第三十二Q 何か悩み事か?
登山の折に気をつけるべきは、登る時よりもむしろ降りる時である……とは、以前どっかの誰かが言っていた言葉が紙面に載っていたのを頭の片隅に一匙分ぐらいに記憶している。
というのも、山を『登る』という目標がある内は気持ちがピリリと引き締まっているが、それを達成してしまうと途端に気が緩んで、思わぬ怪我に繋がるからであるという警句が込められており、それを流し読みした時に夏陽はそんな事もあるのかと少しだけ気に留めていた。
―――そう。
多分、今目の前の彼ほどその警句が必要な人間は恐らく存在しないだろうと思い起こす程度には。
「み、水崎くんっ!?お水が溢れちゃってるよっ!?」
普段であればテキパキと仕事をこなす係当番で、何時になくぼんやりしていた進が何時まで経っても戻って来ないからおかしいと思って様子を見に来てみれば何の事はなく、水道の蛇口に兎用の水入れを突っ込んで水を出したまま、まるで彫像の様にそこで動作の一切を停止していたのだ。
お陰で水場周辺は夏本番が近付いているこの炎天下の中にあってびしょ濡れ。アスファルト周辺の気温が少し下がって良い感じではあるのだが、しかしこの水の量は幾らなんでもやり過ぎである。
恐らくは練習の途中で水を飲みに来たのだろう愛莉が慌てて蛇口を捻って水を止めなければ、或いは夏陽が律儀にも動物小屋で延々と作業を続けていれば、どうなっていたか。
その辺り、自分の制服が水浸しだというのにまるで他人事であるかのようにぼんやりと自身の姿を眺めている彼は全く考えていないだろう。
「……………………」
愛莉がすぐ隣で蛇口を捻って、何度か呼びかけて、漸く意識を取り戻したといった感じで進は自分の手に持った兎用の水入れを片手に持って水場を後にする――――――って、ちょっと待て。
「進!水が零れているっ、つうかそれじゃ水入れに行った意味がねぇっ!!」
中身をびちゃびちゃと零しながら歩く進を慌てて静止させて、夏陽が彼の手を取った。
「…………夏陽?どうしたの?」
「どうしたの……って、お前なぁ……!」
何だろう。この無性に殴りたくて堪らないのに良心の呵責がそれを押し止める様なこのもやもやした気持ちは。
だがそんな気持ちも、目の前の何一つ分かっていなさそうに小首を傾げる進の姿を見て何だか考えるのが馬鹿馬鹿しく思え、夏陽は大きくため息を洩らした。
県大会までは随分と春大名が花見に興じていたかの様に穏やかな日差しであったかと思えば、七月に入った途端夏大将が軍配片手に特攻を仕掛けて日本上空で春大名を討ち取り、あっという間に夏の燦々たる太陽がぎらつく季節となった。
この所の気温の上昇具合たるや、体育館での練習で連続して稼働出来る時間が普段の半分程度にまで落ち込む程の熱の入れ具合なのだから、時々TVで取り上げられる地球環境の問題に少しは目を向けるべきだろうかと、来る夏休みの自由研究について考えを巡らせていた夏陽は、つと隣を歩く進を見やった。
思えば、進が何だかおかしくなった……というより、これまでの凛とした姿勢が無残にも崩れ去ったのは、確か県大会が終わって、明けた月曜日からだったか。
週末には幼馴染二人の誕生日が控えており、練習量が普段通りに戻ったとはいえこの季節は部員達の体調を考慮して聊か練習量が減り易いから、必然的にレギュラー陣は自主錬の量を増やす必要があってそれなりに忙しい一週間だったのだが、この間の進の壊れっぷりというか崩れっぷりは凄まじいの一言に尽きた。
よもや夏の暑さにやられたわけでもないだろうが、どんな感じなのかというと具体的な例を彼の周辺の証言から一部上げてみる。
女子バスケ部のエース曰く、
『水崎君の様子?……うん、何だかいつもと違ってたよ。えっと、この間の体育の時間にバスケをやったでしょ?その時もずーっとコートサイドに座って試合を眺めてて、美星先生が何回も呼んだのに全然反応がなかったの。試合に出てからもずっとぼんやりしてて……あ、でもちゃんとパス出したり相手をかわしたりはしてたよ?』
