―――思い返すまでも無く、転校直前の水崎進にとって安条結菜は間違いなく最悪の部類に入る人間だった。
件の少女を擁護した余波が結菜の予想の斜め上を行った結果として彼をクラスどころか学校から追い出す結末となったから―――と、それだけが理由ではない。
進にとって、正確には彼のバスケにとって、『安条結菜』はキャプテンであり無二の好敵手であった憲吾よりも手強く、そして相容れるという妥協を許さない存在だった。
それが執拗なまでに自身の模倣に奔ったからとか、表裏を問わない工作活動の数々によって精神的窮地に追い込んだからとか、そういう訳でもない。
ただ単純に、進にとって彼女は『バスケが上手くても嫌い』という、それまでの彼にとって理解し得ない存在だったからに他ならない。
進は基本的にバスケの優劣によって対人関係を築いてきた。その為、彼はそれまでの十年少々の人生においてバスケの上手い相手を嫌いになった試しがなかったのだ。無論、下手であろうと見下す訳ではなく、単純に自分から何らかのリアクションを起こそうとしないだけであって、少なくなかった知己の中にはバスケの上手くなかった少年少女もいなかった訳ではない。
そこへ来て、『安条結菜』という存在が彼のそれまでの価値観を大きく変容させる事となった。
彼女のバスケは上手い。正確に言えば当時の女子レギュラー組と比較しても遜色ない程度には巧い、と形容出来た。
それが高さやリーチを生かした憲吾のバスケとも、スピードと天性の直感を基軸とする自身のバスケとも異なった、純粋に技術をつきつめて行ったバスケであった事が印象的で、五年生に上がった年のレギュラー入れ替え戦で垣間見たそのプレイスタイルに一時的とは云え心惹かれていた事は紛う事無き事実である。
では、何が原因で進が結菜を嫌う様になったのか。
決定打となったのは言うまでも無く兄や家族をも巻き込んだ大騒動だが、それ以前から彼は結菜と徐々に距離を置き、忌避する様になっていた。
それは――――――
「…………やっぱそーくるよな、そーだよなぁ」
うんざりした様な声を洩らしながら、進は自分を取り囲む『三人』の芝浦小の選手を見た。
ボールがコートに弾ける音だけが響き、ジリジリと三人のDFは一糸乱れぬ陣形で進のコースを着実に潰す。
小刻みにフェイントを織り交ぜても、全てを看破した様に通用しない。
「……研究(ストーカー)もここまで来たら呆れるよ、全く」
――――――彼女のバスケは、進を研究した上に成り立っているからだった。
『安条は女バスのキャプテンであると同時に、男バスのマネージングも兼任してるんだ』
徹底的に行動を制限されている進の姿を視界に収めながら、夏陽は先程の休憩時間中に聞かされた事を思い起こしていた。
『で、あいつは普通の奴より『目』がいいんだ』
『目?』
オウム返しの様に聞き返した自分に、進は一つ頷いて続けた。
『時間こそ多少かかるけど、あいつは相手の動きや癖とか……とにかくそういったものを徹底的に見抜いて、研究して、攻略する』
『硯谷の時も、相手のエースを徹底的に潰してたからなぁ……』と、知己の悪癖を懐かしむ様な声音で進は遠い目をする。
『だから多分、今のままだと最終Qは憲吾以外の奴にも止められると思う』
『へぇ―――――え?』
あっさりと問題発言をかまして夏陽を唖然とさせておいて、それを放置して更に進は『まぁ、最も』と口を開いた。
『―――俺が『一人』で試合をやるんだったら、っていう前提だけど』
「夏陽ッ!」
叩きつける様なパスが音を立てて迫る。
進にマークが集中した分、随分と開いたエリアに放られたボールは寸分違わず夏陽の元へと飛んできた。
―――慧心に進が転校してきてから間もなく行われた体育の授業を思い出す。
あの時も、やたらキープ力に長けていた進に相手のマークが集中していた。
そしてそのマークを嘲笑うかの様に、進のボールは何の障害もないかの様にスルリと抜けて、無人のエリアへと放られていた。
―――ドリブルして、シュートするだけがバスケじゃない。
味方に繋いで。
相手を騙して。
幾つもの技術があって、幾つもの戦術があって。
「―――ッ!」
中空へと跳ねあがった夏陽を追う様に―――そして数瞬で追い抜いて、立ちはだかる様に巨大な防壁が現れる。
――――――だが、夏陽の手元にあった筈のボールは何時の間にか消えている。
「ナイスパス!」
パスを出した事で注意のそれたDF三人を抜き去り、今また夏陽(おとり)と共に守備を離れた憲吾の妨害を受ける事無く、夏季大会限定の一般的なバスケ同様に設けられた3Pシュートがゴールへと吸い込まれる。
ブザー音が鳴った後、進と夏陽の掌が音を立てて重なった。
◆
「凄(すげ)ぇ……!」
思わず、といった感じに昂の口から感嘆の吐息が洩れる。
一時は絶望的とさえ思えた試合展開は、しかし今ではどちらが勝ってもおかしくない程に切迫した状況。
そんな、極限とも云える戦況の中で研ぎ澄まされた集中力が選手達の力をメキメキと引き上げていく。
凡そ小学生の、それも県大会二回戦で見られる様な試合ではない目の前の決戦に惹かれるのは何も昂だけではない。
一進一退を繰り返す両者の対決に観客は沸き、歓声は止む事を惜しむ様に上げられ続ける。伝播した様な興奮は客席を幾度も巡り、留まる事を忘れて興奮の渦を巻き起こす。
その渦中にある実弟の姿を見、新は少し―――ほんの少し、進が羨ましく思えた。
打算や妥協といった、理屈的な考えを嫌った彼らしい、衝動と本能を研ぎ澄まして繰り出される行動の数々は年相応の『やんちゃ』を超えた『無茶』である様に思ってきた。これまでは。
だが、だからこそ彼はバスケが楽しくて仕方ないのだろう。
例えどんな事があろうと、どれ程の事があろうと、彼の根っこからバスケが離れる事は終ぞなかった。
逃げて逃げて逃げ続けて、弟からも家族からも友人達からも、何よりもバスケからも逃げた自分とは違って。
「………………」
向き合えば、自分もまたあのコートに立てるのだろうか?
