バラガキ。
小学生の身の上でありながら近隣の中学校の不良相手にやりたい放題に暴れまわり、毎日の様に喧嘩に明け暮れていた颯太の事を周囲はそう呼んで、怯えた。
花弁なき無骨な茨、触れれば傷を負う棘だらけの子供。
誰が付けたのかは知らないが、何時からか颯太には『バラガキ』というあだ名が付けられ、益々傍若無人ぶりに拍車をかける様にして毎日を過ごしていた。
彼の親は片親である。
母親は幼い頃に亡くなり、父は日雇いの土木工を転々としながら、息子である颯太にバイトを強要して酒を飲んだくれては颯太に辛く当たっていた。
周囲の子供に比べて体格の成長が著しかった颯太はその度に父親と喧嘩に発展し、いつもの様に自分の稼いだ金でコンビニ弁当を買って夜の公園で食べ、バイト先の新聞配達屋の休憩室に忍びこんで寝入る。朝になれば新聞配達をこなして行きたくもない学校に行くか、近隣の不良を相手に日頃の憂さを晴らす日々。
そんな日々に終止符を打つ切欠が何だったのか、颯太は今でも鮮明に思いだす事が出来る。
四年生になった頃の、ある雲行きの怪しい午後の事だった。
その日は前日に父親と派手な大喧嘩を繰り広げて一際不機嫌だった為に颯太は学校にも行かず商店街を闊歩していた。
そうして、肩のぶつかった学生に喧嘩を売ったのが事の始まり。
不幸な事にその学生は近隣でも名の知れた不良グループのナンバー2とその取り巻きであり、既に少年院すら経験した事のある名うての札付きだった。
三人程度なら年上相手でも引けを取らない自信と確信のあった颯太は、しかし喧嘩慣れしたその男に散々に敗れ、路地裏のゴミ捨て場に叩きこまれた。
全身に強烈な激痛とはれ上がった肉体の鈍痛に失神する事すら儘ならず、何時の間にか降り出した雨が打ち付ける様にして大地に降り注ぐ中で意識は薄れ、或いはこのまま二度と目覚めないのかと思い―――それも別に構わない、と颯太は思った。
母親の事は顔も声も仕草も何一つ知らないし覚えていない。
父親は自分に暴力を振るうか自分を抑圧しているだけの存在。
周囲は自分を恐れ、怯え、避け……誰一人として近寄らない。
バラガキと呼び恐れられる颯太は、誰からも必要とされない自分自身を嫌っていた。
自分自身が自分を必要としない、出来ない自分を不良よりも、周囲よりも、何より父親よりも嫌っていた。
だからこのまま自分が此処で死のうが誰も悲しまない。
そう思って颯太は目を閉じ――――――不意に、雨がやんだ。
『…………』
否、誰かが自分に打ち付ける雨を遮っているのだ。
誰だと思い目を薄く開けると、一人の老人の姿があった。
『……誰だよ、ジジィ』
『…………楽しいか』
『ア?』
『そうやって喧嘩に明け暮れて、ゴミ屑の様に毎日を過ごして楽しいのかと聞いている』
その後の事は良く覚えていない。
気が付くと颯太は何処とも知れぬ和室に寝かされて、枕元には握り飯が数個と湯気の立つ味噌汁が置かれていて、
『あら、目が覚めたの?』
やたら着物が似合う妙齢の女性が、鈴を鳴らした様な笑みを浮かべて自分を覗きこんでいた。
聞けば女性は自分を此処まで運んでくれた男の妻だと言い、やがて現れた男というのが颯太が最後に見たあの老人で、しかし和服に身を包んだその様は老人と云うよりむしろ何処ぞの任侠一家の大親分とでも言った方がいっそ正しい気がしてならない気質を醸し出しており、数瞬訪れた沈黙ののちに不意に颯太のお腹が盛大に音を立てた。
『あらあら、子供がお腹をすかせるものじゃありませんよ?』
言って、女性は握り飯と味噌汁の乗ったお盆を差し出した。
『さぁ、たんと食べなさい』
言われるままに米粒の一つ一つが輝く様な握り飯を手に取ろうとして、
『待て』
『……んだよ』
『ご飯を食べる時は『いただきます』だろうが』
叱りつける様に、といってもあの男の様に暴力を振るうのではなく諭す様に紡がれたその声音に大人しく従って、呟く様に「いただきます」と言ってから握り飯を齧る。
二口、三口と噛み締める内に頬を何かが伝う。
『あら?どうしたの?』
『あったかい握り飯は旨いだろう』
女性が戸惑った様な声を上げ、男はかんらかんらと豪気な笑みを湛える。
女性の声が妙にむず痒くて、男の言葉が妙に気恥かしくて、颯太はそっぽを向きながら言ってやった。
『……塩、きつ過ぎ』
そうだ、そうに決まってる。
この頬を伝う熱い何かは、塩がきつ過ぎて辛いから出たに決まってる。
そう自分に言い聞かせるようにしながら、颯太は目から幾筋もの涙を零しながら握り飯を食べ続けた。
それが、颯太が『黒岩』と改姓する事となる――後に自分の養父母となる――黒岩夫妻との出会いだった。
―――ガッ!キュキィキキキキ!!
