ロリータ・コンプレックス   作:茶々

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第十六Q 喧嘩はコートで買ってやる

 

「暑い…………」

 

教室を出た瞬間に、思った事がそのまま口をついて出た。開け放った後方のドアからひんやりと流れ出る空気は、しかしスライドの面を境に見えないカーテンで遮られたかの様に突如その心地よさを失い、むわっとした外気が一瞬で不快指数を急上昇させる。

 

「水崎ー、帰るんなら早くドア閉めろよー」

「……はいはい」

 

教室内から響いた誰とも知らない声に一応従って進はドアを閉め、改めて向き直った途端窓辺から燦々と照りつける日光に顔を顰めた。

 

「…………今日って練習なかったよな」

 

覚束ない脳内の記憶帳を探り、そう言えば夏陽の姿が午後から見えなかったがと思い返して、ああ今日は県大会の抽選会で夏陽と小笠原顧問はどっかの学校に行ったんだっけかと真新しい記憶を掘り返した。

 

―――顧問がいないんだったら練習はないよな、うんというか無しにしよう。

 

そう思い立った進は、さて夕方から夜にかけての練習時間に昼間の不足分をどうやって割り振ろうかと考えながら廊下を歩く。

夏陽達が抽選に行ったから今日の練習は無し。直射日光に早々に白旗を上げて撤退を決め込んだ為にそこで思考停止した進は割と重大な事実を見落としていた。

 

夏の全国小学生バスケットボール大会県大会抽選会場。

そこが奇しくも進が数か月前まで在籍していた母校、芝浦小学校であるという事実を。

 

 

 

 

 

私立慧心学園

 

「……?」

 

放課後、来る中間考査に向けた自作の対策ノートを昂に渡す為にその後を追いかけてきた葵は導かれる様にして其処へと辿りついていた。

 

確かこの辺りではそこそこ有名で、大学までエスカレータ方式の中堅私立校だっただろうか。

いや、その辺りは今はどうでもいい。

 

(何でこんな所にアイツが……?)

 

確か慧心学園と云えば、初等部と中等部が美南市郊外にあって高等部や大学はもっと都心の方だった筈…………だとすれば進学関係云々でこの場所を訪れるのは怪しい。

 

であれば、

 

(美星さんに用事か……?)

 

昂の叔母で、確か慧心学園初等部で教鞭を揮っていると話していた知己の猫っぽい顔を思い起こしながら葵は歩を進めた。

シンメトリーを基調とした外観は綺麗に整備されており、初等部でこんな立派な建物とは流石県下随一の私立校、と内心感心する。

 

七芝高校の貧相な鉄筋コンクリ仕立ての校舎に嘆息を洩らしながらも日陰に差し掛かった辺りで、葵は正面から歩いてくる一人の少年を見止めた。

 

「…………」

 

今まで何度かすれ違った小学生とはまるで異なった、異物を見る様な眼差しが黒髪の合間から葵を覗きこんでいた。直射日光を避ける様に日陰で太陽に辟易とした視線を向けていた双眸に今は驚きの色を浮かべ、まるで予定調和の様に手元に握られた自衛用の警報ブザーの紐を―――

 

「って!ちょちょちょっと待った!!」

 

思いっきり不審者扱いしそうだった少年に向かって葵は叫んだ。その声に少年は動きを止め、しかし警戒の色を露わにしたまま探る様に口を開いた。

 

「……どちら様ですか?」

「ええっと、あの……そう!私、篁美星先生の知り合いで、先生に用事があって来たんです!」

「だったら何で来校者カードをつけていないんですか?用務主事室はもう通り過ぎてますよ?」

「ええっと、その……」

 

よもや小学生相手にこれ程困惑する事になろうとは思いもよらなかった。

確かに敷地内に此処まで入って今の今までそれらしき受付の様な場所がなかったのは妙だとは思っていたが、まさか入る場所を間違えてしまったのだろうかと葵は考えた。

 

だとすれば少年の反応は比較的自然なものだが、しかしだとしたらどうして今まですれ違った子供達は誰も自分の事を不審者だと見なかったのだろうかとも考える。

そこら辺のセキュリティは甘いのか、お坊ちゃんお嬢ちゃんばかりだから警戒心が緩いのか、自警団染みた何らかの規律組織任せなのか、色々と考えてみても結局現状の打破に繋がるとは思えず、取りあえず当初の目的を果たす為に葵は問いかけた。

 

「あの、この学校に来たのは今回が初めてで…………その、篁先生の甥っ子で私と同じ高校の男子生徒を探しているんですけど、そういった人は見かけませんでしたか?」

「篁先生の……?」

 

ふと考え込む様にして小首を傾げた少年は、しかし数瞬置いて「ああ」と声を上げた。

 

「もしかしてコーチの事ですか?」

「こー、ち?」

 

今度は葵が首を傾げた。

 

「長谷川コーチの事ですよね?」

「え、えぇ!…………にしても、長谷川コーチ、ねぇ……?」

「コーチなら今は多分体育館の方にいますよ」

 

