ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第二十七Q それが、今の俺の

 

「――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!」

 

声が聞こえたその瞬間、進は一切の生体活動を停止せざるを得なかった。

 

余りにも非現実的。

余りにも非科学的。

余りにも非論理的。

 

あり得る筈がない。あってはならない筈の事象。

その現実が、目の前に唐突に現れた。

 

「に、い……さん……?」

 

絞り出す様に呟かれたそれはあまりにも小さな声で、受け入れ難い現実を未だに認識出来ずに呆然と進を立ち尽くさせた。

 

「何……あれって?」

「水崎先輩!?」

 

突如として会場に轟いたその声に、昂は驚愕を露わにして声のした方を向く。

そこには手が白くなるほどに力を込めて手すりを握り締め、存在そのものが声を上げる様にして大音声を響かせる一人の男の姿があった。

 

観客の多くは、唐突過ぎる事態に理解が及ばず困惑のままどよめいている。

そしてそんな会場のどよめきを余所に、12年間生きてきて初めて聞く兄の渾身の怒声が進の鼓膜を揺らす。

 

「進ッ!!馬鹿かテメェは!お前の夢(バスケ)は、お前だけのモンなんだよッ!!誰かの夢を背負う必要なんてないッ!!お前が、お前の為だけに叶えればいいんだよッ!!!」

 

『水崎進』を象っていた無色透明な世界が一つ、また一つと欠片を零していく。

兄の言葉の一つ一つが、それまでの自分の全てを打ち壊すかの様に進の心臓の奥底に叩きつけられる。

 

「俺の叶えられなかった未来を!!続けられなかった夢(バスケ)を!!今お前が叶えようとしているんだッ!!!俺は夢を諦めたんじゃねぇ……!!お前の夢を、俺の!俺達(かぞく)の夢にしたんだよッ!!」

 

今まで保ち続けてきた『水崎進(おとうと)』の仮面がひび割れる。

剥がれ、零れ、崩れ落ちていく。

 

―――全てが崩れ落ちた先に広がる暗い水底の奥に、酷く弱弱しく、恐怖に怯えて震える子供の姿が瞼の裏に蘇った。

 

「今度こそ俺が守ってやるからッ!!世界中の人間がみんな背を向けたって!!今度は絶対に俺が最後までお前の傍にいてやるからッ!!だから―――だから!!」

 

不意に、世界に一条の光が差し込む。

見上げれば、誰かの手が伸びているのが見える。

 

まるで、この手を取れと、そう言っているかの様に。

 

進は手を伸ばす。

 

光を求めて。

温もりを求めて。

 

繋がりを、求めて。

 

「――――――最後まで!!諦めんじゃねぇッ!!!進ーーーッ!!!!」

 

 

 

 

 

会場の九割九分を置き去りにした大音声が止むと、声の主である新はただジッと進を見つめていた。

肩を上下させて呼吸を整えて、しかしその瞳は揺らぐ事無く真っ直ぐに進を射抜く。

 

もうその足は立ち去る事も、逃げる事も選ばない。

しっかりと大地に立脚し、全てを見届ける様にその瞳も揺らがない。

 

「……分かってる」

 

呟く様に、進の唇が開いた。

真正面に居た憲吾は、ともすれば会場のどよめきに消えてしまいそうな程に小さな、しかししっかりと意志を以て紡がれたであろうその声音を聞きとる。

 

そしてその瞬間、ゾワリと背筋を何かが舐める様に駆け上がる感覚を覚えた。

 

「どんだけ綺麗事言ったって、俺の根っこが変わるわけじゃないんだ」

 

恐怖?―――否。

戦慄?―――否。

 

これは負の感情じゃない。

憎しみや怒り、ましてや罪の意識に苛まれたモノでもない。

 

「どうしたって、俺の本心は勝ちたい、勝ち続けたいって叫んでいる」

 

獣の様に獰猛であった筈の威圧感は霧散し、しかし次の瞬間膨大な程に膨れ上がった他を圧する程に力強い『何か』が、足音を介して憲吾の鼓膜を揺らした。

 

「だけど、今のそれは俺一人の為なんかじゃない」

 

瞳の奥に湛えたものは歓喜。

声の端々に滲ませるのは興奮。

 

怜悧であった感覚全てを消失させて、それでも尚、否。むしろ今の『彼』の方が憲吾には余程脅威であった。

 

この彼を、『水崎進』を憲吾は知っている。

 

「―――このチームで、この仲間と、もっとバスケを一緒にやりたいんだ」

 

