ちゃんと笑う。
そんな、本当なら簡単である筈の行為が上手に出来なくなったのは、何時からだっただろう?
家族がバラバラになった時?
崩壊の引き金をひいた時?
それとも、それとも―――
「―――ッ!」
ボールを弾く。
ステップを刻む。
その動作の一つ一つが次の動作に、ゴールに繋がる。ゴールへ繋げる。
俺が兄さんから教えられた、大切な事の一つ。
「進ッ!」
夏陽の声が聞こえる。
たったそれだけの事で、驚くくらいに俺の身体は軽々とコートを跳ねる。
見上げれば、そこには兄さんがいる。
その隣には、コーチが一緒にいる。
視線を向ければ、女バスのみんなや荻山さんや篁先生、それに湊がいて。その誰もが笑顔であったり、喜色であったり、興奮であったりを浮かべている。
……今、俺もそんな顔をしているのだろうか?
分からない。というか、別に分からなくてもいいのかもしれない。
だって―――
「ッ!憲吾ォ!!」
「進ッ!!!」
最高の仲間(ともだち)がいて。
最強の友達(てき)がいて。
こんなにも楽しくて、バスケが楽しくて、バスケが出来る事が嬉しくて、この時間が大切で、堪らなく大切で。
―――だから。
「ッ、アァッ!!」
こんなに楽しくて、嬉しくて堪らないこの瞬間がずっと続けばいい。
その為にはどうすればいいのか。どうしたらいいのか。どうしなければならないのか。
とっくの昔に分かりきっている答えの為に、俺の身体が動く。
身体を傾けて憲吾に対して半身になった体勢のまま、その矛(うで)がボールに届くより早く中空へとボールを放る。
――――――これで、あと5点。
第三Q終了を告げるブザー音が場内に響く中、芝浦のゴールネットを通過したボールの跳ねる音がやたら大きく聞こえた。
◆
「………………」
言葉を失う。
何を呟けばいいのか、どう表現すればいいのか。
何一つ思い浮かばない程に魅了されて仕方なくて、興奮が抑えきれなくなる。
気づけば、昂は口を半開きにしたまま両の手で手すりを力一杯握り締めていた。
「これが……『水崎進』ですか」
「ああ。あれが『水崎進』だ」
僅かに呟いたそれを拾って、隣から声がする。
其方を向けば、何故か新の視線は眼下の実弟ではなく客席の―――コート全体を見回せる、観戦するというよりは『観察』する上でのベストポジションに陣取る女性を見ていた。
目元にはサングラスをかけており、手元には何やら書類らしきものが数枚見て取れる。その隣では同じ様に書類を手に持ったスーツ姿の男性がおり、二、三打ち合わせる様に言葉を交わしている。
「長谷川……あの人が誰だか、分かるか?」
「あれって…………」
記憶の糸を辿る。
新聞だっただろうか、TVだっただろうか―――海馬の海を探る内に、一人の『選手』の姿が脳裏を過る。
智花を自宅に招いた折、参考になるのではないかと海外で活躍する日本人選手の試合の様子を映したビデオを見せた事があった。
その時、一際智花の目を惹いていた―――
「欧州リーグで活躍した坂井菫選手!?何年か前に引退したって話だったのに……」
「父親は元日本代表で、今は協会の革新派の筆頭だそうだ。若手育成の一環として、娘である坂井選手を欧州にコーチ留学させたって専らの噂だが……どうやら、本当だったみたいだな」
「それと」と新はすっかり視線を彼女に釘づけにされている昂を余所に胸中で呟く。
(……ミニバスが基本である小学生すらも対象にした、新選抜チームの選考に携わっているっていう話だが…………だから芝浦はこんな序盤からレギュラー陣を起用したっていう訳か)
その選考の一環として、夏季大会のルール変更にも協会が一枚か二枚噛んでいるのだろうか。
とはいえ、
(……ま。そんなきな臭い与太話、今のアイツにとっちゃどうでもいいんだろうけど)
コート脇でドリンクを飲むその顔を見れば分かる。
今の進がどれだけ楽しくて仕方ないのか、どれだけ興奮が抑えきれないのか。
どんな理由であれ、どんな結果であれ。
この試合が終わった時、進はきっと『後悔』を残さない。
「…………頑張れ」
◆
「あら、随分と苦戦しているみたいですね?キャプテン」
