2月の中旬、生徒それぞれの受験日が迫る中、今日は、そういった、高校受験が近づいてくるという不安によって生まれるソワソワとは別の空気が学校中に漂っていた。
そんな日の昼休みのことである。
「そういえば、結鷹は誰かからもらったのか?」
中田は、何を、とは言わずに、そんな問いを投げ掛けてきた。普段なら突拍子もない台詞だが、今日ならば別だろう。
2月14日。バレンタインデー。
一体どこのどいつが始めたのか知らんが、率直に言ってしまえば、モテない男子がモテないと、再認識させられる日である。
諦めている奴が大半だろうが、それなりに自分の顔に自信がある奴は、誰かからの好意を期待していたりするし、一日中、どこか落ち着かない様子の奴まで現れるこの日に、貰うものが何かなんてわざわざ言うまでもないだろう。
「それ、私も気になります」
そう言って、俺の席から左側に二つほど離れた席で、他の三人ほどの女子と話しながら昼食を摂っていた東風谷は唐突に立ち上がる。
それに思わず俺は肩をビクッとさせてしまう。
おう、ビックリしたわ、どんだけ耳良いんだよお前は。
東風谷の声に反応した生徒が皆、俺の方に視線を向ける。
いつの間にか、教室中の視線が集まってるような気さえする中、俺はバレタインの成果を発表しなければいけないようだ。
注目されて、言葉に詰まるが、方々から集まる視線が俺の返答を催促してくる。
これはあれか、公開処刑かなにかかな。
「……貰ってねーよ、母親からしか」
そう言うと東風谷は、そうですか、と一度満足そうに頷いて、元の席に座った。
いや、なんでこの悲しい事実を知って満足気なんですかね。一部の男子からの同情を得られたが、全く嬉しくないんですが。
ていうか、貰えるわけないだろ、俺が。自慢じゃないがチョコなんて母親と小学三年の時の東風谷からしか貰った覚えはない。
共働きで俺より早く家を出る両親は、リビングのテーブルに3枚ほどの板チョコと、いつもより少し多めの昼食代を俺の為に置いて行ってくれていた。
その心遣いが沁みて、朝なのに思わず涙がほほを伝いかけたのは、言うまでもない。
「母親からしかって、綾鷹ウケる。寂しすぎー」
そう言って笑ったのは、東風谷と机を囲んでパンを齧っていた筈の相田だった。冬になって屋上に出るのが厳しくなってきて、東風谷を俺のクラスにまで連れてくるようになってから、東風谷が俺と中田以外で、最初に話すようになった女子が、相田であった。
最初は、一時の宗教女だとかそういった類の噂のせいで、クラス全員が遠巻きに見る感じの態度だったが、相田が話しかけたのをきっかけに、東風谷はウチのクラスでは大層な人気者になっていた。
東風谷は今では、俺と一緒に昼ご飯を食べることよりも、このクラスの女子に囲われて昼食を摂っていることの方が多いくらいだ。
「ウケねーよ、切実な問題だぞ。……ていうか、お前はどうなんだよ中田」
恥をかくのが俺だけと言うのもなんか癪だ。よし、中田を巻き込もう。
俺は、当然のように思いついた名案と言う名の友人を売る行為を逡巡なく遂行する。
「どうだと思う?」
が、返ってきたものは俺の予想から離れていたものだった。
してやったぜ、と思っていた俺の思考とは裏腹に、中田はニヤリ、と笑う。その、勝ち誇ったような表情。
「お前、まさか」
「おうとも」
ふっふっふ、と黒い笑いをする中田をよそに、俺は、はあ、と額に手を当てて、ため息をつく。マジかよチクショー、誰だよこの馬鹿にチョコあげた女子は。
そのやり取りを見ていた相田と東風谷らの周りから笑いが起きるが、まあ、良いだろう、馬鹿にされてはいるけど、悪意を含まないそれは、別に悪くない。
もとより弄られるのは、綾鷹のあだ名のせいで少し慣れている、哀しいことに。
3組では、イジメがなくなったとはいえ、依然として、東風谷への風当たりは厳しい。あれはもう、関係の修復は不可能と言っても過言ではないだろう。そもそも、自分たちでイジメておいて、いざそれが終わったら、ヘラヘラ東風谷に近づいてくるような奴がいたら、特にそれが男子なら、俺がぶん殴ってやるところだ。
