「追いかけないのかしら?」
小町が出ていき、とたんに静かになってしまった部室で雪ノ下の声は嫌に響いて俺の耳に入ってきた。
「追いかけて、どうしろっていうんだよ」
「この状況で追いかける理由なんて一つしかないでしょう?」
「それは……」
無理だ。
確かに普通なら追いかけて小町と仲直りするべきなのだろう。非のある方が相手に謝って、完全修復には至らなくても、修復する努力をする。仲直り。それが普通。
しかし、今は普通ではない。今の俺には小町を追いかけることもできなければ、かける言葉すら持っていない。俺は現在の状況に対する最善のカードを切っていると思っている。これが小町に、こいつらにとって一番いい選択だと。
「まあ、あなたのことだから遅かれ早かれこの提案はしてくると思っていたわ」
「……ずいぶん理解されてるんだな」
「あら、あなたみたいな単純な人間、私が理解できない道理はないわ」
いつものような微笑みを俺に向けてくる。しかし、その目は射抜くように力強かった。
「あなたは状況認識能力に長けているのに、やはり相手の気持ちは汲みきれないのね」
意識せず、ギリッと奥歯が音を立てる。そんなことはとうの昔に理解している。けれど、俺の数少ないカードでお前たちをできる限り傷つけないカードはこれしか――。
「傷つけないように切ったカードで余計に相手を傷つける可能性は考えなかった、考えられなかったのよね。あなたは優しくて、それ以上に残酷な人だから」
もう一度見た雪ノ下の瞳には悲しみが混ざっている……ような気がした。なんでそんな目をするんだよ。優しいってなんだよ。残酷ってなんだよ。俺にはわからねえよ。俺には……。
「そういえば、あなたの提案に対しての私の意見を言っていなかったわね。却下よ」
「は?」
何を言っているんだ。せっかく渦の中から離れることのできる機会をみすみすのがメリットなんてどこもないじゃないか。
思考が顔に出ていたのか、雪ノ下はオーバーにため息を吐いてみせる。
「だからあなたは無能谷君と呼ばれるのよ」
「それ呼んでるのお前だけだからね?」
「まあいいわ、理由なんてシンプルなんだから。確かに客観的リスク対策だけを言えば比企谷君の提案は私にとって簡単にして最善。だけどね、私の心はそこまで単純ではないのよ」
雪ノ下は一つ一つ言葉を選ぶようにゆっくりと声を発する。その声は弟を諭す姉のようであり、兄にわがままを言う妹のようでもあった。
「私は、この空間をあなたが思っている以上に気に入っているのよ。もちろんあなたも含めてね。この空間を失うくらいなら、多少の風評被害なんて蚊ほども気にしないわ。それに、目の前にある問題から逃げるなんて私のプライドが許さないもの」
「雪ノ下……」
雪ノ下の言葉には力があった。その力が、彼女の言葉が本心だと俺に教えてくれる。客観性における合理的結論をも覆す、心という存在を教えてくれていた。
「私も……」
いままで黙っていた由比ヶ浜が声を漏らす。俺を見据える目には涙があふれていた。
「私も、ヒッキーの案は、賛成、できない。だって、教室で、ヒッキーに話しかけられないのは、辛いよ。部活だって、ヒッキーが一緒じゃなきゃ、やだよ……」
「由比ヶ浜……」
「せんぱい! 私だってせんぱいに話しかけられないのは嫌です! せんぱいがいなくなったら誰が生徒会のどれ……お手伝いするんですか!」
「一色、おまえなぁ……」
元気にそんなことを言ってくる一色に力が抜けそうになるが、これもこいつなりに気にかけてくれているんだろうな。そう思うとこの言動もかわいいもので、無意識に一色の頭に手が伸びていた。
「ひゃっ……」
「あ、すまん……」
「いろはちゃんずるい……」
なにがですか! と反論する一色をしり目に、仕切り直しと雪ノ下が一つ咳払いをする。お前もこいつら相手に大変ね。いや、俺のせいだった気がしなくもないけど。
「それで、比企谷君。これだけ言わせてもあなたはあの案を実行するのかしら?」
本当にこいつは、わかりきったことを言わせることで論破に成功した事実にドヤ顔する気満々だ。負けず嫌いの雪ノ下らしいというかなんというか。まあ、そういうところ嫌いではないのだけど。
「わかってるよ。比企谷八幡再ぼっち化作戦はなしだ。俺も、お前らに本当の意味で嫌われたくはないからな」
結局、自体はふりだしに戻る。いや、ひょっとしたら一歩前進したのかもしれない。彼女達の意思を聞けた。十分な前進だろう。それに……。
「それに、一人じゃなければこの事態を解決できるかもしれない方法を、あなたは本当は持っているのではないのかしら?」
「お前はなんでもお見通しだな……」
なにこの子、羽川雪乃に改名したんじゃないのか?
確かに、俺が切れる数少ないカードにそれは存在していた。一人ではできない方法。彼女らに迷惑をかける可能性がある故に選択肢に入らなかったカード。今なら、切れるかもしれない。
「まあ、それはまた後日聞きましょうか。今のあなたにはやるべきことがあるでしょう?」
「あぁ、そうだな」
鞄を手に取り、立ち上がる。時計を見るとだいぶ時間が経っている。もう学校にいないと考えるべきか。
「せんぱい、もし明日仲直りしてなかったら生徒会の手伝いですからね!」
「私もハニトー奢ってもらうよ!」
「お前ら……」
何その私欲にまみれた脅し。一色はいい加減自分の力で事務作業やれるようになって!
