あの日の奇跡と東風谷早苗について   作:ヨウユ

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柊玲奈について 4

 想定していても、それが非日常的なことであるなら実際に起こると思考が止まってしまう。考えなかったわけでは無い。有り得ないと高を括っていたわけでもない。それでも、二人いるから大丈夫だろうと、心のどこかで安心していたのだろう。だから、その姿を見て、途轍もない恐怖が襲った。

 マンションの8階の一室が、柊の自宅だった。外観もさながら、内装も綺麗なもので、通路を照らす照明も柔らかく、自分の家でもないのに何となく「帰ってきたー」という感想を覚えるほどだ。だが、そんな不思議な安心感は、柊が玄関の扉のロックを外して、開けて見えた景色によって、一瞬で消し飛んだ。

 

「なん……で」

 

隣に立った柊が絶句したのが分かった。それだけで、左右に二つずつ扉のある廊下の、奥の開け放たれた扉の前に立っている人影が、本来あるはずのないものだと理解した。

照明のついてない暗い廊下の奥に立った長身の男が、にたりと笑ったのが分かった。

深くかぶった帽子、暗い緑の薄手のコート、長身、男。その手元には長い筒のようなもの。

置かれている状況を理解して、背筋にぞわりと嫌な感覚が走った。体温が急激に低下した様に感じた。

 

「お待ちしてましたよ。半妖のお嬢さん」

 

 どうやって室内に侵入したのか、疑問が駆け巡った。本来なら湧いてくる思考で立ち尽くしそうになるところ。だが、それでも身体は思考よりも先に危機を察知して――――

 

「……ッ柊! 逃げるぞ!」

 

 声を張り上げた。その切羽詰まった金切り声のような叫びで、ようやく柊は危機回避のための思考を取り戻したのか、扉を勢いよく閉める。

 閉めた扉に全身を預けて、全力で塞ぐ。

 

「エレベーター!」

「……! ええ」

 

 その一言で柊には俺の考えが全て伝わったようで、先だって柊は走ってエレベーターフロアへ向かった。ここは8階、一度エレベーターを使って逃げてしまえば、階段じゃ追いつけない。ただ、その分だけ呼ぶのにも時間がかかる。なら、片方が足止め、片方が先に向かう方が得策だ。この場合、狙われている柊ではなく、俺が足止め役をするのは道理だった。最悪、柊さえ逃げてくれればそれでいい。

 ガタガタ、と向こうから扉を開けようとする力が伝わってくるが全霊を持って抑え込む。

 扉を挟んで力が加えられる、その度に芯から冷えるような錯覚に陥る。そして、つくづく甘く見ていたと、痛感させられる。もっと警戒してしかるべきだった。

 ただ、あまりにも現実的じゃなかったがために、危機感がもてなかった。経験が無いから仕方ないとはいえ、無いからこそ、もっと慎重に動くべきだった。

 冷静になってみれば、柊は学生だ。逃げ込める場所なんて限られてるし、数日くらいならどこかの宿を利用することも可能だろうがいつかは家に戻る必要がある。なら、柊を襲った人物が彼女の自宅に目を付けて張っていることは至極当然で、想像に難くなかったはずだ。

 畜生、せめて三人で当たるべきだった。

 向こうも、俺の扉を塞ごうとする力に全力で反発していたのに、いつの間にかこちらにかかってくる力が無くなっていた。

 

「……?」

 

 諦めたのか。

 扉に与えた力を緩めないようにしながらも、そんな考えが安堵と共に頭をよぎった瞬間。

 スン、と静かな音をたてて、扉しかないはずの視界に何かが飛び込んできた。それが頬と髪の毛を掠めていった。訳も分からず、思考が真っ白になる。

 視線だけで、それを追う。

 扉を貫通して顔面横を過ぎていったナニか。

それは長く流麗な刀身だった。防犯用に頑丈に設計されたのであろう強固な扉に突き刺しているというのに、弾かれるどころか貫通していて、さらにふざけたことに刀身は欠けるどころか、傷一つなかった。

