夜を染める黒(旧題 : 俺ガイル×ブラック・ブレット)   作:つばゆき

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神算鬼謀の狙撃兵

 

 

 

 

 清涼な夜の爽気が頰を撫ぜる。

 日はとうに沈み、青白い月明かりとカーテンを揺らす風のそよぐ音だけが支配する暗がりの病室で、蓮太郎の意識は覚醒した。

 生温い熱気が夜を支配していた数日前とは打って変わって、頰を撫ぜる爽気は連日の猛暑で疲れた身体に心地よい。

 昏睡している延珠の寝顔を眺めながら微睡んでいたところまでは覚えていたが、どうやらそのまま寝こけてしまったらしい。その間に延珠の意識も回復しているかもしれないと淡い期待を抱いたが、隣のベッドの延珠は蓮太郎が眠りこける以前と変わらず穏やかな寝息を立てている。しかし蓮太郎はなんら落胆の色も見せずに、延珠の穏やかな寝顔を慈愛に満ちた眼差しで見遣る。

 決戦の夜だった。これから数時間の間にすべてが決まるとは思えないほどに、東京の夜は澄み渡り、穏やかに凪いでいる。

 もし延珠に意識があったのならば、菫や木更のように蓮太郎を止めたのだろうか。真意は未だ昏々と眠り続ける彼女にしかわからない。だが、もし延珠が蓮太郎を止めたとしても、彼が止まることはなかっただろう。それは延珠を傷付けられたという私怨でも、守れなかったという自責でもない。もうこれ以上ティナに人を殺して欲しくないという願いだった。

 

 蓮太郎は一瞬瞑目すると、決意も新たに立ち上がる。

 程なくして──少なくとも、夜明けまでには延珠は目を覚ますことだろう。昏睡から目覚めた彼女を悲しませることはしたくない。かといって蓮太郎にティナを手ずから殺すつもりなど毛頭なかった。もし八幡が同じ立場だったとしたら、襲撃を受けた際一度は仕留め損ねたとはいえ、今度こそ確実に息の根を止めようとしただろう。そうでなくても、今晩彼が実行するカウンタースナイプでは、戦闘能力を奪った上で無力化などという生温い考えを持ち込む筈はない。

 願わくば殺してくれるなと蓮太郎は切に願った。八幡の狙撃は援護に限り、ティナとの決着はあくまでも己の手でつけたかった。己の怠慢が招いた結果なら、己の手で始末をつけるべきだ。

 どうしようもない我儘だと思った。あまりにも度し難い、唾棄すべき甘さだ。

 己がどれほどの困難に挑むのかはわかっていた。ティナを殺すまいと手を緩めれば、殺されるのは己なのだ。否、己に限った話ではない。蓮太郎を殺した後に、その牙が向けられるのは他ならぬ聖天子なのだ。

 何一つ取りこぼさずにすべてを手に入れる。そんな許されざる決意を満身に漲らせ、蓮太郎は静かな足取りで病室を後にする。

 昏々と眠り続ける延珠の寝息だけが、夜の病室に残された。

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 澄み切った夜空に眩しさを感じるほどの満月が煌々と周囲を照らす中、比企谷八幡はそこにいた。

 東京エリア南岸部から僅かに離れた区画にある、モノリスとはほど近い高層建築の数々。市民の居住区とは離れ、一般企業の雑多なビルが点在する区画の一部ではあるが、モノリスが近いこともあり有名企業が利権争いをしている東京エリア中心部とは趣を異にして、活気も人気も幾分薄い。しかしその中の利権争いに疲れた奇特な大企業が、モノリス付近の地価の安さに物を言わせ新たな支部として高層ビルを建築しようとしているのが、今八幡が潜むビルである。

外周区である三十九区とは区画を(また)いでこそいるものの、モノリスにほど近い区画の特徴の例に漏れず、高層建築の数は多くない。

 ティナの予測出現ポイントが打ち捨てられた廃ビル群及び高層マンションである以上、射角を取るためにも両方に射線が通り、かつ高度を取らなければならない。その二つの条件を満たす狙撃ポイントが確保できたのは全くの僥倖と言ってよかった。

