ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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S1 男バスVS女バス
第一Q 水崎進と言います


水崎進(みずさきすすむ)の朝は早かった。

朝方の走り込みとシュート練習の為に毎朝五時半に起き、六時までに準備体操を含む諸々の準備を終えなければならないからである。兄と一緒に暮らしていた頃は毎日の様に眠い目を擦りながら兄の背を追いかけて同じものをこなそうとしたもので、しかし未だ中学生未満であるが故にそれ程傑出した体力も持たない身の上では精々兄の行程の六割から七割程度が精一杯だった。

 

最も、最近では早起きの習慣ばかりが無駄に残ってしまい、する気も起きないトレーニングに励む程の気力もない為に、準備体操を中心とした柔軟と申し訳程度のランニングで身体を解す事が殆どである。

バスケを離れてから――正確に言えば、一家が離散してから――進はそれまで熱意や情熱を注ぎ続けてきたあらゆるものが酷く下らなく、つまらないものに思えてしまった。

 

実の兄、水崎新は近隣にもその名を轟かせるバスケットボールの名選手であった。同年代の相手なら敵なしとまで謳われ、個の力も然ることながらチーム全体の力を引き上げる卓越したセンスを持っていた。

専業主婦であった母や中堅会社の管理職を務める父は無論のこと、実弟の進もそんな兄の事を誇りに思い、また同時に目標にしていた。だからこそ小学校入学と同時に『バスケを始めたい』と嘆願し、兄と同じ様にトレーニング漬けの日々を送り始めていたのである。

 

だが、ほんの数週間前。

兄が、これまで羨望と尊敬の対象であった兄が、所属する高校のバスケ部顧問の娘と関係を持っていた事が露見して、その瞬間に進の世界は一変した。

 

穏やかな笑顔が美しかった母はノイローゼに陥り、見るも無残な程に痩せこけていった。

父は肩身の狭さから退職を余儀なくされ、やがて酒に溺れる様になった。

それまで親しかった友人からも腫れ物の様に扱われ、やがて見かねた叔父夫婦が進の養育保護を申し出てくるまで、進にとっては全てが絶望だけの世界だった。

 

以来、叔父夫婦の家に居候の身となった進は、子供のいない二人にとって実の息子の様に可愛がられながら、しかし心の何処かで疎外感の様なものを鋭敏に感じ取っていた。

居候すると同時に転校となった小学校でも、春先の唐突な転校生という異分子に対する抵抗にも似た感情を感じた進は、学校でも自宅でも一人で過ごす事が多くなっていた。

 

兄、新とは『あれ』以来口もきかなければ、居候後は顔すら合わせていない。自主退学扱いで学校を追いだされたと叔父が語っていたが、率直に言えば進にとって最早兄は『どうでもいい』存在だった。

 

否、『家族にとっての自分自身』がどうでもいい存在なのか。

 

「……ッ」

 

あの時、自分が逃げ出さずにいれば母が気づいて上に上がってくる事はなかった。

あの時、自分が兄をミニゲームに連れ出そうとしなければあの現場に居合わせる事はなかった。

あの時、自分があんなに早く帰って来なければ―――

 

『あの時』から、進の中の時計は止まったままだった。

喜びも、悲しみも、憎しみも、怒りも、何一つ浮かばない心のままで惰性の様に数週間を過ごし、ただただ罪悪感だけが膨張する風船の様に膨らみ続ける毎日。

自分の所為で家族が崩壊し、自分の所為で母が、父が―――そして兄が今も苦しんでいる。

 

そう考えただけで胸が張り裂けそうになる。息苦しくなる胸を鷲掴む様にして進は手をやり、そうして初めて今朝の時間の浪費に気づいた。

 

「……やっべ、今日当番だ」

 

今朝の分は夕方に―――いや、もうバスケをする事はないのだから別にいいか、とも考えたが生来の律儀さからくる実直な心根がそれを咎め、結局は夕方に今朝の分も追加する事を決意して部屋へと戻っていく。

 

今朝は学級全員に割り振られた係当番、日直だった。

 

 

 

転校生、という存在は多かれ少なかれ奇異な目で見られる者が多い。それは年齢を重ねる毎に淘汰され徐々にその異分子に対する抵抗感も薄れていくのだが、小学生という十代になりたての頃では自分達の知らない場所から来た存在というものには様々な興味が湧くモノである。その興味が抵抗感なのか、単純にもっと知りたいという欲求からくるものなのかはさておいて、進級間もない時期にこの慧心学園初等部へと転校してきた進もまた、相応の好奇の視線と幾多の質問を以て迎えられた。

元々在学していた小学校では兄の名は轟き過ぎており、故にこれまでその重圧を寧ろ率先して背負ってきた節もあり、故に周囲の白い目に耐え切れず転校を余儀なくされた進のある種の対人恐怖症にも似た斜に構えた態度は、一目置かれるというよりも何処か異物として6年C組に抱え込まれた。

 

