その日、夏陽は何時になく焦っていた。
理由は単純、幼馴染であり女バス成立の立役者である真帆が朝っぱらに自信満々に話していた台詞が原因で、要約すると、
「すげーコーチが来たから日曜の試合はアタシらの圧勝だぜ!!」
といった内容である。
お遊びのボール遊びしかやってこなかった女バスにコーチがついて、しかもそのコーチは真帆曰く『すげー』コーチで、真帆の運動神経の良さは幼馴染である自分が一番良く知っており、その真帆をして『すげー』と言わしめるコーチが来た……その事実に、夏陽は何時になく焦りを感じていた。
これでは自分達の望みである練習量の増加、ひいては昨年の雪辱を晴らす為の特訓の機会が失われてしまう。
一バスケ選手として、そして男子バスケ部キャプテンとして思い悩んでいた夏陽は、女バスとの対抗試合に備えて芝浦小からの転校生であり、昨年の県大会初戦でその実力をまざまざと見せつけられた進に協力を仰ぐ事を考えた。
無論初めから彼の力をあてにする訳ではない。そんな事は仲間の信頼を裏切る愚行であり、何より自分自身のプライドがそれを許す筈もない。そもそも自分達の地力を充分に発揮すれば、遊んでばかりでロクに練習もしない女バスなど相手ではないのだ。
だが、同じクラスであり真帆に女バス設立を決意させた去年の転校生、湊智花。
以前の体育の時間でもその力は十二分に脅威として認識しており、下手をすれば自分よりその実力が上である相手を抑えるには、相応の鬼札(ジョーカー)が必要になる。
そこで――この間の体育の時間を見た限りでは――プレイスタイルの似ている彼を『仮想敵』としてはどうだろうか。
自分が智花をある程度抑えられれば、あとは素人のお遊び集団。男バスの敵ではない。
そう思い立った夏陽は、給食の中でも大好物であるシチューをおかわりもせずに即座に片付けると、一人で黙々と食べ進める進の元に向かって、
「水崎、バスケしようぜ!」
美星がその姿を見止めたのは、全くの偶然と言ってよかった。
甥っ子を焚きつけて女バスの臨時コーチに仕立て上げ、今度の日曜日に迫った対抗試合に備えて準備万端と思っていた矢先に、ふと目にとまった光景。
キュッ……キュ!キィ!キッ!
体育館の方から聞こえたボールの弾む音やバッシュの擦れる音に、さては智花が昼食そっちのけで自主錬でもしているのかなと考えて様子を見に行ったらさに非ず。
二人の男子生徒―――男バスキャプテンの竹中夏陽と噂の転校生水崎進が1on1をしているではないか。
しかもよく見れば、夏陽の方は手を膝に当てて息を切らしているというのに進の方は漸く身体が温まってきたといった様子で未だ余裕綽々な面持ち、等と考えている間にも進がドリブルで軽やかに夏陽をかわしてレイアップを決めた。
「くそっ!」
即座に攻守が交代され、今度は夏陽が攻めかかる。地区大会優勝の実力は伊達ではなく鋭いドリブルで進をかわし―――途端、ボールがあらぬ方向へと跳ねた。
進の手がボールを弾いたのだ。完全に死角に潜り込んだ筈の夏陽のボールを。
「うわ……すっげ…………」
その様に、ただただ美星は感嘆の息を洩らした。
転校早々クラス内で浮いてしまった進は、丁度一年ほど前に転校してきた智花に良く似ていると美星は思っていた。
バスケ馬鹿で、人と接する最初の一歩が苦手で、負けん気が強くて、頑固で。
だからこれはいい兆候なのではないだろうか、と美星は思い、いやいや、もうすぐ対抗試合だというのにこのタイミングであのカマキリの手駒が増えては困ると考え、けれど折角打ち解けてくれたんだから邪魔したくないなぁ、と、色んな考えや思いが美星の中で渦巻いた。
智花にとって、周囲と打ち解ける切欠が真帆であった様に。
進にとっても、夏陽がその切欠になってくれるのであれば……
キュ!キッ!
もう随分と見慣れてきたのだろうか。地力での順応性が高い夏陽が進のコースを塞いで動きを封じ込め始めた。僅かに夏陽の表情に笑みが戻る―――と同時に、その表情が一瞬にして凍りついた。
「なっ……!?」
驚きの声を洩らしたのは夏陽か、或いは美星か。
一瞬何が起きたのか分からず、しかし次の瞬間にはボールが吸い込まれる様にゴールネットを揺らし、てーんてーんと皮の跳ねる音が体育館に響く。
「冗談でしょ……?」
思わず苦笑が洩れる。
苦戦なんてレベルじゃない。
―――このままじゃ、負ける!