 建築途中で鉄骨が剥き出しになり、資材や廃材が転がるばかりであるこのビルも、日中の喧騒とは打って変わり工事が中断される夜の間は簡易的な施錠がされるのみで侵入自体は容易い。八幡のような例外を除いて侵入する目的そのものが想像し難い建築途中のビルは、警備員はおろか監視カメラの一つも設置してはいない。エレベーターの電源が落とされているため、地上数十階の階段を踏破しなければならない手間を除けばまさに理想的な立地といえた。

 現場作業員が居なくなるのを見計らって建物内に侵入した八幡は、無人の階段を二十分近くかけて登りきり、最上階と思しき建築途中の支柱の影に潜んでいた。放置された重機と点在する支柱、資材ばかりである雨ざらしの最上階は煩雑な見た目の割にやたらと風通しが良く、青白い月明かりしか光源がないため妙に寒々しい。

 そんな季節外れの肌寒さも、手元の狙撃銃の銃身を撫ぜながらスコープを覗く八幡の意中にはない。時折思い出したかのようにインコムに囁きかける口調は機械じみて事務的だ。

 

「ここに張り始めてから丁度二時間が経過した……司馬、そっちはどうだ?」

『──生体反応は未だなし。一応司馬重工(ウチ)の衛星からの監視も続けてるけど、動きは見られへんなあ』

 

 事務的な八幡の口調に反し、無線越しにぼやく未織は平常運転だ。

 廃ビル群と高層マンションの残骸を、狙撃銃と観測手用のスコープで交互に監視するのは些か難儀ではあったが、普段単独で動く八幡には相方となるイニシエーターが存在しないためそれを弁えた上で行動するしかない。

 狙撃において必要なものは、何にも増して“忍耐”である。排除すべき標的を、“殺せる”と確信するその時まで、何日でも何時間でも待つのが狙撃の真理だ。豆鉄砲のような口径の銃を持った俳優が、鮮やかな一射で以ってハインド攻撃ヘリを撃墜する──そんな失笑ものの茶番はB級映画の中でしかありえない。

 様々な銃を手に、様々な戦場で待ち伏せる──あるいは熱砂の上で灼けつくような太陽に照らされながら、あるいは寒風吹き荒ぶ雪国でその身を凍えさせながら。いつ現れるかもわからない、そもそも現れるのかすらわからない標的を撃ち抜くために、来るべき必殺の時を延々と待ち続けるのだ。

 戦場に身を置き続けて数年経った八幡も、決して突撃銃(アサルトライフル)短機関銃(サブマシンガン)よりも狙撃銃(スナイパーライフル)の銃把を握り慣れていると言うつもりはない。それでも、決して狙撃手(スナイパー)という過酷な任務に身を置くものの心理を弁えていないというわけではなかった。

 むしろ、ただ“殺せ”と命じられるだけだったそれまでの任務に比べれば、標的が現れる場所も時間もわかっているだけに、精神的負担は遥かに軽かった。ティナ・スプラウトが狙撃で聖天子を仕留めようとするのは確定的。更にわざわざ目の前に垂らしてやった餌に食いつかないはずもない。であるならば、予測した狙撃ポイントを監視しながら座して待つだけのことだ。焦る要素など微塵もない。

 

 八幡は高層マンションの屋上に向けて据えてあった観測手用のスコープから目を離すと、L115A1を構えて廃ビル群の監視に移る。

 前方一キロ余りにそびえ立つ、全高三〇〇メートルはあろうかという廃墟。ガストレア大戦の爪痕として所々が崩落し、コンクリートが剥がれ剥き出しの骨組みが点在する中、それでも耐震工事が繰り返され頑丈に造られた素体は放置される以前の威容をそのままに、崩れ落ちる気配など寸分もうかがわせない。

