夜を染める黒(旧題 : 俺ガイル×ブラック・ブレット) 作:つばゆき
例の会議から数日後、八幡は里見達の買い物に付き合わされていた。
案の定一番はしゃいでいるのは蓮太郎のイニシエーター、延珠である。
休日の都心の、凄まじい人出の中、荒れ狂う人の波に揉まれながら商店街へやって来ていた。
おのれ里見……! 俺のせっかくの休日を……! 恨む……絶対恨んでやる……!!
「比企谷、いつになく目を腐らせながら呪詛の言葉を吐き続けるのはやめてくれ」
おっと声に出てたか。
蓮太郎がうんざりした様子で話しかけてくるが、知ったことではない。巻き込まれた張本人なのだ。多少の呪詛は許せと言ったところだ。
「つーか俺がこうなってんのも全部お前のせいなんですけど。なんなの? 人の休日潰しておいてそんなに楽しいの?」
「……いや、それは悪かったと思ってる」
八幡の文句に蓮太郎が若干冷や汗をかきながらも答える。巻き込んだ側として若干悪いとは思っているようだ。
休日の商店街。インドア派の八幡にとってはまさに地獄である。
こんな活気溢れたところ来るなんて俺のキャラじゃねぇし。活気溢れ過ぎだし。俺文明人だから日差しとか駄目なんです。
人の波に幾度も揉まれ、長い長い行進行脚のおかげか、不意に嘔吐感が込み上げる。
「うっ……気持ち悪い」
「なっ、ちょっ比企谷? 大丈夫か?」
「大丈夫な訳あるか……ちょっと休憩させてくれ。マジで」
蓮太郎が延珠を連れて近場の喫茶店に入り、八幡も後に続く。外の人の多さに比べて客は意外と少なく、席の半分程が空いていた。
適当な席にすわり、コーヒーを注文する。蓮太郎はコーラ、延珠は小さいケーキを頼んでいた。
「悪いな、延珠。せっかくの買い物なのに体調崩しちまって」
「妾は別に構わないぞ。無理矢理八幡を連れて来たのは妾達の方だからな。少し申し訳ないくらいだ」
「そうか」
運ばれて来たコーヒーに大量にガムシロとミルクをぶち込む。練乳が無い事が悔やまれるが、そこは我慢だ。
その様子を眺めていた蓮太郎が顔をかなり引いた様子でしかめた。
「お前……それ甘すぎねぇか?」
「美味いぞ。やってみれば?」
「遠慮しとく……」
ドン引きされていた。ちなみに延珠はにこにこしながらケーキを頬張っている。癒されるわぁ。
「俺、ちょっとトイレ行ってくるわ」
蓮太郎が席を立つ。コーヒーのおかわりを注文しようか悩んでいると、不意に声をかけられた。
「…………比企谷くん?」
「あん?」
艶やかな長い黒髪、透き通るような白い肌、彫刻のような怜悧で端正な顔立ち。我らが奉仕部部長、雪ノ下雪乃である。
「…………雪ノ下」
「あなたこんな所でどうしたの?あなた、休日に出掛けるような人だったかしら」
「お前こそなんでここにいんだよ」
「今日は日差しが強いし、人出も多いし……そこであなたがこの喫茶店に入っていくのが見えたから、休憩ついでに寄ってみたの」
そこで雪ノ下が初めて延珠の存在に気付いたようで、あからさまに軽蔑した表情になった。まさに一瞬で。マジで背筋が凍るレベル。
「比企谷くん……誘拐は犯罪よ?」
「いや違ぇし。知り合いの……連れ子? 居候? だな、うん」
「なにかしらその曖昧な反応は……」
八幡の要領を得ない返答に雪ノ下が目頭を押さえる。
「ん? 八幡の知り合いか?」
延珠も雪ノ下の存在に気付いたらしい。怪訝な声を上げる。
「いーや、俺の部活の部長」
「ほー」
「そもそもあなたには休日一緒に出掛けるような知り合いなんて居る筈がないじゃない」
「いや本人が言ってるんだから信用しろよ……そんな信用されてないの? 俺」
「当たり前じゃない」
「ん? どうした比企谷。知り合いか?」
と、丁度御手洗いから戻って来た蓮太郎が声をかける。
「おう。あっちからしたら大変遺憾ながら知り合いらしい」
「確かにその通りだけれど言い方が地味に腹立たしいのは何故かしら……」
「まぁ、あれだ。部活の部長」
「お前部活なんてやってたのかよ。初耳だぞ」
蓮太郎が大仰に驚く。そりゃそうだ。普段の八幡からは部活なんて想像出来ないだろう。
