ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第三十一Q 負けたく、ない

 

―――初めてボールに触れたのは、何時の日か。

―――初めてドリブルが上手く出来たのは、何時だったか。

―――初めてシュートを決めたのは、何時の事か。

 

憶えている。

思い起こせる。

 

ずっと閉じ込めていた、バスケを『楽しむ』という感情が溢れ出る。堰を切った様なその奔流は全身を駆け巡り、動きたくて、もっと試合を楽しみたくて、止まらない。

 

全ての枷が外れ、鳥の様に軽やかな足は重力から解放された様に軽く、疲労の一切を取り払った様に容易く動く。

あれ程堅牢で、手強いと思っていた筈の芝浦の選手の動きが、けれど、今はとても緩やかに見えてならない。

 

―――ずっと、分かっていて。

―――けれど、知りたくなくて。

 

兄への引け目が、ずっとしこりを残し続けていた。

 

夏陽がバスケに誘ってくれたから、正面から向かい合う勇気を持てた。

智花と全力でぶつかりあえたから、みんなと一緒に居る幸せを知った。

そして―――他の誰を以てしても補えない、この世でたった一人の兄が、『それ』に罅を入れてくれた。

 

なら、水崎進(ぼく)はどうすればいいのか。

 

揺らされた自分達のネットを抜けて、ボールがコート上に弾ける。

それを一瞬で回収した菊池が、素早くゲームを再開する。

 

嘗ての自分だったら、味方のボールであろうと強引に奪いに行って、一人で切り込んでいただろう。

 

だが――――――

 

「ッ!」

 

半分背を向けていた憲吾を、振り向きざまに抜き去る。無論、散々見慣れているフェイントが彼に通じる訳もなく、瞬く間に距離は詰められる。

その反応速度は、自他共に認めるライバルだからこそ、プライドの高さなど比ではない程に努力に修練に研鑽を重ね続けてきた実力の高さがあるからこそ可能な切り返し。

 

―――が、それこそが狙い目。

 

憲吾が反応出来るものは、概ね進も反応出来る。逆もまた然り、だ。

しかしてそれは両者が『小学生離れした』実力があるからこそのものであり、慧心は元より、地力の強さが全国クラスである芝浦のレギュラー陣であっても、それについていくのは至難の業である。

何よりの証として、芝浦に所属していた頃に進に太刀打ち出来る選手は憲吾だけであるというのはこれまた自他共に、そして横山HCすらも苦笑交じりにそれを認めた程なのだ。

 

それは現在も変わらず、恐らくは中学でも、高校でも。ひょっとしたら社会人になったとしても変わらないだろう―――と、転校という単語が脳内に全く存在しなかった頃の進はそう思っていた。

憲吾がどうであるかは全く分からなかったが、聞いた所でどうにかなる話でもないのであえて聞くつもりもなく、そしてその瞬間が全力でぶつかりあえるのであれば未来の事など知った事ではない、と進のバスケ脳は判断していた。

 

だから、進は何時か聞いてみたかった。

 

―――なぁ、憲吾

 

「ッ!?」

「ハァッ!?」

 

夏陽をマークしていた芝浦の選手目がけて突進し、次の瞬間には見様見真似で充分に再現してみせた昂のターンステップで華麗に避けて見せる。

咄嗟に憲吾も反応してみせたから激突こそ免れたものの、僅かに生じたその選手の硬直は、しかして進と夏陽にとってはこの上ない好機だった。

 

「戸嶋ァッ!!」

 

夏陽のマークが外れたのと、夏陽が声を張り上げたのはほぼ同時。

だというのに、まるで予定調和の如く夏陽の元にボールは放られ、慌ててマークに戻ろうとした芝浦の選手―――その背に、『彼』は居た。

 

ボールを持っていた時間は、恐らく一秒とないだろう。

受けた勢いをそのままに、更に加速した暴走的な速度のボールが中空へと放たれ、芝浦の選手の驚愕の表情越しに跳ねあがった進の姿が夏陽の視界に映る。

 

その手を、腕を、顔を見て。

万感の思いと共に、夏陽は叫んだ。

 

「いっ、けぇぇぇええぇーーーー!!!」

 

 

 

 

 

 

―――ボールが、来る。

 

夏陽の声が聞こえた瞬間、進はコートを抉る様にブレーキを利かせて、鳥の様に中空へと舞い上がろうとした。

夏陽が送る、最後のパスを。

 

この試合を決定付ける、ラストパスを決める為に。

 

(―――ッ!!)

