―――声が、聞こえた気がした。
「進ッ!!こっちだ!!」
違う。この声じゃない。
懐かしさを感じさせる、あの声じゃない。
「水崎!!」
違う。これでもない。
温かさを感じさせる、あの声じゃない。
懐かしくて、温かくて、優しくて。
俺が大好きだった、ずっと追いかけていた声が、聞こえたんだ。
幻聴なんかじゃない。
誤認なんかじゃない。
しっかりと聞き慣れた、誰よりも綺麗にこの名前を紡ぐ事が出来る、たった一人のヒトの声。
聞き間違える筈がない。
取り違える筈がないんだ。
俺にとって、この世界でたった一人の繋がり。
俺がバスケを続ける、勝ち続ける、贖い続ける全ての起点にして終点。
他の誰でもない『あのヒト』の―――
「進!!!」
「ッ!!」
腕が矛と化して、俺を貫く様に襲い来る。
風を貫く轟音が耳を震わせ、両手で抑えていたボールが次の瞬間には捥ぎ取られる様に手元を離れた。
「クッ!!」
早さ。
強さ。
何もかもがけた外れの規格外。
矢の様に早く、槍の様に鋭く、剣の様に力強く。
相対しただけでも竦み上がりそうな程に強烈な存在感も相まって、最早攻略不能防御不可の絶対兵器にさえ思える。
伝統的にヨーロッパスタイルを主軸としてきた芝浦のバスケ。
センター勝負といっても過言ではないこの戦法を代々継承してきて、尚且つ今年はこの世代No.1センターの呼び声も高い鈴本に加え各選手の資質も歴代トップクラス。
そして―――
「やっぱ面倒だな!!コイツはよっ!!」
「ハッ!恨むなら個の戦力に欠けた三流校にいった自分を恨め!!」
試合開始からずっと付きまとう様に徹底されたマンツーマンプレイ。
延々と続けられる1on1は、もう都合何度目か数えるのも億劫なくらい繰り返された。
嘗て全日本のユニフォームを着た事もある横山HCが叩き込んだ、もう一つの戦術。
個の練度に勝るこの世代だからこそ許された、徹底された『個人戦』は、チームプレイを主とする慧心の連携攻撃を完全完璧に遮断してゲームを支配する。
「去年の夏!!俺が不完全でなければこの戦術で勝てた!!俺達が最強だと証明できた!!」
「ああそうかいっ!!」
―――キュキキキィ!!キキキキィ!!!
「なのに貴様はっ!!俺と対等だと思っていた貴様は!!その機会をっ!!最後の機会を捨てた!!」
「傍観決め込んでた奴が偉そうにぬかすなっ!!部外者気取ってた時点で俺的にはっ!テメェもあのクソ女と同列だッ!!」
「他人(おまえ)の評価など知った事かっ!!俺はっ!!!」
―――ダンッ!!!