小学校中高学年の、主に男子生徒で構成される仲間集団を指して『ギャング・グループ』と呼称する事がある。嘗て見られたガキ大将とその取り巻きを総称して言う言葉であるが、初等部から大学までエスカレータ式の由緒ある私立校である慧心にはその様な悪戯ばかりを繰り返して教師を困らせる様な腕白な生徒はおらず、しかし元々その腕白坊主ばかりが集う様な市立校に通っていた進にしてみれば慧心のお坊ちゃん・お嬢様的な空気は何となく居心地が悪かった。

私服で通っていた所も制服に正され、ランドセルはバックに変更。スクールバスでの通学や一部のプチブルジョワ特有の成り金染みた鼻に付く態度も進の反抗心を刺激した。

 

担任の篁女史があれ程奔放で、それでいて真摯な人物でなければ早々に進は不良のレッテルを貼られていただろう。

何処となく猫っぽく「にゃふふ」と笑いながらどら焼きを齧る担任の姿が一瞬脳裏を過り、何も朝っぱらからこんな事考える事もないだろうと思いながら慣れた手つきで花瓶の水を入れ替えた進は半分空いていた教室の扉を足で全開にした。

 

「ひゃぅっ!」

 

と、教室前方から妙にか弱い声が響いた。

ドアの叩きつける様な音にびっくりしたのだろうか、同年代にしては随分と発育の良い背丈の体躯を小さく竦めて、おっかなびっくりな表情で目を潤ませながら此方を睨む……訂正、見つめるクラスメイト。

 

「……香椎、愛莉」

「は、はぃっ?」

 

凄い及び腰である。

それはもう凄い及び腰である。

 

特に大事でもないけど何となく繰り返した進は、本日のもう一人の日直担当者の名前を口にした。

 

香椎愛莉。

中学生どころか下手をすれば高校生に見えなくもない身長と相応に発育した体躯、その癖赤子の様に気弱で貧弱なメンタルと態度の少女は、淡いピンクの制服に包まれた身体を若干縮こませてビクビクしながら此方を見ている。

何だろうか、特に何かしらの圧力を加えた覚えは全くないのにまるで自分が悪者であるかのようなこの状況。

 

……余り面白くない事ではあるが、或いは自分のこのふてぶてしい態度が如何にもお嬢様らしく蝶よ花よと育てられた温室お嬢様には不良に見えたのだろうか。

だとすれば、このまま日直だからという理由で彼女に圧力を強いるのも酷な事ではなかろうか。

 

「後やっとくから、香椎はもういいよ」

 

胸中でそう結論付けた進は、花瓶を置いた踵をそのまま黒板の方に向けて歩き出し、香椎が手に持つ黒板消しを求める様に手を出す。と、そんな動作にも一々怯えながら身体を竦ませる香椎の態度に若干の苛立ちを覚えた。

 

はて、果たして自分はこれ程沸点の低い人間だったのだろうか。

何故かはさっぱり分からないが、香椎に怯えられるという事が進にとっては酷く不愉快な事に思えた。

 

「ふぇ?……だ、駄目だよっ!日直はみんなで順番にやらなきゃ……いけ、ないんだから…………」

 

徐々に語尾が弱くなっていくのは、その怯える様な視線にイラつく自分の眼光に更に怯えるという負のスパイラルが連鎖反応を起こしているからか、差し出したまま虚空に浮かぶ右手が彼女には捕食者の牙にでも見えるのだろうか。

 

そのまま睨み睨まれがきっかり十秒続き、根負けしたのか呆れたのかどうでもよくなったのか、本人が言うのだからいっそ任せてもいいかと思ったのか。右手を下ろした進はそのまま香椎の隣を通り過ぎて出席簿を取りに職員室へと向かう。

 

教室を去り際、やたら安堵した様な面持ちの香椎の横顔が妙に進の印象に残った。

 

 

 

 

 

 

私立とはいえ、初等部の昼食に学食などといったシステムは存在しない。故に生徒達は配給される昼食をクラス内の好きな座席に座って食べる形になる。

これが市立であれば班分けなどが存在して孤立する生徒はまずいないが、それでも孤立する子供というのはある種の疎外感を感じ易いものである。取り分け多感な時節にあたる初等部高学年ともなると、それまでの理由のない単純な「好き・嫌い」が仲間意識や体裁などを気にした「包容・排斥」になり、そこから来る拒絶反応は凄まじいものがある。

 

だから、どうしても打ち解けられない・あぶれてしまう生徒が出てしまうのだ。

これがいじめの要因となる事も決して少なくない。

 

「………………」

 

以前居た学校ではそれなりの付き合いがあったから合わせていたが、基本的に進は食事をする時に相手がいようがいまいが会話なしで食事を黙々と進めるタイプの人間である。

食事そっちのけでお喋りしたり、食事と会話を同時進行する器用な人種と違い、進は何か食べている時は余り喋ろうとしない性格だった。それも別に行儀云々の話ではなく、単純に食べている最中は話したくないだけなのだが。

 

こういった生徒がいると、大抵お節介焼きのクラスメイトや担任の教師は自身の心持としては気を利かせたつもりになって一緒に食事をとったりするものだが、この時進に投げかけられた誘いは最終的にグループへの取り込みが介在する事になる同席勧誘ではなく、

