ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第六Q 下らなくなんかない

 

身体が酷く重く感じる。

足が今にも折れてしまいそうな程に弱弱しく震え、膝についた手が、腕が、肩が軋む様に痛みを訴える。

 

肉体的な、直接的なものではない。

 

「ハァッ……!ハッ……!」

 

再開した試合は、一方的なワンサイドゲーム。初めは僅差だった筈の点数は何時の間にかぐいぐいとその差を広げ、既に十本近いシュートをただ一人で決めている進は未だに余裕綽々の面持ちで此方を見ている。

 

バスケを続けてきて、試合でこれ程までに精神的な苦痛を感じた事が今まであっただろうか?

どんな局面でも諦めようとはしなかった生来の負けず嫌いで頑固者の一面が強い筈の智花は、しかし今にも倒れてしまいそうなひなたや愛莉の姿を視界に映すと、思わず顔を後悔や申し訳なさに歪める。

 

対戦相手の心をへし折る事に何の躊躇いも見せない圧倒的なワンマンプレイ。まるで自分一人だけで試合全てを支配出来るとでも言いたげな挑戦的なその姿が、嘗ての自分に重なって見える。

 

勝ちに拘り、勝利に縋りつき、勝者であり続けようとして盲進していた愚かな過去。

それが齎したもの―――そこに拘り続けて得た筈の経験と実力の全てを否定するかの様な、遥か上を往くドリブル、パス、シュート。

 

楽しいバスケをやりたかった。

もう勝ちに拘る事なんてない。その必要はない。

 

この場所にいれば、この場所であれば、私はもう嘗ての嫌いな自分を見なくて済む。

そう、思い込んでいた。

 

「ハァ……ハァ……」

 

―――だが、今まさにその場所が奪われようとしている。

自分が居続けたいと思った場所が。自分に大切な事を教えてくれた場所が。

 

「ハァ……ハァ…………」

「……そろそろ、ゲームセットと行こうか」

 

進が正面に立ちはだかる。

 

「ねぇ湊さん、一つだけ聞いてもいい?」

「…………」

「どうして君みたいな凄い選手が、こんな所で燻ぶっているの?」

 

乱れた呼吸音も、観客の声も遠い。

ボールが床を跳ねる音が、進の声が酷く大きく智花の鼓膜を揺らし、響く。

 

「全国大会とか色んな試合を見てきたけど、同年代の女子でこんなに出来る人はそうそういなかった。君ならもっと上を目指せた筈なのに、どうして自分からその全てを捨てようとしているの?」

 

『―――それにちょっとだけ、男バスの気持ちも分かるんだ』

 

ふと、昂の言葉が智花の脳裏を過った。

 

試合とは勝つモノ。

勝負とは勝つモノ。

 

勝った者だけが、その先の選択を選ぶ事が出来る。

負けた者は、何一つ得られるものはない。

 

嘗ての自分はそう思っていた―――そう思い込んでいた。

 

「―――俺みたいに捨てざるを得なかった訳じゃないのに、そんなのはただの我儘だよ。そんな勝手な贅沢を許せる程、俺は大人じゃない」

 

フェイントも通じない。

フットワークも向こうが遥かに上。

 

どうあがいた所で、止められる未来が目に見える。

 

だから諦めかけた。

心が折れかけて―――

 

「ぬるま湯につかるのは今日で終わりにしなよ。こんな『下らない』場所で君の才能を腐らせるのは、余りにももったいない」

 

その一言が切欠だったのか。

何かが切れる音が、智花の頭を揺らした。

 

「……………かない」

「もう終わりだよ。あと五分もないこの状況で、体力も底を尽きかけている仲良しこよしなお遊び集団に群れている君に、ひっくり返せる点差じゃない」

 

煩い。

ウルサイ。

 

「―――なんかない」

 

その見下した様な目が煩わしい。

そのへし折る様な声が煩わしい。

 

何も知らない癖に。

私の事を、『私達』の事を何も知らない癖に。

 

『勝ちに拘るとしたら、その大切な場所をなくしたくない……それだけです』

 

「――――――下らなくなんかない!!!」

「ッ!?」

 

動け!

動け!!

 

止められる?

防がれる?

 

―――それがどうした!!

 

「私はこの場所が好き!!真帆と紗季と愛莉とひなたと、みんなとバスケが出来るこの場所が好きだから!大切だから!!」

 

止められないくらい強く走ればいい。

防がれないくらい速く動けばいい。

 

諦めるにはまだ早すぎる。

泣くのも、悔やむのも、全てが終わった後にしろ!