―――心臓のざわめきが収まらない。酷く高ぶり、今にも弾け飛びそうな程に躍動する。
「それより、さっきからあの客席の女(ビッチ)の視線がずぅーっと『私の』進に向いているんですけど。もっとしっかりして貰えませんか?私以外の女に進が視姦されるなんて耐え難いんですけど」
「知るか」
―――嗚呼、分かっているさ。
この試合も、大会も、何もかもが所詮は『品評会』でしかないという事くらい。
小・中学生を対象とした新選抜チームの選考を兼ねているという事くらい。
そして、その為に序盤から自分を含めた一軍レギュラーがフル出場しているという事くらい。
「いい加減あっちの選手は進以外みーんな動かなくなってきているんですから、さっさと仕留めてきて下さいよ」
「お前に言われるまでもない」
―――だが、アイツはそう簡単には済ませてくれない。
5点。
たった5点。
それだけしかリードを奪えず、天下の名門たる芝浦『らしくもない』試合内容。
やはり代表選考が関わっていると知っているレギュラー陣にとって、序盤とはいえ緊張が抜けきっていないと見える。
そして、それを知らないからこそ慧心学園の選手達はああも伸び伸びと試合が出来ているのだろう。
「―――が、快進撃はここまでだ」
掌を見る。
レギュラー陣の誰よりもボールに触れ、関わり、戦い続けてきた証がそこにある。
腕も、足も。何もかもが誰よりも秀でている。
全ては勝つ為。勝ち続ける為に鍛え続けてきた。
『勝利』こそが当然。
『鈴本』の名に、その歩んできた道に『敗北』の二文字は存在しない。してはならない。
何よりも――――――同じ一バスケ選手としてのプライドが、それを許さない。
「勝たせて貰うぞ、親友(すすむ)」
最終Qが始まる。
試合に出るメンバーだけでなく、控えも、補欠も。
皆が一様に肩を組んで、円陣になる。
「みんな、昼飯は旨かったか?」
キャプテンである夏陽の号令は、その一言から始まった。
「まぁ……アイツらが作ってくれた折角の差入が旨くない筈がないとは思うが、それで腹壊してる奴がいたら、多分それ作ったのは真帆だと思うから後で申し出ろ。俺が文句言っといてやる」
その言葉に何人かから渇いた笑いが零れる。
ノリの比較的良い深田などはこれ見よがしに「アイタタタ……」などと顔を顰めて見せた。
「―――手作りの御握りと応援のお陰で腹ごなしも充分、気合いも充分。後は当たって砕けるだけ、って訳か」
「水崎とかタケなら寧ろ相手を砕きそうだけど」
聞こえてるぞ、と夏陽がぼやく。
もう一人の関係者である進は、思い当たる節に思わず苦笑いを浮かべた。
「……ま、そういう事だ」
顔を引き締めて、夏陽が口を開いた。
「泣いても笑ってもあとたった十分足らず。これが終われば後で打ち上げでも何でも出来る。――――――だから、ぶっ倒れるまで走り続けろ」
夏陽の口元が不敵な笑みを湛える。
それは慧心の選手一人一人に伝播した様に、皆が真剣な眼差しの中に余裕すら感じられる笑みを浮かべていた。
「慧心学園バスケ部―――行くぞッ!!!」
仲間と共に。
みんなと一緒に。
声を張り上げて、皆が叫ぶ。
「これで最後だ、進」
「そうだな……このQで、最後だ」
センターサークルに、二人は再び相対した。
「認めてやろう、進。……お前は、逃げてなどいなかったと」
「………………」
「お前は環境を変えて、自分を追いこんで、それでもこうして俺の前に立ちはだかった。やはりお前は正真正銘、この鈴本憲吾の『好敵手』足る存在だ」
「……俺が、一人でそうなったと思ってるのか?だとしたら―――失望するぜ、憲吾」
憲吾の眉が僅かにつり上がった。
「俺がここまでこれたのは、夏陽が―――みんながいたから、俺は今、こうやってコートに立っていられる。バスケが出来る」
「……慣れ合いのぬるま湯のお陰だと、そう言いたいのか?」
「『慣れ合い』なんかじゃない。俺達は対等な『仲間(ともだち)』だ」
「だから、憲吾」と、二人の視線が交錯する。
「俺は―――過去の俺自身を、お前を、超える」
終わりの始まりを告げるブザー音が、鳴り響いた。