十一、四   作:なんじょ

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カレイドスコープ

 日々忙しい仕事の合間、たまたま空いた時間があったので、雪音は休憩がてら、救護鞄の整理をする事にした。

 鞄の中身を机の上に並べてチェックをしながら、足りないものを足し、交換する必要があるものを脇によけておく。

 そうして手を動かしながら、しかし思考は別のところへ飛んでしまう。

『分かってて、いつまではぐらかすのかな』

 昨夜、弓親が言った言葉を思い返して、雪音は思わず顔をしかめた。

『この男は自分に惚れてるって、優越感に浸っていたいの?』

(そんな事、ない)

 一角が自分に惚れてるとか、惚れていないとか、そういう事が問題なのではない。

(ただ、怖いだけ)

 自分の枷が外れた時、何が起こるか分からない、それが恐ろしい。

 寒椿は雪音の恐れに対して、心の有り様だ、と言った。

 心が強ければ、雪音は雪音の思うように生きていけるのだと、その強さを持つ己を信じよ、と。

 だが、どうして自分を信じることなど出来るだろう。

 あの記憶を思い返すだけで、恐怖のあまり震え出してしまうような、こんな弱い自分を。

『何を言っても何をしても、一角なら傷つかないし、裏切らないと思ってる?』

 そんなふうに思っていない。

 友達になろう、と言った時、ありありと失望の表情を浮かべた一角の顔が忘れられない。

 一度でも、男と女になって対峙した以上、一角が雪音に惚れているのなら、そこから先の展開を望むのも当然だと思う。

 だが、雪音には出来ない。

 いつまた、一角の霊圧を受けて縛道が外れるかと怯える雪音に、一角の好意を受ける覚悟など無い。

(やっぱり、駄目だ。こんな半端な気持ちで、一角と友達付き合いしていけるわけがないよ。一角に、悪い)