 

刹那、膝が激痛と共に悲鳴を上げた。

 

そもそも、どれだけ傑出した技術を持っていようと、身体は正真正銘、まだまだ伸び代を残した『子供』なのだ。そんな身体にけた外れの負荷をかけ続ければ、どうなるのか。

答えは明瞭明確な程にハッキリと、進に現実を突き付けている。

 

只でさえ激闘だらけの連戦を続け、更に感情の高ぶりに任せて羽目を外し過ぎたツケが巡って来たと云っても良い。

それも最高最悪、この極限的な場面で、だ。

 

つくづく自分はカミサマに嫌われているのだろうか、と進はぐらりと傾く視界の中で思う。

 

思えば、色々と散々な事があった。

どれだけ全国クラスと持て囃されても、結局全国大会は去年のベスト4が最高位。しかも敗因は自分が十全に力を発揮しきれなかったからという不完全燃焼的な理由。

一家離散の口火を切ったのも自分だったか。兄からバスケを奪い、父や母を苦しめた自分が、自分だけが『楽しむ』などと、随分と虫の良い話があったものだ。

 

これは、つまりは、その『報い』という訳か?

 

―――あ

 

痛みを堪えて、強引にコートを跳ねあげて、けれど。

 

ボールが、指先のほんの少し上を掠めて、遠のいていく。

あと数センチ、あと数ミリ、腕が長ければ―――身長が高ければ――――――もっと、兄の様に飛べれば、

 

―――どんだけ足掻いたって、結局小学生並の身長じゃあ意味がないじゃん。

 

何時だったか、憲吾の小学生離れした背丈を羨ましく思いながら呟いた言葉が脳裏を過った。

バスケ選手としては聊か小さく思える自身の背丈が、体躯が、進には抗えようもない『枷』として重くのしかかっていた。

 

それを補う為の跳躍力であり、突破力であり―――そうやって誤魔化し続けても、この決定的な瞬間には、その差が顕著に現れてしまう。

ボールの軌道上、少し離れた所で憲吾が跳んでいるのを感じ取った。

 

彼は、届くだろう。

自分は、届かないだろう。

 

そして、この試合は――――――この瞬間は、終わってしまう。

 

 

 

「……や、だ」

 

終わりたくない。

終わって欲しくない。

 

まだ、終わらせたくないんだ。

 

「……いや、だ―――!」

 

憲吾がいて、夏陽がいて、兄さんがいて。

漸く『楽しい』って、そう思える様になったのに。

 

こんな形で―――!!

 

「進!!」

 

届け。

届け!!

 

「―――たく、ない……!!」

 

手を伸ばせ。

 

「負けたく、ない!!」

 

腕を伸ばせ。

 

今―――水崎進(おれ)は一人じゃない!!

 

「―――ああぁぁああぁああぁぁぁぁぁああ!!!」

 

俺には、仲間(みんな)がいる!!

 

「―――ッッッ!!!」

 

激痛が許容量の限界に迫る。

押し寄せる重力が容赦なく身体を引きずり落とす。

 

それでも――――――それがどれ程のものであろうと、その全てに抗わなければ、勝てないというのなら―――それが、たった一人の選手(てんさい)だけでは起こし得ない『奇跡』という壁だというのなら。

 

「いっ、けぇぇぇええぇーーーー!!!」

 

――――――仲間(チーム)と共に、それを飛び超えてやる!!!

