ロリータ・コンプレックス   作:茶々

16 / 38
S3 初夏
第十四Q 更衣室使えよ


 

―――観衆の大歓声が響く中、弾ける様に汗が虚空を舞った。

その雫がコートに落ちる前に床を蹴り、空を飛ぶ。誰も追いつけない、誰にも邪魔されない空を鳥の様に舞う。

 

撫でる様に触れて指先から離れたボールが白地の板で弾け、ネットへと吸い込まれて重力に従う様にして落ちる。

 

ブザーのけたたましい騒音は自分のチームに加点を告げ、コート上の味方に活気を与え、相手の選手に絶望を知らせる。観衆は一層歓喜の声に包まれて、その渦中に佇むたった一人の少年に敵味方の別なくただ魅了されていた。

 

だが、渦中の最中にある少年―――進の表情は酷く無機質で、冷たく異彩を放っていた。

 

 

 

興奮も歓喜も何一つ存在しない。運動すれば腹が減る様な、夜になれば睡眠をとりたくなる様な、日々の練習と同じ一種の基礎代謝と何ら変わらない―――勝つ事は当然の結果であり、むしろ必然ですらある。

 

6年という歳月を以て築いた実力を如何なく発揮し、5年という年月を経て培ったその『常識』を鑑みれば、むしろこの程度で喜ぶ方がどうかしている。

心の一方でそう考えながらも、進はふと同じチームの面々を見やった。

 

皆が一様に歓喜に拳を天に向かって突き出し、或いは喜びの笑顔を満面に浮かべている。その光景が何だか妙に珍しく見え―――と、コツンと後頭部に軽い衝撃を感じて振り向けば額に汗を湿らせながらも平生より余程緩んだ笑みを浮かべた夏陽の姿があった。

 

「お疲れさん、スーパーゲッター」

「……ん」

 

――――――何時か見た顔だな。

 

夏陽の顔を見てそんな事を思いながら、進は挨拶の為にコート中央へと進んだ。

 

 

 

 

 

 

篁美星は不愉快であった。

廊下を歩く様はそこら辺の怪獣映画さながらに壮大なBGMでも流せば最早首都壊滅も目前かという具合に緊迫感漂うワンシーンになりえただろう程に不愉快極まりなかった。

 

事の発端は、今朝の出勤に遡る。

 

 

 

「篁先生、宜しいですか?」

 

職員室に入って早々、朝一で会いたくない奴との面合わせに美星は内心で「うげぇ……」と顔を顰めながら一応儀礼的に会釈をした。

 

「おはようございます、小笠原先生。あっ、そういえば先日は地区大会優勝、おめでとうですね。鼻も高いんじゃありませんか?」

「ええまぁ。子供達の技量を見れば寧ろ当然とも取れる結果ではありましたが」

 

てっきり厭味ったらしく自慢するかと思えばその逆、むしろ当たり前すぎて何の感情も浮かばないといった様子で眼鏡の蔓を弄る小笠原の様に美星は内心で舌打ちした。

前々からこの男とは馬が合わないのだ。只でさえ少し前までは女バスの存続云々で揉めに揉めた相手である。ある程度ほとぼりが冷めたとはいえ、これでまた調子づいて練習時間云々に口を挟まれては面倒だ。

 

そう思って身構えた美星だったが、小笠原の「そんな事よりも」という言葉に一応耳を傾けた。

 

「先日の球技大会のバスケでは、見事先生のクラスが優勝したとか。寧ろ其方の方を褒めて上げた方が宜しいのでは?」

「いえいえ、神様がくれたあの子たちの頑張りに対してのささやかなご褒美って奴ですよ。私が褒めるのは筋違いですって」

「で、しょうね」

 

クィッ、と眼鏡の蔓を指でなぞりながら、

「―――女子生徒と男子生徒を同じ合宿に参加させた挙句、実質的な指導を甥っ子の男子高校生にまかせっきり、という体たらくですからね」

 

一瞬、小笠原が眼鏡のレンズ越しにその眼光を鋭く光らせた。

 

「先日、貴方が不在の折にも会議の議題に上りましてねぇ。何しろ名目上は貴女が監督していた筈なのに、その貴女は合宿中一切練習を指導していない。それどころか体育館にも合宿所にも姿を見せていない」