なので、それはそれで、良くは無いけど落ち着くところに落ち着いたと思う。
東風谷は黙っていても、周りの方から人が寄ってくるような魅力を持っている。そんな彼女なので、我らが1組に通い始めた最初こそ微妙な空気だったが、段々と打ち解けていき、今ではすっかりこのクラスの中心人物のようで、楽しそうにしている。
俺よりも俺のクラスの一員らしいその様子に、微笑ましく思ってしまう。
なんというか、ここに至ってこう感じるのは、現金な奴に思われるかもしれないが、このクラスは良い奴らばっかだな、と最近になって思う。
東風谷のせいか、最近はいろんな奴に絡まれることが多くなったことで、妙に身の回りが騒がしいが、それもあと一カ月もすれば終わってしまうと思うと、少し惜しい。
そんなことを考えていると、俺の醜態をひとしきり笑い終わったあとに、何かを思いついたらしい相田が、ぽん、と手を叩いて、ごそごそと鞄を探り出す。
「しゃーないなあ。これあげるよ、綾崎。早苗ちゃんに感謝しなよ?」
そう言いながら、鞄から何かを取り出した相田は、こちらまで寄って来てそれを差し出す。相田が手に取って渡してきた物、それは一口サイズに切り分けられて、包まれたチョコだった。
え、マジで? いいの、やったー。
「お、おう。さんきゅ、悪いな」
暗に、東風谷との関係が無ければ、お前になんて絶対やらないけどな、と言われた気もするが、嬉しいものは嬉しい。
顔に出ないように、落ち着いて受け取ろうとするが、出来ているかは怪しい。こちらも手を差し出すと、その上にちょこんと、相田の手が乗って、少し緊張する。
そうして、俺の掌にチョコを落とすと、相田は流石に少し照れくさいのか、視線を右上に飛ばして、口を開く。
「まあ、もともと吹奏楽の男子に配ってやろうって持ってきたやつの余りだしね、いいよ、それくらい」
ありがとう吹奏楽部。フォーエバー吹奏楽。この前、当番の仕事全部押し付けていった時には、心中でとはいえ、愚痴ってすみませんでした。
用を済ませて向こうに戻っていった相田は、他二人の女子から、マジ女神、だとか、本当はあれが本命なんじゃないのー、と冗談交じりの冷やかしを受けていた。
ちょっと会話の内容が気になってほのかな期待を胸に、耳をそばだてるが、直後の相田の、それはないって、と言うあまりにも冷めた台詞で、そんな浅い希望は打ち砕かれた。
いや、ここで肯定されても、俺が困るけどね。
折れそうな心を即刻立て直しつつ、ふと、さっきから声をあげていない東風谷を見てみることにする。
視線を向けると、東風谷は氷漬けにされたかのように完全に固まっていた。
ちょっとびっくりしたとか、そんなの比にならないくらいの硬直である。
「そういえば、早苗ちゃんは誰かに渡したの?」
相田のそんな一言で、東風谷は、はっと我に返って活動を開始する。
東風谷は誰かにチョコを渡すのか、それは俺も大いに気になるところではある。まあ、東風谷なら二柱に渡してそれで満足とかしてそうだけど。それに、図々しくも僅かに期待してしまう気持ちもあった。
「いえ、誰にも渡してませんね、渡す予定もありません」
心なしか、その声はいつも話す声よりも大きめで、よく教室に響いた。
「えーもったいない、早苗ちゃんが渡せば、誰だって喜ぶよー?」
ねー、と相田が周りに同意を促すと、教室中の男子も女子も一気に盛り上がった。本当に大層な人気である。東風谷のそういう事情において、僅かに想起されるのは伊達だが、ここで伊達の名前を出して来たりする空気の読めない阿呆は、きっとこのクラスには居ないので、安心して東風谷のグループから意識を外す。
「そういや、中田って俺と同じ高校受けるんだっけ?」
ふと、思い立って、目の前に座る中田に聞く。
「ああ、同じよ同じ。いやあ、これは高校でも三年間同じクラスだったりするかもしれませんなー」
あほ面を作って、顎に指を当てながらそう言う中田。変顔の多彩さで言ったら、俺はこいつに勝るものを知らない。
「えーやだなあ」
「ヒドッ!?」