「俺はっ!!今まで貴様を同等だと認めていた俺自身をっ!!下らぬ理由で落ちぶれた貴様をっ!!許さないっ!!!」
「偉そうに好き勝手ほざくんじゃねぇっ!!!」
疾走(はし)る。
疾駆(かけ)る。
最早幾度目か分からぬ激突が、コートに弾けた。
◆
『憲吾の3P成功率は大凡七割から八割。残りの二割から三割を詰めていたのが俺って訳です』
芝浦のバスケはチーム全体がヨーロッパスタイルを主軸にしている。
センター勝負といっても過言ではないこの戦法を伝統的に継承してきて、尚且つ今年はこの世代No.1センターの呼び声高い鈴本に生まれて持った様な超攻撃型フォワードの素養を持つ進という二枚看板によって、実質的に去年はこの二人だけで全国に駒を進めた様なものだったのだろう。
無論他のチームメイトの実力も然るものではあるのだが、試合の様子をビデオで見る限りはそれでも圧倒的成功率を誇るシューターとコート半面を自在に攻めるアタッカーの動きを邪魔しない様にサポートに回る事が主だった。
そこへ来て、嘗て全日本のユニフォームを着た事もある横山HCの采配が加われば正に鬼に金棒。
歴代屈指の面々を揃えた芝浦小は、男子においてはここ数年低迷気味だった全国大会における成績を見事準決勝進出まで押し上げ、女子はリーグ戦形式の県大会でここ数年の覇者である硯谷女学院から総合一位の座を奪取し全国大会に駒を進めた。
…………と、試合開始前に昂は進から聞いていた。
それらの証言に加えて、かき集めた幾つもの情報を纏め、総括として『知将』たる自分が導きだした答えは、
―――水崎進は、鈴本憲吾に『勝てない』
「ヤバいよ……完全にゲームを支配されてる」
隣で呻く様に葵が呟いた。
ゲームが始まって既に第一、第二Qが終わっている。だというのに試合は殆ど一方的で、その点差は広がり続ける。
既にタイムアウトは二回消費された。
これ以上は無駄遣いが許されない。悪い空気を断ち切る意味でも、最後の最後までこのカードは温存しておくべきだ。
そんな事は所詮学生の身分でしかない見習いコーチよりも顧問である小笠原の方が重々承知しているだろう。
「水崎くん……!」
祈る様な声が聞こえる。
女バスの面々も、皆が必死に応援を繰り返す。祈る様に手を握り締める様。声を張り上げて懸命に応援する様。不安と心配を顔に出してコートを見つめる様。
―――だが、それでも。
例えどれ程不利な状況下でも、それらをひっくり返す事を得手としてきた昂ですらも、最早勝利は不可能だと思わざるを得なかった。
1on1によるマンツーマンの戦術で徹底的に連携を分断。個の実力で勝る選手達がそれぞれに相手を抜き去り、ボールを奪い、ゴールを決める。
恐らくは対チーム戦術用に練習してきたもう一つの戦法なのだろう。その練度の高さからも、それが一朝一夕のものでない事は素人目にも分かる。
そして、平均身長の違いもあった。
突出して背の高い選手がいない慧心と比べて、芝浦小にはセンターの鈴本を始め、多くの長身選手がいる。それだけならまだしも、各々のフィジカルの強さ、ジャンプ到達点の高さが安定して得点を量産する原動力となっている。
何より絶望的なのは―――夏陽が完全に抑えられている事。
ともすれば本当に小学生なのかと疑いたくなる様な巨体と、それに似合わぬ細やかなプレイを自在に駆使する相手を前に、チームの絶対的エースたる夏陽すら自身の持ち味を完全に封じられている。
そしてそれを指揮するのは、コート上で先程から何度も進と激突を繰り返す芝浦のキャプテン、鈴本憲吾。
全体的戦略を組み立てるコーチと、コート上で戦術を指揮するエース。
……最早笑うしかあるまい。
こんなにも規格外が集まった人外魔境の巣窟としか思えないチームが、あれ程の高次元で傑出した『連携』を見せている。
選手一人一人が自身の役目に徹し、チームの勝利へと邁進している。
慣れ合いのチームプレイなど鼻先で笑い飛ばせる様な、凡そ年齢にそぐわない連携攻撃。
「ナツヒー!!負けんじゃねぇー!!」
真帆の怒声が響く。
会場中が熱気の渦に巻き込まれ、異様なくらいに盛り上がっているその空間の中に一瞬で溶け込んで霧散する。
静寂の暇が存在しない世界にボールが弾け、汗が飛び散る。
酷く真剣な眼差しは標的(ボール)を捉え、爆音の様に足元を弾いて駆け抜ける。
―――だが、それでも届かない。届く事はない。
―――ビーーー!!