ゆっくり、ゆっくりと扉から突き出した刃が引いていく。

 

「は、え」

 

 ちょっと、待てよ。確かに刀は持ってるって聞いたけど。この扉は紙切れじゃねえんだぞ。それを当然のように貫くってどうなってんだよ。

 そして、それ程の強度と切れ味を持った凶器が、狙ったのかどうかは不明だが、自身に向かって振るわれた。

 そのことに血の気が引いていくのが分かる。

 もし己の体ごと刺し貫かれていたら、俺はどうなっていたのだろうか。

 何となく、話し合いの余地があると思っていた。何となく、自分は無事なような気がしていた。有事の際でも柊を逃がしさえすれば、それで自分の役割は終わりだと思っていた。だが、実際にはどうだ。この場で柊だけでも逃がせたとして、その後。

――俺の命の保証はどこにある?

 やばい、やばい、やばいやばいやばい。

 心臓の鼓動が異様に速い。全身が恐怖で強張る。冷たい汗が伝って、気持ちが悪い。頭にいくらもしもを叩き込もうが無駄だった。

普段から災害を想定して備えていても、その時になってみなければどうなるか分からないように。

 その場に立って見て、ようやく、ようやく理解した。

 ここに至って、己が足を突っ込んだ案件が本気で人命にかかわるのだと頭では無く身体が理解してしまった。

 身体が竦む。脚が震えている。背筋が凍り付くとはこういうことを言うのだ。

 意識が恐怖の渦に呑まれそうになった瞬間に、声が飛んできた。

 

「綾崎くん!」

 

 よく澄んで綺麗に通ったその声で、現実に引き戻される。

 呼ばれて、今しがた刀身が自らの真横を通り過ぎたというのに、あれだけ恐怖していたのにまだ身体は通さぬよう扉に張り付いていたことに気づく。それはせめてもの俺の無意識の抵抗だったのだろう。

 

「早くっ」

 

 呆然自失に近い状態の俺に投げた柊の声に応じて、ようやく動いた身体は、弾かれたように扉から離れ、エレベーターへと駆け出す。俺が扉から離れたのを感じたのか、その直後に背後で扉が開かれたのが音で分かった。振り向く余裕はない。振り向くだけ走るのが遅くなる、だから振り向けない。それが余計に恐怖だった。

 今真後ろに、刀を持ったあの男が死神のように立っているのではないか。あの常軌を逸した切れ味を持った白刃に首を刎ねられるのではないだろうか。そんな不安が頭から離れない。

たいして長くない距離をこれでもかというほど全力で走っているというのに、距離が詰まっているという実感がない。走っているのに全然前に進まない夢を見ているような気分になりながら、やっとのことで柊の待つエレベーターに辿り着く。

半ば、転がり込むようにエレベーター内に突入して、ふと、振り返ると、随分と離れた距離から男がこちらを見ていた。あの様子では、すぐ後ろを追ってきているかのような感覚は錯覚だったのだろう。

それに、扉はもう閉まりかけている、今からでは間に合わない。追って間に合わなかった、というよりは最初から走って来てなかったのだろうか。それはあの男のいつでも追えるという余裕のようであまりゾッとしないが、ともかく難は逃れた。その事実に胸を撫で下ろす。

――――追いつけるはずがない。そう言い聞かせて、一度深く息を吸って吐くと、全身に降りかかっていた見えない重圧と息が詰まるような体の内側の圧迫感が、ようやく落ち着きを見せてくれた。

 隣に居る柊に目を向けると、心配そうにこちらを見ていた。彼女とて内心は不安でいっぱいだろうに。あの男の敵意は本来、柊に向けられているのだから、なおさらだ。

 そんな彼女の前で俺がこれ程取り乱して、怯えてしまうとは。

 はあ、情けない。

 

「悪い……」

 

 状況としては危機を脱した。二人とも怪我なく生き残っただけ結果としては悪くないのだが、あまりの不甲斐なさに口をつついて出てきたのは謝罪の言葉だった。

 体重を預けるようにして壁に置いた手がプルプルと情けなく震えている。

 

