あの日の奇跡と東風谷早苗について   作:ヨウユ

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あの日の奇跡と東風谷早苗について 3

 神社への石段を駆け上る。全身の筋肉が疲労して、身体は今すぐにでもと休息を求めるが、そんなものは気にも留めない。一刻でも早く、東風谷早苗のもとへ向かわなければならない。息などとうにあがっているし、脚は一度立ち止まってしまったらしばらくは歩けないと感じるほどだ。

 後のことなど構うものか、今を見逃したら全てが失われてしまうと、確信めいた予感がある。

 こんな別れはあんまりだ。やっと、やっとじゃないか、つい一年程前にやっと、例え、どれだけ互いが違っていても、一緒に居ようと、そう考えることが出来るようになったというのに。

 いろんな思い出が脳内を駆け巡る。そのどれもが、この瞬間にも朽ちようとしている。

 彼女のところに行ったところで何が出来るかなんて分からない。だが行かなければ、そんなの昔の俺と変わらない。離れることで彼女との関係に終止符を打とうとしていた、かつての俺とは違う。

 石段を登りきると一際強い風が吹きつけた。大した力も無い俺でも感じる、この先の鳥居の向こうの境内は危険だと。広がる景色に変わりは無いが、もはや俺の知るいつもの守矢神社ではなくなってしまっている。

 目の前のそれはもはや異様とまでいえる存在感を放っている。

 しかし、それで、この鳥居の先の異界を生み出している張本人こそが東風谷早苗だと、直感で理解する。

 この先何が起こっても、俺はあいつを諦めない。

 色んな事を早々に諦めて傷つかないようにしていた俺だけど、あいつのことだけは、もう絶対に。

 舌が渇き、喉が干からびる。

 ここは俺が近づいてはならないものだ。

 それでも、その先にあいつが居るなら。

 鳥居の前に立ち、一度大きく息を吸い込んで心に決意の火を灯して、自らの右足を一歩、否、半歩ほどその先へ踏み込んだ瞬間だった。

「が――――は」

――――己の全てが、風に飲み込まれた。

 踏み出した足先から、一瞬にして全身を攫われた。そんな錯覚があった。

 痛みはない、ただ、全身が硬直した。視界は一瞬で消え去り、真っ白になって何も映さない。聴覚は、吹きすさみ暴れた風以外の音を拾うことは無い。まるで、目と鼻の先に鋼鉄の大きな壁がそびえ立ち、俺の行く手を遮っているのかと思うほどに、脚は前進を許されない。ここでは俺はあまりにも無力で無意味だ。それでも、拳に力を籠められるならば、歯を喰いしばれるなら、まだ堪えられる。

 しかし、気づく。とうに全身から感覚が消え失せている。金縛りにも似た感覚。この神風の中では、俺と言う平凡な人間は、指先一つ動かすことすら許されていない。

 この無力感は、拙い。痛みに悶絶できたのなら、むしろ易しいと考えてしまうほど。

 全身の感覚が消え失せていき、その意識、心までもがその風に呑まれる。俺という小さな自我など、この暴風の前では、一粒の砂に等しい。そんなものは、一度強い風に吹かれ飛ばされてしまえばその行方を追うことなど出来る筈もない。

 消し飛びそうになる我を、もっとも大切な少女を想いだして踏みとどまり、意識を繋ごうとするが、そんなものは関係ないとばかりにこの風は、俺の存在を拒絶する。

 踏みとどまれない。

 吹き飛ぶ。

 消える。

 先へ進むことなど、もはや考えることすらできない。

 しかし、この結果はずっと分かりきっていたことだった。

 最初から理解していたことだった。

 遥か昔から、あの少女と俺との間にはこれだけの差があった。彼女がその気になれば、俺は、其処に踏み入ることすらできない。だから恐れたのだ。だから一度、諦めることにしたのであった。

 凄まじいまでの風の壁。

 この風は、俺がなによりも恐れていた東風谷早苗と綾崎結鷹との境界線の、その具現だ。

 彼女は心を決めたのだ。

 俺から離れ、遥か遠く、幻想郷という彼女達が本来居るべき彼女の為の世界へ行くことを。

 そのことに、力を込めようとしていた意志さえ失せようとしていた。

何とも呆気ない幕切れだ、最後の最後。やはり、綾崎結鷹は東風谷早苗に寄り添うことを不可能と自分で判断したのだ。

この風の中では、ただの人間は動くことすら許されない。当然だ、発生した風は常識を遥かに超えた東風谷早苗のその力によって吹いている。ならば、それを叩き付けられた体の自由が利かないことなど、至極当然の事。 