 光量増幅装置の内蔵されているスコープは、月明かりなど存在しない夜にも一定の距離効果を発揮する。今夜のような眩いほどの月夜ならば尚更に、静謐に沈むはずの夜闇を詳らかに暴き出す。廃ビル群の全体を俯瞰するように監視していた八幡の視界の端に、昏い色のドレスが翻った。

 暗視スコープの暗緑色の視界の中に、おぼろげに浮かび上がる小さな体躯。高倍率テレスコピックサイトに切り替えて確認してみれば、距離ゆえに顔立ちこそ確認できないものの、白い肌にプラチナブロンドはティナ・スプラウトに相違ない。

 無人となった高層ビルの屋上に忽然と姿を現したティナは、吹き付ける強風を歯牙にもかけず長大な鋼の銃身を傷んだコンクリートの上に横たえる。

 

「司馬。標的を捕捉した。南西方向、廃ビル群の一番高いビルの屋上だ」

『──こっちも今捕捉したで。電波妨害(ジャミング)はどないする?』

「俺の指示を待ってくれ。ぎりぎりまで警戒させたくない。聖天子のホテル到着まで……いや、偽の警護ルートの第一狙撃ポイントまであと何分くらいだ?」

『──せやなぁ……およそ二十分、てところやな』

「了解。それまでに仕掛ける」

 

 一切の私情を交えず、獲物の挙動を観察する目は腐敗の色を見せず冷徹だ。

 声音までもが冷え切る八幡の変貌は未織にとっては馴染みの薄いもので、些か居心地が悪い。表面上こそ平静を取り繕ってはいるが、やはり未織とて戦場に身を置かぬ市井の出である。八幡や蓮太郎などといった『兵士』の属性をもつ者達とは根本的な乖離があった。

 

「──里見。聴こえるか?」

『──感度良好だ。どうした?』

 

 突然の無線にも、即応態勢にあった蓮太郎からの応答(レスポンス)は迅速だった。僅かに気負いの見られる声音は少しばかり強張っていたが、ここぞというときの蓮太郎の働きに疑いを持つ八幡ではない。

 

「ティナ・スプラウトを捕捉した。廃ビル群の屋上に伏せている。これから仕掛けるが、不測があった時は例の仕掛け(・・・・・)を起動する。一帯に電波妨害(ジャミング)がかかるから無線はできないものと思ってくれ」

『──ああ、わかった』

 

 無線を切った八幡は、スコープで油断なくティナを見据えながら懐の信号銃を意識した。八幡がティナの反撃によって不覚を取った場合、信号弾を打ち上げる手筈となっていた。蓮太郎もまた然りである。

 そうでなくても八幡の状況は未織が把握しているし、そもそも信号弾を撃ち上げられないほどのダメージを受けたなら手遅れである。無線が使えなくなるがゆえの苦肉の策ではあるが、初めから無線を使った緻密な連携など想定していない状況ゆえに、デメリットは皆無だった。

 

 二〇倍に拡大された視界の向こうで、ティナが懐から拳大の球形物(ビット)を取り出して虚空に放る。合計三つ放り投げられた『シェンフィールド』は、重力に逆らうようにふわりと浮き上がると音もなく飛翔していく。途中で二手に別れたそれらは道中と高層ホテルの二方向を監視するつもりだろう。

 予想通りの展開に内心ほくそ笑みそうになった八幡は、しかし次の瞬間ティナがとった行動に目を細めた。

  伏射(プローニング)態勢に移行したティナのドレスの裾から、音もなく虚空に躍り出たもう二機(・・)の『シェンフィールド』。くるくるとティナの周囲で旋回したそれらは、示し合せるように互いをカメラアイで確認すると、警戒するようにビル周辺を漂い始めた。

 まさに想定外の事態である。同時に使用可能な『シェンフィールド』は三機までだと菫に事前に言い含められていただけに、それらの性能分析が盤石ではなかった事実が詳らかになる。