 

「お遊びなんかじゃない!ぬるま湯なんかじゃない!!下らなくなんかない!!何も知らない癖に、私の―――私達の大切な場所を悪く言わないで!!!」

 

負けたくないんじゃない。

 

負ける訳にはいかないんだ。

負けられないんだ。

 

絶対に、何があろうとこの試合だけは―――この勝負だけは!!

 

「ッ!?この距離で!?」

 

弾丸の様に速く、砲弾の様に力強く放たれたボールがなだらかな丘陵の様な線を描いてネットを揺らす。

普段であれば届く筈もない程に離れた位置からのシュートは、しかし智花の激昂を示す様に力強くコートに落ち、音を立てて弾む。

 

「ハァ……!ハァ……ッ!」

「………………」

 

唖然とした様な表情を浮かべ、進が棒立ちのまま智花の方を向く。

その双眸を射抜く様に鋭く、強く睨みつけたまま、智花は何時になく荒々しい声音で口を開く。

 

「ハッ……だから、ッ……負けない。絶対に……ッ!!」

「――――――ハッ」

 

進が『哂う』。

鋭い智花の眼光を真正面から受け、漸く対等な敵を見つけた格闘家の様に獰猛な笑みを湛えて哂った。

 

 

 

―――ガッ!キュキュキィ!キィ!キッ!

 

「動きが急によくなってんじゃねぇかっ!!まだそんな力隠し持ってたのかよっ!」

「ッ!!」

 

トラッシュトーク――というよりは進の一方的な発言――の中で、急激に二人のレベルが周囲をつき放し始めた。

 

ダムダムッ!

 

「やっぱ下らねぇだろあんな場所!!みんな置いてけぼり喰らってるぜ!!」

「うるさいっ!!」

 

キュキュキキキキィ!

 

「なんでこんだけ力があって今の今まで隠れてたんだっ!?地区大会ぐらい余裕で勝ち上がれるレベルじゃねぇかっ!!」

「一人で戦ったってっ!勝ったってっ!ハァッ!意味がないもんっ!!」

「試合は勝たなきゃ意味なんかねぇだろっ!!」

 

ダンッ!シュ……ガゴッ!

 

誰も介在しない、たった二人の戦場。

 

たった二人の、二人だけの決闘。

 

「負けて慰められれば満足かっ!?泣いて思い出にすればいいのかっ!?違うっ!アンタも俺と同じっ、勝ちに拘る人種だろうがぁっ!!」

 

ダンッ!

 

無情に弾かれた智花のシュートボールが虚空を舞う。

そこに向かって一斉に飛び上がる進と智花。

 

身長的には進の方が上―――が、ボールを奪い取ったのは智花。

着地した瞬間――否、空中にいた時から既に――ボールに向かって伸ばされた進の腕を、身体ごと捻って智花がかわす。

 

「負けちまえば終わるっ!何一つ残らず、それまで積み上げてきた努力がっ!全てがゴミの様に捨てられるんだっ!!」

「違うっ!そんな事無いっ!!」

「負けた事のねぇ勝ち組聖人君子様は言う事が違うなぁっ!?」

 

ダムダムッ!

キュキキキキィ!

 

一瞬、距離が開く。

 

「自分がどれだけ恵まれた世界にいるかっ!少しは自覚しやがれぇっ!!」

 

抉る様にうねりをあげて、進の腕が智花に迫る。

 

「智花ッ!!」

 

誰かが叫ぶ。

世界から音が消える。

 

 

 

―――フッ

 

 

 

コートを駆けるバッシュの音すら響かぬ刹那、進の視界から智花が消える。

空を切った右腕が延び切った時、

 

――――――パスッ……ターン……ターン

 

ネットをすり抜けたボール。

コートをバウンドするボールの音が体育館に響いた。

 

 

 

 

 

 

「何ぼけっとしてるんだよ、水崎」

「ハッ……ハァッ…………え、と……菊池?」

「ま、あんだけ無茶苦茶動きまわればそりゃ足だって止まるさ。次、一本決めようぜ」

 

ポン、と叩かれた肩に意識を取り戻した進は、心ここに在らずといった感じでぼけっとした表情のまま問うた。

 

「な、なぁ菊池」

「ん?どうしたんだ?」

「今、さ……湊は一体、何をしたんだ?」

「は?何って……よく視えなかったけど、『普通に』抜いたんだろ。お前、足が疲れて一歩も動けなかったんだろ?」

 

違う。

そうじゃない。

 

『普通に』抜いた?

 

―――違う。

 

(完全に……視界から『消えて』いた)

 

 


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