 僅かに残っていた、なんとか踏みとどまろうとする俺の最後の意志の灯、それが吹き付ける風によって消えかけた、まさにその瞬間。

 漂白された視界すら薄れゆく中で。

 再び。

――――在り得ないモノを視た。

 俺の視線の先に在るのは、この鉄のような風の中を悠然と歩く二つの人影。

それは、衣服をはためかせ、髪を靡かせて立っていた。

 総身に鉄槌のように吹きつける風を受けてなお、堂々と立っていた。

右側には、紅の装束と紫の短髪。神としての威光を放ちながら、両腕を抱えてその暴風に立ち向かうように佇む女性。

左側には、頭にある変わった被り物を片手で押さえて風に飛ばないようにしながら、前方を睨むようにして立った、黄土色の瞳と、薄い金髪の女性。

そう、人を超えた力で起こされたこの風の中で、まさしく人を超えた存在である彼女らは、毅然として立っている。あれが、東風谷早苗と同じ世界に住む者の、その世界での振る舞い。

女性で居ながら凛々しいまでのその二柱の姿は、あまりにも美しい。

此処において塵芥にすぎぬ俺に、二柱は目もくれない。

ああ、でも、最後に彼女らの雄姿をこの目に見とめることができたのなら、もう、俺は……。

彼女らと俺との、決定的な違い。

それを認めながらも、何とか越えられないかと俺なりに頑張ったつもりだ。

俺と彼女との間に在ったものは何だったか。

綾崎結鷹と東風谷早苗とを遮っていたものは、物理的な距離でも、心理的な距離でもない。お互いに関心が無かった訳でもない、むしろ、他の誰よりも真剣に向き合っていたと自分でも思う。

 なるべく近くに居ようと努めたし、心を通わせようとたくさんの話をした。

 それでも、やはり彼女はどこか遠い。

 それもその筈だろう。知っていたことじゃないか。

 だって、住む世界が、次元が違うのだから。それを知りながら、単なる人が、人でありながら神であった少女と共に在ろうなどと、この身に余る夢を願った。

 そんなことは出来ないのだと。

 絵空事を夢見て張り続けた先に残るのは、結局、そうやって近づこうとした分だけ傷つくだけだと。

 解かっていた。解かっていたことだけど。

それでも……。

 それでも―――俺は、俺が東風谷と一緒に居たかったのだ。

そうして、力が抜けて目を閉じる寸前に、壮麗な二柱の立ち姿に変化があった。

前方を見ていたはずの二柱は体の向きはそのままに、顔と視線だけをわずかに動かして俺のほうを振り向く。

未だ指先すら動かせずに、心が折れかけた俺を確かに見ている。前方を見つめて険しかった貌は一瞬和らぎ、こちらを見つめるその瞳と向けられたままの背中は、俺自身よりも俺が其処に到達することを確信していた。

風に飲まれかけ寄る辺を失った力無き人間を見つめる二柱の瞳は、静かに問いかける。

 

”――――信じられるか?”

 

二柱から俺へと投げられた問い。

そこにはきっと、人と神との間にあるもの全てがあった。

天啓がおりるように、一つの呪文のような言葉が脳裏に浮かんだ。

 

 

神は、それを信ずる者にしか恵みを与えない。

 

人は、神を信じずしてその恵みを受けることはない。

 

神は、人に信じられずしてその力を保つことは出来ない。

 

故に、両者は、信仰なくして生きることは出来ない。

 

つまり。

 

 

――――信仰は、儚き人間の為に。

 

散り散りになっていた思考が、一つに集約したその瞬間。

ガチン、と頭の中で、何かが炸裂した。炸裂と共に血液は沸騰したかのように、全身を暴れるように駆け巡る。

 

「――――あ」

 

それで、全て灰と消えたはずの心に火が灯る。全身は燃え上がるように熱をもち、巡る血は熱く滾って、消え失せていた感覚を取り戻さんとしている。記憶が映像となって流れ、様々な出来事が走馬灯のようにここに蘇り、その中で東風谷早苗との、大切な思い出を視た。

指先が僅かに動く。

それを見て、乾の神は鼓舞するように言う。

“ここまで来い、結鷹。”

その声で、指先は折り畳まれる。

ほんの僅かな変化を確認して、坤の神は優しげに聞く。

“結鷹、来られるかい?”

かけられた言葉は少なかった。二柱の神は俺に向けて多くを語りはしない。

けれど、彼女が愛した二柱の神は、確かに俺を信じてくれている。

それだけで充分だった。

俺は綾崎結鷹という人間に、なんの展望も期待も抱いてはいない。

でも、柊玲奈は俺を決して小さな存在ではないと言ってくれた。

でも、二柱の神は、確かに俺を見ていてくれている、見続けてくれていた。

でも、東風谷早苗は俺に飽きもせず問いをなげかけ、近くに居てくれた。

なら俺は――――、俺を信じてみてもいいのかもしれない。

 握り拳が出来ていた。気づけば、脚は前へ進もうと、この鋼の風を突破しようと、地面を強く蹴らんと踏み締めていた。

とうに視界は広大にして明瞭。突風の爆音しか無かった聴覚は、彼女らの声を確かに聴きとっていた。

二柱の言葉に強く頷けば、全身に力が巡り漲った。力を込めた拳は、爪でその掌を食い千切らんとする程強く握り締められ、歯を、奥歯が割れるのではないかという程に食いしばる。

目の前に立ち塞がるは風の境界線。綾崎結鷹と東風谷早苗との間に在る、確かな障害。どれだけ近づこうとしても、俺は今までそれを超えることは出来なかった。

それもその筈だ。

だって、俺自身が誰よりも俺という存在を低く見て、見限っていたのだから。自分はこんなものじゃないと抗うよりも、こんなものかと己の限界を決めつけた方がずっと楽で、それに甘えていたのだから。

ならば―――。

渾身の力を込めて、それに立ち向かう。

――――今こそ、己が設定した限界を超えて、その向こう側へ。

この身をもってして、俺は、俺自身と俺を信じる二柱を信じて、この風を踏破する!