 

「水崎、バスケしようぜ!」

 

群青ツンツン頭のクラスメイトによる強制連行だった。

 

 

 

五月を間近に控えたある日の朝。

新しい学年、新しいクラスでの生活が始まって一カ月近くが過ぎ、クラス内における人間関係がすっかり定着して、生徒達は新しい環境でそれぞれに毎日を過ごしていた。クラス替え前からの友人や新しいクラスで出来た新しい友人、それに部活動で日常的に顔を合わせているチームメイト等々、いずれもが楽しそうに談笑していた。

 

そんな中にあって、窓際の席に座りながら外をぼんやり眺めていた竹中夏陽はちょっとだけ不機嫌だった。

自分以外の男バス部員がこのクラスにいない事が退屈で、既に公然の秘密となっている(本人は未だに隠し通せていると思っている)自らの懸想する相手――袴田ひなた――が同じクラスである事が幸福で、幼馴染の三沢真帆まで一緒のクラスである事が憂鬱なのだが、今自分の心をざわめかせる原因はそれらではない。

 

先程からクラスのあちらこちらでちらほら聞こえる『転校生』というワードと、何処から聞いてきたのか女子の一人が口走った『芝浦小』という単語。

こんな中途半端な時期になんで?とか、最早虚実の区別もつかない様な噂はどうでもよく、問題なのは『芝浦小からの転校生』という新しいクラスメイトの事のみだった。

 

市立芝浦小学校。

自身が在籍するこの慧心学園とは比べる事もないどころか共通点も接点も皆無な、取り立てて学力が県下トップクラスであるとか今をときめくスターを輩出したとかそんな小学校ではない。

 

しかして。

 

バスケットボール。

その一点において、夏陽にとって芝浦小は忌むべき宿敵とも云えた。

 

忘れもしない、先の県大会第一回戦。地区大会を見事優勝で飾り意気揚々と本戦に乗り込んだ自分達を徹底的に叩きのめした県下屈指の強豪チーム。昨年度の全国大会にも出場し、同区内でなかった事をむしろ喜ぶべきかもしれない相手。

 

そんな所からの転校生、と聞いて夏陽は朝から少しの不安を抱える事となった。

六年生の五月直前という時期の転校。もし仮に、その転校生が男であれば―――もし仮に芝浦小の元バスケ部員であれば―――もし、もしもそいつが慧心でもバスケ部に入ろうというのなら――――――

 

ただでさえ現在進行形で練習時間が不足している男バスに、控えですら県大会常連校クラスとさえ謳われる芝浦小の選手。

仲間意識の一際強い夏陽にとって、その異分子が自分達のチームに割って入り、そこに居座るのではないかという危惧と、昨年の雪辱を晴らす為には貴重な即戦力とも取れる新しい人材の加入が彼の天秤を揺らしていた。

 

チャイムが鳴って担任の篁美星が入ってくる。と、その二歩後ろをついて続けて入ってきた男子にクラスが俄かにざわめいた。

お祭り好きの三沢辺りがさも騒ぎ出しそうな空気の中、夏陽は目を見開いてそれまでの憂鬱さや不機嫌さなど微塵も残らない程の衝撃を受けた。

 

変な飾り気など微塵も感じさせない真っ黒な髪に、何処か達観した様な澄んだ目つき。柔らかな曲線を描く眉に縁取られた様な双眸はクラス内をぐるりと見回し、傲然とクラス中の視線を集めながらまるで他人事の様に落ち着いている。

クラスの中が活気づく中、夏陽だけはこの中の誰とも違う事を思っていた。

 

―――楽しかったよ!またやろうね

 

自分より頭一つ高い身長でありながら、むしろ自分より余程子供っぽく楽しそうに笑って、『バスケを心から楽しんで』いた芝浦小の背番号5番。

大会終了後に刊行されたスポーツ誌にも満面の笑顔を浮かべていたあの少年が、試合において無類の奮闘とチーム躍進の原動力となったあの選手が、どうしても夏陽の脳裏にこびり付いて離れない。

 

その少年が今目の前にいて、しかし夏陽には彼が以前とは違って見えた。

 

よくよく注視してみれば、その表情は何処か憔悴して見える。これからの新生活に対する不安や希望とは違った、まるで罪悪感の塊を背負いながらも逃げ続けている様な面持ちに、仮面の様に冷たい微笑を湛えて美星の独壇場と化した演説、もとい転校生の紹介時間を潰している。

 

「じゃあ、水崎の席は……っと、そこが空いてるね。じゃああそこに座って」

 

美星の言葉に従い、水崎はもう一度クラス内をぐるりと見回してから再び能面の様な笑みを静かに浮かべて定型句の挨拶を述べる。

 

「水崎進と言います。これからどうぞ、宜しくお願いします」

 

 




誰得な個人情報・その一

[名前] 水崎 進
[生年月日] 12月24日
[血液型] B型
[クラス] 6年C組
[身長] 153cm
[ポジション] PF
[所属係] 飼育係
[学業] 中

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