氷の絶対女王曰く、
『水崎?確かにこの何日間かおかしな所があったわね。最初は漸く関西風お好み焼きの偉大さに気付いたのかと思ってたんだけど…………な、何よその目は?別に、アイツとあんまり喋れないのが寂しいとか、そんなんじゃないんだからねっ!?ただ私は、お好み焼きの素晴らしさを語りあえるのが、ってぇ!!そんなんじゃなくて―――(以下、取材対象が暴走状態に入ってしまいインタビュー続行不可)』
女バス一のブルジョワ曰く、
『んぁ?ずっきん?あー、言われてみれば確かにおかしいかもなー。やっぱみずっちの方が……いやでも、私的にはすっちーとかもいいんじゃないかと…………え?今話してるのそっちじゃない?つかすっちーは絶対ダメ?なんでさ!?いいじゃんすっちー可愛いじゃん!!あ、おーいアイリーン!ヒナー!こっちこっちー!』
学園のビックマン曰く、
『み、水崎君の事?あのね……変、っていうのかな?何だか授業中もずっと空を見てたり、教科書を開いているのに全然見てない、のかぁ……え、えっとね!あの……その…………上手く云えないんだけど、何だか前より話し易くなった気がするんだけど、話しててもあんまり聞いてくれていない、というか…………え、っとぉ…………』
プリンセス・オブ・プリンセス曰く
『おー?みずさき、最近疲れてる?何だか、ぼんやりしてる。うさぎさんのお世話、いつもより時間かかる。だけど、ひなはおねーちゃんだから、みずさきをちゃんと見守ってあげます。…………おー?たけなか、どうしたの?』
ざっとクラスメイトだけでもこんな感じである。
途中で何か色々あったが、気にしたら負けな気がするので割愛する。特に最後、おねーちゃんなのは身内に対してであって誕生日的には進の方がおにーちゃんになるんじゃなかろうかとか、その台詞に他意はないよなとかイロイロ。もし他意があったりした日には……止めよう、これ以上は心のナニカが枯渇してしまう。
「?」
上を向いて歩こう。ナニカが零れない様に。
隣を歩く進に怪訝そうな目を向けられたが、それはむしろこっちが向けるべきものじゃなかろうかと夏陽は思う。
―――そんなこんなをしながら、その日は二人並んで帰って行った。
◆
金の切れ目が縁の切れ目なのだとしたら、試合の切れ目は気合いの切れ目なのだろうか。
久しぶりに同好会の活動に赴き、野良コートでミニゲームをやっていた昂が偶然出くわした進を見た時、最初に頭を過ったのはそんな思考だった。
「よっ、大会以来だな」
「…………あ。コーチですか、どうも」
休憩がてら声をかけた昂に、やや反応の遅れた返事を進が返す。
「あれ、水崎君?」
「お?なになに、そのちびっ子知り合い?」
と、進に気づいた葵と興味本位らしく覗きこむ一成が現れ、次いで柿園と御庄寺も此方に寄ってくる。
突然多くの年上に囲まれたにも関わらず、進はぼんやりとした眼差しでぐるりと全員を見まわしてペコリと頭を下げた。
「初めまして。水崎進と言います」
その言葉に反応を示したのは自分や葵と同じく七芝に通う一成だけだった。が、彼にしても軽く小首を傾げた程度で頭上に疑問符を浮かべるに留まり、柿園や御庄寺は早速打ち解けた様に笑顔で挨拶を交わしている。
その事に内心安堵しつつ、つと、どうして進が一人でこんな所を訪れたのかと疑問が浮かんだ。
「どうしたんだ?今学校から帰って来たんだろう?」
問うが、何故か進は小首を傾げて問いかける様な眼差しを向ける。
質問してるのはこっちなのに何故か此方が問われている様な気分に見舞われた昂は軽く苦笑を浮かべつつも、そのバックの中にバッシュとユニフォームが入っているだろう事がその膨らみ具合から察しがついた。