絶望を叩きつける様なブザー音と共に、慧心のゴールネットがまた揺れた。
◆
新は会場の外に向かっていた。
誰も彼もが会場へ、観戦へと向かうその波に逆らう様にして一人、外へと逃げる様にして歩いていた。
『……進』
実の弟の、古巣との対決を見て。
『見ている』という行為すら、弟に対する侮辱に思えて。
呟いたそれを最後に、新はコートから、弟から目を逸らした。
『あの時』と同じ様に―――
「―――ッ」
噛み締める様に噤んだ口元に血が滲む。鉄臭いドロリとした液体が口の中に広がる。
その全てが『敗者』の証で、『負け犬』の証拠で、
――――――何もかもが、自身の『罪』の証。
だからこの惨めさも、絶望感も、何もかもを受け入れなければならないんだ。
何一つ守ろうとせず、逃げ続けた結果がこれなのだ。
新はそう思った―――そう、思い込もうとしていた。
だからつと、会場の入り口に仁王立つ様にして自身を遮る影の存在に顔を上げて、
「ちょーっと待ったぁー」
世界一有名な猫の様な微笑を湛えながら、悪鬼羅刹の如く剣呑な瞳で自身を見やる女性の存在に、その足を止めた。
「どーもどーも、アンタの弟さんの担任やらせてもらってる慧心のとある教師さんなんだけどさ、ちょーっといいかい?」
「…………学業関係なら、叔父夫婦の方が適任だと思いますけど」
「ん、そだね。―――けど、『学外』関係なら、アタシはアンタの方が適任だと思うけど?」
スルリと滑りこむ様な声音で、しかしその瞳にはその口調程緩んだ様子は欠片も存在せず、むしろ猫の皮を借りた虎の様に鋭い双眸がジッと新を見つめた。
「こんな所で何してんだ?アンタが居るべき『場所』は、こんな所じゃないだろ?」
「…………何を」
「逃げんじゃねぇっつってんだよ」
唐突に、首元が締めあげられた。
外見からは凡そ見当もつかない程に素早く、そして一瞬にして懐にまで潜り込まれた新は、バスケで鍛えてきた反射神経をも上回る速度で伸びた腕に為す術もなく締めあげられた。
「何時まで目を逸らし続けるつもり?何時までそうやって逃げるつもり?アンタは自分の、この世界でたった一人の弟すら見捨てて逃げるつもり?そうやって逃げ続けて、目を逸らし続けて、何時までもアイツを苦しめるつもりなのか?」
「……ッ!アンタに、何がッ!!」
「何も分からないよ、アタシには。アタシは自分の生徒の事で手一杯なんだ、アンタみたいな外の人間の事まで面倒見切れる訳じゃないんだ」
「だけどな」と。
そこで初めて、新は美星と目線が重なった。
「だからアタシは、アタシの生徒全員に関わり抜くって、そう決めた。何があってもアタシはアイツらの味方でいてやるって、最後までアイツらを見放さないって、そう決めたんだ。目を逸らさない、絶対に逃げないって、そう誓ったんだよ」
決意を湛えた瞳は真っ直ぐに新を睨む。
「―――だけど、結局アタシはアイツらにとって『先生』でしかない。結局は『他人』以上にはなれないんだ。本当にアイツらを救ってやれるのは、学校でも総理大臣でも法律でもない……たった一つの『家族』だけなんだよ」
グッと、美星が新を引き寄せた。
鼻先が擦れ合いそうになる程に間近で、美星の声が新の鼓膜を揺らした。
「今、アイツはたった『一人』で戦ってる。自分の為でも、仲間の為でもない。
―――他の誰でもない、アンタの為に。
アイツが勝ちに拘るのは、アンタの教えが正しかったんだって証明したいから。
アイツが戦い続けるのは、アンタからバスケを奪ってしまった自分を認められないから。
アイツが一人なのは、誰かに頼る事でまた裏切られるんじゃないかって怯えているから。
