ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第三十三Q お前自身の夢は

 

谷口歩。

 

恐らく、現在日本の第一線で活躍するバスケットプレイヤーにおいてその名を知らない選手はほぼ皆無といってもいい。

高校生にしてバスケットボール全日本代表に選出され、同年の世界大会に出場。大学時代にはインターカレッジにて優秀選手賞を受賞し、卒業後には日本リーグでMVPに輝くなど数々の功績を残し、五輪にも出場して世界的にその名を轟かせた。

最多得点記録、MVP受賞回数などにおいて未だに日本バスケットボール界の頂点に君臨する数多の名選手に数えられながら、しかしてその身につけられた名は「不世出」或いは「無冠の帝王」。

 

その所以は、輝かしい個人成績の裏に隠れた『チーム』としての実績にあった。

高校から社会人、そして五輪に至るまでに彼が残してきた記録の多くは『個人』のものであり、『チーム』としての優勝、或いは日本一に輝いた事は一度もない。

在籍したチームが弱小であった訳ではない。しかし大和大を筆頭とする天下の名門を相手取るに、彼個人ならば兎も角チームの地力が足りなかった学生時代、野球の様に当初からプロリーグとして充実した設備やスポンサーが用意されていた訳ではない彼の選手人生中期から最盛期に至るまでのバスケットリーグの現実などが、事あるごとにその類稀なる才覚の芽を摘み取って来た―――つまりは、生まれる時代を違えてしまった悲運の天才、と世間に囁かれてきたのだ。

 

そして彼が悲運たる最大の理由。

それは、ことバスケットボールにおいては世界でもトップクラスとまで謳われた天才の、余りにも呆気ない最期に由来する。

 

 

 

 

 

 

「僕が本格的にバスケを始めたのは、小学校に入ってからでした」

 

述懐する様に進は口を開いた。

夏の日差しは休憩の為に日除けを設けられたベンチすら容赦なくかんかんと照りつけ、頬を撫でる様に吹き抜けた風がやがて来る季節を告げる。

 

その流れに逆らう様に、彼の言葉の一つ一つは冷たく閉ざされた記憶の世界へ向かい、語られるのは厳冬さえも生温い過去。

 

「その折に、親戚の一人にこう言われたんです」

 

『やっぱり、血は争えないわね』

 

「初めは、兄さんの事を言っているんだと思ってました。…………けど、何年も続けていく内にぼんやりとではあったんですが、違和感が生まれてきたんです」

 

血は争えない、というのであれば、自分と兄のバスケには何らかの共通点が生まれて然るべきなのに―――そのスタイルは個と全を象徴するかの様に対極。

 

余りにも違う。

決定的な程に、何もかもが。

 

「…………多分、五年生の時には僕は、1on1であれば……兄を、水崎新を超えていたんです」

 

究極的なまでに『個』の才覚に突出した自身のバスケ。

圧倒的な程に『全』の力を引き出す事に長けた兄のバスケ。

 

歳月を重ねる度、その違いは顕著に現れていった。そしてそれは彩色の黒白と等しく、余りにも違いすぎた。

 

そしてそれらの疑念が進を追いこみ、苦しめた。

 

兄を愚直なまでに、いっそ神格視とさえ思われる程に敬愛していた進にとって―――何よりも、兄の教えを誰よりも叩き込まれてきた自分が、その兄と異なっていて良い訳がない。

そんな事は、あり得てはならない。

 

慣れないチームプレイは結果として時間の浪費以外の何者でもなくなり、個の力で我武者羅に押し通してきたプレイスタイルも結局は徹底した研究の元に看破され、全国の頂を掴む事は叶わなかった。

 

全てが負の連鎖に結び付く混沌の中――――――全ては『あの日』へと繋がる。

 

 

 

 

 

「こう見えても僕、以前は結構友達とかいたんですよ。その内の一人に、一年生の時からクラスメイトで、ずっと女バスのレギュラー争いに参加していた子がいたんです」

 

だから、と進は継げる。

 

学校や部活の中でその子を含め、友達と遊ぶ時は大抵バスケだったコト。

自宅の近くの公園で遊ぶ事が主で、折を見ては兄を誘って遊んでいたコト。

そして―――それが兄とその子とを結びつける、自覚なしのキューピッド的な役割を果たしていたコト。

 

それら全ては、あくまでも偶発的なものでしかないのかもしれない。

 

だが結果としてその子と兄は戯曲さながらの大騒動を繰り広げる事となるコトを、当時の進は知る由もなかった。

 

「…………五年生に上がった時、初めてその子とクラスが別れました。その時から―――いや……もしかしたらずっと前からだったのかもしれませんけど、その子は『いじめ』の標的にされていたんです」