 しかしその程度の事実に狼狽する八幡ではない。そもそもが妨害する対象を選ばない電波妨害(ジャミング)装置ならば、範囲内に存在する限り何機いようと『シェンフィールド』を無効化する事だろう。

 

「司馬。ティナ・スプラウトが『シェンフィールド』を展開した。明らかに数が多い。上限は不明だが──大勢に影響はない」

 

 冷静に報告しながら、八幡の心中は落ち着いていた。

 ティナの機械化能力たる『シェンフィールド』は、展開すればするだけカバーできる範囲は増えるがその分脳への負担が増える諸刃の剣である。それらを問答無用で黙らせる電波妨害(ジャミング)による大音量のノイズは、展開する数が多いほどティナの脳を責め苛むだろう。

 しかし、如何に『シェンフィールド』の数が電波妨害(ジャミング)に及ぼす影響がないとは言え、八幡が奇襲を敢行する前ならばその脅威度は依然健在だ。蓮太郎がティナの籠城するビルに近接すれば、浮遊する『シェンフィールド』に感知されるのは確実である。兵士とはいえ隠行の心得がない蓮太郎が『シェンフィールド』の捜索の目を潜り抜けられる可能性は低い。

 それまでに決める、と冷え切った視線をティナに据えると不敵に嘯いた。

 チャールズ・ホイットマンごっこはこれまでだ、と。

 

 

 

 

 

 満月を背にバレットM82改を構えていたティナの脳内に、不意に大音量のノイズがかまびすしくなり始めた。

 現在展開している五機の『シェンフィールド』から送られてくるはずの情報は、電波を送受信するまでの間に想定外のノイズに見舞われ情報信号としての意味をなさない。

 

「…………ッ!!??」

 

 飽和するノイズと情報にティナは悶絶してコンクリートの上を転がった。経験したことのない事態に混乱したティナは、しかし津波のように襲いくる無意味な情報信号の山に頭を抑えることしかできない。

 ビルの壁面をなぞるように警戒していた『シェンフィールド』は、主の混乱を表すように、そして混じるノイズがバグの様にその挙動を危うく揺らす。

 まさに慮外の一撃、電波妨害(ジャミング)の効果は劇的だった。

 対人戦、狙撃に関して圧倒的なほどのアドバンテージを誇っていた『シェンフィールド』は、外部居住区たる三十九区を覆い尽くすノイズによって完全に封殺された。

 しかしティナもいつまでも混乱に陥っているわけではない。気が狂うほどのノイズと情報信号の嵐を振り払う様に『シェンフィールド』との接続を打ち切ると、荒い息を吐き出しながら偏頭痛めいた痛みに顔をしかめた。

 

“まさか、こんな事をしてくるなんて……!”

 

 操縦主を失った『シェンフィールド』が、硬質な音とともにコンクリートに落下する。今日までティナの狙撃を支えてきたそれも、こうなっては最早路傍の石も同然である。

 ティナの兵士としての知識、常識に当てはめれば、経験こそないものの一目瞭然だった。

 ノイズ・ジャミング。強いノイズ電波を発信し、周辺の電子機器を無効化するそれはティナの『シェンフィールド』も例外ではない。ノイズ電波を発している以上それらを発生させる装置が周囲に設置してあるはずだが、簡単に見つかるような場所にあるはずもなし、それ以上に『シェンフィールド』を失ったに等しいティナには、それらの捜索そのものが困難である。

 そしてその装置が近辺にあるということは、ティナがこの場所を潜伏地点として選ぶ事が露見している事を意味し──

 

 確信にも似た予感がティナの背筋を戦慄で凍らせる。

 次の瞬間、慄然とするティナの真横のコンクリートを、闇夜を切り裂き飛翔した漆黒の弾丸が抉り穿った。

 砕け散るコンクリート片から顔を庇いながらも、ティナは動揺に身を竦ませていた。今まで数々の狙撃任務(ミッション)をこなしていながら──彼女は今まで一度も、自分が狙撃される(・・・・・・・・)状況に陥ったことがなかったのだ。