「お、おおおおおおォっ――――!!」

それが、不可能な筈はない。

この境界線を俺が超えてくることを、もうずっと昔からあいつは信じてる。

この身は、他の誰でもない、風の境界の向こうに居る東風谷早苗に見とめられたモノ――――。

ならばそれが――――この風の中を突き進めぬ等という道理は在り得ない!

足を上げて踏み出し、地面を踏み締めようとするたびに、脳が警鐘を鳴らす。俺を消し去らんと全身に叩き付けるような激風。それを受けたこの身体は、これ以上先に行けば間違いなく死ぬと叫び続けている。それら全てを捻じ伏せて、前へ、ただ、前へ。

「がッ――――!?」

一歩。

それできっと、ヒビがはいった。

なにか自分の致命的な部分に亀裂が走ったのが分かった。

それでも、前へ。

「ぐ――――!?」

 二歩。

 それで、亀裂が拡がるような感覚を覚えた。それは、もはや崩壊の寸前。

 まだだ、まだ動く。この先歩けなくなろうがかまわない。脚が折れようが腕がもげようが、かまうものか。

 俺の意識は、この風の突破にのみ向けられる。

「あああああああああぁッ――――!!」

三歩。

獣のような雄たけびをあげながら、全霊をかけて、もう一度、右脚をあげる。

そうして、確かに前進した。俺はほんの少しだが、この風の中を歩いてみせた。

けれど、それで最後。

内側で何かが弾け、砕け散るような音と共に、身体に一切の命令が届かなくなった。きっと、今の俺は糸の切れた操り人形のように見っともない。

凡てを懸けて、己にあるものを振り絞り切ってなお、そこで朽ちた。その力を離脱に使っていたのならば、この身だけは助かっていたというのに、もう三つも前に歩を進めてしまった。今更、引き返すことなど許されない。そもそも、引くことなど考えようともしなかった。俺にはもう残り滓すら無い、空っぽだ。

最後に、己の力を前に進むことだけに使ったことに後悔はない。やれば出来てしまったのだ。早苗は俺をずっと信じてくれていた。なら、俺はきっと、もっと早くに早苗や彼女の信じる二柱だけでなく、自分自身をも信じてやらなければならなかったのだろう。

思えば、境内に一歩を踏み入れた瞬間には風に屈しながらも一度だってこの身は、心は後退しようとはしなかった。ここにきて今まで試されていたものは何だったのか、ようやく気付いた。俺に足りなかったのは、彼女の在り方を信じて許容することでは無く、己自身を信じる心だったとは。皮肉な話だ。それはきっと、彼女と出会ったからこそ失われてしまったものだったのだから。

先程のように心は折れてはいない、しかし、それとは無関係に身体は壊れた。

早苗と、最後に話をしたかったな。

すみません、神奈子様、諏訪子様。せっかく信じてもらったのに俺、やっぱりお二人の期待には、こたえ……られ、ない。

「――――」

風によって、意識が彼方へと攫われる寸前に、両肩を誰かの手に触れられてその意識は逆流する。肩に置かれたその誰かの手は、あまりにも温かく力強く、俺を優しく包みこむようで、頼もしい。