 

 

 

 

 

 

その瞬間を、果たしてどれだけの人物が捉える事が出来ただろう。

 

進の手は、指は僅かに届かない―――それを判別出来た者も、実際ほんの一握りだったかもしれない。

だがそれ以上に、次の瞬間を――――――即ち、まるで虚空に足場があるかの様に足を動かし、あたかもそれが空気を蹴って更に高く、より高く、届かないと思われていたボールを下から拳でアッパーをぶちかます程に『飛んだ』瞬間を認識出来た者は、この広大な会場に何人いただろうか。

 

衆目の目には、恐らくは突如としてボールがあらぬ急角度で跳ねあがった様に見えただろう。

ボールの行く先を追う『だけ』の者であれば、それだけで終わっていた。

 

だが彼女――――――欧州リーグで以てその観察眼に磨きをかけた坂井菫には、その動きがハッキリと捉えられた。

そしてそれは強烈な既視感(デジャブ)を伴って、彼女の海馬の奥に眠っていた記憶を揺り起こす。

 

「……谷口、歩?」

 

呟きは観衆の大音声の前に霧散し、世界は誰にも均等に時間を刻みながら、しかしこの瞬間においてはまるでスロー再生の様に目の前を過ぎゆく。

 

形式や定石の一切を無視した、半ばストリートバスケからも外れた様なアウトロー極まりない前代未聞のアッパーシュートは、鋭角にも近い軌道を描きながらゴールネットへと迫り―――盛大な音を立てた後、ネットを揺らす乾いた音を響かせてコートへと落ちた。

 

瞬間、会場が爆発した。

思わずそんな印象を抱いてしまう程に凄まじい大歓声が一挙に巻き起こり、それは観客の一部を形成している自分が騒がない事がむしろ間違っているのではなかろうかと誤解してしまう程の事態だった。

誰がコールした訳でもないと云うのに観客の多くは立ちあがり、興奮を露わにして声を張り上げている。それは全国大会でも中々御目にかかれないであろう程の盛り上がり具合であり、凡そプロの公式試合と比べても何ら遜色ないであろう。

 

その渦中―――体勢を崩したのか、コート上で尻もちをついている彼の先程の姿が、焼け付く様に菫の脳裏を幾度となく過り、そして自身の深い所に根付いている記憶と不気味なくらい妙にダブって見えて仕方ない。

 

「…………彼は、一体……」

 

呟いて、それから。

戦いの決着を知らせるブザービートが、鳴り響いた。

 

 

 

 

 

――――――足が、動かない。

 

そんな笑えない事実に進が気づいたのは、立ちあがろうとしたその時だった。

体力の限界を超え、耐久力の限界を超えた無茶のツケがとうとう債務不履行に陥って、脳からの指令の一切を拒絶した。

 

―――動けよ、動いてくれよ。

 

懸命に身体を叱咤激励しても、震える様に小刻みに動くだけでそれ以上の動作はまるで起きない。

 

―――早くしなきゃ、試合が、

 

漸く上体が起きた、かと思えば足はついていかずに進は前のめりに突っ伏す。

だが、恥も外聞も気にしていられない。この際身体が動くのであれば、試合が続けられるのであればどんな様だって喜んで受け入れて見せる。

 

だから。

だから。

 

―――あと、一本

 

この攻撃を凌いで、ボールを奪って、あと一つ決めて――――――勝つんだ。

 

誰の為でもない、自分の為に。

自分達の、チームの為に。

 

はやる気持ちばかりが急く。

筋肉の代わりに鉛が詰め込まれたかの様に重い足を引きずる様にして身体を起こす。どれだけ激痛が襲い来ようと、噛み千切らんばかりに唇を噛み締めて立ちあがる。

 

身体はフラフラと安定せず、視界はぐるぐると回ってロクに機能しない。

 

―――それでも、まだ動くのなら。

 

足を踏み出す。一歩、二歩。

 

今度止まれば、倒れれば、今度こそ身体は動かなくなるだろう。

 

そうなれば、そうなってしまえば。

 

「……も、ぉ、いや……なん、っ、だっ!!」

 

止まるな。

倒れるな。

 

最後の最後まで、駆け抜けろ。

 

それが、それだけが。

自分に出来るたった一つの報い。

 

今この瞬間、誰の何でもない『水崎進』にしか出来ないたった一つのやり方。

 

