ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第三十五Q あの瞬間から私の人生は始まった

 

『―――……はいはーいっ、久しぶりねリカ!』

「相変わらず元気そうね、アレックス」

 

電話越しに響く、耳をつんざく様な陽気な声音に菫は僅かばかり眉に皺を寄せつつ、久方ぶりに声を聞いた『戦友』の健勝加減に少しばかり頬を緩めた。

 

「所で、いい加減その『リカ』って呼ぶの止めない?」

『なによー、親しみと愛情を込めた私のニックネームが気に入らないっていうのー?』

 

『リカ』というあだ名は、彼女の名前である菫の学名でも、特に花そのものを指し示す場合に用いられる『マンジュリカ』からとったものである。

日本の知識に疎い彼女が、しかし戦友とは云えあだ名一つの為に態々図書館まで足を運んで調べたのだと知った時、感極まったのは記憶に未だ鮮明に残っている。

 

ついでにそのまま『イロイロと』はっちゃけてしまったのも記憶に新しかったりする。

 

「……貴女、もしかしなくても酔っぱらってるわね」

 

子供の様にぶー垂れた声音に拗ねた調子でそっぽを向いているだろう姿を想像し、思わず、といった風に菫はクスクスと笑みを零す。

と、集音器がその微笑を拾ったのだろうか。電話越しにアレックスの声音が更に拗ねた様なものになった。

 

『なによーっ!ふんだ、いーもん別に!後でタイガをいびって発散してやるんだから!』

「あら、私と違ってまだ純情(ウブ)な子供(チェリーボーイ)に手を出すなんて。とんだ悪女(ショタコン)ね、アレックス」

 

所々、まだ日本語に疎い彼女に分からない様に副音声を交えながら少し演技を混ぜて言ってやるが、

 

『……ねぇ、リカ。もしかして今、ジェラシー?』

「 ア レ ッ ク ス ? 」

 

無論、親しき仲にもなんとやら。

日本の精神を忘れぬ菫は、悪乗りを目論んだ親友にしっかりと釘を打ちつけた。

 

『それで?どーしたのよ一体』

「ええ…………ちょっと、頼みたい事があってね」

 

声を業務用のそれに変えて、菫は口を開いた。

 

 

 

 

 

 

話は数日ほど前に遡る。

 

県大会が終了し、しかし女バスとの合同練習に進や夏陽が招聘される少し前。

最近の進の、心此処に非ずといった雰囲気に夏陽が疑念を抱いていた頃の事である。

 

「「「有難うございました」」」

 

その日、男バスは全体的に軽めの練習メニューを終えて小笠原顧問に挨拶していた。後は片付けをして帰宅途中に軽く自主錬をするのみとなっていた夏陽の放課後の予定は、しかし思わぬ所から瓦解した。

 

「ああ、水崎……と、竹中。片付けが終わってからで良いから、後で視聴覚室に来なさい」

 

小笠原顧問の言葉に夏陽は何事かと振り返り、次いで進の何を考えているのかよくわからないぼんやりとした表情を見て、どうやら何事なのか理解が追いついていないらしい進の様子に一抹の安心感を覚えた。

これで実は進だけ先に何かあると聞かされていたら、進のスポークスマン的立ち位置は返上せねばなるまい、今更この仕事を誰かに押しつける気にもならないし、もし仮に希望者が居たとしても譲る気はさらさらない……と、こういう性分が何かと面倒事を背負い込むんだよなぁ、と夏陽は軽く自嘲気味に笑みを零した。

 

見やれば他の面々も「おいタケ、何やらかしたんだよ」とか、興味本位で口を挟んでくる。戸嶋や菊池といった、進と比較的コミュニケーションを取れる六年生は進の方に聞きに行ったりしているが、あのバスケとお好み焼き以外の殆どの事象について無反応無関心を地で行く進が相手ではその成果も芳しくない様だ。

 

兎も角、知りもしない事柄についての追求を避ける為に筆舌を繰り広げつつ、いつもより喧騒が二割増しで遂行された片付けを終えた後、夏陽は進を伴って視聴覚室へと向かった。

 

「…………」

「…………」

 

まだ女バスの練習に招聘される前だった事もあり、この時の道中は恐ろしいくらいの無言だった。ただ廊下を歩く二人分の足音だけが無人の校舎に響き、やや傾きかけた太陽が眩しいくらいに差し込んで、間もなく訪れるであろう季節の到来を待ち切れずにフライングしている様だ。

 

「何なんだろうな…………」

 

階段を上がる途中、夏陽は進に向けた訳でもなく独り言の様に呟いた。

 

「分からない……けど」

「けど?」

 

口ごもる様に進が続けて、

 

「……どうして、態々『視聴覚室』なんだろう?」

「……わっかんねぇ」

 

端的に呟いて、それっきり再び無言。

 

結局、視聴覚室に着くまで両者の間で実のある会話が交わされる事はなかった。

 

 

 

 

 

「来たか。そこに座りなさい」

 

視聴覚室に着くと、小笠原顧問は機材の準備を整えていた。

映写用のスクリーンの前には、学校設備の映写機ではなく8ミリタイプのフィルムが置かれている。足元には幾本かのコードが幾つもの筋を描いており、踏まない様にと注意しながら二人は座席に腰かけた。

 

「先生、あの…………」

「水崎、お前に見せたいモノがある」

 

言って、小笠原顧問はフィルムのスイッチを入れた。

 

「―――これは一般には出回っていない、指導用のテープなんだ」

 

 

 

 

 

谷口歩。

その名を告げた瞬間、電話越しのアレックスの雰囲気が一変したのを菫は感じ取った。

 

