ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第十七Q 吉と出るか凶と出るか

 

目の前で黙々とフリースローの練習に勤しむ智花を眺めながら、昂はぼんやりと昨晩の事を思い起こしていた。

 

コーチ先の慧心学園にいきなり姿を現した葵に驚かされたものの、美星の機転でどうにか事無きを得て無事に帰った時の、葵の自宅の前での事だった。

 

 

 

『―――そういえば、さ』

『うん?』

『この間、水崎先輩に会ったよ』

 

瞬間、世界から音が消えた気がした。

少なくとも昂の鼓膜には、葵の紡ぐ言葉以外の如何なる音も聞こえなくなっていた。

 

『正直、直接会って吃驚した。だって噂に聞いた様な変な人には全然見えなかったんだもん』

『そっ、か…………』

『―――けどさ、世の中っていうのはその人の本質なんて全く顧みないんだよ?事実とまるで関係ない様な噂を立てられて、見も知らない人に貶されて……』

 

そこで少しだけ、葵が俯いた。

 

『…………私は、昂にはそんな風になってもらいたくなくて……だから、その…………』

 

何かを言いたくて、けど言いづらい様に口ごもって、

 

『……ゴメン』

 

何かを呟いて、途端に身を翻して扉の向こうにその背中を消した。

バタン、と扉の閉まる音と共に昂の鼓膜に音が戻り、やがて運転席の方から調子を問う様な美星の声に昂は漸く我に返って座席に深く座りこんだ。

 

 

 

―――ビュ、ガコッ

 

ボールが弾かれる音と、智花の息を呑む声に昂は回想からの帰還を果たす。

しゅんとして俯いた智花に昂は励ます様に声をかけた。

 

「たまには調子の悪い時だってあるし、気にする事ないよ」

「…………」

「……智花?」

 

返事のない智花の様子に、昂は問いかける様に口を開いた。

自分を見つめる様に顔を上げた智花の表情は困惑と不安と―――少しだけ嫉妬にも似た感情が見え隠れし、おずおずと云った風にその唇を開いた。

 

「あ、あの!昂さん…………私、もうお邪魔しない方がいいんじゃ……」

 

えっ、と昂の口から空気が洩れた。

慌てて問い返してみると、何故か智花は両手を年相応に起伏に乏しい――女バスでは若干名規格外もいるが――胸の前でもじもじさせながら、言い辛そうに続けた。

 

「その……彼女さんが嫌がるんじゃないかと…………」

「彼女?」

「昨日いらしてた……」

 

智花の言葉に、昂の脳裏に昨日の光景が蘇る。

体育館、スクールバッグの落ちる音、戸惑う様な声、驚愕に染まった幼馴染の―――

 

「もしかして葵かっ!?全然違うよっ!」

「ふぇっ!?」

「あいつはただの幼馴染だよ!同じ中学でバスケ部だったから仲がいいだけで、誤解だよ」

「そ、そうですか!」

「智花と毎日朝練するのは、俺にとって大事な時間だから……これからも宜しくな」

「はいっ!」

 

昂の言葉に智花は花の様な笑顔を浮かべる。その様につられて昂も笑みを零し―――と、不意に背中の辺りに視線を感じて昂が振り返る。

呆気に取られていた智花も昂の動作につられる様にしてその視線を追い、そしてキッチンの方でニコニコと満面に笑みを湛えている七夕の姿を見止めた。

 

「……何?母さん」

 

嫌な予感しかしなかったが、昂の口は質疑という選択肢を選び取った。

そして返って来た応答に、

 

「昂くんたら、お嫁さんに浮気を弁解するみたいに必死だったわね?」

「―――母さんっ!!」

 

やっぱり聞かなきゃよかったと激しく後悔した。

 

 

 

 

 

「一回戦が新人戦優勝の三草小……で、二回戦がシードの芝浦、ねぇ…………?」

「…………」

 

組み合わせ結果が纏められた対戦表を眺めながらぼんやりと呟く進を、夏陽はジッと見つめていた。

先日かげつに徹底抗戦を宣言した目とはまた異なった鋭い眼光に、やがて呆れが混じった様な声音で進が向き直った。

 

「……竹中、別にお前のクジ運の悪さを嘆いている訳じゃないよ?むしろこっちの手の内がバレる前に芝浦と戦えるのは好都合だと思うんだけど、だからって態々初戦の相手に名門とはいかなくても中堅より上の方の相手がいるところへ飛び込んだのはお前のハングリー精神が影響したと云えなくも―――」

「進、お前さ」

 

進の言葉を遮る様にして、夏陽が口を開いた。

 

「―――お前、どうして芝浦から転校してきたんだ?」

 

凛然とした夏陽の言葉に、進は先程までの気の抜けた様な頬を引き締めてその双眸に真正面から対峙した。

 