「こっちです」と、多少警戒感を解いた声音が案内する様に歩き出した。この広大な敷地で見失っては大変とばかりに慌てて葵は少年の後を追いかける。

 

その道中でふと気になった事を聞いてみた。

 

「コーチって何の?」

「バスケのコーチです」

「バスケ……アイツが、コーチ…………!?」

「……?そういえば、篁先生に用事があるんじゃなかったんですか?」

「えっ!?あ、あの実はすば、じゃなくて……その『長谷川コーチ』にも用があって、先にそっちを済ませようかなぁ、と……」

「……そうですか。あぁ、あそこです」

 

と、少年が指差した先には実に堂々とした構えの講堂染みた建物があった。

流石私立、金のかけ具合が違うなぁ……と、葵は最早達観染みた考えを浮かべていた。

 

「用事は立ち話で済む様な事ですか?」

「え、えぇまぁ……」

「じゃあ勝手口の方からでいっか…………あっちからならコートに直ぐ出ますから、そちらをどうぞ」

「い、いえ……親切にどうも」

「どういたしまして。それでは失礼します」

 

軽く会釈して、日向を避ける様に早足に少年の背中が小さくなっていく。

その後ろ姿を眺めながら、葵は少年の指差した『勝手口』の方へと向かって歩き出した。

 

ドアをスライドさせた瞬間、遠くの方で「あっ、篁先生」という少年の声が聞こえた気がしたが、開き始めたドアは止まらずそのまま開け放たれる。

 

―――先程まで少年に感じていた妙な既視感もあっさり吹き飛ぶ程の衝撃が待ち構えているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

雪が降り出しそうな、寒い冬の日だっただろうか。

 

その日夏陽は、いつもの様にバスケの練習を終えてから、少しだけ遠出して商店街方面へと足を運んでいた。

妹達は既に帰宅しており、今日は父親も母親も夕飯までには戻るとの話だったから、本来であれば早々に帰宅して然るべきなのだが、この日ばかりはそうもいかなかった。

 

息が白く視認出来る程に冷える世界の中を黙々と歩くその手には、小学校低学年とはいえ男の子には凡そ似合わない動物の人形が綺麗に包装された袋が握られており、歩調は心なしか緊張気味に早足を刻んでいた。

 

まぁその原因が、冬休みを間近に控え家族で小旅行に出かける事が急遽決まってしまったが故に、ひと足早めのクリスマスプレゼントを贈る為に態々贈り先まで出向くというのであれば、それも仕方のない話ではあるのだが。

 

(ひなた……喜んでくれるといいけどな)

 

想い人の姿を想像しながら、ふと夏陽は手に握った袋の中身を幻視する。

どんなものがいいのか、それとなく妹や幼馴染といった身近な女の子に話を聞いて、そこに無意識下での若干の脳内補正やらが助長した結果として如何にも女の子に似つかわしい人形という選択肢を選んだわけだが、果たして男の身である自分から贈るに相応しいものなのだろうか、笑われたりしないだろうか……といった疑問や不安が頭の中をぐるぐると廻っていた。

 

と、前の方から兄弟と思しき二人が仲良さそうに手を繋いで歩いてくる。

慌てて夏陽は荷物を壁側の見えにくい方の手に持ちかえて、身体を横にずらして道を譲る姿勢を取った。

その様に兄と思しき長身の男性が軽く会釈し、自分と同じくらいの年頃に見える少年が兄の動作を真似て頭を下げ、二人は夏陽の横を通り過ぎていく。

 

「進はサンタさんに何が欲しいってお願いしたんだ?」

「僕ね、兄さんと同じバッシュが欲しいっ!」

「そっかそっか!じゃあちゃんといい子にして、毎日の練習も頑張らないとな?」

「うんっ!」

 

首元に兄と同じ柄のマフラーをした少年のはちきれんばかりの笑顔に、夏陽はふと、今年のクリスマスは自分もあんな風に笑っていられるんだろうか、と思った。

このプレゼントを受け取って貰えなかったら、自分はきっとあんな風に喜んでクリスマスを迎える事は出来ない。そうでなくとも、今年は幼馴染の一人が開くバカでかいパーティに参加する事も叶わなくて揉めたばかりだというのに追い打ちをかける様な事は起こらないで欲しい、と祈るばかりである。

 

兄弟の姿が完全に曲がり角の向こう側へと消えた頃になって、不意に空から白い粒が降りてきた。

 

「雪…………」

 

空から降り立つ、白銀の奇跡。

その一粒が、また一粒が、やがて世界を白く染め上げて、凍りつかせていく。

 

「……寒っ」

 

出来るだけ早く要件を済ませてしまおう。

そう思い立った夏陽は、先程よりやや駆け足気味に目的の地へと向かった。

 

 

 

―――それは、4年前のある冬の日のお話。

 

 

 

 

 