「聞かれなかったからな。俺も不本意なんだが」
「まぁ、なんでもいいわ」
なんでもいいんですか雪ノ下さん……。先に声かけてきたのはそっちなんですけどねぇ……。
「私はこの辺でもう行くわ。もともと一人で来ていたもの」
「あいよ。じゃあな」
「ええ」
その後買い物は特に何か起こる事も無く終了した。
延珠の天誅ガールズのグッズを買ったり、新刊の出ていた小説を買ったり。正直疲れたといえば疲れたが、買いたい物も買えたし……と納得することにした。
延珠は蓮太郎とおそろいのブレスレットを買っていた。一つ七千円弱。クソ高ぇ。天童民間警備会社の社長も延珠にはちゃんと給料を払っているのだから恐れ入る。
八幡がかなり引いた目でブレスレットを見ていると、延珠が「これは妾と蓮太郎の愛の結晶なので、生憎だが八幡に買ってやることは出来ん。だが違うものなら買ってやってもいいぞ?」と言われた。クソ高いので謹んで遠慮させて頂いた。
日が傾き始めた頃、八幡達三人は買うものも買い終わり、帰り道に差し掛かったときだ。
人混みの向こう側から怒号が聞こえてきた。
「そいつを捕まえろぉぉっ!!」
人垣を割って出てきたのは、延珠と同じくらいの年齢の一人の少女。服のところどころがほつれ、頬は煤けている。そして、何よりも赤く変化した瞳が、その少女が何者か何よりも雄弁に語っていた。
少女が手に持っていたのは、幾つかの食料。どうやら盗品らしい。
少女は延珠の姿を認めると、一瞬はっとして足を止める。が、今の状況を思い出したらしく、再び駆け出した。
しかし、常に極限状態で生きているが故の疲労か、足をもつれさせてしまう。次の瞬間、後ろから迫って来た幾つもの手が少女を捉えた。
少女の手が、足が、衣服が、幾つもの手によって絡め取られる。
哀れ少女はもう逃げることは叶わず、地面に引き倒された。
「はっ、放せぇ!」
外周区の子供。そして赤い瞳。ガストレアウィルスに取り憑かれた『呪われた子供たち』だ。
複数の大人たちが少女の周りに群がり始め、罵声や怒声を浴びせかけている。少女の骨が軋む音が耳に痛い。こんなことがここでは日常的に起こっているのだと思うと吐き気がする。だから外出は嫌なんだ。
少女がまるで助けを求めるかのように延珠に手を伸ばす。それを見た延珠は手を震わせながらも手を伸ばすが、次の瞬間蓮太郎が少女の手を払い、睨め付けた。
少女が蓮太郎に怯えた表情を見せ、延珠が悲痛な顔をして伸ばしかけた手を下ろす。
蓮太郎の理屈はわかる。ここで延珠が手をとれば、延珠も呪われた子供たちだと周囲の観衆に露見し、ほぼ確実に集団リンチに遭う。蓮太郎にはこうするしか選択肢は無い。延珠を巻き込まない為に。
……だから。
「────え…………?」
少女の掠れた弱々しい声。
「…………比企谷……?」
だから、俺がその手をとった。払われた少女の手が、地面に下ろされる前にしっかりと握りしめる。
少女にのしかかっていた大人を八幡が冷めた目で見ると、何かに縛られたかのように動きを止める。その隙に少女を引き出し、背中で庇うように前に進み出た。
「なっ……なんだテメェ! このバケモノを庇うのか!?」
硬直が解けた観衆が動き始め、今度は八幡に罵声を浴びせかける。そうだ。こういうのは俺の役目だ。
「ああ」
「そいつはガストレアだ! 呪われた子供たちなんだぞ!!」
「だからなんだ?」
「は……?」
観衆が再び動きを止める。何を言っているかわからない、と言ったところか。
「だからなんだ? って言ったんだよ。この子は万引きをしたのかも知れんが、犯罪者をリンチにしてもいいなんて法律があるわけでもねぇし、呪われた子供たちにだって人権はあるだろうが」
詭弁だ。こんなことを言ったってこいつらが止まる訳じゃない。今までそれが許容されて来ていて、政府からも黙認されているのだ。これは意味のある行動ではない。
蓮太郎や延珠が固まっている。八幡がこんな行動をするなんて全く思わなかったのだろう。普段の八幡からは想像出来ない行動だ。
返答の間を与えず、八幡は口元を釣り上げながら続けた。