「……何が云いたいんですか?」

「困るんですよ。貴方の身勝手な指導方針に振り回されて、ウチの大事な生徒に好奇の視線が集められるのは」

 

底冷えする様な声音と共に視線が交錯する。

体格的に見上げる格好となった美星と、身長差そのままに見下す様な視線の小笠原の両者の様はさながら男バスと女バスの決戦前日の再現であるようだった。

 

「竹中はウチの部のキャプテン。そして何より水崎はこういった問題には一番デリケートでなければならないという事くらいご存じの筈でしょう?貴女の甥っ子がどんな問題を起こそうとその結果女バスがどうなろうと私の関知する所ではありませんが、その騒動に我が部の大事なエース達を巻きこまないで頂きたい」

「…………っけんじゃねぇ」

「そもそもお遊びでしかない貴女達の気まぐれの為に貴重な練習時間が削られているというだけでも此方としては―――」

「ざっけんじゃねぇっ!!!」

 

一閃、衝撃と共に小笠原の視界に花火が飛んだ。

肺腑がごっそりと抉られた様な激痛が一瞬で全身を駆け抜け、そのまま力なく崩れ落ちる小笠原に向けて美星は怒鳴る。

 

「黙って聞いてりゃ云いたい放題言いやがって!!ふざけんじゃないよこのカマキリッ!!アタシの事なら兎も角、あいつらの事をバカにしてんじゃねぇっ!!!」

 

驚きにどよめく教職員を尻目に美星は蹴破る様にしてドアを開け、そのままずんずんと廊下を行進して職員室から遠ざかって行く。

腹を抑えて蹲る小笠原に真っ先に駆け寄ったのは養護教諭の羽多野だった。

 

「…………相変わらず容赦ありませんね。貴方達はお互いに」

「……ええ、まぁ」

 

手を貸して貰いながらも、小笠原は自力で立ち上がる。

苦痛に顔を顰める小笠原を眺めながら、羽多野は既に姿を消した美星の背中を幻視して呟く。

 

「あの人が自分の大事な生徒の事を何も考えていない訳ないじゃない」

「そんな事は分かっていますよ」

「だったら……そんな云い方すれば、幾ら美星先生だって怒りますよ」

「それくらい理解しています」

「なら何で……?」

 

羽多野の非難する様な眼差しに、しかし小笠原は相変わらずの不敵で不遜な表情のまま鼻を鳴らして一言、

 

「私個人として、これだけは譲れないからですよ」

 

始業を告げるチャイムに合わせて小笠原は自分の席へと戻って行く。大きくため息を洩らした羽多野もやがて肩を竦め、自分の座席へと戻って行った。

 

 

 

 

 

球技大会が終わってはや二週間ばかりが過ぎ、ふと気づけば季節の巡りと共に慧心学園初等部の服装も彩り鮮やかな冬服から簡素で通気性に優れた夏服へと様変わりしていた。

とはいえそれで既に二ヶ月近くが経過したこのクラスでの生活に特別な変容が起こる訳でもなく、しかし初めの頃よりは随分と賑やかになった昼食の集い――合宿終了から間もなくして自分と夏陽がお呼ばれして女バスの面々と卓を囲んで食事を取る集まりがぽつぽつとその回数を増やして既に日常化しつつある――の中で、本日のメインであるサンドウィッチを齧りながら進はつんざく様に響いた真帆の言葉に耳を傾けた。

 

「それってデートじゃん!」

「ふぇっ!?ち、違うよ!」

「いいなー、ひなも行きたいなー」

「いやいや、ここは若いお二人だけで……!」

「初めてのデートだもんね?」

「そ、そんなんじゃないよぉ!ただ新しい靴を……」

 

開口一番何事かと思った進は、同じく隣で目を丸くしている夏陽の方を見た。

 

「……ん?」

「えぇっとだな……何か湊があのロリコン野郎と一緒に新しいバッシュを買いに行くらしいんだが、どうもそれがアイツらには『デートする』という事らしい」

 

食事中は必要最低限の単語――酷い時は目線や身ぶりだけ――しか発しない進の通訳役を何時の間にか定着させつつある夏陽の言葉に、進はレタスと卵とマヨネーズがサンドされたパンの端切れを噛み千切って咀嚼しながら興味のなさそうな視線を向けた。

 