「え?」

 おかしい。

 起こるはずのことが起きず、無くなるはずのものが、残っている。

 視界は極めて正常で、体は驚くほどに軽い。ズタボロだったはずの身体は癒え、おそらく万全の時のそれすらも超えて盤石。

 ふと気づけば、俺の両隣にはさっき幻視した二柱の神が立っていた。

 失われるはずだった俺の意識を繋いだのは、神奈子様と諏訪子様の手だったらしい。

 右隣で神奈子様は、誇らしげに言う。

「よくやった。よくここまで来たわ、結鷹」

 左側に立った諏訪子様は、嬉しそうに俺のこと褒めてくれる。

「大したもんだよ結鷹、あの状況で私達に応えてくれるなんてね。神として、冥利に尽きるってものさ」

「ありがとうございます、お二人の声が無かったら……俺、多分」

 ああ、本当に、彼女らの姿を見ていなかったら、今の俺は無かった。あれ以上前へ進もうとすることは無かっただろう。

「いいんだよ。こっちこそ、試すようなことをして悪かったね、本当によく頑張ったよ」

 諏訪子様は、目一杯背伸びして俺の頭を撫でる。なんだかくすぐったくて、恥ずかしい。

「今、この境内は幻想郷と外の世界との狭間にあるの。おかげで私たちの力は、少しだけど戻っている」

 神奈子様は前を見据えてそこまで言って、最後に微笑みをこちらに向けた。それがなんだか、二柱が俺のことを本当に認めてくれたように感じて、少し照れくさい。

「私たちの力、あんたに託すよ、結鷹」

 こちらの全てを見透かすような紅紫の瞳には、確かに俺への信頼があった。

 ふと諏訪子様に目を向けると、彼女は一際強い眼差しを俺へ向けてから、にこりと笑った。

「早苗のところに行ってあげて。気丈に振る舞おうとしてるけど、結鷹を待ってるはずだから」

「……っ! はい!」

「あともうひと踏ん張りだ。行ってきな」

「はい! 行ってきます」

「……もっと早くにこうして話せれば良かったのにね」

「そうですね……、本当にそう思います」

 二柱に背中を優しく押されて送り出される。

 それだけで。

 それだけに。

三度、心は燃え上がる。

二柱を背に、風を一身に受けながら前に立つ。

足を踏み出す寸前に、自身の内側へと意識を飛ばす。

不思議な感覚だ。

思考は冴えている。

知るはずの無い知識を得た。無いはずの経験を獲得した。

遥か昔の神々の時代を見た。太古の人々の営みを見た。

そんな人と神との、確かなつながりを見た。

それらが、今の俺なら彼女と能力的にも対等に在れると告げる。

何よりの証拠に、風を受けてもこの身は憮然と立つことが出来ている。

 吹きすさぶ風には変化は無い、変化があったのは俺の方だ。この風は俺の存在をもはや飲むことは出来ない。

 ようやく、俺は彼女と同じ土俵の上に立った。

 それを可能にした、この身に宿った神秘。

 それは――――。

太古の人間達は人の力を超えた困難に襲われた時に、その障害を乗り越える為に神に祈った。多大なる信仰の果てに届いた超常の力。

――――かつての人々が奇跡と呼んだ、神の御業。

人間が今を超えるために、神が与えた力。

俺は、そういうもので此処に立っていた。

おそらく、あの少女に相応しい人間は他にだって居るのだろう。

彼女ほどでなくても、それに近しい特別な人間はどこかに存在している。その人となら東風谷だって俺よりももっと深くまで解かり合えるに違いない。それに身の回りにだって既に、柊は俺を超えて東風谷に近い場所に在る。

俺なんて、その程度の存在だった。

ここに来るのだって、俺一人の力では結局どうしようもなかった。

俺の力で手に入れられたものなんてほとんどない。彼女の世界で立つことを可能にした神秘は借り物で、二柱の神の慈悲で与えられているだけ。俺が今まで東風谷の近くに居られたことでさえ、そのように彼女が計らってくれていただけ。

だから、綾崎結鷹が此処にまで持ち得たモノはたった一つ。

心の内に宿した――東風谷早苗への想いだけ。

誰に負けたって劣っていたって構わない。

――――でも、誰が相手だろうと、この想いだけは譲れない!

きっと、それだけが力の無い俺に持つことを許された、唯一つの“特別”なんだから。

 

「――――いくぞ、早苗」

 

目を見開く。内側にあった己の意識は、外界へ。

瞬間に―――。

天が。

大地が。

世界が。

――――開闢した。

境内であった鎮守の森に囲われていた小山の頂の大地は果てのないほど広大になり、湖畔が生まれた。天は割け、暗雲に覆われていた空が満天の星空となった。生まれたばかりの湖の遥か上空に、風の少女は居た。

一つの神話がここに誕生し、その中心で風屠が祈るように佇んでいた。

 それを目視して、俺の体は放たれた銃弾のように疾駆する。

 風を切り裂いて駆け抜けていく。空の飛び方など知るはずもないのに、出来ると信じればその瞬間に身体は空を駆けることすら可能とした。

 東風谷早苗の元まであと三十メートルも無い。

 この身ならば、三秒で駆けぬけられる。

――――、一秒。

 そこまで接近すると、この異界は、俺という異物を消し去らんと風を変化させた。此処に在るに相応しい者だけが残るよう、ふるいにかけるように漠然と吹いていた風が、確かな意思をもって俺を狙う。

 目前に迫る、凶風。

 およそ、人が耐えられる強さを優に超えたそれは、常人が受ければ、死に匹敵する苦痛を味わうことになるだろう。

 しかし、脚を止めることはしない。

 まして、背を向けることなぞ、あり得ない。

 身構え、引き金を引くように全身に力を込める。

 二柱の神による恩恵、その奇跡の力を与えられたのならば、例え、それを受けた者がどれだけの凡夫であろうとも――あの風の少女の元へ辿り着いてみせよう。

――――、二秒。

 心の裡に静かにあがる反撃の狼煙。

 風祝を中心にして周囲に発生する凄まじいまでの竜巻を、天を手繰り打ち消し、この身を砕かんとする豪風を、大地を生み出し壁としてあるいは足場として使って防ぎ、躱し切り、迫り来る死神の鎌の如き凶風を右腕で振り払う。

 我を飲み込まんとする無数の神風を、賜った神の力で、その悉くを凌駕する。

鋼鉄の風をかき分けて、進む。

躱し、防ぎ、突破する。

奇跡をもって、俺はこの風を捉える。

――――、三秒!