 

他ならぬ、そのレギュラー争いを繰り広げていた少女―――安条結菜の指図の元に。

 

「四年生の時点で、安条はレギュラー候補の中でも断トツの実力を持っていました。その時は誰もが、彼女が次期レギュラーに、女子バスケットボール部のキャプテンになるだろうと思っていたんです」

 

だが、運命の天秤は彼女には傾かなかった。

 

六年生の引退に伴う部内の次期中核(レギュラー)選手発表の時、横山HCが指名したのは『個』の実力に秀でた安条結菜――――――ではなく、水崎新同様に『全』の力を引き出せるその少女だった。

 

「横山コーチの指導方針は、既に個の力押しから総合力での安定に転換されていたんです」

 

だからこそ、進もまたキャプテンに指名される事はなかった。

前衛の主軸ではなく、後衛から全体を広い視野で見渡せるもう一人の司令官―――鈴本憲吾に、その白羽の矢が立ったのだ。

 

水崎進は、それを納得して受け入れた。

だが安条結菜は、その決定を不服としたのだ。

 

どうして実力で劣る彼女がキャプテンなのだ、と。

どうして実力の勝る進はキャプテンではないのだ、と。

 

一年生の時から――進は知らなかったが――進を誰よりも尊敬し、いっそ崇拝に近い念を抱いていた安条にしてみれば、この結果が二重三重に苛立たしかった。

 

『あの女は進の指導の元で技術を高めたのだ。だというのに、どうして進は選ばれずにあの子は選ばれる?―――どうして、バスケの実力の高い私はその指導を受けられず、実力の劣る彼女はその指導を受けられる?――――――どうして、どうして――――――――どうして、安条結菜(わたし)ではない?』

 

憎悪、嫉妬、忌避。

ありとあらゆる負の感情の全てが、その時その瞬間に爆ぜた。

 

 

 

「…………そして、時期を同じくして兄さんも苦しんでいたんです」

 

進の握られた拳の中で、爪先が掌に喰い込む程に力強く握られる。

己の無力を、不明を恨むかの様に、言の葉がゆっくりと紡がれた。

 

「兄さんは、周囲の勝手な期待や信頼に押しつぶされそうになっていたんです。バスケの才能だけを求められ、まるで勝つ事だけが存在意義であるかの様に……そんな周りの身勝手に、けれど、兄さんは答え続けたんです」

 

如何にエースと褒め讃えられようと。

如何に天才と謳われ誉れ高かろうと。

 

その身は未だ二十歳にも満たぬ子供。己の在り方を決める事すら儘ならぬ、大人が導かねばならぬ迷い子。

 

だと、いうのに。

 

「…………僕は、そんな兄さんの気持ちに気付けなかった。自分のことだけしか見えなくて、自分の事しか考えられなくて、周りの事に何一つ関心を向けなかった」

 

その怠慢が、傲慢が招いた惨劇。

己が招き寄せた、絶望の底なし沼に囚われて、そして―――

 

 

 

 

 

 

「―――『僕は、結局兄さんの本当の弟じゃないんだ。結局、本当の水崎の子供じゃないんだ』」

 

家族の崩落に終止符を打った、あの日あの時の言葉。

救いを求めた訳でもなく、ただ在るがままを呟いたそれが。凄惨な仕打ちの中、呻く様に呟いたそれが。結果として彼を地獄から掬い上げた。

 

「……父さんも、母さんも、泣いていました。何もかも、気づくのが余りにも遅すぎて、手遅れで、間に合わなくて。それでも、何度も、何度も、うわ言の様に繰り返すんです。『ごめん、ごめんね』って」

 

そうして、自分の身は叔父夫婦の元へと引き取られた。

友に捨てられ、居場所を失い、家族をばらばらにした自分が―――自分だけが、安息の逃げ道に至った。

 

「……他にも、色々と気づく要素はあったんです。転校の時の戸籍だったり、小さい時の写真がなかったり。だけど僕にとって父さんも母さんも一人ずつしかいなくて、誰よりも大切な兄さんがいて―――それが全てで、それで全てだったんです。それなのに、僕は僕自身の手で、僕自身の言葉で、その全てを壊したんです」

 

壊れてしまえれば、どれだけ楽だっただろう。

何もかもを捨ててしまえれば、どれ程幸せだった事だろう。

 

「――――――でも、慧心(ここ)に来て、出会ってしまったんです」

 

あくなき夢を追い続ける少年に。

才能も実力も兼ね備えた少女に。

 