「貴女も憶えているでしょ?日米合同で行われた、全日本選抜(JBAドリーム)対全米選抜(NBAドリーム)の試合」

『……ええ、忘れられる訳がないじゃない』

 

その声音は、歓喜と興奮を力尽くで無理やりに抑え込もうとした様にくぐもっていた。

 

数年後のオリンピックを控えて、日本とアメリカの両協会が合同で開催したエキシビションマッチ。

 

当時のアメリカ勢でも屈指の超一流スタープレイヤーが数多く参加したこの試合は、日本とアメリカで計五戦戦ってアメリカ勢の全勝。そのけた外れの実力を内外に示した試合として今でも名高い。

 

わけても評判が高いのは、日本開催の第二戦。

 

「あの時、私はまだ小学生だった……父に連れられて、初めて見た生のバスケットボールの試合」

 

懐かしむ様に、何処か温かな口調で菫は記憶の海を漂う。

 

今でも鮮明に、鮮烈に思いだせる瞬間がある。

プロとして、幾多の試合で名勝負を繰り広げてきた今でも、尚。

 

あの興奮と情熱を忘れた事は、一度とてない。

 

『試合は4Q全てでアメリカが圧倒……当然、そのままNBAドリームが勝利を収めた――――――けど、その事よりも、あのシュート』

 

―――圧倒的大差に、誰もが敗北を疑わなかった第4Q。

パスコースを塞がれた中で、長身の相手DFすらも届かない様なハイボールをゴールに叩き込んだ、全日本の背番号5番。

 

決して長身であった訳でも、体格に恵まれていた訳でもない。

それでも尚、最後まで諦めなかったあの姿は、今でも瞼の裏に焼きついて離れない。思い起こす度、胸の奥が熱くなる程に、あの時あの瞬間は、余りにも鮮烈だった。

 

『―――“虚空(そら)を歩く男”、だっけ?あのシュートは、こっちの新聞でもデカデカと載ったわよ』

 

当時、まだ世界レベルではマイナーの域を出ていなかった日本のバスケットボール界が一気に注目を浴びる事となった全五戦の試合の後に開かれたオリンピックでも、日本勢は健闘。

結果こそ芳しくなかったが、世界的にその名を知らしめる切欠となった。

 

「あれから随分と経って、男子のプロリーグが設立されて数年…………最も、オリンピックへの出場は、モントリオール以来途切れているけど」

『彼が生きていたら、今頃は最年長選手か……監督かしら?どっちにしても、今よりも日本のバスケがメジャーになっていたのは疑いようがない、だっけ?』

「ええ……本当に、今でもそう思うわ」

 

事あるごとに口走っていた言葉を聞かされ、噛み締める様に菫は呟いた。

 

―――けど、今でもハッキリと云える事がある。

 

「『紛れもなく、あの瞬間から私の人生は始まった』」

 

ピッタリと図った様に合わさった声音に、どちらともなく笑みが零れる。

 

第一線を退いた今でも、やはりこの人とは息が合う。

言葉にこそ出さなかったが、二人は胸中で同じ事を思っていた。

 

 

 

 

 

 

「谷口歩は、当時最も将来を嘱望されたエースの一人だった……交通事故で夭折するまでは、な」

 

解説をする必要もないだろう。

告げながら、進を見やった小笠原顧問はその表情から容易に察した。

 

恐らくは、今まで一度も見た事がなかったであろう実父のバスケ。

ゴールに対する『嗅覚』、あくなき『情熱』、『執念』。一つ一つの動作から、進はそれらを機敏に感じ取っているのだ。

 

でなければ、これ程眼を爛々と輝かせて、興奮に身を震わせる事はないだろう。

 

「プレーを見るのは初めてだろう?」

「……は、い…………あの、先生」

「校門の施錠は五時だ。細かい機材が多いから、片づけは明日私がやろう」

「はい……っ!」

 

声を僅かに震わせながら、進は食い入る様に映像の虜となる。

 

息子として、一人の選手として。

興奮冷めやらぬ様子の進を見やり、夏陽を伴って視聴覚室を後にする。

 

少しばかり不服そうな夏陽ではあったが、それも進の様子を見れば納得した様な表情を見せ、邪魔をしない様に扉を閉める。

 

「…………父、さん」

 

閉める間際、室内から僅かに洩れでた、震えを振り絞った様なか細い声音を、しかし小笠原顧問も夏陽も、『何も聞こえなかった』と記憶した。

 

 

 

 

 

帰り道、進は何処か上の空だった。

結局、施錠五分前になっても戻らない進を迎えに来た夏陽に引きずられる様にして学校を後にした進は、その足で訪れた公園で昂達とミニゲームを数本やって―――昂との対話で、自分の内を見つめ直して見た。

 

「…………」

 

どこまでいっても変わらない『水崎進(ぼく)』という本音。

 

――――――僕は、僕自身が一番大好きなバスケを、ずっと続けて行きたいんです。

 

「………………」

 

偽らざる本音を吐露して、進は陽の傾きかかった空を仰ぎ見る。

なんやかんやと随分と遅くなってしまった。連絡の一つでも入れておいた方がよかっただろうかと思いつつ、先日紗季が女バスの面々のアドレスを登録した事で登録件数が倍以上に膨れ上がった連絡帳から叔父夫婦の自宅番号を選んでコールする。

 

と、電話口に出たのは叔父夫婦の穏やかな声ではなく。

 

『―――……ああ、進か?』

「ッ!?」

 

兄、だった。

どうして、と問おうとして、しかし余り動かぬ口を必死に開こうとして―――それよりも早く、新の言葉が進の鼓膜を揺らした。

 

『出来るだけ早く帰ってきてくれ。叔父さんの家に俺と…………親父と、お袋が待ってる』

 


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