「いいえ、貴方は良くやってくれているわ」

 

 震えの止まらぬ手が何かに包み込まれる感覚がした。柊の手が俺の手の甲に添えられていた。彼女の手も、震えている。

 

「――ここまでありがとう」

 

 それは今までにないくらい、優しい声音だった。

 

 

 

 

 俺たち二人はあのあとマンションから飛び出て、街の雑踏に紛れていた。都市部だけあって色んな施設が充実していて、夕暮れ時でも、人の行き来する姿は幾つも見受けられた。仕事帰りであろうサラリーマンや、友達同士であても無くぶらついているのだろう、他愛の無い雑談を交わしながら歩く学生の集団、どこかに向かって一人一直線に足早に歩いていく者もいる。それぞれが思い思いに日常を過ごしている。そんな普通の景色に少し安堵する。あまりの危機的状況に世界の全てが一変したような、そんな錯覚を覚えたが、実際そんなことは無い。外に出て、その日常の景色の一部となってしまえば、世間はいつも通りの平穏さを保っていることを実感できた。それだけに、先ほどの出来事は異常性を増すのだが。

 ようやく落ち着きを取り戻したころに、隣の柊がふと口を開いた。

 

「ねえ、綾崎くん」

「どうした?」

 

 話しながらも俺は歩くことはやめなかった。なんとなく、立ち止まってしまったらこの仮初の平穏さえも消え去ってしまうようなそんな気がしたからだ。

 だというのに、隣を静かに歩いていた彼女は歩を止めて、極めて真剣な面持ちで次の言葉を放った。

 

「貴方だけでも逃げてちょうだい」

「……は?」

「だから、貴方は逃げて。あれの狙いは私だから。私に巻き込まれて、貴方まで怪我をする必要ないわ」

 

 なんで、なんでそんなことを言い出すんだよ。

 自分でも無性に腹が立ってくるのが分かった。

 

「そう、全部私の問題。それを優しさに付け込んで他人になすりつけるなんてどうかしていたわ。今までだって、私は自分のことは自分で全部やってきた。だっていうのに、私は……なんてことを」

 

 なんだよ、それは。それはなすりつけなんかじゃない。なのに、クソ。何も言えない、だって俺は、こいつにそんなことを言わせてしまうくらい不甲斐なかった。

 それに、もう気づいている。柊の真意が。

 

「遅いかもしれないけど、あなた達を巻き込むべきじゃなかったわ。東風谷さんにも謝っておいてもらえるかしら。私なら大丈夫よ、一人でも一度目の襲撃は切り抜けたという事実もあるわ。むしろ二人でいるほうが危ない、ええ、そうよ。一緒に居て深い関係だと思われたら、もしかしたら貴方が人質にとられるかもしれない、そうなったら私に勝ちの目はなくなるわ。けど、今ならまだあの場に居合わせたクラスメイトで逃れられる、私の立場や正体を知って見限ったように思わせるのも容易でしょう」

 

 さも、柊は一人で居ることの方がメリットが多いように語ってみせる。でも、その実、二人で居ることのデメリットをあげているだけだ、一人なら一人でその場合の危険だって当然ある。ああ、そんな風に捲し立てるように言葉を並べる理由は分かっている。情けないことに、彼女は俺を、俺だけでも助けようとしているのだ。この状況で、彼女は俺だけでも確実に助かる手段を提案しているのだ。さも、自分一人の方が、勝算があるように言って見せて、俺が逃げても良い理由を作って見せて。

俺だって、柊を見捨てるような算段はしていなかった、でも、自分が逆の立場の時、こんな風に言えるだろうか。

ようやく見つかった自分のことを話せる相手、それを知ってなお協力してくれる者達、きっと俺なら、そこまでしてくれる相手には寄り掛かってしまう。俺の、期待せずとも期待には応えたいなんてのは、結局、独りで居るのが怖いから、自分に確実に目を向けてくれているような優しい人間を探してすり寄っていっているだけの卑劣な行為だ。