 それでも苛烈なまでの訓練を施されたティナの身体は、敵弾に身を晒したまま硬直する事をよしとはしなかった。

 手元のバレットM82改を抱えると、膝立ちの態勢から弾かれるように身を翻し、手近な給水塔の陰に転がり込む。──追撃は、ない。

 相手も(にわか)仕立ての狙撃手(スナイパー)というわけではないらしい。罠と予感しながら飛び込んだとはいえ、潜伏を始めてから数十分と経たずにティナの位置を探り当てた相手が素人のはずもない。

 初撃のみで射撃方向を割り出せたのは、ティナの天性の戦闘勘と僥倖に恵まれたものと思って良かった。懐から手鏡を取り出したティナは、給水塔の陰から手首だけを覗かせる。

 廃ビルの屋上に伏せていたティナを狙い撃てるのは、より高所に陣取っている者のみ。それに射撃方向まで割り出せていたならば、敵が伏せている場所がどこかは自ずと察しがつく。

 外部居住区を多く擁する三十九区。それの北東に位置するのは一般企業の雑多なビルがほとんどの三十八区。それらの中でこの廃ビルより高所があるとすれば、あの建設途中の高層ビルしかない。

 

 身を乗り出し過ぎていたティナを狙い撃ったのか、高層ビルの最上階が明滅した。しかし飛来した弾丸はティナを抉ることは叶わず、遮蔽物(カバー)となっている給水塔に着弾する。

 距離は目算で一キロ強。それだけでも相当の腕を持つと思っていいが、地上三〇〇メートル以上の高層階ではその強風も侮れない。初弾が外れたのは横殴りの強風に弾道がズレたからと言っても過言ではあるまい。仮に今夜が無風の夜ならば、ティナは今頃風化したコンクリートの上で無残な骸を晒していたことだろう。

 しかし如何にティナが『シェンフィールド』を失ったとはいえ、こと狙撃という点において誰にも劣るつもりはなかった。

 『シェンフィールド』を奪い、ティナの位置を特定したカウンタースナイプの技量は驚嘆に値するだろう。だが最も重要な初撃を外し、位置を露見させた以上相手はティナに対するアドバンテージを失ったも同然。そしてティナの手元にバレットM82改がある以上、相手がアンチマテリアルライフルを持っていたとしてもティナの優位性は揺るがない。

 己を鼓舞したティナはしかし楽観的観測に身を任せることなく、冷静に状況を推し測り──

 (たわ)めた脚をバネのようにして給水塔の陰から飛び出した。

 距離が一キロ以上離れているならば、弾丸の撃発から着弾までのタイムラグはおおよそ一秒。狙撃の腕がどれほど優れていたとしても、フィジカル面で圧倒的な優位性を誇るイニシエーターを捉え切れる筈はない。

 再び明滅──回避運動。翻るドレスの裾を擦過する弾丸に肝を冷やしながら第三射を躱してのけたティナは、コンクリート面を転がって伏射態勢(プローニング)に移行する。

 ティナの握るバレットM82改は個人携行火器として圧倒的な初速と有効射程を誇る。アンチマテリアルライフルの一・五倍の初速を誇る弾丸は撃発から着弾までのタイムラグが大幅に短縮され、回避は非常に困難だ。対象が高速で移動しているならばともかく、歩行(かち)の相手にティナの弾丸を逃れうる術はない。

 そう意気込んでスコープを覗き込んだだけに、ティナの視界に入ってきたものが彼女にもたらした狼狽はひとしおだった。

 常人の八倍の視力を誇り、闇夜を容易く見通す暗視性能。そのティナの類稀なる能力を近代機器たる高倍率テレスコピックサイトで底上げした視認性は、一キロ先にある人物の容貌すら判別可能だった。

 癖っ毛のある黒髪、すらりとした長身痩躯、冷え切った殺意に凍える視線──それが向けられる先が自分であること事実を目の当たりにして、それでもティナは暗殺の邪魔はさせじと照準に必中の視線を同期させた。