その存在が、進を踏みとどまらせた。向き合わせた。そして、立ち向かわせた。

 

もう二度と、同じ過ちを繰り返さない。

もう二度と、あの悲劇を起こさせない。

 

 

 

「夏陽と一緒に戦えるなら、湊の未来が閉ざされない為なら、どんな事だって構いません。もう二度と、僕の所為で僕の大切な『仲間』の夢が潰える所を、見たくないから」

 

何人にも侵せぬ大望を語るかの様に紡いで、進は大きく息を吐いた。

 

其処に在るのは、凡そ小学生の身の上とは結びつかぬ程に強く、何よりも硬い信念。

不退転の決意をありありと語るその姿は、いっそ堂々とした風格すら漂わせた。

 

「…………なぁ、水崎」

 

だからこそ、昂は希求してやまなかった。

余りにも激しく、故に儚く思えるその激情の炎が燃え尽きる前に。冷徹にして強靭な、己の内に猛り狂う獣を抑えつける程に強い意志が崩れる前に。

 

何よりも先ず、問うておきたい事があった。

 

「―――お前自身の夢は、何なんだ?」

「………………僕、自身の?」

「お前の決意は分かった。その意志の強さだって、これまでのお前の言動だって、大体は納得がいった。だから、聞いておきたいんだ」

 

どうしてお前は、そんなにも『強く』あろうとするのだ、と。

 

「そんなに苦しんでまで……そんなに悲しい思い出を背負ってまで、どうしてバスケを続けるんだ?水崎先輩の事とか、昔の仲間の事とか、智花や竹中の事とか、全部抜きにして、お前に何が残ってるんだ?」

 

進の原理は、須らく『仲間』の為であり『家族』の為であった。

それら全てを取り除いた時、果たして何が残っているというのか。その空虚な器の中に、何があって――――――何を以て彼は、此処まで強くなる事を選んだというのだ、と。

 

「…………僕が、バスケを続ける、理由……ですか」

 

虚空を彷徨っていた視線が、ただ中空の一点を捉えて動かなかった。

ゆっくりと、己の内と向き合う様にその言葉の一字一句を噛み締めながら、進は、やがて―――

 

 

 

 

 

「あれ?水崎君、もう帰っちゃったの?」

「ああ。流石に帰宅途中で長居し過ぎたって」

 

特訓上がりなのか頃合いを見計らったのか、葵が歩み寄って来た。見やれば何やらコート上に死屍累々というか死期目前的なナニカが三つばかり転がっているが……まぁ気にしたら今度は自分の番な気がするので昂は全力で無視する方向に決めた。

 

「……どうしたの?」

「何が?」

「何が、って……そのニヤけた顔はどうしたんだって聞いてんの」

 

言われて、昂は漸く自分の頬が緩んでいる事に気づいた。

慌てて引き締める様に頬の筋肉を引っ張ってみるが、こういう時に限って中々上手くいかないもので、ふと見ればその百面相もどきを覗き見たと思われる葵がプルプルと笑いを堪えているのが見える。

 

「っ、葵!」

「ゴメンゴメン……ッ、プッ、クッ、アッハハハハ!!」

 

夏の太陽に馬鹿みたいに似合う哄笑が公園に響く。

咎める様な脹れっ面を浮かべていた昂も、やがてその笑い声に感化された様に口元を緩め、やがて夏場の公園に男女一組の笑い声が木霊した。

 

 

 

―――僕にとって、父さんは目標で、憧れで……言葉じゃ言い表せないくらい、とても高い場所にいる人なんです。

―――だからその人に追いつく事が、追い越す事が夢……といえば夢なんです。

 

少年は語った。

己の胸中と向き合う様に、強かに笑みを湛えながら。

 

―――だけど、そんなものよりもずっと大切なものを、僕は与えられてきたんです。

―――それは笑っちゃうくらいちっちゃな事かもしれないけど、僕にとっては何にも代え難い大切なものなんです。

 

 

 

『夢』とは少しだけ違っていて。

『理想』とは大分かけ離れていて。

 

 

 

―――僕の父さんがバスケ選手だったからといって、僕が同じ舞台に昇れる保証なんて何処にもないけれど、

―――だけど、僕の夢を笑わずに応援してくれた父さんや母さんや兄さんの、その思いを無駄にしたくないから、

 

 

 

それでも、失って初めて気づく何よりも大切な『コト』に気づいた彼が掲げた『目標』は、

 

 

 

――――――僕は、僕自身が一番大好きなバスケを、ずっと続けて行きたいんです。

 

 

 

余りにも素朴で、純粋で。

それでいて途方もなく壮大なものだった。

 


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