「なんで『呪われた子供たち』に暴行を加える? ガストレアウィルスを身に宿しているからか? それともただの憂さ晴らしか? まぁどちらにせよ自分勝手な理由だよな。ガストレアよりお前らの方がよっぽど醜い」
観衆の憎悪が自分に向けられるのが分かる。賞賛を受けたことも、誰かに認められた事もない。受けたことがあるのは侮蔑と憎悪と嘲笑だけ。昔から慣れ親しんだ感覚だ。
「お前らは呪われた子供たちを外周区に追いやって、よくもまぁこの安全地帯でのうのうと暮らしてるもんだ。大嫌いな『呪われた子供たち』に守ってもらってる立場だってのに、まったく良いご身分だよな」
「貴様ァッ!!」
八幡の台詞に頭のネジが飛んだのか、複数の暴漢が突っ込んでくる。もうすでに少女に危害を加えていたのだ。今更躊躇いはしないだろう。
八幡は殴りかかってきた男の鳩尾に拳を叩き込み、背後から掴みかかってきた男を避けると、手を捻りあげた。
「ざけんな!!」
更にもう一人、拳を固めて突っ込んでくる暴漢。手を捻りあげていた男を観衆の方に投げ飛ばすと、後ろから殴りかかってきた男の拳をさけ、関節を極めながら地面に組み伏せる。
組み伏せられた男は、地面に顔を擦り付けながらもなんとか抜け出そうともがくが、更に力を入れるとミシミシと骨から軋む音がし、呻き声をあげて動かなくなった。
「貴様ら何をやっている!!」
人垣が割れ、二人組の警官がやってくる。
抑えつけていた男を放すと、手をさすりながら抜け出した。先ほど殴りかかってきた暴漢たちは既に人ごみの中に紛れ退散してしまっている。
警官が何事かと詰め寄ってくる。
「集団リンチの仲裁をしていただけです。……あと、この子」
少女が万引きをした事と、身寄りが居ないだろうから保護してやって欲しいという旨を警官に告げると、警官は少女を冷たい目で見たあと、パトカーに少女を入れて去っていった。
蓮太郎と延珠のもとに戻ると、延珠が蓮太郎に何故あの少女を助けなかったのかと責め立てていた。
周りの視線に気付いたらしい蓮太郎が延珠をビルの隙間の薄暗い空間まで連れて行く。ついていくと、八幡に気付いた延珠が頭を下げて来た。
「八幡、すまない……あと、ありがとう。あのとき八幡が助けてやらなかったらあの子は……」
「気にするな。お前だって里見が動けなかった理由くらいわかってんだろ」
「…………うん」
俯く延珠。気持ちはわからんでもない。同じ呪われた子供たちが目の前でリンチに遭っていたら是が非でも助けたくなるだろう。
そう思い蓮太郎の方を向くと、蓮太郎は難しい表情をして何か考えこんでいた。突然弾かれたように顔を上げると、延珠の肩を掴む。
「延珠。家まで一人で帰れるか?」
「え?」
延珠の返事も待たずに蓮太郎が走り出す。おいおいそりゃ無いだろ。延珠めっちゃ困惑してんぞ。
延珠に一言断りを入れ、八幡も蓮太郎の後を追う。
少し周囲を見回すと、原付に乗った少年に声をかけてる蓮太郎の姿があった。蓮太郎は民警ライセンスを少年に提示すると、少年が困惑しているうちに原付を奪い取る。それ職権乱用だろ。
「どうした里見っ」
「あの子……もしかしたら普通に署に連れられないかもしれない」
蓮太郎の言葉に八幡の脳に電撃が走る。あの子は『呪われた子供たち』だ。警官の中にも子供たちに私怨を燃やす輩は少なくない。あの警官たちが素直に署に連れていくかどうかと言われたら…………
「あの警官達の……私刑に処されるって事か?」
「確信はもてない」
だが、可能性は低くない、と言外に含める蓮太郎。大分不味い状況だ。下手したら人気の無いところに連れて行かれ殺されかねない。
「一旦荷物を置いてから行く。先に行っててくれ」
「わかった」
言い切るよりも早く原付を走らせる蓮太郎。あの子を、死なせる訳にはいかない。
駅のロッカーに荷物を預け、スマホの画面を見る。こんなときの為にGPSアプリを入れておいたのが幸いした。スマホに入れてある連絡先は数えるほどしかないが、仕事上関係のある蓮太郎の連絡先だけはどうしても必要だったのだ。
画面にはここから数キロ……外周区あたりにアイコンが点滅している。ここは……廃工場か廃墟の群落だろうか?