 

 

 

 

 

 テレスコピックサイトを覗き込んでいた八幡は、憎々しげに舌打ちした。

 ティナ・スプラウトの捕捉、電波妨害(ジャミング)による『シェンフィールド』の無効化、超長距離狙撃による先制──すべてが万事滞りなく、盤石のままに進んだ。緻密に練られた計算は、最後まで捕捉されたという事実を露見させずティナを絶命せしめる筈だった。

 

 ──よりにもよって肝心の初撃を外した。

 不慣れな超長距離狙撃だったこともある。夜間で視認性が悪かったというのもある。装備を換装し他の銃を扱ったから、地上三〇〇メートルという強風吹き付ける高所で事に及んだから、など挙げる理由は枚挙に暇がない。

 それでも、狙撃における要所である初撃を逸したという事実は容認し難い事態だった。

 初速三〇〇〇フィート、五〇〇〇フットポンドに及ぶ運動エネルギーは、銃爪を引き切る刹那に巻き起こった強風によって標的を僅かに逸れて着弾した。

 更に、遮蔽物(カバー)から誘い出すための第二射、回避位置を予測して放った第三射までもが辛くも回避され、そして今、反撃のため伏射態勢(プローニング)に入ったティナはこちらを狙い撃とうとしている。

 

 刹那、ビルの屋上で瞬く銃口炎(マズルフラッシュ)──着弾。

 風切り音と共に飛来した大質量の弾丸は、しかし八幡を抉ることなく脇に逸れて林立する支柱の一部を粉砕した。その軌道から敵狙撃手(スナイパー)の動揺を見て取った八幡は、回避運動を取ることなく遊底(スライド)を操作し空薬莢を排出する。

 ティナの持つアンチマテリアルライフルの初速ならば、一キロ以上先の標的であっても着弾まではゼロコンマ数秒。当然着弾までのタイムラグが短ければ“先読み”も容易い。義足が片方破損し高機動を失った八幡に、ティナの弾丸を回避しうる手段は持ち合わせてはいない。

 

“回避に意味はない──”

 

 そう弁えた上で、八幡は冷静に照準を一キロ先のティナに定める。

 ティナが再度発砲──今度は更に近かった。至近に着弾した弾丸はコンクリート片を飛散させ、八幡の頰を切り裂く。『シェンフィールド』を失ったとはいえ、この距離、この強風でこの技量は驚異的だ。

 次は当ててくるだろう──確信にも似た予感があった。じわじわと誤差を修正しつつある弾丸が、次も都合よく外れるなどと楽観する八幡ではない。むしろ先の二発が外れてくれたことを天に感謝すべきだ。

 

 大きく吐気を吐き出した。呼吸と鼓動と殺意を同期させる。一〇〇〇メートル調整している零点補正(ゼロイン)点より照準を僅かに上にずらし、過去三度の誤差を修正する。鼓動による振動も、呼吸による照準のブレも体内に金属製のバランサーを埋め込んでいる八幡には無縁だ。

 轟々と吹き付けていた強風が不意に弱まった。四度目にしてようやく到来した絶好の機会。長年培ってきた経験と戦闘勘が、天啓のように八幡の耳に囁きかける──今だ、と。

 躊躇うことなく必中の予感と共に銃爪を引いた。雷管を叩き撃発した弾丸が、炸薬の轟音を夜空に朗々と響かせる。銃口制退器(マズルブレーキ)から燃焼ガスが噴出され、.338ラプアマグナムが高速回転しながら銃身から射出される。

 轟音と反動にに目を細めたその刹那、八幡は見た。スコープの先のプラチナブロンドの矮躯、その得物の発する銃口炎(マズルフラッシュ)を。

 弾かれたように転がったのは脊髄反射の領域だった。もしくはティナもまた撃ってくるという予感めいたものを感じていたのかもしれない。しかしその弾丸を避け切るには、人間の反射速度では限界があった。