もう、あいつはすぐそこだ。

届け――――!

 降りかかる全てを乗り越えて、彼女に向けて右手を中空に伸ばし叫ぶ。

「早苗!」

 しかし、反応はない。

この大規模な力を制御するのに精神を集中させているのか、まるで、何かが憑りついたように瞳に光は無く、表情も無い。名前を呼んでも応じないのでは、話すことすらままならないではないか。

 それに、もう俺のほうにも時間が無い。二柱の神が本来どれだけの力を持っていたとしても、戻ったばかりの力をすぐに俺に貸したのでは、全盛期には遥かに及ばないのだろう。既に俺に与えられた奇跡の力が、先ほどの全力行使で、底を尽こうとしているのを感じている。

「早苗、早苗早苗、早苗! 早苗!」

何度呼んでも反応は無い、ここまで来て、二柱の神にまで力を託してもらって、何もできないではすまない。そんなこと俺が許さない。

「だあ、もう!」

 もとより、大した力を持たない俺が彼女に出来ることなんていくらもない。

 そっちがその気なら、こちらも強硬手段をとるまでだ。

 これでもかと言うほどに早苗に近づく。

 覚悟を決めて、右手を彼女の後頭部辺りに持っていって触れる。残った左手は、彼女の左肩に置いた。

 右手に触れた髪は、触れているこちらが気持ちの良いくらいにさらさらで、余った手を置いた左肩は、強く握ってしまえば壊れてしまいそう。

「あとで怒るなよ、嫌なら避けろ!」

 一度、ごくりと唾を飲み込むと、思いっきり彼女に顔を近づけてそのあまりにも無防備な唇に俺の唇を一瞬だけ重ねる。その瞬間に、薄く目を瞑る、こんな至近距離で早苗の顔を見ていたら、俺自身がどうかなってしまいそうだ。いや、この場面でこんなことをする時点で、既にどうかしてしまってる。動悸も脈拍も異常、顔は蕩けるように熱く、心臓は今にも弾け散りそう。だが、それだけのことをやった効果はあったようで、その行為に至ってようやく早苗は目を見開いて、体をびくっとさせて反応を示した。顔をわずかに赤くして今しがた何が起きたのかを理解しようとしている彼女の表情で確信する。

 やっぱりこいつ、狸寝入りこいてやがったな。まったく、いつの間にそんな芸覚えたんだか。

「や、ゆ、結鷹……今なにを――――あっ!?」

 早苗が自分の口に手を当てているのを確認して、何で無視したのか問い詰めようとして離れようとするのと同時に、ガクッっと自身が沈むのを感じた。

 唐突に自分の足元の床が消えたような感覚。

 やべ、力が、もう……。

 俺を後押ししていた特別な力が尽きて、飛行できなくなった。それを理解したときには既に遅い。ここは遥か上空。このままでは自由落下によって、地面に叩き付けられる、そんな最悪の想像が頭の中を巡った瞬間に、右手を握られて、引っ張りあげられる。

 この手を引く存在は早苗以外に在り得ないだろう。

「さんきゅー早苗、たすか――たッ!?」

 早苗の方を見て礼を言おうとした瞬間に重ねるように、腕を身体ごと思いっきり引っ張られたと思ったら、瞬きをする間もなく一気に引き寄せられて、あっという間に早苗の顔が視界いっぱいに広がっていた。今度はこちらが思わず目を見開いてしまう。

彼女の女の子独特の甘い、良い匂いが鼻孔をくすぐり、心臓の音はまたも異様に早まる。唇には何か柔らかいものが当たって塞がれていた。それが何であるかなど、考えるまでもないだろう。その正体に気づいて、胸の鼓動は爆発寸前まで激しくなる。

 神風の中、全ての音が遠ざかった静かな二人だけの空間。彼女の顔は十分すぎる程に良く見えた。身に纏った風祝の衣装は、早苗のスタイルの良さのせいか反則的な艶めかしさがあり、良く似合っている。出来すぎなくらいに整った顔はいつ見たって可愛いと思う。今は瞑られている、つぶらな碧い瞳にはいつも思わず吸い込まれそうになる。

 そしてなにより、その緑色の髪。

 言葉を交わすきっかけになった彼女の最も目立つ特徴。

 ああ、綺麗だ。

 時間が止まっているように感じた、世界中で俺と早苗しかこの時ばかりは動いていないのではないかと思う。

 空いている距離は零と言っていいほどに寄せ合った体を優しく抱き締める。両腕を東風谷の背中にまで回して、左手は彼女の腰の辺りに、右手は頭を撫でるように髪の上に置いた。