「……何時だったか似た様な質問をされた気がするけど、その答えなら前と変わらないよ。『家庭の事情』、興味本位で他人が首突っ込むのは流石に不躾な問題だよ」

「慧心から電車一つで着く様な距離を態々転校してまで、どうして強豪でもないウチのバスケ部に入部したんだ?」

「…………竹中、向こうで袴田が長谷川コーチのお嫁さん宣言してるぞ」

「俺の質問に答えろ。話題をそらすな」

 

普段なら絶対喰いつく筈の話題すら全く興味を示さず、夏陽の瞳は射抜く様に進を捉えて離さない。

 

「……どうしてお前はそう小っ恥ずかしい過去の振り返りたくない様な思い出を引きずり出そうと―――」

「水崎」

「…………」

 

どうやらちゃんと答えるまで離すつもりはない様子である。

進はこの時程一時間目のチャイムを待ち焦がれた事はなく、そしていつまでもならないチャイムにいっそ屋上へ駆けあがって自力で鐘を叩き鳴らしてやろうかとも思ったが、夏陽の余りにも真剣な様子にそんな事は考える事すら馬鹿馬鹿しく思えて早々に思考を切りあげた。

 

「―――夏陽」

 

だから、向き合う様にして進は初めて夏陽の事を名前で呼んだ。

 

何時か、こんな時が来るんじゃないかと一応の覚悟はしていた。

 

例えその結果拒絶されようと侮蔑されようと、その全ては自分が原因なのだから甘んじて受け入れる心構えなど当に出来ている。

ただほんの少しだけ、芝浦の面々とは違って、目の前で自分と本気でぶつかろうとするこの同い年の友人にそういった軽蔑の眼差しを向けられる事が、進の心はどうした事か異常なまでに『怖く』感じたのだ。

 

これまで一度たりとも覚えなかった『恐怖』は、思い浮かべたくもない程に鮮明な映像を以て脳内に映写され、途端に進はその光景に激しい苦痛と吐き気を催しそうになった。

 

夏陽や男バスの仲間だけではない。強化合宿で幾度となく互いを高め合った智花やお好み焼き論争を繰り広げた紗季、飼育係で共に過ごす事がやたら多いひなたや度々日直の仕事を一緒にこなす愛莉ややたら突っかかってくる事の多い真帆ですら、その瞳が侮蔑と軽蔑の色に染まり、明瞭な拒絶や排斥を伴った光景が映る度に進は心が張り裂けそうな程に痛く感じた。

ぐるぐると頭の中を駆け巡る光景と、繰り返される嫌悪の言葉に何もかもが壊れてしまいそうになって、いっそ壊れてしまった方がいいんじゃないかと思えるくらいで―――

 

――――――キーンコーンカーンコーン

 

「おーっす!みんなおっはよー!」

「……篁先生が来たから、また今度にしよう」

「…………」

 

待ち侘びていた筈の鐘の音が、しかし今の進にはやたら鬱陶しく思えた。

 

 

 

 

 

 

紗季が主導する『夏陽。をプロデュース』大作戦は、その第一段階に一先ず「夏陽がひなたと普通に世間話が出来る」くらいに親密度を上げる事を目標としていた。

では今まで出来ていなかったのかと云えば正しくその通りで、大抵夏陽が緊張の余りぶっきらぼうになってしまうか真帆辺りが横槍を投げ入れてしまっておしゃかになるかが殆どであった。

 

しかし現状として、夏陽とひなたには共通の話題として『バスケ』があり、更にもう割と前になるが強化合宿でのマンツーマン指導等を通して、ひなたの意識下における夏陽のポジションは着々と上昇している、と紗季は考えていた。

無論、4年前にひなたと知り合っていなかった紗季は実はひなたが随分と前から夏陽の事を割と上位に位置づけていた事など知る由もないし、その原因も知る筈がない。その顛末は当事者である所の少年少女三人を除けば知るのは羽多野養護教諭ぐらいなもので、担任の美星ですら事件の大筋を聞いただけだったりする。

 

閑話休題。

 

兎にも角にも、紗季考案のこの作戦は速やかに遂行されるべく、現在進行形で愛莉の水泳特訓の為に今日もまた真帆の家のプールに来た女バス+昂&夏陽――進は早々にトレーニングルームへと向かった為不在――の七人が柔軟体操を終えて、各々に目標を以てさぁプールに出陣、と思ったその矢先、

 

「あの……すばるん様、お客様で御座います」

 

真帆命名『やんばる』こと三沢家のメイドである聖の言葉に、呼ばれた昂は振り返り―――然る後絶句と驚愕にその表情を凍りつかせた。

 

