『―――ごめんな、進』
記憶の縁を過るのは、閉じゆく扉の向こうに消えて行く兄の背中。
手を伸ばす事も、追い掛ける事も出来ず、ただただ見送る事しか出来なかった、無力な頃の自分。
父と大喧嘩をした挙句、兄は家を飛び出した。
半ば勘当にも近かったそれは、事実それ以降の数ヶ月間に渡って進と新を隔絶し、進が年不相応なまでにやさぐれて、割と深刻な反抗期を迎える程度には十分なダメージを残した。
その後の兄の動向を知る由もない進は、恐らくは兄も同じ様に自分の動向を知る事もなく……或いは知ろうと、そう思わせる事もないのだろうと自己完結していた。
だから芝浦から転校して慧心に編入した事も、竹中夏陽という掛け替えのない友人と巡り合えた事も、湊智花という全力でぶつかりあえるライバルと出会えた事も。
兄は何一つ知らず、知る由もなく、知る必要もなく、その意志もなく。
自分の事など、最早どうでもよくなってしまったんだろう。
そう思っていた―――思いこんでいた。
『――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!』
だから。
だからその声が聞こえた時、進は―――どうしようもないくらい『怖く』なってしまったのだ。
兄の教えに反して。
兄の指導に背いて。
ただ自分の為に、自己満足の為だけにバスケを続けてきた自分が、今更どの面下げて兄に会えるというのだ?
失望されて、失笑されて―――再び、自分の所為で、兄が自分の傍を離れていってしまう。
それが怖くて、恐くて、堪らない。
―――もう、一人になりたくない。
―――お願いだから、兄さん。
――――――『僕』を、一人にしないで。
◆
『―――兄、さん?』
扉の向こうに消えていった弟の最後の表情を、新は今でも鮮明に思いだせる。
父親と大喧嘩して、半ば家出同然に飛び出す事になって―――そうして、見捨ててしまった、たった一人の弟。
その後暫く、新は進の顛末を知る由もなかった。彼は彼であれやこれやのゴタゴタを片付けて、あっちこっちを飛び回って、漸く落ちついた頃になって叔父夫婦からそれらを聞かされて初めて知ったくらいであった。
弟が実家を去った事、芝浦から転校した事。そして、自主退学という名目で追い出された以上最早不成立な『後輩』という立ち位置の女子―――葵から聞かされた、新天地での彼の様子。
その一つ一つを聞いて、新は自分がどれだけ弟を追い詰めてしまっていたのかを知った。
進は対外的には、年不相応なまでに自分を雁字搦めに律する節があった。その原因が自分である事も新はうすうす感じてはいたが、だからといって自身の研鑽を怠る等誰よりも弟に対しての冒涜であると知っていたから彼の五十歩も百歩も先を駆け抜け続けた。
彼が胸を張れる様な兄に。
彼が自慢できる様な男に。
何時からだったか、新がバスケを続ける理由に、そんな言葉が加えられていた。
それが結果として弟を追いこむ事になろうと、弟なら―――進なら、きっと乗り越えてくれると、そう信じて疑わなかった。
溢れんばかりの才能に恵まれ、弛まぬ努力を惜しむ事無く――――――そして何よりも、『バスケ選手』として最も大切なモノを持っている彼なら……或いは、自分をも超えるのではないか。
遥か後方。姿さえ見えぬ位置に在る筈の弟の、聞こえる筈のない足音が一歩一歩近づくのを感じて。
―――もしかしたら、嫉妬してたのかもしれないな。
叶えられなかった夢を。
続けられなかった想いを。
何時か、自分をも上回る力を身につけた弟が、自分の辿り付けなかった遥かな高みへと至る事が羨ましくて、妬ましくて。
そんな醜い嫉妬心が、ひょっとしたら弟を突き放すという――後で思い返してみれば、何とも最低最悪な――選択に新を導いたのかもしれない。
『――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!』
だから。
だから口をついてその言葉が吐き出された時、新は余りにも遅く、自分の過ちに気付いて、弟の過ちを見抜いた。
何の事はない。
もしかしたら、夕餉の笑い話ですんだかもしれないささいなすれ違いが、お互いを此処まで迷い込ませて―――導いてくれたのだ。
―――もう二度と、俺はお前から目を逸らさない。
―――全世界を敵に回したって、俺がお前を守ってやる。
――――――だから、進。
「………………頑張れ」
万感の思いと共に呟いたそれは、果たして観客の声の中に掻き消えた筈だ。
それでも進は、弟は此方を見やって―――僅かに目を見開いて、途端に潤ませて。
やがて歓喜の面持ちと共に、コートを駆け抜けた。
◆
「不思議と、負ける気がしないな」
滴る汗を拭い、それでもコート上に弾ける程の汗を垂らしながら、ポツリと進は呟いた。
「強がりは止めろ、進」
「強がりなんかじゃないさ、憲吾」
消耗の色を微塵も感じさせない憲吾。
全身から疲労の色が絶えない進。
余りにも対極で、余りにも歴然としたその差に、しかし進は喜色の絶えぬ表情で笑みを零した。
「点差こそ僅かだが、お前もあの男も、最早ロクに動けないだろう。どれだけ足掻いた所で、先程の試合の疲労が完全に消えたわけじゃない」
憲吾の言葉は的確だった。
只でさえ疲労の溜まる後半、更にその前にあれだけの激戦を繰り広げていれば、本来は現在進行形で慧心のベンチ裏で入念にマッサージを受けている選手の様に疲労困憊であるのが普通。