 

「っぐ、ああぁぁぁ……ッ!!」

『──比企谷ちゃん!? 何があったん!? 比企谷ちゃん!』

 

 八幡の絶叫に悲鳴のような声で未織が無線を寄越す。しかしそれに応答している余裕は八幡にはなかった。

 夜気を裂いて飛来した弾丸は、転がるために力を込めた左上腕部を掠めるようにして擦過した。皮下一センチ程度の肉を抉るに留まった弾丸は、しかしその衝撃波で周囲の肉をごっそりと抉り取り、上腕骨を諸共に粉砕していた。背後には血飛沫と肉片が飛び散り、白いコンクリート面を紅く彩る。

 そもそもがアンチマテリアルライフルの弾丸でさえ、人体に命中すれば良くて即死か悪くて致命傷、狙撃された部位は確実に欠損すると言われるほどである。それすら上回る威力の狙撃を受けて、胴体を四散させず、なおかつ四肢のどれも欠損しなかった結果は奇跡に等しい僥倖と言えた。

 取り落としたL115A1にも頓着する暇なく、傍らの支柱の陰に転がり込んだ八幡は、己の腕の惨状を目の当たりにして、身につけていた衣服を破ると脇下をきつく緊縛して止血する。

 顔こそ平静を装っていたが、顔色は真っ青で額に脂汗が滲んでいた。義足に続いて二度目の被弾。今度こそ重傷である。

 

『──比企谷ちゃん! 比企谷ちゃんッ!! 応答してッ、比企谷ちゃん!』

「司馬、左上腕部に被弾した。戦闘続行は不可能だ」

『──被弾って……!』

 

 色を失う未織に、八幡は努めて冷静に声をかけた。

 

「正直痛くて死にそうだが、幸運にも五体満足だ。だがティナ・スプラウトの現状まで確認はできない。次善策でいく」

『……わかった。あと、今からヘリを向かわせるで』

「今にも失血死しそうで気が気じゃないんだ、助かる」

 

 あからさまに安堵したような未織の声音に軽口で応じる。青褪めた顔を見られずにすんだのは幸運だった。

 大きく溜め息をついた八幡は、傍らに転がるL115A1にちらりと視線をやって、無事な方の右手で懐から信号銃を取り出すと上空に撃ち出した。

 煙を引いて撃ち上がった信号弾が、眩いばかりの光を発し始める。蓮太郎が気付くかは完全に運だ。

 支柱の陰から廃ビル群を睨み据える。元よりすべてが上手くいくなどと考えてはいなかった。失敗を想定してこそ幾つもの策を立てるのが常識だ。八幡の瞳は未だ諦観は滲んでは居なかった。

 

 最後の手段だ。あの摩天楼を地に墜とす。

 

 

 

 

 

 最後に放った弾丸の、その弾道を見届けることは叶わなかった八幡だが、効果がなかったかと問われればそれは否である。

 己のダメージに気を取られ正常な判断をし損ねたか、確認し損ねたならば敵はまだ健在だとする偏執的な念の入りようなのか。

 少なくとも、八幡が放った.338ラプアマグナムはティナ・スプラウトの暗殺任務を続行不可能にするだけのダメージを与えていた。

 ティナがバレットM82改の弾丸を撃発したその刹那、飛来したバラニウムの弾丸は彼女の親指を吹き飛ばし、超バラニウムの及んでいない合成樹脂のグリップを粉砕していた。

 持ち手と握力を同時に欠損したティナは、手元から転がり落ちるM82を眺めながら今度こそ観念した。

 最早暗殺を続行するだけの手段はない。偵察兵器として破格の性能を誇った『シェンフィールド』は封殺され、虎の子にして頼みの綱であったM82改は砕け散った。

 接近して強襲をかけようにも、遠距離型のイニシエーターであるティナに護衛を突破する力はない。親指を欠損した右手は武器を保持することは叶わず、バラニウム弾での負傷は再生まで非常に時間がかかる。