「―――けん、ッ、ごォ、ッ!!」

 

悔いを残すな。

諦めを許すな。

 

どんな時でも、どんな事があっても。

兄は―――世界でたった一人の、この世で最も誇れる水崎新(にいさん)は、『後悔する』事だけは教えてくれなかった。

 

何があろうと突き進め。

どんな事があっても、自分の信じた道を往け。

 

だから――――――だか、ら。

 

 

 

 

 

 

鈴本憲吾は、どんな状況でも失われる事のない冷静さと、あらゆる事態を一瞬で『立体的に』把握しきる慧眼を以てしてキャプテンの座に君臨していた。こと、接近戦においては進に負け越しているにも関わらず、である。

だが、目の前で突如として中空を飛翔した男の登場には、流石に普段の鉄面皮を保つ事も叶わず、内心の動揺が随分と露わになっていた。

 

初めて会った時の様な、天性のセンスを超人的な直感で手繰っていたあの頃とは違う。

全国大会ベスト4に名を轟かせた時の様な、凡そ小学生とは思えない程のプレイヤーとも違う。

 

凡百の常人が及びもつかない様な才能を有し、本来であれば自分と同じ様に孤高の位置にあるべきその存在が、今は共に闘うに足る仲間を見出し―――自分の様にたった一人では辿りつく事の出来なかったその場所に、進(ライバル)は、今至ろうとしていた。

 

その結果が例えこの試合においては時間切れなのだとしても、確実に彼の一撃は自分を、自分達を凌駕した。

 

ならば、この『勝負』は――――――そこまで考えて、憲吾はこの際上だの下だのを論議する事を止めた。

そんな事はするまでもなく、こんなにも必死な彼の姿を見てしまえば、認めざるを得ないだろう。

 

時間切れ。

 

それが、たった今鳴り響いたブザー音が告げた現実だった。

 

最後のシュートは、結局2Pで計算された。

終わってみれば大接戦の54-53。

 

そう。つまりは、慧心学園は届かなかったのだ。

 

だが――――――だがしかし、それでも進の瞳に絶望の兆しは、敗北の色は見られない。

 

終わりを告げたブザー音が鳴り響いて、暫くして彼は憲吾を見て。

静かに、しかしハッキリと判別出来る程に明らかに『笑った』

 

其処には、幾百も幾千も見下げてきた敗者達に共通していた挫折の姿は欠片もなく、ただ堂々と、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に震える脚を叱咤しながらしっかりと大地に立脚して自身をその双眸で見続ける好敵手(すすむ)の姿。

 

「……これでハッキリしただろう、進」

 

観客の大音声に掻き消されてしまいそうな程に小さな声は、しかし自分をジッと見つめる進の鼓膜を揺らしているのだろう。

その瞳は続きを促す様に、歓喜を露わにする芝浦の面々も、悔しさを滲ませる慧心の面々も誰一人映さず、正面に相対した憲吾だけを見続けている。

 

「―――お前は、俺より下だ」

 

この自信のなさは、何だ。

結果として確かに彼を打ち負かし、実績として勝利を収めていながら。

 

視線を逸らし、声は震え、冷汗は止めどなくじっとりと背中を濡らす。

 

―――それでも、俺は。

 

市立芝浦小学校男子バスケットボール部キャプテンの『鈴本憲吾』は、何があっても揺らいではならないのだ。

 

だから、彼から逃げる様にして背を向けて――――――唐突に、声が響いた。

 

「…………今は、何て罵られても構わない。それでも、これだけは言っておきたいんだ。憲吾」

「……………………」

「―――楽しかった。多分、今までで一番、楽しくて堪らなかった」

 

背に投げかけられた言葉は、震えていた。

その表情が、恐らくは涙を零しながらも必死に嗚咽を堪えているであろうその顔が、けれど自分にしてみればこの上ない『敗者(しょうしゃ)』のモノに思えて。

 

「…………フン」

 

何時か、再び交わるであろう道の先へと向かって。

鈴本憲吾は、歩き出した。

 

 


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