駅から飛び出すと、運良く止まっているタクシーを見付けた。タクシーに飛び乗ると、行き先を告げ、出来るだけ早くと付け加える。
制限速度ギリギリのスピードで走るタクシーに揺られながら、少女がどうか無事でいて欲しいと切に願った。
タクシーを飛び降りると、短く礼を言って、料金を多めに払う。
飛び降りた先は廃墟群。外周区に程近く、長い間放置されていたため鉄錆の臭いが鼻を刺す。
廃墟群の中に進むとタイヤ痕がある。大分新しい為、おそらくこれがあのパトカーのものだろう。
さらに進むと、廃ビルの陰に隠れるように停められた原付があった。蓮太郎がここに来ている証拠だ。
歩いていると、突然漂ってくる濃密な血の臭い。スマホの画面を確認。血の臭いがする方向とGPSのアイコンの方向が一致。嫌な予感がする。
廃墟群の中を一気に駆ける。途端に強くなっていく血臭。嫌な予感は当たった。当たってしまった。
鉄柵のそばで、蓮太郎例の少女を抱きかかえていた。少女の体は頭を始め至るところから血が出ていて、顔面が蒼白だ。どうやら先ほどの警官たちに銃で撃たれたらしい。
その姿を見て、八幡は無力感に苛まれた。助けたつもりになってもっと酷い目に遭わせてしまった。いや、あそこで八幡が介入しなくとも結果は同じだったろう。だが、それを防げなかった自分にやり場のない怒りを覚える。
「その子が…………」
「……さっきの警官にやられた」
蓮太郎が悔しそうに唇を噛む。
「俺は……この子を守れなかった」
きっと蓮太郎も八幡と似たような心情なのだろう。歯が割れんばかりに食いしばっており、奥歯がギリギリと軋みあげている。
蓮太郎が服が血で汚れるのも構わず少女を抱きしめる様を目の当たりにして、痛々しいとさえ思った。
その時、体の至るところに銃で風穴を開けられ、とうに絶命していたはずの少女がむせ返りながら血を吐いた。
「「────!!」」
まだ、生きている。怪我の状態からは助かるかどうか危ういが、もしかしたら────
「里見ッ」
「わかってんよ!」
蓮太郎の返答。考える事は同じらしい。八幡と蓮太郎は少女が助かるかもしれないという一縷の望みにかけて走り出した。
「…………かなり危険な状態です。助かるか否かは五分五分といったところでしょう」
「…………それでも、まだ生きていると言うならやってくれ」
なんとか病院まで辿り着いた八幡と蓮太郎は、少女の容体について医師から話を聞いていた。八幡は手近な椅子に座っており、医師には蓮太郎が対応している。
少女は病院に着くや否や集中治療室に運び込まれ、現在手術の真っ最中だ。着いたときにはかなり呼吸も浅く、本当に助かるかどうか今も疑問だが、やはり呪われた子供たちだけあって再生力と生命力が並では無いらしい。使用された弾丸がバラニウム製でなかった事も幸いして、未だ命を繋いでいる。
「失礼ですが、あの子は…………」
「…………ああ、『呪われた子供たち』だ」
蓮太郎の返答に医師が苦い顔をする。
『呪われた子供たち』には保護者も戸籍も無い為、手術料がとれない事を懸念しているのだろう。
あるいは、この医師事態が『呪われた子供たち』を忌避しているのかもしれない。
「大変申し上げにくいのですが…………」
「手術の代金は俺が肩代わりする」
医師の言葉をさえぎる様に言う。きっと医師が言いたい事はこの事だろう。
「…………比企谷……!?」
蓮太郎から驚愕の声。まぁそうだろう。手術料は馬鹿にならない金額の筈だ。だが、ここでその額を支払えるのは八幡しかいない。
「構わねぇよ。金にはある程度余裕がある。……それでいいですか」
「は、はい」
若干気圧されたような医師の声。蓮太郎が申し訳なさそうに目を伏せる。別に蓮太郎が罪の意識を抱く必要は無い。事実こいつの現在の生活はかなり切迫している。
失礼しますと断って、医師が場を離れる。後には八幡と蓮太郎だけが残された。夜も遅い病院の中、二人の間に暗い沈黙が落ちる。いつまでもこうしている訳にもいかないので、壁際に置かれている椅子に腰掛けると、先に口を開く。
「もうお前がここに居る必要は無いぞ。家で延珠が待ってるんだろ」
「あ、ああ……悪ぃ」
蓮太郎が暗い面持ちのまま病院を後にする。八幡は未だに点灯し続ける《手術中》の表示の前で手術が終わるのをひたすら待ち続けた。
物々しい金属質な扉の上の、《手術中》の灯りが消えたのは、それから丁度六時間後の事だった。