嗚呼、と憲吾は胸中で一人得心をしていた。

今まで感じていた違和感がすぅっと抜け落ちていくのを覚え、そしてグッと足に力を込める。

 

その数秒先の未来を幻視しながら。

 

「だから俺は勝ちたい。贖う為に勝つんじゃなくて、楽しむ為に戦うんだ」

 

審判の笛の音が耳を打つ。

中空へと放りあげられたボールが、しかし今の憲吾には酷く遠い。

 

そして目の前から、進が消える。

 

「それが、今の俺の――――――水崎進の全てだ!!!」

 

待ち侘びた宿敵(ライバル)の再来(ふっかつ)に、自身の遥か上を跳ぶ進を見上げて。

 

ただ強かに、憲吾はニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

たった数十秒。

新の大音声は、その数十秒で先程まで慧心学園側に漂っていた敗北ムードも、会場全体を覆っていた諦観ムードも、何もかもを吹き飛ばして再び興奮の渦へと落とした。

 

応援する者が声を懸命に張り上げる。

誰も彼もが興奮と歓喜を露わに、皆が一つとなってこの試合を、バスケを心から楽しんでいる。

 

戦う者がコートを全力で駆ける。

上位も下位も存在しない。誰もが同等のバスケ選手として、全力を尽くして駆けて、跳んで、ぶつかる。

 

「いっけー!!ナツヒィィィ!!」

「おー!みんな頑張れー!」

「ああん、もうっ!!もっとしっかりしなさいよっ!」

「が、がんばってー!!」

「そこっ!!リバウンドッ!!」

 

眼下に、慧心の選手達に激を飛ばしまくる女バスの姿が見える。

その傍で本日の引率役を務めている葵もやや興奮気味にコートに見入って、時折声を上げては真帆につられる様に応援する。

 

そんな様子を視界の端に収めながら、昂は隣に立つ青年―――新の方を見た。

 

「……お久しぶりです。水崎先輩」

「ああ……荻山から話は粗方聞いているよ。長谷川……昂だったか?」

 

コートから目を離さずに新が返すと、昂は「はい……」と呟く様に応える。

 

「―――ありがとな」

「え……っ?」

「本当なら兄貴(おれ)がやらなきゃいけない事を、結果的に全部押しつける事になっちまって本当に済まなかった……許されるとは思ってないけど、これだけは言っておきたかったんだ」

「いえ……そんな事は…………」

 

新の視線を追う様にして、昂もコート上に―――進に目をやった。

 

「……俺は何にも出来ませんでしたよ。あいつの事を何一つ考えてやれませんでした。助けたのはむしろ、あの子たちの方ですよ」

 

夏陽がいて、智花がいて、真帆が、紗季が、ひなたが、愛莉が。

 

「最初は俺が教えているつもりだったのに、気づけば沢山の事を教えられていて……ほんと、小学生は凄いですよ。最高です」

「…………そっか」

 

心なし、和らいだ声音で新は続ける。

 

「――――――だけど、そんな強がりは今日で終わりだ。今日、アイツは『水崎進』に戻れた」

「戻る……?それって、どういう……」

 

「言葉通りの意味だよ」と、僅かに笑んだ新の横顔を見て昂は再びコートを見やる。

 

―――キュキキキキィ!!!キキキィ!!

 

「向こう見ずで短絡思考で鉄砲玉で直情的で、戦術だの戦略だの四の五の考えるより本能と直感であらゆる局面を切りぬける―――世界最強最高最上の、俺以上にバスケの神様に愛された天上天下唯我独尊級バスケバカで史上最強古今独歩三国無双クラスの負けず嫌いな、水崎さん家の進くんに」

 

―――ビーーーーーー!!

 

幾度目かのブザー音と共に、会場に歓喜の声が轟く。

渦中にある少年の顔には満面の喜色が浮かび、圧倒的な点差に絶望していた数分前の姿は最早過去の遺物に等しい。

 

飛び散る汗を拭って、声を張り上げて。

何よりも真摯に、真剣にバスケに向かう子供達の姿がそこにあった。

 

―――いや、子供とか大人とか、そんな区別は必要ない。

 

昂はふっと笑みを浮かべる。

視線の先には、喜びに顔を綻ばせて年相応の笑みを満面に湛えたままハイタッチをかわす進と夏陽の姿がある。

 

それは紛れもない『バスケ選手』の顔で。

見ている此方さえ、自然と興奮につられてしまいそうになる。

 

「……まったく、小学生は最高だぜ」

 

呟く様に洩れた声は、歓喜の中に消えていった。

 


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