そうだよ、全部アイツ一人の自己満足だよ。だけどその原因はアンタだ、アンタら『家族』なんだよ。守ってやらなきゃいけないアンタ達が逃げて、目を逸らして、アイツを追い詰めてどうすんだよ?」
朗々と、独白の様に美星は言った。
尚も沈黙する新の首元を更に強く締めあげて、美星の双眸に新の顔が映る。
酷く憔悴しきった、負け犬の様に情けない顔を、新は美星の瞳越しに知った。
「…………なぁ、何とか言えよ。アンタは、アイツの兄貴なんだろ?バスケが滅茶苦茶上手くて、優しくて、アイツにとっての憧れで!目標で!帰る場所で!!『兄貴』ってのはそういうもんだろ!?『家族』ってのはそういうもんだろ!?足掻けよ、足掻き続けろよ!!泥臭くてもみっともなくても、それでもアイツの味方でいてやれよ!!最後までアイツの傍にいてやれよ!!いい加減アイツを―――進を助けてやれよ!!!」
◆
―――疲労は、限界を超えた。
震えて、今にも崩れ落ちそうな足を必死に励まして脚立させる。倒れてしまいそうになる精神を激励し、奮い立たせる。
ここで終わる訳にはいかない。
例えどんな事をしても、負ける事だけは許されない。
兄の教えが正しい事を証明する為。
兄の行いが間違っていない事を証明する為。
全ては兄から―――新からバスケを奪ってしまった自分こそが誤っているという事を、刻みつける為。
その為だけに、三草小との試合でも、この試合でも、昂が必死になって集めてくれたデータの受け取りを断ったのだ。兄の教えだけで、『水崎新』の指導だけで勝てなければ、そんな『勝利』には意味はない。負けが許されないものだとしても、その一線を越えてしまえば、今度こそ自分の世界は崩れ落ちてしまう。
―――足が、もう動かない。
しかし今、自身の意識は絶望の沼底に沈んでいく。
周囲の声も、観客の声も、何もかもが遠い。
「……もう、無理だよ」
その時、不意に頭の中に響いた言葉に。
ふっ、と。今まで自分を支えてきたナニカが急速に失われていくのを感じた。
―――もし、此処で勝って。勝ち続けて、それでどうなる?
兄がバスケを再び始める保障など何処にもない。
家族が再び元に戻るという事など起こり得ない。
何よりも、自分が―――自分自身を許せるなどと、思えない。
「……諦めようぜ。よくやったよ、みんな」
「元々負けて当然の試合だったんだ。これで終わったって、誰も文句言わねぇよ」
煩い。黙れ。口を開くな。
外野の言葉の全てを遮断する。拒絶する。拒否する。
聞くな。聞くな。聞くな。
「また『次』の機会に頑張ればいいって」
「そうそう。まだ他にも大会はあるんだから」
何も知らない連中の戯言に耳を貸すな。眼前の試合に集中しろ。
それまで自身を保ってきた鎧は無残にも壊れ、崩れ落ちた。故に言の葉の限りが脳髄に突き刺さる。心臓の奥底を抉る。
「だから最後は思いっきり楽しめばいいさ」
「そうだよ。練習だと思ってさ」
それは、侮辱でしかなかった。
耳を塞ぎたくなる。だけど腕はもう動かない。
何処かへ逃げ出したい。だけど逃げ場所など初めから存在しない。
兄のバスケが穢されて。馬鹿にされて。
それでおめおめ引き下がれと―――『負け』を認めろと。
言いかえしたいのに、何も言い返せない自分がいる。反論出来ない自分が、それを認めている事を雄弁に語っている。
視界がぼんやりと滲んでいく。
足元から世界が崩れ落ちていく。
心が―――『水崎進』を構成するありとあらゆる要素が、なくなってしまう。
「――――――最後まで諦めんじゃねぇ!!進ーーーッ!!!!」
―――声が、聞こえた。