十一、四   作:なんじょ

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そして花は対となり

 ガシャァンッ!!

 しまった、と思ったのは音が響いた後だった。手から滑り落ちた鉢は床の上で粉々になって、水をまき散らしてしまう。

「あ……」

 慌てて膝をついて手を伸ばそうとして、しかし同時に、頭を突き刺すような痛みが走ってうずくまる。

「雪音?!」

 その場にへたり込んだ雪音に、近くにいた勇音が走り寄ってきた。背中に手をあてて、顔をのぞき込んでくる。

「雪音、大丈夫? ……やだ、顔真っ青じゃない!」

「う、ん……な、何ともな……」

「ないわけないでしょう。ここはいいから、少し休んできなさい」

「でも……」

 雪音は頭を上げて周囲に目を泳がせた。

 救護詰所の大部屋には床を埋め尽くすばかりに怪我人が横たわり、その間を四番隊員の皆が慌ただしげに動き回っている。

 寝台のある部屋だけでは収容しきれないほど、次々と怪我人が運ばれてきているこの状況で、自分だけのうのうと休んでいられるはずがない。

 そう抗弁しようとしたが、勇音はいつになく厳しい表情でこちらを睨み付け、

「これは副隊長命令です。鑑原五席、休息を取りなさい」

 びしり、と言いつけてきたので、それ以上、反抗出来なくなってしまった。

 

 壊した鉢の片づけもそこそこに部屋を追い出され、雪音は一人、詰所の廊下を歩いていく。

 しかしその足下は我ながら頼りなく、時々頭痛と吐き気に襲われて倒れそうになる。

「は……」

 気持ち悪い、体が火照って、割れんばかりに頭が痛い。

 血の気が引いて冷たくなった手を握りしめて、雪音は壁にもたれかかった。

 きつく目を閉じた矢先に、またずきり、とこめかみが疼く。

(まただ。また、どこかで誰かが戦ってる)

 初めは、旅禍の侵入の時だった。

 空から飛んできた旅禍が遮魂幕に衝突した時、その余波で雪音はほとんど殴り倒されるような衝撃を受けた。

 それは封印が揺らぐほどの力だったので、念のためと鬼道をかけ直したが……。

 その封印も、今は危うい。

 瀞霊廷中のあちこちで霊圧の衝突が同時に起こっているのが感じられて、その衝撃が今の雪音にはとてつもなく重い。

 いちいち影響を受けてしまい、どんどん気分が悪くなってくる。

(このままじゃ、駄目だ……。烈様に言って、結界を作ってもらった方が、いいかも……)

 霊圧を遮断する結界の中に居れば、少しはましになるかもしれない。

 そう思って、隊舎へ繋がる通路のほうへ足を向けた雪音は、そこでふと壁に掛かっている木札に目がいった。

 墨痕鮮やかに描かれた名前は、斑目一角。

「あ……」

 思わず動きを止める。

 一瞬、顔を見ようか、それともやめようかと迷ったけれど、血まみれで横たわっていた一角の姿を思い出して、胸がぎゅうっと苦しくなった。

(どうしよう、今、一角が死……いや、居なくなって、しまったら)

 そう思ったら矢も楯もたまらず、部屋の中に足を踏み入れて、ほとんど駆け寄るように寝台へ近づく。

 一角は、そこに居た。

 包帯だらけで痛々しい姿ではあったが、雪音が見つけた時とは違って今は、安らかな表情で目を閉じて眠っていた。

 寝息も穏やかで、顔色もだいぶ良くなっている。

(……良かった、もう大丈夫みたい)

 その落ち着いた様子にほっとした雪音は、そっと椅子を引き寄せて、寝台の脇に座った。

 そのまま黙って一角の顔を眺める。

 これまで何度も一角の看病をしてきたが、こんな風にまじまじと見つめるのは、これが初めてかもしれない。

 きつい目つきのせいもあって、いつもはヤクザまがいに見える一角だが、目を閉じていると意外と端正な顔立ちに見える。

(……ただの欲目かもしれないけど)

 と思ったら、急に顔が熱くなってしまった。

 ぱっと顔をそらして、でもすぐに視線を戻してまたじぃっと見つめてしまう。

 胸がどきどきしてきて、目が、離せない。

 一角負傷の報を聞いた時の衝撃。

 倒れている一角を見つけた時の恐怖。

 傷だらけの状態で、それでもいつもみたいに笑った一角を見た時の安堵と、怒り。

 そんなものがいっしょくたになって、身体の中を駆けめぐって苦しい。

(あぁ、どうしよう)

 唇をぎゅっ、とかみしめた。

 認めたくない、認めたら全てが変わってしまう。

 そう思うのに、その気持ちはもう、否定出来ないほど大きくて、目をそらす事も出来ない。

(どうしよう。あたし、一角が好きだ)