「……なぁ水崎、この後時間あるか?」
「…………はい。まぁ」
「じゃあさ、良かったら3on3でミニゲームやらないか?」
で。
「センセー。ほんとにこの組み合わせでいいのー?」
構図的には女子対男子で別れた格好になり、小学生とバスケの実力の低い一成が同じチームで大丈夫なのかと問う様な柿園の声が響く。
……まぁ、その隣で進の実力を知る葵が苦笑いを浮かべているのを見れば、むしろ此方の方がこの組み合わせで良いのかと聞きたいくらいなのだが。
「細かいルールは普通の試合と同じで……そうだな、取りあえず時間は五分でいいか?」
「………………え、あぁ。はい、それでどうぞ」
何処か上の空気味な進に問いかけると、ややあって返事が返ってくる。
その様子に若干の違和感を覚えつつも、目の前の葵にボールを渡し、葵もボールを返してゲームが始まる。
「水崎!」
様子見がてら、他の三人にも進の実力を教えておくのがフェアだろう。
そう思って進にボールを放った昂は、ゴールに対して半身になりながら進の方を見やった。
「悪いけど、ブチョーとチーム組んだ以上、手は抜けないんだよ、ねぇっ!」
と、其処に柿園が両手を大きく広げたまま詰める。
―――って、それは幾らなんでも悪手だろ。
――――――キュ、キィ。
「へ?」
昂の危惧をずばり的中させるかの様に、進は軽くステップを踏んだかと思った、途端に加速して柿園の懐を抉る様にかわす。
「―――っ、たくっ!ショージは昂マーク!!ゾノ!何時まで呆けてんの!?」
その動きに反応出来たのは、予めその実力を知っていた昂や葵だけだった。
一成ら初見の者達は一様に驚きに目を見開いて、或いは何が起こったのかさっぱり理解出来ていない表情を浮かべて硬直していた。
――――キキキィッ!!
「ッ!?」
リズムを狂わせる様な不等間隔な歩幅から詰めるべき距離を見誤った葵が僅かに距離を開かれた瞬間、進を遮るモノは何一つ存在せず、
――――――シュ
何時か見た、しかし普段の彼『らしからぬ』智花の様に綺麗なフォームで放られたシュートは、そのままネットを揺らした。
その後、何度かのセットを繰り返して小休止を挟んだ折に、昂は進の隣に腰かけた。
付き合いの長い葵はそれだけで昂の意志を機敏に感じ取り、進に話しかけようとしていた柿園と御庄寺を特訓と称してコートに連行、次いでとばかりに一成の首根っこも掴んでいった。
「何か悩み事か?」
前置きを省いて問いかける。
「…………別に、そういう訳じゃないんです」
「じゃあどうしたんだ?いつものお前らしくもない」
大人しく、何処か気の抜けたプレイ――とはいっても、結局止められたのは葵とマッチアップした時や二人以上に囲まれた時とかそれぐらいだったのだが――は、普段の進らしからぬ様相。それでなくとも、あの大会以前にはその双眸に燃え盛らんばかりに宿っていた明瞭明確な闘志足る何かが決定的に抜け落ちて、今の進はまるで抜け殻の様に気だるげ……いや、上の空だった。
心此処に在らず、といった所だろうか。
突き抜ける様な空の青さと相反する様な鬱蒼としたもやもやが立ちこめているであろうその胸中を垣間見るべく、昂は進の言葉を待った。
「…………」
「…………」
長い沈黙が降りた。
凡そ外界の清々しさとはかけ離れた、いっそ沈痛にすら感じられる無言の空間は、しかしてややあって漸く決意を固めた進の言葉によって打ち破られる。
「…………長谷川コーチ」
「何だ?」
「……コーチには…………いいえ、コーチになら、話してもいいと思うんです」
ジッと、進の双眸が昂を捉える。
その奥に僅かに見え隠れする色を探る様に視線を重ねる昂に、進は言葉を重ねた。
「―――『あの日』の事、兄さんの事。………………それに、僕の事」
並々ならぬ決意を窺わせる声音が、昂の鼓膜を揺らした。
「―――僕の、本当の両親の事を」