要するに人様の有難い忠告を端から無視してこの子は自ら進んで将来を潰したいというのだろう。類稀なる技術を錆つかせるに飽き足らず、これでは最早バスケに対する冒涜そのものではないか。

そんな風に考えていると、不意に自分の表情が強張っている事を進は察した。心なしか頬の筋肉が引っ張られ、サンドウィッチを噛み千切る音が随分と大きく響く。いや、音を響かせているのは恐らくマヨネーズが程良くトッピングされたレタスだろうが、それにしたって普段の進であれば「シャク……シャク……」と兎が齧るよりも小さな音しか鳴らさないというのに今は「バリッ!バリッ!」と煎餅を齧る様な豪気な音を立てている。

 

そんな進の様子に目ざとく気づいたのは、お好み焼き戦争を勃発させて以来随分と進を観察する様になった紗季だった。

 

「あら?水崎は随分と不機嫌そうね?」

「おー!?ここでずっきんがもっかん争奪戦に名乗りを上げるのか!?」

「別に……」

 

悪乗りする様に身を乗り出した真帆をかわす様にして進はそっぽを向いた。

ちなみに『ずっきん』というのは真帆が進に付けたあだ名である。とはいっても進は勿論の事ではあるが付けた本人である真帆も今一納得していない様で現在もあだ名については思案中らしい。

 

「おー?水崎は智花とお兄ちゃんがでーとするの、嫌?」

「別に」

 

窓際の席に座るひなたの双眸を避ける様に顔を明後日の方に向けながら進は付け合わせのプチトマトを口の中に放る。口の中で弾ける様に広がる青臭い匂いに多少顔を歪めながらも進は黙々と食事を続ける為にサンドウィッチに手を伸ばし―――つと、視線を感じた方に顔を向けた。

 

「……ッ!?」

 

慌てて視線をそらしたのは何故か愛莉だった。

心なしかその表情は先程の進よりも硬く、両手で持ったサンドウィッチをネズミの様に齧っては咀嚼し、細い喉を通して小さく音を鳴らす。

 

この微妙な気まずさは何時から続いているんだろうか、と進は空とぼけるつもりは全くなかった。

考えるまでもない程に原因は痛いほどよくわかっており、しかしその代償は先日までの『上納』で一応収めたとはいえ精神的にそれで納得出来るかと問われれば進は男だから当然分からないが、女子の――特に愛莉の様に繊細な女の子なら顕著なくらい――心情的には無理がある話だろう。

 

 

 

 

 

 

何の話かと云えば、先日の球技大会の話である。

美星考案の昂実働で決行された強化合宿の末に、夏陽は球技大会で女バスの監督を執ることとなり、進は合宿終了後間もなくして医師の診断書を提出して大会不参加の旨を美星と夏陽、それに女バスの面々に伝えた。

別に腕は全くと言っていい程痛んではいないのだが、元々照準を球技大会後に開かれる月末の地区大会に合わせていたのだから前座である球技大会は調整程度のものでしかなく、であれば夏陽の云う様に男バスの他の面々の様子をコートの外から眺めてみるのも一考だと考えた次第で、結果として女バス対男バスレギュラー(夏陽、進を除く)の構図となった球技大会は見事女バスが勝利を修めた。

 

大会中ずっと――何故か体育館のコート近くのベストポジションにポツンと置かれていた――跳び箱の上に乗って試合観戦をしていた進はその日の放課後に行われる男バスの練習の為に夏陽と二人で一足早く体育館へと赴き、テキパキと片づけを始めてさっさと練習を始める為に準備を開始した。

 

そのままでいけば練習前に夏陽と1on1をやるのも充分な時間が確保出来る筈だったのだが―――

 

「ったく……何で実行委員でもないのに俺達がこんな事しなくちゃいけないんだよ……」

「仕方ないよ。その分地区大会までは練習時間も融通して貰えるんだし」

「だからってさぁ……」

 

ガラッ―――

 

その瞬間の光景を進は今でも覚えている。

 

ゼッケンやらストップウォッチやらが入った籠を片手に持って用具入れのドアを開けた自分が見ていた夏陽の表情が一瞬にして呆然、唖然、驚愕へと変容し最終的に林檎よりも赤々と染まった表情はおたふくかぜでも流行らせたかと思う程で、彼の視線を追う様にして自分も用具入れの中を見、そしてどうして彼が呆然、唖然、驚愕へと変容し最終的に林檎よりも赤々と染まった表情はおたふくかぜでも流行らせたかと思う程になったのかという事に納得した。