逃げなければ、もう一度あの場所に胸を張っていられるだろうか?
―――傷つく事を恐れて、また打算的に物事を考えようとする自分を叱咤する様に、新は握った拳に力を込めた。
「…………俺は」
燦然と輝く太陽の様に、コートを駆け抜ける弟の姿を見て、新は静かに呟く。
大音声の歓声の中に消えたそれを拾う者は、彼の傍にはいなかった。
試合時間は、残り五分を切ろうとしていた。
この試合最後となる芝浦のタイムアウトによって得た僅かな休息の時間に、進は再び夏陽に声を掛けた。
「夏陽、まだ動ける?」
「あ、あぁ…………」
返事こそしっかりとしているが、その汗の量は尋常ではなかった。
問いかけている進の汗も既にタオル二枚目がずっしりと重量を増している程に流れており、持ち込んだドリンクは折り返しの時点で空となっていた。今はベンチにいた後輩が気を利かせて買ってきたドリンクを呷っている。
「進は……まだ大丈夫なのか?」
「ハハ……正直、結構きつい」
らしくもない言葉と、引き攣った様な苦笑い。
疲労の色がありありと目に見えて、それなのに随分と楽しそうに口を開くのだからこの男は本当に体力の底という物を知っているのかと、打ち上げの時にでも聞こうと夏陽は決意を新たにした。
「……ん。だからさ、夏陽」
「あ?」
「残り全部、夏陽は前線(まえ)で待ってて」
ドリンクを置いて、進は額にへばりつく髪を払う様にタオルでさっと拭いて夏陽に向き直る。
瞳には挑戦的な色をありありと浮かべて、不敵な声音がこれ以上ないくらいに頼もしい音を伴って夏陽の鼓膜を揺らした。
「“俺達”が必ず、夏陽の所まで繋ぐから」
◆
『最後(エース)の時間、向こうは必ず進を軸に攻めてくるわ』
結菜の見立ては正しかった。
事実、そのたゆまぬ研究の全ては進をより強くする為、より高みへ至らせる為―――より輝かせる、その為だけにつぎ込まれてきたものだった。それがあったからこそ、去年は全国大会で善戦する事が出来たといっても過言ではない。
その研究(データ)が狂った事などない。
取り分け憲吾にしてみれば、結菜が進のバスケに関する情報で何らかの過ちを犯した事は、ただの一度として記憶にない。
『だからここは、鈴本キャプテンを含んだ三人で徹底的に進を潰します』
その戦術に自分が応と答え、監督が頷いた事で戦局は此方に傾く。筈だった。
慧心学園の破竹の勢いも此処に潰える。筈だった。
―――もし、何らかの誤差が生じたのだとすれば、その原因は恐らく『慢心』
王者である事の誇り。
知らず知らずの内に相手を侮り、見下していた。
「――――――だからと言って」
そのしっぺ返しが『敗北』という言葉と共に返ってくる事など、認可出来よう筈もない。
「俺達を―――」
正面に迫る進と向き合う―――瞬間、彼が視界から消える。
憲吾の腕が、唸りを上げた。
「王者を舐めるな!!」
進の十八番。
柔軟な体格と鍛え上げられた瞬発力から為される高速の『死角への』ダックインが、憲吾の怒声と共に防がれた。
『消失行動(インビシブル・ドライブ)』
進が兄から教えられた技の中で、彼が最も得意とするそれは、言ってしまえば『高速で死角を突く』ドリブルである。
小柄な全身を深々と沈みこませ、相手の視界から一瞬外れてダックインするそれは、予め予測していなければ相手には『消えた』様に見える事からその名が冠せられた。
尚、命名者は進ではなく彼や夏陽の自主練習を見に来ていた羽多野養護教諭だったりする。
身長に伸び悩む今だからこそ許された様なそれは、芝浦小に在籍していた頃にも散々憲吾を苦しめた進の切り札であった。
『何時だったか、夏陽と1on1やった時にも見せたよね?』
と言うが、そもそもこの世代No.1の呼び声高いセンターをして初見での防御を不可能としたレベルを自分に求めるのは聊か酷くないか?と夏陽が口元を引き攣らせたのは記憶に新しい。
が、進はこの切り札も最早通じないだろう事を予期していた。
何しろ相手は何年も自分を研究(ストーキング)してきた結菜に、散々その切り札を見せてきた憲吾がいるのだ。当然しっかりと対策が立てられているであろう事は織り込み済みである。
だからこそ、進は新たな対策を講じるよりもそれをより『進化』させる事を選んだ。
男女対抗戦の折に智花が垣間見せた『消失行動(インビシブル・ドライブ)』の模倣にヒントを得、進は自らを次のステップへと進ませた。
「―――ッ!?」
憲吾の顔が驚愕に染まる。
進から奪った筈のボールが。つい今しがたまで手元にあった筈のボールが。
気づいたその時には、進の『右手』に収められている。
「―――第二段階(ふたつめ)」
『警戒範囲』の死角からの奇襲。
意識の隙を掠め取るそれに冠せられた名は、
「―――『消失魔手(インビシブル・ハンド)』」