編となるので本編は進みません。彼女の心情をどうぞお楽しみください。(甘酸っぱい鬱注意報)


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