「まあ、まかせとけよ」
十五年連れ添った小さな背中を追いかけるべく、駆け出した。
「いない……」
部室でかっこいい演出したのにいきなり躓いてるんですけど。ヒッキーかっこわるっ。
一年の靴箱で小町の靴がないことは確認した。自転車の荷台に乗らなければ徒歩通学の小町だ。帰り道を自転車でとばせばすぐ追いつくだろうとたかをくくっていたのだが、姿を見ることなく家についてしまった。
「帰ってきた様子もない、か」
部屋に鞄もない。帰らずにどこかに行ってしまったようだ。もう一度自転車にまたがると、とりあえず走りだす。目的地なんてない。ひたすらペダルを漕いで小町の姿を見つけるしかなかった。
もう一度学校までの通学路を戻り、ファミレスやカフェあたりの時間を潰せそうなところを見て回る。が、どこも空振り。
「くそっ、電話も出ねえ」
何度電話やメールをしても返信はこない。もし友達の家にでも言っていたら小町の交友関係を知らない俺は詰みだ。しかし、これだけ電話やメールをして、電源を切っている様子がないところを見るとその線は薄いように思える。さすがに友達の家でずっと携帯が鳴っていたら電源切ったりするだろう。友達の家言ったことないから知らんけど。そもそも、どうすることもできない可能性は最初から排除だ。
ひたすら自転車を漕いでいるせいで、さすがに息が上がっている。時計を見るとすでに午後九時。女子校生が出歩くには危ない時間だ。
ひょっとしたらなにか事件に巻き込まれたんじゃ……?
嫌な不安に駆られ慌てて頭を振る。焦りで思考が悪い方へ傾いて、大事なことを考えていない。こういう時こそ冷静になるべきだ。落ちついて考えれば、答えは意外に簡単だった、なんてことはよくある。
近場の自販機でマッカンを買い、一気に飲み干す。心地よい冷たさと甘さが身体を包む。一度走りまわるのをやめて、思考に集中する。小町の行きそうな場所……こういうときあいつはどういう行動をとる?
すでに切り捨てているが、友人宅は確率的にほぼゼロだ。小町は嫌なことを理由に友達の家に行くタイプではない。むしろあいつは隠せないほど嫌なことがあるとうずくまるタイプだ。自室の隅とかでうずくまってじっと足元を見ている。あいつがそういう行動を取ったことがある場所は自室、冬の炬燵、洗面所……だめだ、家の中しか出てこない。
「……あっ」
そういえば、一か所だけ外でそんなあいつを見た場所があったな。ひょっとしたら……。
確証はない。しかし、思い浮かべたときには自転車は風を切っていた。
夏間近とはいえ、この時間は結構冷え込みます。学校の制服だとスカート短くてこういうとき不便です。
「おなかすいたな……」
携帯で時間を確認すると午後九時過ぎ、いつもならもうとっくにお兄ちゃんとご飯食べて、ダラダラしてるような時間です。声に出すと身体が途端に空腹を理解したのかきゅーとおなかが鳴りました。おなか鳴らす女子、小町的にポイント低い。
「お兄ちゃん……」
声に出すといろんなことを認識してしまう。今小町、お兄ちゃんに迷惑かけてるかな。お兄ちゃんご飯ちゃんと食べたかな。こんな迷惑かける小町、お兄ちゃん嫌いになっちゃうかな。お兄ちゃんに嫌われたらやだな。……お兄ちゃんに会いたいな。
あのお兄ちゃんの提案が小町のためということは分かっていました。きっと小町はいつも通り「ばかなだぁお兄ちゃん」って接してあげればよかったんでしょう。けど、お兄ちゃんが近くにいるのに会ったり話しかけたりできないのは小町には辛くて、切なくて、耐えられなくて……。
「おにぃちゃん……」
気がつくとぽろぽろ涙が膝の上に落ちていました。生温かい涙が膝を濡らして、それをぬぐう気にも、漏れる嗚咽を抑える気にもなれませんでした。
「ひぐ、うぇ、おに……いちゃん……」
一度溢れだした感情の放流はもう止められなくて。次々涙は零れ落ちて、嗚咽はどんどん大きくなっていく。お兄ちゃんに会いたい……会いたいって想いがどんどん大きくなって、けど会いに行く勇気がでない。
そういえば、前にも一度こんなことあったな。あの時もぼろぼろ泣いてて、お兄ちゃんが探してくれて。あの時お兄ちゃんなんて言ってたっけ。
「おにいちゃん、あいたい、よ……。小町、妹、だけど、おにぃちゃん、すき、だもん……」
誰もいない、小町だけの空間で、伝えられない想いを吐露する。きっかけなんてわからない。眼鏡をかけたお兄ちゃんを見た時かもしれないし、家出した小町を見つけてくれた時かもしれない。もっと別の理由かもしれない。ひょっとしたら生まれたときから。わからない、わからないけど。この想いが“本物”だってことはわかる。
「おにぃちゃん、すき……」
けど、やっぱりこの想いは伝えちゃだめなんだ。伝えたら決定的に壊れてしまうかもしれないから。だから、抑え込まないと。そう思っていたのにお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんのそばにいるだけで想いがどんどん大きくなる。
きっと小町はお兄ちゃんから離れなきゃいけないんだ。お兄ちゃんも小町を探さない方が幸せなんだ。だけど……だけど、許されることなら……。
「小町っ!」
「……っ」
小町しかいない世界に大好きな人の声が響いた。
なんやこの妹、くっそかわいいやんけ(自画自賛
ほんとは次の話まで1話に収めたかったんですが、文字数的に多くなりすぎそうだったのでここまでで(こんなことやってるからどんどん完結予定話数が増える)
明日kindle版11巻が配信されるらしいので、早速読みます!
そのせいで明日更新ないかも(てへぺろ