何度目のシュートを決めただろうか。
ボールの弾む音よりも、目の前で呼吸を乱す夏陽の息使いの方が余程大きく聞こえる空間の中で進は考える。
昼食を黙々と食べていた所をいきなり腕を掴まれ、何事かと考える暇も与えられず体育館へとバッシュ片手に連行され、何時の間にか「俺が勝ったら男バスに入れ!」だの言いだした夏陽を相手に1on1を始めて十数分。
流石にそろそろ体力的にも空腹具合的にも宜しくないのだが、しかし既に体力が自分よりずっと尽きかけて見える夏陽が未だに闘争心をギラギラ滾らせた眼で此方を見ている以上この勝負は続くのだろうと思い、思わずため息が洩れる。と、その瞬間に夏陽の手がボールに迫る。
「んっ」
ターンから一歩、二歩と軽やかに飛び上がりシュート。
さて次は夏陽の攻撃、と思った所で後ろでドタンと盛大な音を立てて何かが倒れた。
慌てて振り返ると、やはりというか予想通りというか見事に仰向けにぶっ倒れた夏陽の姿がそこにあった。
「大丈夫?」
「ぜぇ……ッ、ぜぇ……やっぱ凄ぇな、水崎は」
息を切らしながらよくもまぁ喋れるものだ、と内心関心しながら手を差し出す。手を掴んだ夏陽を立ち上がらせると、再び先程の闘争心剥き出しな瞳が進の双眸を射抜く様に見つめた。
「なぁ水崎、やっぱ男バス入ろうぜ」
「それは……お前が勝ったらっていう話だろ」
「でも、さっきのお前は良い顔してたぜ」
そこで一旦区切ると、何を思ったのか覗きこむ様にして夏陽が顔を近づけた。唐突な接近に思わずたたらを踏む様に数歩下がった進を見、夏陽はニカッと笑みを浮かべると、
「今の仏頂面より、よっぽど楽しそうな顔してた」
「……ッ」
悪意のないその言葉に、しかし進はグサリと肺腑を抉られた様な感覚を覚えた。
そのままそっぽを向いた進の行動を照れと思ったのか、夏陽は先程進がした様に手を差し出す。
「水崎、バスケしようぜ」
◆
それは一種の罪悪感なのかもしれない。
悪意のないあの一言に、言い様のない痛みを感じたのは。
『水崎、バスケしようぜ』
無理やりではあったが手渡された入部届け。けれどそこに名前を、『バスケ』の三文字を書き込む事が酷く罪深い事の様で、手に握ったボールペンが鉛の様に重く感じられた。
家族を壊したのは自分。
父母を不幸に追いやったのは自分。
兄からバスケを奪ったのは自分。
『今の仏頂面より、よっぽど楽しそうな顔してた』
ギリッ、と奥歯を噛み締めた。
楽しんではいけないんだ。
喜んではいけないんだ。
何故なら自分は、大切な肉親を、大好きな兄を不幸に追いやった張本人なのだから。
だから自分は幸せになってはいけない。
だから自分は喜んではいけない。
だから自分は――――――もう大好きだったバスケと、関わってはいけない。
そう思って―――そう思い込もうとして、けれど。
『なぁ水崎、やっぱ男バス入ろうぜ』
あの時あの瞬間、自分は何を思っていた?何を考えていた?
部屋の中に月明かりが差し込む。夜の帳が降りて、世界は静寂に包まれる。
酷く綺麗な満月の夜に、一筋の雫が零れ落ちた。
後に6年C組において『真昼の決闘(マッチ・ディ)』という妙な呼び方をとある養護教諭から授けられた一件から、クラス内に妙な変化が訪れた。
その起因となったのは言うまでも無く夏陽なのだが、彼本人としては進を対智花用の『仮想敵』とする事を当初の目的としていたのだが、何故かクラス内では『袴田ひなた争奪頂上決戦』という認識がなされ、当人たちの預かり知らぬ所で「どちらが無垢なる魔性(イノセント・チャーム)を射止めるか」という話で日夜盛り上がっているとかいないとか。
終いには「今度の対抗試合でより多くの点をとった方がひなたと付き合える」とか「水崎進と竹中夏陽を倒せばひなたに告白出来る」とか、何処から出てきたのかも分からない様な妙な噂まで飛び交い、後者の話を鵜呑みにした一部の男子生徒が昼休みになると体育館でひたすら1on1を繰り返す――というより、二人しかいないのだからそれ以外出来ない――二人に勝負を挑んではあっさり破れる光景が日常的にみられる様になったとか。
その中には男子バスケットボール部員によるキャプテンへの反逆染みた面白半分の参加もあったとかなかったとかいう話だが、こちらも呆気なく潰されたとかそうでないとか。
ちなみに噂の出所が男バスキャプテンの幼馴染で実家がお好み焼き屋を営む女王陛下という話もあるが、真偽の程は定かではない。
そんなこんなをしている内に――最も、そんなこんなをしていたのは主に夏陽と進だけだったのだが――決戦の日曜日が訪れる。