 冷ややかな諦観がティナを打ちのめした。

 

 (くずお)れたティナの耳に、甲高い破裂音が忍び込んでくる。

 ぱん、ぱんと連続する破裂音は、ティナの座する摩天楼の遥か下から響いてくるものだ。否、むしろ破裂音というよりは──

 

「な──ま、まさか……ッ!」

 

 悲鳴じみて声をうわずらせるティナは、給水塔に預けていた背を跳ね上げて立ち上がる。ふと顔を上げた先にはどういうわけか信号弾が上がってはいたが、その意図を読むだけの猶予は残されてはいなかった。

 

 爆発。

 間違いない。爆発音こそ密やかに、ビルの外にも微かに聞こえるほどの小さなものではあったが、それが逆にティナの焦燥感を募らせる。

 爆破解体(デモリッション)だ。ティナを仕留めたか確認し損ねた八幡は、なおも暗殺任務の妨害を盤石とすべく、文字通り足元から崩しにかかったのだ。

 地上三〇〇メートルを超える高層から地表に叩きつけられれば、いくら優秀なイニシエーターであるティナといえども死は免れない。よしんば生き(ながら)えたとしても、得物も射角も失ったティナに任務の続行は不可能だ。

 

 落下への準備も、屋外への脱出もすべてが遅かった。

 ティナが八幡の意図を察したその瞬間には、足元が崩れ自由落下へ移る時の浮遊感とともに、ティナは虚空へと投げ出されていた。

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 天に聳え立つ摩天楼──全高三〇〇メートルにも達しようかとという威容が、轟音と共に崩れ去っていく様。

 その一部始終をアイドリングさせたままのバイクに跨った蓮太郎は見届けた。

 破壊は執拗で、徹底的で、そして完璧だった。

 放置された廃ビルの構造をすべて把握していなければ不可能だろうその所業。下階層の支柱全てを最小限の爆薬で、しかし徹底的に破壊したその手際。

 短時間の間にその重量を支える芯を根こそぎ奪われた廃ビルは、横倒しになるでもなく地面に吸い込まれるようにして崩れ去った。

 爆破解体(デモリッション)において、周囲に被害をもたらすものは、轟音でも降り注ぐ破片でもなく、なによりも撒き散らされる粉塵である。

 廃ビル内の淀んだ空気は建物の崩落に巻き込まれ行き場を失い、さながらダウンバーストのように地面に叩きつけられ四方へ散逸した。その際大量の資材、重機、コンクリート片の欠片を巻き込んだ粉塵は数百メートル先まで飛散する。

 もうもうと広がる粉塵から顔を庇い、咳き込みながらも蓮太郎は廃ビルの残骸から目を離さなかった。

 

 八幡よりもティナ本人よりも、彼女の生存を信じていたのは蓮太郎だった。

 あの延珠を下したティナが死ぬはずはない。これで終わりになどなるはずがない。ビルが崩れ落ちてもなお弛緩することを許さない空気が蓮太郎に告げていた。

 如何に手傷を負っていようと、戦闘続行が困難になっていようと、彼女との因縁に決着をつけるのは己でなくてはならない。

 おそらく彼女は生きているだろう。そして生きているならば離脱して再起するに違いない。蓮太郎はそれを許すつもりはない。

 

 粉塵の向こうに、昏い色のドレスが翻る。

 闇と粉塵で判然としない視界も、しかしティナならば真昼も同然に見通すに違いない。ならばこちらがティナを捕捉したならば、即ち彼女もまた蓮太郎を見ているということだ。

逆巻く颶風のように粉塵を蹴散らしたティナが、コンバットダガーを左手に猛然と肉薄する。

 義眼の演算によって鈍化した視界の中で、蓮太郎もまた応じるようにバラニウムの義肢を突き出し──

 

 今宵最後の戦いの幕が、音もなく切って落とされた。

 

 

 

 

 

 

 


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