ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第十八Q 『仲間』と一緒だから

 

芝浦に居た頃の、まだ進が兄の情事を目撃する前。

慧心学園初等部男子バスケットボール部を初戦で破った1年程前の全国大会の話に遡る。

 

その時の芝浦小学校男子バスケットボール部の成績は、結果だけ見ればベスト4止まりであった。

とはいえそれは結果論であり、内容を見れば進は今でもその時の試合結果を悔いてはおらず、むしろ貴重な経験であったと胸を張って語る事が出来る自信があった。

 

小学生の大会とはいえ準決勝ともなればそれなりに緊迫した試合運びとなり、事実その時の準決勝もまた緊迫感漂う試合展開となっていた。

というのも、第一セットが開始して五分近くが過ぎながら、お互いが攻守の巧みさに点を奪う事が出来ず、当時の大会上では初となる無得点時間記録の更新が続いていたのだ。

 

そのゲームが動きそうになったのが、第一セット終了一分前の一幕。

進がパスを受け、前評判から既に全国区にその名を轟かせていた相手のエースとのマッチアップを迎えた瞬間だった。

 

興奮の渦冷めやらぬ会場が一瞬、まるで予定調和の様に静まり返って会場から音が消えた。進はパスを受けたままボールを両手で抑えており、相手は進の出方を窺う様にしながらしかし隙あらば即座にそのボールを奪わんとその目をぎらつかせていた。

緊張と静寂が支配したその数秒間、観客にはまるで二人が石化した様に固まった末、進が仲間にパスを回した事から進が勝負を逃げた様に映った事だろう。

 

だが進には周囲のそんな反応はどうでもよく、ただ勝利という最終目標の為の最良の選択肢として回避を選んだに過ぎなかったのだ。

 

相手と視線が交錯した瞬間、進には明瞭なビジョンと共に確かな確信が脳裏を過った。

それは単に先制点を許すという目先の結果だけでなく、そのまま相手に主導権を許してしまうという最悪の結末を伴ってその光景が網膜に焼きつく様にありありと映しだされた。

 

結果として試合は好ゲームの末に芝浦小が惜敗したが、進は今でももしあの時逃げずに我武者羅に立ち向かえばどうなっただろうかと、勇猛と蛮勇を履き違える自分自身に唾棄しながらハッキリとこう告げるだろう。

 

―――試合の大事な局面で、エースの敗北は即ちチームの敗北を指し示す。

 

 

 

切り札とは、ここぞという時に切るからこその切り札なのだ。

それは単純に局面を制するという目的の為ではなく、試合そのものを支配する為に用いられるべきなのだと、少なくとも進はそう思っていた。

 

だからこそ、今まさに目の前で1on1を挑もうとする智花の勇ましさに進はいっそ感嘆すら洩れでそうになる。

但しそれは賛辞ではなく戦慄を伴うものであった。

 

(長谷川コーチのクイックステップはさっき見せた以上もう通じない―――どうするつもりだよ?)

 

 

 

 

 

 

葵の智花に対する評価は、このゲーム中にバブル景気以上の急角度を以て急上昇していた。

スピードといいボールコントロールといい、その実力は天賦の才というに相応しいものだろう。

 

自分など、後数年もしないうちにあっさり追い越される―――そう認識しながらも、しかし今の葵は負ける気はしなかった。

単純に身長差もあるが、何よりもこなしてきた試合数と絶対的な経験値の差だ。

 

昂と同時期にバスケを始めた葵は、当然の事ではあるが智花よりも経験してきた試合数は遥かに多い。そしてその中で確かな実力を培ってきた葵と、幾ら才能に恵まれていようと未だ小学生の身の上でしかない智花では、そもそも勝負になる方がおかしいのだ。

その辺りは中学生どころか高校生にすら匹敵する智花の力によるものなのだが、その辺りを考慮しても葵は負けない自信があった。

 

(さぁ、どうするの智花ちゃん?私に昂と同じフェイントは二度も通じないよ?)

 

この状況下で自分にマッチアップを仕掛けてきた智花の胆力にいっそ賛辞を贈りたい気分だったが、今は試合中である。それは後回しだ。

 

どう抜くつもりか、それともパスか。

 

身構える葵を前に、智花が一瞬前に詰める様に身を屈めたかと思うと―――

 

(―――ッ!?)