蓮太郎が帰ってから六時間の間、何も口にしていなかったが、不思議と苦にはならなかった。
扉から神妙な面持ちをした初老の医師が出て来て、八幡の前で立ち止まる。
八幡は手術の結果がどうなったのか一刻も早く聞きたかったが、可能な限り落ち着いた所作で立ち上がった。
「手術は成功です」
思わず、安堵の溜め息を吐いてしまいそうになる。だが、今度は助けられて良かった。そう思って顔を上げると、似たような表情をしている医師と目が合う。
「ありがとうございました」
いえいえ、と初老の医師が存外朗らかに笑う。
「しかし……手術が成功したのはほとんど奇跡のようなものです。さすがは『呪われた子供たち』と言うべきか……普通の子供ならまず助かっていないでしょう」
そりゃそうだ、と思う。胸や腹ならまだしも、頭にまで何発か銃弾を食らっているのだ。普通の子供だったら助かる道理は無い。
「……完治までどのくらいかかりますか」
「『子供たち』の再生力を加味しても良いのなら、数日で完治するかと。ですが、無理に動かさず、安静にして置いた方が良いと思います」
「そうですか……」
それきり、両者は口を噤む。もともと会話は得意ではない性分だ。こんな空気の中雑談で場を盛り上げる事なんて出来るはずもない。
思い出したかのように、初老の医師が遠慮したような顔つきで聞いてくる。
「退院した後……あの子はどうするおつもりですか?」
聞いてきたのは今後の事。もし少女が回復したとしても、またそのままにすれば同じ事が起こるだろう。だが、その答えは決まっている。
「外周区寄りに、『呪われた子供たち』を匿っている場所があるんで、そこに連れていきます」
そうですか……、と医師が安心した表情を見せた。
「以上ですか?」
「いえ、あともう一つ」
医師に向き直る。
「彼女に会わせてくれませんか?」
相手が理解のある御仁だったのか、特に嫌な顔をされることも無く、彼女が寝ている部屋に通してくれた。
件の少女が寝ているのは、部屋の奥の、窓際のベッド。
時刻は既に深夜の二時を回っており、後幾らも経たないうちに三時になる。今日は満月なのか、月明かりが妙に明るく、カーテンの隙間から差し込む光が寝ている少女の顔を柔らかく照らしていた。
「……………………」
その穏やかな寝顔を眺め、顔に手を伸ばす。煤けていた顔も、拭かれたおかげで綺麗になっている。少女は存外端正な顔立ちをしていた。
口元に手をやると、呼吸するごとに吐き出される息が感じとれる。……良かった、生きている。
彼女は『呪われた子供たち』で、今はこのご時世だ。『奪われた世代』の憎悪に怯え、こんな風にゆっくりと眠ることなどほとんど無かったのだろう。
…………可哀想に。
彼女たちはただの被害者だ。彼女たち『無垢の世代』はガストレア戦争後に生まれた世代で、ガストレア戦争に対する知識などほとんどない。それなのに、ただガストレアウィルスを身に宿しているというだけで、他者から忌避され、憎悪され、排斥される。
きっとこの子にも親がいたのだ。この子だけじゃない、外周区のあの子たちにも。
彼女たちが普通の人間として生まれてこれたらどんなに幸せだっただろうか。
普通の人間として生まれてこれたら、両親に愛されて、学校に行って、普通の人生を歩むことが出来たのだろうか。
仮定するだけ無駄な話だ。頭を振り、帰ろうとすると、不意に少女の瞼がピクリと動いた。
「…………!」
まさか……こんなに早く意識が戻るはずがない。頭ではそう考えつつも、固唾を飲んで見守ってしまう。
やがて薄らと目を開けた少女は、ひとえにガストレアウィルスの恩恵なのか、確かに意識を保っていた。
その少女は回復するどころかまだ手術した直後なのにも関わらず、あろうことか喋ろうとまでした。
その唇から零れ出る言葉を、決して聞き逃すまいと耳を澄ます。
「…………、……」
「……ああ」
きっと微笑んだつもりなのだろう、少女はほんの少しだけ口元を綻ばせると、再び穏やかな眠りの中に落ちていった。
意識しなければ聞き逃してしまう程にか細く、小さい声だったが、確かに聴きとる事が出来た。
それが聴けただけで、自分のしたことは無駄じゃ無かったと知ることが出来た。それで満足だ。
もう帰ろう。家でカマクラが待っている。
八幡は彼女を起こさないよう、静かに病室を後にした。