 一角の力が怖くて近寄りたくない、一角の思いに応えられないから離れなくちゃいけないと思うのに。

 彼のそばに居たい、その思いに応えたいと心底から願ってしまう。

 どうして。いつの間に。こんなに、一角の事が好きになっていたんだろう。

「……」

 何だか泣きたいような気持ちで、雪音はそろり、と手を伸ばした。

 指先に触れた一角の頬は暖かくて、確かに生きていると実感出来て、それでまた目が潤んでしまう。

 この思いをどうすればいいのか分からない。

 だが今、一角がちゃんとここに居てくれるのが、とてもとても嬉しい。

「良かった……」

 一角が死ななくて、良かった。生きていてくれて、良かった。一角が居なくなってしまわなくて、本当に……

「きゃっ?!」

 そう思ってたら、いきなりがしっと手を掴まれたので、雪音は悲鳴を上げてしまう。

 思わず椅子から立ち上がったら、途端に目眩がして前のめりによろけた。

 一角の上に倒れ込みそうになって、慌てて寝台に手をつく。と、

「男の寝込みを襲うたぁいい度胸だな、雪音」

 笑いを含んだ声が耳朶を打った。

 ぎょっとして顔を向けたら、いつのまに目を覚ましたのか、一角がニヤニヤしながらこちらを見ている。

 途端、血の気が顔に上がる音が聞こえる勢いで、雪音は真っ赤になってしまった。

「なっ、あ、あんたいつ起きてっ……!」

 まさかあたしの独り言聞いてた!? それってちょっとかなり嫌だ!

 焦る雪音に、一角はさぁなぁ、とどっちつかずの返事をするだけで答えようとしない。

(う、うううう、やだやだ今こんなぐちゃぐちゃな状態で顔突き合わせてるなんて、恥ずかしくて仕方ないんだけど!)

「あっ、あたし仕事あるからっ!」

 がばっと起きあがって逃げようとしたけど、一角は雪音の手を掴んだまま離さない。何だよ、と口を尖らせてみせる。

「俺怪我人なんだぞ。ちゃんと看病しろよ」

「そ、それは……あ、あたしの担当じゃない、もん」

 苦し紛れに言い訳。実際のところ、一角の面倒を見るのは雪音と、なぜか暗黙の了解で決まってるので、他の隊員がつく事は無い。

 だが、今は他のところの手伝いに行っていたので、雪音が担当でないというのも嘘ではない。

「い、今他の人呼んでくるから、離してよ」

 とにかく恥ずかしくて逃げだそうとしたけど、

「駄目だ」

 ぴしゃり、と言い切って、一角は再度手を引き寄せた。

 そうして手のひらを口元に上げて、

(きゃ、きゃーーーーーーーーーーーーーー?!!!)

 手のひらに触れた、少しかさついた唇の感触に、雪音はびしりと硬直してしまった。ちょっ、な、手にキスされてるっ……!

「いっ、いいいいいっか、なんっ……!」

 まともに言葉が出てこず、うわずった声で叫んだら、一角は思いきり吹き出した。

「すげー顔してんな、おい」

「なっ、だ、だって……」

(いきなりこんな事されたらびっくりするに決まってるでしょ!)

 はくはくと口を開け閉めする雪音を楽しそうに見上げた後、一角はふ、と息を吐いて瞳を閉じた。

「お前の手、温くて気持ち良いんだよ。しばらく貸せ」

 そうして雪音の手で自分の目を覆ってしまう。

「う……」

 雪音は言葉に詰まってしまった。そんな殊勝な事言われたら、つっぱねる事なんて出来ない。

 実際、雪音の手の上に重ねられた一角の手は、少し冷たい。

 いつもは暑苦しくて、夏は頭から湯気出してるくらい新陳代謝が良いくせに。おそらく重傷を負った為に、体温が下がっているのだろう。

「…………」

 手を振り払う事も出来なくて、しばらくの間、雪音はじっとしていた。

 一角もさすがに疲れてるのか、また穏やかな寝息を立て始める。

 そうしていると、まるでこの部屋だけ周囲の騒乱から切り離されたかのように、静かだった。

 先ほどまでとても頭が痛くて、吐きそうなくらい気持ち悪かったというのに、一角を見ていたら落ち着いてきている。

 不思議だ。

 一角のそばは苦しくて悲しくて腹が立って――だが、とても居心地が良い。

「……一角」

 名前を呟きながら手を裏返して、一角の指に自分のそれを絡める。

 骨張った手は大きくて、指は雪音のそれより細くて長い。

 手の平が固いのは、やっぱり刀を持って戦う機会が多いから、だろうか。

 手のひらでまめがつぶれた跡を感じながら、雪音はぎゅ、と一角の手を握りしめる。

 

 本当に。本当に、この人が生きていて良かった。

 あたしの好きなこの人が、生きていて良かった――


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