 互いが今は、ここに在ることを確認し合うように。

 肌で感じる彼女の体温は、とても心地が良くて落ち着く。こうして触れ合っていられる内は、まだ、彼女が自分の傍に居るのだと感じることが出来る。

星空の下で、ゆっくりと地面に降り立つまでの間その行為は続いた。

 きっと、時間としては数秒のことだったのだと思うが、この瞬間こそが俺の人生の全てだったのではないかと思うほどに、永く感じた。

 地に降り立って足が着いて、互いに惜しむようにゆっくりと顔と体とを離す。気づいて見やれば、早苗は全身を震わせていた。

「さな……」

「バカ、バカバカ! どうして来ちゃうんですか結鷹は! 先に手紙を読んでしまって、神社に来るまでは分かります、けど結鷹ならあの鳥居をくぐったら危ないって分かったでしょう!? スカですかあなたは! 死んじゃうところだったんですよ!」

 早苗は俯き加減に、顔を真っ赤にして激怒していて、その目には涙まで浮かべている。彼女には悪いが、俺はそれを少し嬉しく思ってしまう。早苗がこんな風に他人に怒鳴り散らしたのを、はじめて見たからだ。

 彼女はどちらかと言うと、静かに怒る気性だけに、俺のことを心配してそんな風に怒ってくれることが素直に嬉しかった。

 どうして――――なんて、そんなの決まっている。

「うん、マジで死ぬところだった、今もさっきも。でも、俺、やっぱり来て良かったよ」

「こんなところまできて、何言ってるんですか! 最低です、変態です、スケベです、ケダモノです、色欲魔です! お父さんにだって幼稚園の頃にほっぺにまでしか許さなかったのに、あんないきなり!」

「でも、二回目はそっちからしてきた」

「な、あ、あれは、引っ張りあげようとしたら事故ったんです。だからノーカンです。即刻結鷹は忘れるべきです」

 顔を耳まで真っ赤にして、口篭もりながら、早口に言う早苗。その様は今にも頭から湯気でも出そうだ。

 そんなこと言うな。今この場で、忘れるべき、なんて台詞は、俺が泣きそうになる。

「俺は、忘れたくないよ。お前のこと」

 思ったままに言葉にすると、それを聞いた早苗は、少し俯いて、視線を地面に向けたまま答える。

「私だって……、忘れて欲しくなんて、ないですよ。でも、そうしなきゃきっと傷つきます。もう二度と会えない相手のことなんて、忘れてしまった方がお互いのためだったんです。……まあ、そんな気遣いも結鷹には無駄だったみたいですけど」

「涙で濡れた手紙送り付けといてよく言うよ」

「ち、違います! あ、あれはお茶を零しただけですから!」

 顔を赤くして、頬を膨らませながら、拗ねたように顔を逸らして早苗は口先を尖らせる。

 ああ、確かに早苗の言うことは正しいのだろう。この先、会うことが出来ないのなら、その相手が大事であるほどにこの胸は苦しくなるのだろう。

 でも、それでも。

「何とかならないのか。やっぱり……ダメなのか?」

 口にする言葉は我ながら何とも曖昧で、何かに縋るようだ。

 俺には早苗をこちらに引き留めることはできない、早苗に、彼女の親のような存在である二柱じゃなく、俺一人を選んでくれなんて口が裂けても言えなかったし、そんなのは傲慢だ。彼女の二柱への想いを知っているなら、本当に彼女のことを想っているのなら、そんなことは図々しく心の裡で願っていても口にしてはいけなかった。

 なら、一緒に行くことはできないのか、連れて行ってもらうことはできないのか。

 そんな心内の気持ちは、きっと彼女とて一度は同じことを考えた経験があったのだろうか、言葉が足りずとも早苗には十分に伝わっていたようで、故に、彼女は俺の代わりに極めて落ち着いたふうを装って俺の拙い言葉に、次のように答えた。

「……結鷹を向こうに連れていくことは出来ません。この世界の多くの人々から忘れ去られること、それが幻想の住人となる条件ですから」

 そう、その為の儀式だった。その為の霊力行使だった。

 俺に備わっていないはずの知識がそう告げる。

 守矢の秘儀である忘却の術。

 本来は特異な力の隠匿の為にあったそれだが、彼女ほどの力を持ってすれば、世界から自らの存在を忘却させ、不都合を修正することすら可能としていた。

 莫大なまでの力を必要としたのであろうそれとは別に、こんな風まで巻き起こしたのは、きっと俺を近づけないため。

 外界に働きかけるのであろうその儀は、この場に居る者には意味がない。

 だから、あんな風を使ってまで、この神社から早苗は俺を追い出そうとしていたのだ。

 そのことに行き着くと、目前に迫った別れに焦りながらも、わずかに安堵する。

 これで彼女の事は、とりあえず忘れずに済むことに確信が持てた。

 けど、それだけじゃダメなんだ、そんなことのために来たんじゃない。

 だって。

俺は、お前とだったら、どこへだって一緒に――。

藁にも縋るような気持ちで言葉にする。しかし、それが不可能なことは俺自身が既に理解していた。

「神社ごと向こうに行くつもりなんだろ? この辺り一帯が変なのは俺にだって分かる。なら……俺も」

「この神社は、とうの昔に人々から忘れられているんです、神奈子様も、諏訪子様も。私が忘却の儀を終えて、現代の人々から忘れ去られれば条件は整います。そして、それは先ほど完了しました。あとは結界を超えるだけ。その際に、幻想郷に正式に入る条件を満たしていない者はその結界に弾かれるでしょう。結鷹にはそれを超えるだけの力も、達するべき条件も満たせていませんから」