でも彼女は、そんな者達だからこそ、自分の身に起きる危機に巻き込まれて害を被るような目に遭わせたくないのだろう。彼女は孤独を恐れない。彼女は人が傷つくよりは自らが傷つくことを選び、そのように決断できるだけの強さと気高さを持っている。

さも孤高ぶってその実、いつだって誰かと繋がっていなければいけなかった俺とは違う。似ているなんて、俺のとんだ勘違いだ。それでも、俺たちと行動を共にしてしまったのは、孤独となった後の彼女にとってはじめて相手から差し出され、握られた手だったからだろう。

しかし、差し出してきた手の主が不幸に陥るのならば、その手を離すだけの勇気が彼女にはある。他者に手を伸ばさないくせに、差し出された手にしがみついている俺には、それが、少し眩しかった。

柊玲奈は強い。そして、優しいのだろう。少なくとも俺よりは。

彼女を見据える。

ダメ押しにと、彼女は俺に向けて言った。その顔は、安堵しているようでどこか寂しげで、互いの視線は交わらず、柊の視線は僅かに下に向いていた。

 

「それに、綾崎くんが私に東風谷さんの影を見るには、私は違い過ぎたんじゃないかしら」

 

その言葉は、俺の動機の核心を突いていた。

 周囲の音が、全て消えたかのように錯覚した。街を行き交う人の一部であった俺たちは世界から切り離され、今では忙しなく歩く通行人たちがモノトーンの景色のようにすら感じる。

 そうか、見抜かれてたか。

でもな。それはホントにきっかけでしかない。今は、それだけじゃない。

さっき、柊は俺を見捨てることだってできた。狙われているのは柊なのだから、俺を囮に我が身可愛さに逃げたって仕方がないことだと俺なら思う。けど、そうしなかった。

互いに話をして、危機を共に切り抜けて、今はちゃんと、こいつの事をどうにかしてやりたいって俺自身が思ってる。こればっかりは東風谷云々じゃなく俺の意志だ。

 

「ああ。お前と東風谷は、違うな」

「そうでしょう。じゃあ――――」

「最初に話しかけた時、柊と東風谷が重なったのは否定しない。なんか、独りで席に座ってる柊の姿がどうしても、中学の時の東風谷を思い出しちゃってな。でも、お前と東風谷は全くの別人だ。けどさ、それでいいと思う、それでも俺はお前に付き合うよ」

 

 柊は目を丸くして驚いている。呆気にとられたようで、二人の間に沈黙が出来る。なんだか出来た間がむずかゆくて、何かを喋らなければいけないような気がして、続ける。

 

「……まあ、俺に優しくしてくれる奴は少ないし、友達になってくれる奴なんてもっと少ない。なら、その少ない身内の為には多少は身体も張るさ、それに――」

「それに?」

「……東風谷が柊を助けようって言ったからな」

「っ!? ふふ」

 

 柊が思わずといった様子で吹き出して肩を震わせる、笑いを声には出さずとも大笑いしているのが分かる。ひとしきり笑った後に、彼女は、やはり可笑しそうに言った。

 

「貴方って、ホントに東風谷さんが主体なのね」

「んだよ、悪い?」

「いいえ、素敵だわ」

 

 なんだよ、そんな風に言われたら、何も言い返せねえじゃん。いっそ、中田みたく冗談っぽく笑いながら馬鹿にしてくれた方がいくらか返す文句も出ると言うのに。

 

「ほら、行くぞ」

「ええ」

 

 柊の数歩先を歩く。ここからなるべく人の多い場所を移動して、駅に向かって電車に乗って、東風谷の家へ向かう。東風谷はおそらく何らかの対抗手段を持っているだろうし、それが最善だろう。

 しばらく黙って歩いていると、ふと、少し後ろを歩く柊が声をかけてきた。

 

「ねえ綾崎くん」

「なに?」

「ありがとう」

 

 振り返ってみると、すぐそこに彼女の小さな、それでも確かな笑顔があった。直視できずに、ふい、と顔を逸らして前を歩く。東風谷もそうだが、女子のそういうのってホント、ズルい。余計に何とか力になろうって思ってしまうんだから。

 

 

 

 


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