黒岩孝一は元はあちこちの中学や高校で教鞭を取り、それこそ何処かの熱血国語教師の様に社会から不良だの腐った果実だの揶揄されてきた子供達を更生させ、或いは導いてきた実績を持つ教師という職業に就いており、養子となって間もなく養母から聞かされた馴れ染めによれば彼女もそんな孝一の教え子の一人だという。
養母もまた私立の小学校で教鞭を取っており、夫は退役して今は地元の教育委員会で後進の育成に努めているという。
―――ダムダムッ!
黒岩夫妻は颯太を引き取る為の諸々の手続きを経て彼の養親となり、颯太自身の同意もあって特に問題もなく颯太は間もなく『黒岩颯太』となった。
そして母が教鞭を取る私立へと編入する為に孝一による厳しい教育を経て三草小へと入り、趣味と適性が一致したバスケが顧問の目に止まって六年に上がる頃にはバスケ部のエースとなった。
―――ダンッ!!ガッ!
秋の新人戦を制した時、養父母はその事を盛大に祝してくれた。普段は厳格な孝一すらも顔を綻ばせ、「よくやった」と褒め讃えてくれた。
自分を救ってくれた両親に報いたい、もっと二人を喜ばせたい。
そんな気持ちで続けていたバスケをいつしか颯太は好きになり、だからこそ負ける訳にはいかなかった。
負けてしまえば―――勝ち続けなければ、自分はまた『捨てられる』
要らない子だと罵られ、殴られ、また存在を否定される。
自身でも気づかぬ内にそんな強迫観念に囚われていた颯太は、しかしその迫り来る足音から逃れる為にバスケを磨き己を鍛え、一年前の屈辱を晴らすべく此処まで来たのだ。
―――ガシュッ!!
同年代とは思えないくらいに周囲が見上げる様な背丈から繰り出されるシュートに、元々傑出して背の高い選手がいない慧心はそれを防ぐ手立てがない。
徐々に揺れる比率の傾き始めた慧心のゴールネットが再び揺らめき、その点差が着々と広がり始めていた。
◆
「目を背けないで見つめろ、水崎」
沼底の奥に沈んだ様な意識が浮上し始めた切欠は、小笠原顧問の言葉だったと記憶している。
はれ上がった頬を冷やしながら俯いていた進はその言葉に顔を上げ、顧問の後ろ姿を見た。
「よく見て、竹中にあってお前に“足りないもの”を見つけてみるんだ」
言われるまま、顧問の視線の先を―――コートの上に立つ夏陽の姿を見止めた。
点差は徐々にとは云え開く一方で、本来の力量差が見え隠れする展開で進んでいる。
恐らくは会場にいる誰もが、このまま三草小が勝ち進むであろう事を疑わない筈だ。前評判然り、現状然り。
―――だというのに、彼らは未だ諦めていない。諦めようとしない。
「パス早く!!一本取り返すぞ!!」
皆が声を張り上げて、強く叫んで、コートを駆け抜ける。
負けが見えている様な試合で、それでも尚勝ちを得る為に戦い続けて――――――
違う。
不意に、進は体育館の中だというのにそこに風を感じた。
夏の青空の元に吹き抜ける様な、力強く、暖かい風を。
負けそう?
勝てない?
―――そんな空気をあっさりと吹き飛ばして、彼は奔る。
体格差にブッ飛ばされようと、ドリブルやパス、シュートの精度に差があっても、圧倒的に身長差があっても、それでも彼は―――夏陽は、皆は喰らい付いていく。
そんな彼の姿に励まされる様に、皆が彼の背を追う様にコートを駆ける、敵に立ち向かう。
壊れかけた空気が、砕かれかけた希望が、再び形を成す。
「―――ッ」
その中心に、夏陽(かれ)がいる!
「エースの称号を背負えるのは、チームの中で一番信頼されている選手。チームが苦しい時に助けてくれる、“頼れる存在”なんだ」
―――シュッ!!ガコッ!
「上手い選手がエースを名乗る、確かにそれもアリだ。…………だが、エースを背負うという意味を、もう一度よく考えてみろ」
1on1を繰り返して、毎日顔を合わせていて、見知ったと思っていた奴を。
竹中夏陽の事を、突然見た事もない人間に感じた。
一人のバスケ選手として。
一人の人間として。
進はこの時、初めて竹中夏陽(エース)という才能(こせい)を意識した。
―――ビーーーーー!!
休息を告げるブザーが鳴り響く。
何時の間にか、一時は離れに離れていた筈の点差がまるで魔法にでもかかっていたかのように僅差に思える。
勝てないとか、負けそうとか、そんな空気はまるでない。
勝ちに縋り、拘り、しがみ付き続けていた事が馬鹿馬鹿しく思えるくらいに、今は―――
「水崎、次は頭から行くぞ」
「―――ハイッ!!」
――――――今は、バスケがやりたくてたまらない!!
誰得な個人情報・その六
[名前] 黒岩(旧姓:山本)颯太
[所属] 私立三草小学校男子バスケットボール部
[生年月日] 8月6日
[身長] 176cm
[ポジション] C
[個人成績] 秋の新人戦:最優秀選手賞