 

「…………」

 

誰の分の沈黙かは分からない。恐らく全員分ではなかろうかと進は思った。

白かったり淡いピンクだったりスカイブルーにレースがあしらわれていたりレモン色とでも表現すべきかどうかという色だったり花柄だったり――――――そこら辺で進は考えるという愚考を停止した。

 

取りあえず、そこから先の事は余り覚えていない。

ただダンベルやらボールやらポールやらが凄まじい勢いで投げつけられ、阿鼻叫喚の地獄絵図もかくやと云わんばかりの悲鳴と怒声の中で視界の端に一瞬コーチの姿がチラリと見えた気がしないでもない様な空間の中でひたすらに響いた轟音の中、進は嘆息混じりに呟いた。

 

「……更衣室使えよ」

 

無論、進の至極尤もに思える正論が怒りと羞恥に染まった女子に通じる筈もなく、結果として散々に平謝りする事と昼食のおかず献上等の諸々の不平等条約の末にどうにか和解へとこぎつけたその労力を指して『無駄』という以外何があろうか。

 

取り分け図体の割に大泣きしていた愛莉との冷戦状態は今もって進行形であり、しかしそれが仲の悪さに直結している訳でもなくただ会話が極端に少ないという――少なくとも進にとっては――問題の少ない問題で済んでいる。

 

そんな事を考えているなど知る由もない紗季は、全く効果がない事も同様に知る由もなく進を挑発する様に智花を激励した。

 

「トモ、しっかり頑張るのよ!手を繋ぐとか肩を抱いて貰うとか!」

「智花ちゃん大人……!」

「おー!頑張れもっかん!」

「いいなー、ひなも抱いてもらいたーい!」

 

最早面白さの方が圧倒的に比率を占めているであろう空間の中で、進は再び表情を強張らせながらサンドウィッチを貪る様に咀嚼する。ひなたの言に噎せた夏陽すら眼中に収めず黙々と食事を進め、その後は紗季と真帆が勝手に考案するデートプランを右から左へ聞き流しながら昼食を進め―――そんな感じでその日の昼下がりは過ぎていった。

 

 

 

 

 

バスケ部復活へと向けて設立された七芝高校バスケットボール同好会の活動に、昂は基本的に女バスのコーチが無い日は極力参加する様に心がけていた。

練習用のコートは参加者で割り勘して借りる事が主だが、公園附設の野良コートでやる事も少なくない。

 

奇しくもその日のコートは昂の家からほど近い公園にあり、フェンスの一角には喰い破られた様な歪な穴があった。

 

「…………」

 

唐突に曇りだして大量の雨粒を地上に叩きつける空と雨に打ちつけられるコートに、昂はもう思い返す程に昔の事となった――今でも鮮明に思い出せる――光景を幻視した。

 

『うぐっ……えぐっ……ぁ、うぁ……!』

 

コート上でたった一人、堪えてきたものを吐き出す様に泣き続けた小さな肩。

年の割に少し高い身長と、それに反して随分と華奢な印象を与える幼い体躯。

 

合宿ではその折の様子を露ほども見せなかったからあえて踏み込む様な真似はしなかったが、

 

『―――何やってんの?』

 

あの瞳は、今までどれだけの穢れた大人達を見続けてきたのだろうか。

あの目は、今までどれ程の年不相応な地獄を見続けてきたのだろうか。

 

腕の傷は消える事がなく、心の傷も癒える事はない。

傷だらけの小さな身体は、しかし誰にも助けを求めようとせず―――否、誰も助けてくれない事を知ってしまったが故にその概念が抜け落ちたままバスケを続けて、戦い続けた。

 

その行為は贖罪であるかの様に。

自分自身を罰する為である様に。

 

喜びも楽しみも何一つ介在しない、まるで消耗する為だけの様な無茶苦茶なプレイスタイルは、けれど世間には『期待の超新星』として大々的に取り上げられた。

 

(水崎…………)

 

関わってしまって、事情も知っていて。

 

―――けれど、自分が立ち入っていい問題なのだろうか?

 

自問する様な昂のため息は、雨音鳴り響く世界に掻き消された。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。