だというのに進は相も変らぬその底知れぬ恐るべきスタミナと瞬発力で未だにコートを駆けずりまわっている。それでもやはり、前半二つのQに比べればその動きは格段に精彩を欠いている。
「環境を自ら捨て、下らない執念に溺れたお前の負けだ。嘗ての好だ、俺自ら引導を渡してやる」
その台詞に。
その物言いに。
思わず進は笑みが零れた。
―――成程、これは確かに頭にくる訳だ。
以前似た様な事をどっかのバカが言っていたな、と思いだし、そしてそれ以上の理想論と感情論をぶちまけた大バカは今現在観客席であるからこの言葉を知る由もあるまい。
成程成程、と進(バカ)は一人納得し、不敵にほくそ笑む。
「……ククッ」
「何が可笑しい?」
「前にどっかの誰かさんが似た様な事をほざいていた事を思い出したんだよ。そん時にさ、何て返されたと思う?」
脳裏に蘇るのは、一人の『少女』―――否、一人の『バスケ選手』
同じコートに立ち、全力でぶつかりあって、思いの丈をぶちまけあって。
今では『仲間(ともだち)』として、あれ程必死に応援してくれている。
―――なら、此処で頑張れなきゃしょーもないよな。
自分で云った言葉をひっくり返すのはどうにも気に喰わないが、この際そこら辺のちっぽけなプライドは捨ててしまおう。
何せ自分は、自分でしかないのだ。
どれだけ仮面を被った所で、兄の様に完璧に振る舞えなどしない。
どれだけ理由を並べ立てた所で、夏陽の様に仲間の為に熱くなれない。
どれだけ激情をまくしたてた所で、智花の様に自分を強く保てない。
だから俺は―――僕は、ただ僕として。
この世界でたった一人の水崎進(ぼく)として。
ぬるま湯を肯定して、しょーもないコーチを肯定して、傷の舐め合いを肯定して……自分もその一員として、というより一因になって、他の人も巻き込んでしまおうか。
まぁその辺りの事はこの試合が終わってからおいおい考えればいい。
今はただ、言ってやらねばならない台詞がある。
嘗て自分に対して言われた言葉。
嘗て自分が否定した筈の言葉。
湿らせた唇の裏側を一舐めして、進の笑みはより不敵さを増す。
勝ちに拘って。
勝利に妄執して。
前に進むその足を止める事は許容できないが―――まぁ、多少脇道にそれるくらいなら、それも構わないと思える自分が其処にいる。
だから進は、ありったけの思いを込めて、しかし決して激情に呑まれた訳ではない声音を以て、告げた。
「―――下らなくなんか、ない」
囁く様に呟いて、刹那。
試合開始直後に巻き戻された様に両者の意地が激突し、コート上で弾け飛んだ。
◆
進の動きが、飛躍的に速くなっている。
観客席の方からコートを見つめていた昂が「そんな馬鹿な」と思わず呟きたくなる様な現実に気づいたのは、試合時間も残り三分を切った時だった。
それまでの理論的に構築されていたと思しき無駄を省いた動きは徐々に精細さを欠き、だというのにそれを補うどころかお釣りがくるほどに上回る速度で進がコートを駆けて、跳ねて――――――以前の男バス対女バスの折に垣間見たあれが、その全貌を魅せていた。
多少は残っていた筈の論理的なフェイントやパスの一切を捨てたその動きは、まるで足枷を外して大空を舞う鳥の様に軽やかで、何よりも速い。
「ッ!?」
そんな状態で、先程傍らの人物からその構造を教えられた死角へのダックイン――後で聞いた所によると、何でも『消失行動(インビシブル・ドライブ)』という名前が冠せられているとか――を繰り出した日にはどうなるのか。
想像するより早く、目の前でその光景は現実となった。
「―――チィッ!!」
が、進が超小学生級というか規格外だというのであれば、試合開始直後からずっとその規格外を抑え込んでいる相手もまた相応に規格外であり、ともすれば化け物といって差し支えないだろうと思わずにはいられない。
辛うじて半身を翻し、伸ばした腕が進の手元からボールを弾く。
其処に芝浦の選手が寄る―――よりも速く、進は強引に殴りつける様にしてボールを虚空へと放つ。
「ッしゃあ!!」
そして、待ちわびたかの様な夏陽の声が響き、次の瞬間にはゴールネット目がけてボールが弧を描く。
それがネットを抜け、試合再開のブザーが鳴る―――と同時に、芝浦の選手は一斉に猛攻に至る。
言い表すならば、慧心の攻撃は斬撃の如き鋭さを持ち、芝浦の攻めは津波の様に激しい。時折津波を切り裂いて攻め上がる慧心と、それすらも飲み干さんばかりに猛々しい芝浦の攻防は一進一退という言葉がこれ以上なく相応しい。
或いはミニバスのルールであった場合、千日手の如く決着が見えないのではないか。そう錯覚してしまうくらいに切迫し、凡そ小学生のトーナメント二回戦とは思えないくらいに緊迫している決戦は、しかし刻一刻とその終わりが近づいている。
―――出来る事なら、どちらにも負けて欲しくない。
そんな甘言が通用しないのが勝負の世界であると云う事を痛いくらいに理解しながら、それでも昂は、そう願わずにはいられなかった。
「…………水崎……ッ!」
時間がない。
慧心のゴールが揺らされて、その点差が再び刻まれる。
――――――これが、ラストチャンス
慧心の選手がコートを駆ける。
幾度となく練習したパスが繋がる。
抜いて、かわして、走って、跳んで。
そして、ほんの数瞬。
これまで鉄壁を誇っていた芝浦のマークが、ほんの僅か、進から外れる。
「ッ水崎ィ!!」
誰の叫びか。或いは会場の声だったのか。
その言葉を受けたかの様に、ボールは予定調和の様に虚空へと舞い上がり――――――
ビ―――――――――!!!!
決着のブザービートが、鳴り響いた。