 

ボールの音すら消えた刹那、智花の姿が葵の視界から一瞬消える。

 

だが気を取られたのもほんの僅か、

 

「っ!」

 

葵を抜いたかに見えた智花だったが、背丈同様に差のあるリーチで即座に反応した葵に後方からのスティールを許してしまい突破失敗。そのままボールを奪われ攻守が目まぐるしく代わる代わるした末に葵の2Pシュートが決まり8-4。

 

前半のリードを守れぬまま、女バスは窮地に追い込まれた。

 

 

 

 

 

水崎進は基本的に無表情がデフォルトの様な人間である。

5年生当時の彼の様相を知る者がいれば目を疑うであろう程にその表情が、或いは口調が激変した理由は極々一部の人間しか知らず、それを知る由もない大多数の知己と聞こえのいい他人には、彼が淡白無表情無感動状態こそが常の、クールという形容が恐らく相応しい人間だと思われている。

その認識は彼の転入先である慧心学園6年C組のクラス内においてはほぼ周知の事実であり、それが誤りである事を知るのは彼が唯一クラス内で会話のキャッチボールを成立させようとする夏陽を除けば、この年頃の少年にしては意外な事に五人程の女子しかその事実を知らない。その五人というのは言うまでも無く女子バスケットボール部員達の事であり、取り分け女バス対男バスの対抗試合で彼と白熱した接戦を演じた智花や対球技大会用強化合宿にてお好み焼き論争を繰り広げた紗季には、彼の周囲に対する反応の冷淡さとの余りのギャップ加減に当初は驚きが隠せなかった。

とはいえその驚きも時の経過と共に薄れ、今では冷淡な彼も激情な彼も同じ『水崎進』として彼女達は捉えている。

 

が、だ。

 

それで彼女達が進と常に会話のキャッチボールを成立させているかといえばそんな事は全くなく、自分から若干微妙な距離を取っている様な愛莉や何かと衝突する上殆どといっていいくらい彼と一緒にいる夏陽と言い合い取っ組み合いに発展する真帆はいうに及ばず。学級のリーダー的存在である紗季や部活時間外にも度々進とバスケをする智花、果てはクラスの男女問わず人と出会えば会話の途絶える事の方が少ないひなたですらも二言三言会話が続けばマシな方、という状態が彼の転校から三カ月近くが過ぎようとしている今も尚続いていたりする。

 

そんな状況が長々と続くものだから担任の美星もあれやこれやと策を練り、その都度甥っ子である昂が右往左往して戦場の指揮官と歩兵みたいなコント染みた事態が起こったりそうでなかったりするのだが、そんな担任の気苦労なんて知る由もない進は正に我が道を往くが如くクラス内では孤立、というよりもむしろ外観だけみたら『孤高』と呼んだ方がいっそ正しいかもしれないくらい凛然として日々を過ごしている。

 

だから彼がその表情を年頃の少年相応に微細に変化させようと、胸中で思った事を言わんとしていようと彼と同年代で未だボーイズ・アンド・ガールズでしかない周囲にそれを察しろというのはむしろ難題でしかなく、そういった場合は察しのいい美星や紗季が気を利かせたりするのだが、それ以外だと彼の変化に気づける人間は一人か多くて二人程度に絞られてくる。

その一人というのは最早言うまでもない事ではあると思うが夏陽の事であり、C組において進とまともに会話が成立する唯一といっていい存在だったりしてある種のスポークスマン的通訳的中継的なポジションを確立している男子バスケ部キャプテンは、無表情こそがデフォルトである様な振る舞いが常である所の進が驚愕と戦慄にその身を震わせている事実を、僅かに見開かれた目と半開きの唇の様相から素早く察した。

 

自身では理科のルーペ程度には鍛えられたと自負しているそれは最早外宇宙惑星表面観察専用望遠鏡レベルといっても過言ではなく、察した内容を告げれば恐らく進自身も驚くであろう程に鋭い観察眼を持った夏陽は、現在進行形でコートを―――否、休憩の為にコートサイドのベンチに腰掛けた智花を吸い寄せられる様に見つめる進の横顔を眺め、そこに浮かんだ彼の心情的な何かを察した。

 

確か前にもこんな顔をしていたな、と過去の記憶を掘り返して見れば何の事はなく、何時ぞや男バス対女バスの試合で自分が頭を打った時に見事な拳骨をかました進がこんな感じの顔をしていたと思いだした。

こう、投球フォームがガタガタな初心者にしっかりと手本を見せる様な先輩染みた表情で、

 

「―――ッ……」

「何か、気になる事でもあったのか?」

 

疼いている。

凄いウズウズして今にも飛び出しそうな勢いを必死に抑え込んで疼いている。

 

傍目から見れば苦虫を少しだけ舐めた様な表情の変化だが、夏陽にはもう普段との違いに――失礼とは知っていても――笑いがこみあげてきそうなくらいにその表情は変化している。

 

「言いにいってやれよ。それくらいなら、別にあいつらも文句は言わねぇって」

「……ッ、けど…………」

 

何処か遠慮がちな瞳が、行こうか行くまいか、言おうか言わないかで天秤の様に忙しなく揺れている。あっちへ行ってこっちへ行って、普段の落ち着き払った他称クールな性情は何処へいったと云いたくなる様な変貌っぷりに、夏陽は自然と何だか可愛らしいものを見る様な目つきに変わっていた。

 

何に迷っているのかは知らないが、この自分のバスケ以外で自己主張力が恐ろしいくらい欠如している友人の背中を推す様な見下した真似はしなくても、手を引いて一緒にコートサイドに向かうぐらいの事はしてやってもいいんじゃないか。

そう思った夏陽はさっさと進の手を掴むと、何か言い淀んだ彼の様子を尻目にさっさとコートへと向かった。

 