オーバー気味にリアクションするこいつを見て、思わず笑いがこぼれる。俺が笑っているのを確認して、中田も嬉しそうに笑い出す。
こいつに限って軽口程度で傷つく心配はないが、俺はつい本音をもらす。
「冗談だって、お前が居ると、俺は色々捗るから楽でいい」
「なにその利用されてる感」
「ちげって」
二人一組になれ、とか言われた時に、組む相手に困らないし、色々話のネタを拾ってきてくれるし。……なんか例えがこれだと本当に利用してるだけの関係みたいだ。
まあ、けど、こいつほど、俺の日常を象徴するやつはいないだろう。東風谷は、その正反対かな。
東風谷と居ると、何もかもが新鮮なことに思えてくる。
そんな日々は、楽しくて仕方がない。
けれど、それとは別に、確かに大事な時間があるのだ。
「ま、落ちんなよ、相棒」
「お前もな」
何でもない日常。
こんな日々がもう少しで終わりを迎えると思うと、度々、郷愁にかられたような侘しい気持ちになる。こんな風に、ゆるやかに東風谷との時間も終わっていくのだと思うと、この三年間は、本当にこれで良かったのか、とも思う。
過ぎ去ったものは取り返せない、だから、なるべく、後悔しない選択をしよう。今では随分と居心地のいい空間となったこの教室で、そんなことを考えていた。
あ、チョコうめ。
私は少し怒っています。夕日に照らされた帰り道、神社の石段を一緒に登っている結鷹は、顔を背けて一向に喋らない私に対して、少し困った顔をしていますが、自業自得です。知ったことではありません。
今日はバレンタイン。なので、彼にチョコをあげようと思って、前日は受験勉強の約束を断って、惜しい時間を削ってまで、頑張ってチョコを作りました。
そうして出来たものは我ながら中々のものです。
渡す機会を窺いましたが、良く考えると、学校の中では意外と渡すタイミングがありません。
授業ごとの休み時間はそう長くありませんし、違うクラスではちょっと難しい。最も時間のある昼休みも、1組の教室では悪目立ちしてしまうと思うと、渡せません。しかし、昼休みの中田君の問いに、誰にも貰って無い、と答える結鷹の言葉を聞いて、じゃあ放課後、神社で、いつもの勉強の時間にあげよう、と安心して考えました。
きっと、今年は私が初めてなはず。チョコをもらったその時には、結鷹はどんな顔をするのだろう、と期待に胸を膨らませました。
だというのに。
“しゃーないなあ。これあげるよ、綾崎。早苗ちゃんに感謝しなよ?”
思わぬ伏兵、相田さんが先にチョコをあげてしまいました。相田さんは優しい人ですから、深い意味はなく、慈悲の気持ちでチョコをあげただけなのでしょうけど、大して教室の空気を変えずに、大勢の前で、すんなりチョコを渡す彼女は天才策士かなにかでしょうか。
“お、おう。さんきゅ”
って、結鷹はなんで受け取っちゃうんですか。
あ、何で少し顔が緩んでるですか。
二人の様子を見て、私は悶々とします。
優しさからそうしただけの、相田さんを責めるわけにもいきませんし、だからと言って、結鷹に受け取るなと言って止めに入るのは、何だか我儘というか、自己中心的な物の考えですし、なにより、それが出来るなら堂々と皆の前で渡すくらいに恥ずかしいです。
頭では分かっているのですが、うーん、納得いきません。
やっぱり全部結鷹が悪いです。
「なあ、何で怒ってるんだよ東風谷」
隣を歩く彼は、そう私に問います。
「さあ、綾崎の胸の内に聞いてみたらどうですか?」
私は目を閉じて、彼から顔を逸らして答えます。彼は私の態度の意味を全く汲めないようで、とりあえず何かを喋ろうとして、途中で止めてしまいます。
神奈子様は、結鷹のことを賢い子だと言います。ですが、このニブチンが、とてもそうだとは思えません。普段は他人の心理に聡いくせに、これなんですから。
とはいえ、心の奥では理解しているんです。自分が随分と無茶なことを要求しているということは。
でも、察してくれても良いじゃないですか。こんなイベントの日の前日に、わざわざウチに来る予定を私から取り下げたんですよ、勘が良い人なら分かってくれますよ、ねえ?