そしてその数秒後、女性にしては随分と逞しい感じを思わせる怒声と共に繰り出された一撃に昂と、そして『お客様』こと葵の二人は揃ってプールへと飛び込む事となる。

その光景に、そしてその後繰り広げられた高校生二人の論争の果てに何故か明日行われる事が急遽決定した試合の報せに、先日とは違って早々にプール組に合流する為に出てきた進とその場にいながら蚊帳の外的な立ち位置だった夏陽は状況がさっぱり呑み込めずに小首を傾げる事となった。

 

 

 

で、その翌日。

 

「見学?」

「そうだな……正直、今回は俺達には殆ど関係ないし」

 

「これは女バスの問題だからな」と言いつつも、少しだけ歯痒そうな面持ちの夏陽の横顔を見て、進は少しだけ頬の筋肉を緩めた。

なんやかんや言いながらも、結局夏陽も昂がコーチを辞めてしまう事が惜しいのだ。合宿を通してその指導力を一応は認めているが故に、口惜しく思っているのだろう。

 

しかし進は、だったら女バスに混じって参加すればいいのに、とは思わなかった。

夏陽の言う様にこれは女バスの問題であって、書類上男バスの選手である自分や夏陽の介入する問題ではない。以前の様な男バスにも何らかの影響があるのであれば兎も角として、今回は完全に女バス内部の今後の問題なのだ。

 

それこそ女バスが勝って昂がコーチを続けようと、先日のちょっと怪しい来校者――昂の幼馴染であり兄と同じ高校の生徒であるという事をこの時になって知った――が率いるチームが勝って昂がコーチを辞めようと、それが直接的に男バスに影響を与えるかと言えばそうでもなく、しかし進としても心情的には昂にコーチを辞めて欲しくない―――正確に云えば、昂からバスケと触れる機会を奪わないで欲しい、と思っていた。

 

そういう意味合いで云えば夏陽は兎も角自分はそれなりに参加する大義名分を掲げようと思えば掲げられるのだが、進はそれをするつもりもなかった。

 

「夏陽はさ、どっちが勝つと思う?」

「ん?そりゃぁ……分かんねぇな。確かに体格差はあるけど、人数的には女バスが勝ってるし、それに―――」

「ゲームなんて、鬼札(ジョーカー)一枚でひっくり返るから面白いんだよ」

 

図らずも、夏陽と進の視線は全く同じ人物を見ていた。

審判役を務める昂が若干居心地悪そうに顔を赤らめるコート上に散る、各々に相応に露出度の高い水着を着こなす中で唯一学校指定の水泳水着を着た少女―――湊智花。

クラス内では控えめで穏やかな印象を受けるその様は慧心学園で彼女と一緒にバスケを経験した者に言わせれば正しく仮の姿でしかなく、内実夏陽に負けず劣らずのハングリー精神に高校生の昂すら驚嘆させる程の身体能力を持ったスーパープレイヤー。

 

「さてこの鬼札(ジョーカー)、吉と出るか凶と出るか」

 

進の試す様な呟きは、試合開始を告げる笛の音に掻き消された。

 

 

 

 

 

試合は十点先取のワンセットマッチ方式。

女バスが勝てば昂のコーチは継続、敗れれば昂はコーチを退任するという約束の元で行われた試合は、序盤こそ普段からの連携や智花の活躍によって女バスが先取点を奪い主導権を握った様に見えたが、始めて二ヶ月という短期間の間では細かい所まで手が回らなかったという――察するまでもなく当たり前な――欠点を突かれて連取を許し、瞬く間に女バスは逆転を許してしまった。

 

「あー……こりゃちょっとマズイかな?」

「あの帽子被ってない人がキーマンだろうな。女バスの攻撃パターンを短時間で読み切った上に、パスの切り崩しまで……他のメンバーを上手く動かしてる」

「ポジション的にはセンターかな?女子とは云え高校生にしては少し背が低い感じだけど、司令塔の役割に慣れている感じだよね」

 

まるっきり他人事の様に一見すると呑気な二人だが、その実表情はコート上で笛を鳴らし続ける昂と同じくらい真剣そのものだったりする。

そうこうしている内にもゲームは進み、気が付けば6―4で高校生チームがリード。

 

そして、

 

「―――って、オイオイ……」

「湊の悪い癖だな……アレは」

 

コート中央付近で対峙した二人の様子に、進は呟く様に声を洩らした。

 

「エース同士のマッチアップ…………湊の奴分かってるのか?」

 

これ以上点差が広げられれば女バスとしては厳しくなる。

だからこそ湊が前に出たのだろう。

 

戦術レベルとしてみれば、確かに現状取れる最良の選択。

―――しかし、

 

「この状況で止められたら、最悪試合が決まるぞ?」

 

ひんやりとした汗が進の頬を伝う。

 

今、鬼札(ジョーカー)が切られようとしていた。

 


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