 

 

コートサイドに着くと、何やら女バスの面々が団結した様に気勢を上げていた。

各々が気合いを入れている最中に水を差す様な登場が、そもそもバスケとお好み焼き以外では殆ど自己主張しない進には苦手なのだろうと解釈した夏陽はさっさと目当ての人物である智花に声をかけた。

 

「おい、湊」

「ふぇ?」

 

既に自身を除く女バスの仲間達が意気込んでコートに向かい、さぁ自分もと思っていた智花は出鼻をくじかれた様な声を上げながら振り向き、後ろの方で自分と同じ様に状況が今一呑み込めていない様相の昂を尻目にして声をかけてきた夏陽と、彼に連れられる様にしている進に目を向けた。

 

「ほら、進」

 

ぐいっと手を引っ張り、智花の前に進を立たせる。

慌ててたたらを踏む様にして体勢を立て直した進は、結構な至近距離に現れた智花の顔に若干吃驚した様に目を丸く見開き、そのまま言い淀んだ様に口元を開いたり閉じたりしながら時間を浪費した。

 

が、やがて背中に突き立つ様に「さっさと話してやれ」という様な夏陽の視線を感じ取ったのか、やがておずおずと云った風に口を開き、

 

「――――――何で湊はそんなに頑張れるの?」

 

その問い掛けに、智花の返答は早かった。

驚いた様な表情もつかの間、花の咲く様な笑みと共に真摯な声音で言の葉を紡いだ。

 

「みんなと―――『仲間』と一緒だから」

 

 

 

 

 

 

智花の言葉に、進は言葉を失ってその顔に見入った。

 

そうして、やはり自分とこの少女とは全くの対極に位置する存在なのだとその認識を再確認した。

 

同じ様に勝利に拘り続けて孤独となり、迷い込んだ異分子でしかない自分とこの少女は、しかし全く別の道を歩んだ。

 

彼女の周りには笑顔が溢れ、彼女自身が笑顔に溢れて。

自分の周りには誰もおらず、自分自身も誰とも寄らず。

 

その原因が何であったのか。

どうして自分と同等の実力を持つ彼女が、あれ程他者と慣れ合えるのか。

 

進は漸く、その理解に至った。

 

彼女は得たものを理解し、そして歩み寄ったのだ。自分から歩み寄る事で多くの知己を得、多くの努力と頑張りを続けた結果『仲間』を、自身と同等に大切に出来る『チームメイト』を手に入れた。

 

反対に自分はどうだ。初めから無意味と切り捨てて、『仲間』だの『チームメイト』だのを無価値な存在だと拒絶し続けて時間を浪費し、無駄なまでに様々なものを摩耗してその腹いせであるかの様にバスケを続けて―――結果として何を得た?

 

気づいた時には自分ではどうにも出来ない事でバスケを続けられず、状況が似ていた自分と彼女が違ったただ一つの点。

彼女は―――湊智花は諦めなかったのだ。

 

手を取ってくれる存在を受け入れ、自分から歩み寄って、頑張って、努力して、努力して、努力して。

そうして理解者も、実力も手に入れた。

 

そんな彼女が疎ましくて――――――羨ましかった。

 

「……『仲間』のせいで智花が勝てなくてもいいの?」

「誰か一人のせいじゃないよ。負けは負け、みんなで一緒に反省して、考えて、次に繋げればいいんだよ」

 

―――お前は何がしたかったんだ?水崎進

自分の存在を誇示し続ける為だけにバスケをやるのか。

 

大好きなバスケを思う存分やりたいのか。

 

「……湊。俺、お前の事がやっとわかった気がする」

「ふぇ?」

 

嗚呼、と進は自分の胸の内に積っていた靄が晴れていく様な感覚を覚えた。

それまで心の中に降りしきっていた雨がすぅっと上がる様に。日の光を浴びて凛然と輝く雫が宝石の様に可憐で鮮やかな花弁を彩る様に。

 

漸くと云っていい程に久しく思う様な感情の中で進は理解した。

 

自分は、水崎進は湊智花に憧れているのだと。

彼女の様になりたいと、彼女の様でありたいと。

 

恐らくはあの日の1on1の時から、ずっとそう願っていたのだと。

 

自分にとって太陽の様に輝く彼女が要らぬ雲に陰る事に、天馬の様に自由に空を駆けるその翼が奪われる事に、まるで自分の事が酷く傷つけられた様に苛立ちを覚える。

誰にもその輝きを奪わせたくない。誰にもその翼を捥ぎ取らせたくない。

 

そう思い、思った事で進の口は自然と開いた。

 

「……湊」

 

疑問符を浮かべる彼女に、何時か夏陽に見せたあの挑戦的な光をその目に宿して、

 

「―――勝ってこい」

「―――うん!」

 

どちらともなく笑みを浮かべ、完璧に完全に全壁に同じタイミングで握り拳を中空に持っていったかと思うと、全くの打ち合わせなしのまま予定調和の様に拳を突き合わせた。

 


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