なおも態度を改めない私に、こんなことを結鷹は言いだします。
「いやあ、俺、久しぶりに女子にチョコもらったよ」
え、今それを言いますか。そうかそうかそうですか、あれですか、あなたは私にチョコでなくゲンコツを貰いたいと、そういう意味ですか。
「へー、それはよかったですねー」
僅かに湧く衝動を堪えて、私はなんとか平静を保って返事をします。
少し穏やかでない私に気づくことも無く、彼は人差し指と親指を離した隙間で、相田さんから貰ったチョコ程度の大きさの幅をあけて私に示します。
「昔……小学生の低学年の頃かな、東風谷から貰ったチョコを思い出したよ。あれも確か、あんな感じの一口サイズのやつでさ」
「え?」
そんなことを覚えていたんですか、と思わず言いそうになったのは、何とか飲み込んで留めます。あの時は確か、クラスのみんなに配るという体で私は彼にチョコを渡したのでしたか。
「そのチョコがなんか、俺のだけ他の奴らのと違ってて、それがなんだか、すげえ嬉しかったんだよな」
そう、彼のだけは私の手作りで、わざわざ市販のものと同じ包み紙で包んで渡したのです。
あの時は、そういう意味を含ませていたわけでは無かったけれど、特別な子には自分で作って物をあげると、きっと喜んでくる、というお母さんの言葉にならって、文字通り私にとって特別だった彼には、顔を溶かしたチョコで汚しながら、分からないなりに自分で作ったチョコを渡したのでした。
朱い空を見上げて、そのことを語る彼の顔は、そんな在りし日のことを懐かしんでいるようでした。話をしていると、私が覚えていることを色々忘れられてると感じる中で、彼にだって残っているものがあるのだと思うと、つい嬉しくなります。
私が特別でないと感じたことを彼は特別だと感じて、憶えていて、そのことを知った私にとっても特別になる、それはきっと、とても素敵なことです。
「他と違うって、どうして分かったんですか?」
思わず聞いてしまいます。あれは、子供心になかなか上手く出来た偽装工作だと心得ていたのですが。
「だって、市販のと比べると形が不細工だったし」
その、彼にしてはやけにさっぱりした、爽やかな一言で、熱くなりかけた顔はヒートダウンし、早まりかけた心臓の鼓動はビートダウンしました。
なんですか、その理由は。
しばらくして、まあ、と彼は呟くように続けます。
「……それだけに、嬉しかったんだけどな」
彼は、紅潮させた頬を右手の指でかきながら、口篭もってそう言います。私は意識せずに、彼の顔を注視してしまいます。彼がこちらの視線に気づいて向けた顔は、私の視線にかち合うと同時に、階段へと向けられてしまいました。
「いや、だからって訳じゃないんだけどな……」
いつもどこか遠くを見ているような切れ長の目の、その黒い瞳は不安げに揺れていて、どんな風に距離を取って良いか分からず、相手の様子を探るようなさまは、私には変な話、恥じらう乙女のようにすら見えてしまいます。
そんな彼を見て、私もようやく悟るのです。
私も、存外鈍いのかもしれない、と。
それと同時に想います。
この人は、仕様がない人だな、と。
こういう時に、なんでそんな遠回しにしか言葉に出来ないのでしょうか。
同じ高校へ行こうと決めた時なんて、まず、私の成績を聞いてから、自分の成績も同じくらいだって言って、自分が行こうと考えている高校だけを伝えて、口をつぐんでしまうくらいです。
それでいて、私自身が諦めてしまうくらいに、本当に欲しい言葉だけはちゃんと口にしてくるんだから、本当に参っちゃいます。
私の今日一日の憂鬱と鬱憤はそんな彼の、私の目の前にある表情と、口にはしていない言葉で晴れてしまいました。
本当に、仕様がない人ですね。
鞄の中を探ります、目的の物はすぐにだって取り出せるようにしていましたから、簡単に手に取ることが出来ました。
何回も頭の中で想像していましたけど。いざ実行に移すとなると、やっぱり、自然に顔は熱くなりますし、鼓動は高まります。
そうして、私は階段の踊り場で足を止めて、今日ずっと言いたかった言葉を彼に伝えるのです。
「結鷹、渡したいものがあります」
これは、少し特別な日の彼と私の、なんでもない日常の出来事。