帰り路を往く夏陽の足取りは、普段のそれと比べると遥かに重かった。

面持ちも暗く、どんよりと沈んで重苦しく、バスケの時に浮かべる様な勝気な表情はなりを顰める様にそこにはまるでなかった。

 

と、俯く様に地面に伸びる自分の影を見ながら歩いていた夏陽の影を遮る様に声がかけられた。

 

「竹中先輩」

「……かげつ?」

 

夏陽が顔を上げると、果たしてそこには自身の想い人の妹でありながら実の姉より余程背丈の高い、しかし自分より一つ年下の学友である袴田かげつの姿があった。

 

 

 

「どうしたんだ?こんな所に」

「私は塾の帰りです。先輩こそどうしたんですか?そんな顔をして」

 

共に並んで歩く姿は、男女の性差を考えた気恥ずかしさはまるでなく、しかし円熟した夫婦の様であるかといえばそうでもなく、一言で言うならそれは『同志』といった感覚であろうか。

4年前のある『事件』以来、年や性別は違えど二人は一種の同盟にも似た関係を結んで久しく、帰り道を往く間も会話が途絶える事はなかった。

 

主に夏陽の想い人の話であったり、かげつの姉の話であったり……要するに会話の主軸は公私におけるひなたの情報交換にある。それ以外だとバスケの話であるとか、昨日見たドラマの主演が大根だとか、バラエティの大御所のスキャンダルであるとか、そんなよく合う友達の四方山話が主になる。

本日の話題も、かげつの心中としてはそんな四方山話の一つにカウントされるであろう男バスの話であった。

 

「今日、県大会の組み合わせ抽選会に行ってきたんだ」

「顔色から察するに、その結果が喜ばしくなかったんですか?」

 

かげつの言葉に夏陽は肯定を示す。

 

「……一回戦の相手は去年の新人戦で優勝したチーム。で、二回戦はシード校の『芝浦小』」

「芝浦、ですか……」

 

バスケの知識にやや疎いかげつでも、その勇名は聞いた事があった。

昨年の全国大会ではベスト4、秋の新人戦では準優勝に輝き、冬に開かれた大きな大会でも入賞したという県下屈指のバスケ強豪校。

そして何より、昨年の県大会初戦で夏陽達の男バスを徹底的に叩き潰したという因縁の相手。

 

「中々厳しい相手ですね……」

「…………」

「……けど、その顔色の原因は別の事の様ですね?」

 

射抜く様なかげつの言葉に、口にこそ出さなかったが夏陽は同意を示す様に頷いた。

 

 

 

『―――慧心学園?あぁ、あの弱小チームだっけ?』

『勝てもしないくせに無駄な足掻きばっかしてきて、鬱陶しいったらねぇよな』

『ま、精々練習台くらいにはなってもらわないと困るけどな』

 

煩い。

うるさい。

 

『ラッキー、慧心が持ってってくれたぜ?』

『二回戦で早くも強豪同士が潰し合いか、助かるー』

 

ふざけるな。

舐めるんじゃねぇ。

 

―――そう、言い返したかった。

 

「俺さ、好き勝手言われても言い返せなかったんだ」

 

初めから自分達が負けると決めつけられて。

普段の練習も特訓も、何もかもを否定されて。

 

「男バスのキャプテンなのに……みんなの、代表なの、に…………ッ!」

 

悔しくて、悔しくてたまらない。

堪え切れない程に苦しくて、悲しくて。

 

「みんなの事、バカに、され、って……けど、けど…………ッ!!」

 

怒りを押し殺した様に夏陽は俯き、隣を歩くかげつが夕陽に照らされていながらハッキリと白く染まる事が視認出来る程に手を力いっぱい握り締めた。

歯をギリギリと音を立てて食い縛り、込み上げてくる思いを必死に閉じ込めようとして―――そうしなければ、憎しみの赴くままに暴発してしまいそうで。

 

そしてそれが、昨年の雪辱を生み出したのだと理解しているから夏陽は踏み止まる事を選んだ。

秋の新人戦、冬の大会と緒戦で敗北を喫したあの時も、直前の県大会の大敗が頭を過って、攻めを躊躇したが為の緒戦での敗北。

 

あの悔しさをばねにして、糧にして築き上げてきたものを、自分一人の癇に障った程度で壊したくない。

 

だから夏陽は押し殺した。

それが最善である事を、最上である事を理解していたから。

 

―――しかし、それで納得出来るかと云えばそんな事はない。

 

大切なチームメイトをバカにされ、日々の練習をコケにされて、みんなの努力を笑われて、それを我慢出来ようか?

 

相反する二つの感情が胸中で鬩ぎ合い、理性が辛うじて勝っているからこそのこの様相である。

かげつはそんな夏陽の様を見、そして口を開いた。

 

「竹中先輩」

「ああ……分かってる」

 

ギロリ、と夏陽の双眸が虚空を―――その遥か先を幻視し、

 

「―――喧嘩はコートで買ってやる」

 

鋭い声音が、そう紡いだ。

 


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