 早苗はまるで、事務的な会話のように言葉を並べ立てた。いつもとそう口調は変わってはいない、しかし、普段は感じる親しみを彼女の声からは感じなかった。

 分かりやすい拒絶だった。

 とどのつまり、俺にはその地へ足を踏み入れる資格がない。

ここにおける異物は、俺のみ。

俺だけが此処に置いて行かれる、いや、早苗だけがこの世界において特別。

彼女が此処を去っていくのだ。

そのことに胸が締め付けられるような痛みを覚える。

そうして、彼女は残酷にも一方的に別れを告げた。

「だから、ごめんなさい。さようなら」

 俯いたままの顔を近づけられて、思わず身構える。早苗は少し背伸びをして、抱きしめられるのではないかと言うくらい接近してくる。彼女の顔が、俺の耳のあたりにまで寄せられ、隙を突かれた時のように俺の体は硬直する。その瞬間に、少し痛みます、と早苗は俺の耳元で小さく呟いた。

「ながッ……!?」

 なにが、と問おうとした直前に、腹部に鈍痛が走り、頭に雷が落ちたのかと言うほど暴音が鳴った。おそらく、彼女の持つ特殊な力を込めて振るわれたのであろう、ゼロ距離からのノーモーションの、彼女にとっては軽い掌底。それが、彼女より確実に体重のあるはずの俺を容易く吹っ飛ばしたのだ。

 せっかく詰めた距離を、一瞬にして離された。吹き飛ばされた身体は、ごろごろと地面を転がったが、すぐさま立ち上がろうとする。今ここで、体を地面に伏してしまえば、もう起き上がれないと、頑なに地に体を伏せることだけは、この身が拒んだ。

 風は止んでいる。体を立て直せばさっきみたいな力は無くても、まだ――――。

 だが。

「早苗、お前……な、に……を」

 立ち上がろうとして気づく。いや、思い出す。

 この身は、とっくの昔にポンコツになっていたことに。

 がくん、と膝が落ちた。

脚に力が入らない。意識が朦朧としている視界がぼやける、霞んでいく。

 拙い、不味い、まずい、マズイ。

 とうに俺は限界を超えていた。あの風に足を踏み出した瞬間から、無理をしてきた代償をいまここにツケとなって払わされることとなった。

 彼女の元へ行こうとする心に反して、身体はその場に沈んでいく。

 動け、動け、動け、動け、動け。

 このままでは彼女が行ってしまう。彼女が俺を突き放す寸前に、一瞬だけ俺の目に映った表情、それを俺は前にも見たことがある。

俺と早苗の、はじまりの日。

俺が彼女に話をかける直前のこと。いつでも楽しそうにみんなの輪の中に居る彼女が、ある日に人と言う檻の中に入れられたように見えてしまったことがあった。彼女の、あれだけの幸せそうな人たちに囲われていながら、自分だけが取り残されて、孤独に打ちひしがれているような寂しげなあの表情。

誰にも悟らせないようにしながらも、そんな貌をしていたのを見てしまった。

 だからきっと、かつての俺は、はじめに、彼女の綺麗な緑の髪の事を褒めたのだ。

 

 だれもきづいてあげないのなら、おれだけでも――――。

 

 

 このまま彼女を行かせてはいけない。

 一緒に寄り添えずとも、せめて、彼女には笑っていてほしい。

 それに、こんな別れ方は俺が嫌なんだ。

 前を進む少女は、とうに俺から背を向けてしまっている。こんなにも求めているのに、追いつこうとしているのに、どんどん遠のいていく、追いつけない。

 まだ、この目で捉えることが出来ているというのに、遥か遠くへ行ってしまったように感じてしまう。

 これが本来の、俺と早苗の距離だった。

 前を進む彼女はどこまでも遠く、いつか二人で見た、星のよう。

 いずれは訪れると理解していた別れ、関係の破滅。それを前にして俺は、やはり何もできずにいる。

 俺の前から去ろうとする早苗に、俺は何もすることはできない。そんなことは分かっていた。この関係が終わるときの俺は、それに対してあまりにも無力であると知っていて。

それでも、此処に来たのは何故か。何の為に、来たのか。

早苗は言った、どうして来たのか、と。

そんなの、決まっている。

幻だと……届かぬモノだと分かって、それでも手を伸ばして、願って、そうやって奇跡的に隣り合って過ごした尊い時間を知っているからじゃないか。

この女の子が、俺にとって、誰よりも大切だからに決まっているじゃないか。

だから。

「ぐっ……」

 お前の筋書き通りに終わらせはしない。

 この身が動けないならば、彼女に言いたいことはないのか、どんなことでもいい、今この瞬間に望む言葉は無いのか。そんな筈はないだろう。

 あんな縋りつくような、みっともない台詞を吐いておいて。

なにも出来ないと知りながら、こんなところまで彼女を追いかけてきて。

ここにおいて伝えたい言葉が一つも無いなんて、嘘でも吐けるわけがないだろう、綾崎結鷹――――!