 報いる気がないのに、側に居て欲しいなんて、我が儘だ。仲直りはしたけれど、これまでとは距離を置かなければ。そう思ったところで、

「……ん。鑑原さん!」

「きゃあっ!」

 不意に大きな声をかけられたので、雪音は飛び上がってしまった。

「な、なに?!」

 がばっと振り返った先には、雪音以上に驚いた顔で硬直した花太郎がいる。

「は、花君? 何、急に声かけないでよ」

「え、あ、す、すみません。あの、何度も声かけたんですけど、鑑原さん、気づかれなかったので、つい……」

 花太郎は申し訳なさそうに肩をすぼめた。名を呼ばれている事など少しも気づかなかった。雪音は慌てて手を振る。

「い、良いわよ。あたしがぼーっとしてたのが悪いんだから。何? 仕事?」

「はい、あの、患者さんがいらっしゃってるので、診療室へ出て頂けませんか?」

「あ、はい、了解。ちょっと待っててもらって」

 雪音は急いで救護用品を鞄に詰めなおし、それを手に持って足早に診療室へ向かった。がらっ、と扉を開け、

「すみません、お待たせし」

 まで言って、固まる。

 救護室の椅子に座って待っていたのは、一角だった。

「……おう」

 雪音を見ると、一瞬虚をつかれて目を見開き、それからばつが悪そうに視線をそらす。

 そのそらし方があまりにも露骨だったので、雪音はどきりとした。

 この間の友達宣言が尾を引いているのかもしれない。怒っているのだろうか。

 居たたまれない気持ちになりながら、しかし一度跳ねた鼓動が、ど、ど、ど、と早いテンポで鳴り始める。

「あ、と」

 顔が熱くなってきた事に焦って、雪音もまた視線を外した。急くように部屋の中に足を踏み入れ、

「け、怪我したの?」

 早口に問いかける。一角は無言で頷いて、手を差し出した。

 死覇装の袖を捲り上げた腕には、斜めに引っかき傷が走っていて、じんわりと血をにじませている。

 雪音が躊躇いながら一角の腕を取って、

「虚に、やられたの? 浅いけど、長いわね」

 問いかけたら、一角はおうと短く答えたが、まだそっぽを向いていた。

 やはり、怒っているのかもしれない。しかしそれも当然だ。

 雪音はきゅ、と唇をかみしめて、消毒液の蓋を開けた。脱脂綿にしみこませて、丁寧に傷を拭き始める。

「…………」

「…………」

 部屋の中に、緊迫した沈黙が落ちた。雪音も一角も一言も話さないまま、治療だけがてきぱきと進み、

「……はい。これで終わり。帰っていいわよ」

 雪音の声を潮に、どちらともなく離れる。

 一角は居心地悪げに椅子の上でもぞっと身じろぎした。雪音は逃げるように背を向けて、片づけを始めて一角が出ていくのを待った。が、

「……あー、雪音」

「は、はい?」

 びくっとして振り返ったら、まともに目が合って、雪音は軽く息を飲んだ。

 細めた一角の目は、どこか切なげで、熱を帯びていて、言葉より雄弁に心中の気持ちを表しているように思えた。

 見つめていると、また鼓動が激しくなってきたので、狼狽して視線を落とす。

 と、一角は短く息を吐いた。

「……もうしねぇって言ったろ。そうびくびくするなよ」

「え」

「だから。もうお前を怯えさせるような真似しねぇっての」

 顔を上げると、一角は頭をぼり、とかいて立ち上がった。苦笑いに近い表情で雪音を見下ろし、

「友達、なんだろ? 頼むから、普段通りにしてくれよ。ンな大人しいお前なんか、気持ち悪くて仕方がねぇよ」

 請うように言う。

 けれど目は変わらず、優しげでさえあるのに、言葉はそれを裏切っているようだった。

 どちらを信じればいいのかと戸惑った雪音が、辛うじて「う、うん。ごめん」と答えると、一角は手を伸ばして、雪音の頭をくしゃくしゃっと撫でた。

「うわっ」

 びっくりして声をあげる雪音に、一角はくっと笑って手を離した。

「今日、風弦洞に昼飯食いに行くけど、お前も来いよ」

「は?」

「たまにゃ、昼に行くのもいいだろ。親父が、最近お前の顔見ないって寂しがってたぞ」

「あ……う、うん。分かった」

 断る理由は無いので、小さく頷く。

「おう。じゃ、後で弓親と一緒に来るわ」

 一角はそういって手を振り、さっさと部屋を出て行ってしまう。

 その背中を見送った雪音は、ぐしゃぐしゃにされた頭を無意識に手で梳かし、しかしその指が簪に触れたので、動きを止めた。

 途端、血の音が聞こえそうな勢いで顔が赤くなる。

(や、やだ、何で?)

 距離を置かなければ。そう思ったばかりなのに、どうしてこんなにどきどきしているのだろう。

 こんなの間違ってる。勘違いだ。

 あの目で見つめられた時、胸が苦しくなるような気がしたなんて、気のせいだ。

 雪音は違う、違うんだってば、と呪文のように何度も言いながら、頭を抱えた。胸の動悸は、まだおさまらない。

 

 廊下をどすどす歩いていた一角は、曲がり角で出てきた小柄な人間とぶつかりそうになった。

「あ?」

「あっ、わっ、す、すみません!」

 手に持っていた包帯をいくつか落としながら謝ったのは、一角がここに来た時応対にあたった少年、確か花太郎という奴だ。

 一角はびき、と額に青筋を浮かべると、

「てめぇ!」

 ガッと花太郎の胸倉を掴んだ。

「ひぃっ?!」

 包帯を押しのけて突進してきた腕をよける事も出来ず、花太郎はそのまま上に吊り上げられた。

 力任せに引き寄せられた先には、背後に炎さえ背負っていそうなほど凶悪な一角の顔。

「ごっ、ごごごごごごめんなさいーー?!」

 花太郎は意味も分からないまま、とりあえず謝ったが、一角はドスのきいた声で、

「てめぇ……さっきの俺の話聞いてなかったのか? 俺は雪音以外の奴を連れてこいっつったろうが……」

 ぎりぎり、と締め付けてくる。ひいいい、と声にならない悲鳴をあげる花太郎。

「す、す、すみま、で、でも、他に出られる人が、いなくてっ」

「そんならそうと言え! 今日という今日は、あいつの治療なんて受けたくなかったんだぞ俺は!」

「きゃーーーーっ!」

 そのまま勢いよく壁に叩きつけられる。恐怖のあまり少女のような悲鳴をあげる花太郎を、

「てめぇのおかげで、俺ぁ心底居心地悪かったんだぞこら、失神してんじゃねぇ!」

 まだ足りないとばかりに、がくがく揺さぶった一角だったが、

「ま、斑目三席! 何をなさってるんです!」

 騒ぎを聞きつけた伊江村三席が部屋から飛び出してきた。叱責しようとして、しかし一角のただならぬ様子にたじろぎ、

「う、うちの隊員が何か、失礼をしましたか?」

 思わず低姿勢で尋ねてしまう伊江村。一角はじろ、と底冷えするような眼差しで伊江村を見た。

「……何でもねぇよ」

 吐き捨てるように言うと、花太郎を放り出し、苛々した荒い足音を立てながら詰所を出て行く。取り残された伊江村は、

「や、山田! 貴様一体、斑目三席に何をしたんだ!」

 鋭く問いかけてきたが、花太郎はくらくらする頭をようやく持ち上げたところで、答えるどころではなかった。う~、と頭を抱えたところで、

「……あれ? 香の匂い……?」

 不意に香った匂いに、鼻を動かした。微かでも、詰所に似合わないきつい香りに、一体どこから来たものだろう、と首を傾げたが、

「山田ー!」

「ひいっ、すみません!」

 伊江村の怒声が降りかかってきたので、そんなことはすぐ忘れてしまった。

 

* * *

 

 隊舎に戻ってきた一角の話を聞いた弓親は、深々と嘆息した。

「馬鹿だね一角、他の女につけられた傷を、雪音ちゃんに治してもらうなんて。

 だから、憂さ晴らしに遊郭行くのなんてやめたら、っていったのにさ」

「う・る・せ・ぇっ! 雪音にはぜっっったい言うんじゃねぇぞ!」

「言えないくらいなら、行かなきゃ良いだろ」

 青筋立てて念を押す一角に呆れて、弓親はもう一度、しみじみした口調で馬鹿だね、と呟いたのだった。


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