 早苗が求める言葉でなくても構わない、ただ己の裡にある、何より希求しているもの、こと。

それは――――。

それは……。

それは。

「……っ! 絶対!」

「――――」

 その声に、早苗は足を止める。未だ俺に声をあげるだけの力が残っているのに驚いたのか、理由は分からないが、とにかく立ち止まってくれた。

 振り返ってくれなくてもいい、この言葉が届くのなら、なんでもいい。

 狭窄していく視界、疲労困憊の肉体、奇跡の力まで用いた俺は、身体の内側までボロボロだ。けど、こんなに傷ついても、まだ求めているのはきっと――それがなにより大切なものだと知っているから。

 なら、諦めてたまるものか。

「絶対に、そっちに行く。誰の手も借りない! 俺が、俺の力で早苗に会いに行く! だから……、だから待っていてくれ」

 俺はお前みたいに特別じゃないから。

平凡だけど。

歩む速度は君よりもずっと遅いけれど、歩き続けるから。

そうして、いつか、必ず――――。

「必ず、追いついてみせるから」

 彼女が振り返るのを期待していたわけじゃない。

 いつの間にか涙を流していて、情けなくしゃがれた声が彼女の耳に、心に、どこまで届いたのか分からない。

 俺から口にした言葉は、打ち立てた誓いは、泡のようにすぐにでも消えてしまいそうだ。

 所詮、口約束。どちらの手に残るものでもないそれは、いずれ、時の流れと共に忘れ去られてしまうのだろう。

 俺一人の力で、東風谷早苗が向かう場所へ辿り着く。

 それを為すにはきっと、本物の奇跡がいる。

 なら、それは生涯果たし得ぬ約束なのかもしれない。

 けれど、それを受けた彼女は俺に振り向いて、いつかのように、涙ぐみながらも風に揺れる華のように儚く笑ってこう言ったのだ。

「はい、待ってます」

 その言葉をもって、約束はきっと、永遠のものとなった。

 それを聞いて、安堵の内に意識が崩れていく。

 最後に、早苗は口を動かして、何か言葉を口ずさんでいたが、とうとうそれを聞き取ることは叶わなかった。

彼女の笑顔。

それを最後の光景に、東風谷早苗と言う少女はただ一粒の涙のみを残して、一陣の風と共に俺の前から消えた。

そうして、意識は暗い海の底へと落ちていく。

 その最中に想う。

 これから寂しくなるな。

 最近はずっと彼女と一緒にいたから、前よりもずっとそう感じるのだろう。

 ああ、それでも。

 これで俺は、きっと前に進める。

 俺は追いつくと言った。

 彼女はそれに待っていると応えた。

 ここに、――約束は結ばれた。

 奇跡というものがあるのならきっと、あまりにも違った二人の間にこんな約束が交わされたことこそが奇跡だった。

 ならば、この約束を、生涯をかけてでも果たそう。

 そうして再びまみえることが出来たのならその時こそ、胸の奥に閉じ込めていたこの気持ちを伝えよう。

 ずっと想っていたけれど、彼女を前にしてはただの一度も口にはできなかった言葉を。

 きっと、俺なら大丈夫。

 この約束があるなら、この気持ちを忘れないでいられたなら、どんなになったって俺は歩き続けられるから。

 だから、それよりもあの女の子が心配だ。

 しっかりしているようで、意外と抜けているから、向こうでヘマをしてしまわないだろうか。

 でも、愛嬌があるから、案外すぐに人気者になっていたりするのかもしれない。

 もしかしたら、誰か素敵な人と出会って俺のことなんか忘れて付き合ったりするのかもしれない。

 そうしたら、この気持ちは彼女を困らせてしまいそうだ。

それは、少し嫌だな。

向こうの世界で彼女が出会う人たちが、優しい人たちだといいな。

向こうで待ち受けるさまざまなことが、彼女にとって良いことだといいな。

俺と居た日を彼女が忘れないでくれていたら、もっといいな。

あの子は、他人の為に祈りはしても、自分の為に祈るような子じゃないから。

きっと自身が人としてだけでなく、神の一面をも持つことから、優しくて生真面目な彼女は、自分が多くの人のように自らの救いを乞うのはいけない、なんて考えているのだろう。

現人神だという彼女とて、儚き人間の一人に違いないのに。

 だから――――東風谷早苗が幸せになれますように。

 儚い少女の代わりに、そんなことを祈ったのだ。

 

 そうして、その、隣に――――。

 

 すべてが無になって消えていくなかで、小さな願いのみが残った。

 

 

 


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