第九Q 水崎はバスケ、嫌い?
女バスの存続が正式に決まって――あの流血と病院送りの騒ぎ――から数日経って、進は再び学校に登校し始めた。
怪我による出席停止、とクラス内に周知させた美星の手腕によって特に目立った騒ぎもなく、幾人かの「大丈夫?」等といった心配する様な声と共に迎えられた進は儀礼的な微笑と模範的な会釈を以て答え、日常に復帰した。
「それじゃあ、今度の球技大会の参加種目を決めるよー」
その日の学級会での議題は、間もなく開催される球技大会についての説明と、各自の参加種目決めだった。
各々があれやこれやと、自分の出たい種目に名前を書いていく光景を自分の座席に座りながら進はぼんやりと眺めていた。
と、そこに人影が映る。
「水崎、お前は何にする?」
「……竹中?」
前の座席に腰かけ、夏陽が声をかけてきた。
僅かに視線を傾けた進だったが、ふと黒板の方から肩を怒らせて、それこそ何処かの怪獣映画に流れそうなBGMが聞こえてきそうな程にずんずんと歩み寄ってくる人影を捉えて不思議そうな色を浮かべた。
「おい夏陽」
「何だよ真帆」
「何だよじゃねぇよっ!何でバスケじゃなくてサッカーにエントリーしてんだよっ!?」
バンッ!と思わず手の心配をしたくなる程に力強く机を叩いて真帆が怒鳴る。
だが夏陽はそんな真帆を見ようともせず、呆れた様な口調と他人事の様な声音でただ淡々と、
「お前なんかと一緒にバスケが出来る訳ねぇだろ下手くそ」
―――その一言を最後に、進はそこから保健室のベッドで横になっていた今までの間の事をよく覚えていない。
何だか筆箱とか教科書とか黒板消しクリーナーとか椅子とか、最終的に机とか人とかがバスケットボールの様に放り投げられまくって宙を飛びまくる光景が脳裏を一瞬過った気がしたが、余りにも非現実的な光景だなと結論付けて、何やらやたらクラスメイトの姿が多い保健室のベッドの上で肩を竦めた。
生徒全員に割り振られた係仕事の中で、進が充てられた係は『飼育係』だった。
以前いた学校でも競争率の低かった同様の係を務めていた事もあり、内容もよく知らない妙な係仕事を割り振られるくらいなら知っている物の方が良い、と考えたからである。
ただこの係、以前は男子生徒の競争率が某国家の年間業績成長率より低かったというのにこの慧心学園初等部6年C組ではバブル崩壊直後に訪れた大企業への求人応募率より高かった。というよりクラスの男子ほぼ全員が希望していた。
何故か、とふと思った進だったが、厳正なあみだくじの結果見事係を射止めた後になって同じく係に就任した夏陽にその訳を聞くと、
『えっ!?お、お前っ、そりゃ……あれだよ、えと……』
何だか顔を赤らめながらしどろもどろになって非常に言いにくそうに口ごもっていた。
進の呟きを聞いたのか、血の涙を流していた男子生徒達がギロリと進の方を睨んだ気もしたが、そんな敵意むき出しな視線にもこの時の進は気づく事無く、ただただ目の前で指をもじもじさせたり視線を彷徨わせたり、宛ら恋する乙女の様な仕草を見せるクラスメイトに小首を傾げていた。
「おー、水崎ー」
と、考え事をしながら兎にレタスを齧らせている所に後ろから声がかかった。
顔を後ろに向かせると、そこには給食室で余った野菜をいっぱいに持ったバケツを両手で運ぶクラスメイトで同じ係の袴田ひなたの姿があった。
「お疲れ様、そこに置いといて」
「おー、ひなもウサギさんにご飯上げるぞー」
言って、進の指差した辺りにバケツを置いたひなたは早速レタスの葉っぱを取り出して進の隣にちょこんと座ると、同じ様にしてレタスを兎の前に差し出した。
進の方から二、三羽靡いた兎達がひなたのレタスを齧り始めると、途端に顔を喜色に綻ばせながらひなたが御機嫌を露わにした。
6年C組の中でも一際異彩を放つクラスメイト、袴田ひなた。
確か先日の対抗試合では女バスチームにいた様な気もしたが、進は終始自分と真っ向勝負を繰り返した智花以外の女子のクラスメイトは、未だに顔と名前が一致しないどころかどちらも覚えていない生徒の方がむしろ多かったりする。
……ちなみに、男子生徒もクラスメイトの夏陽以外顔も名前も全く判別がつかないのだが、そこら辺は進的には正直どうでもよかったりする。
そういった所が、未だにクラスの中で進が少し周囲から距離を取っている様に見られる一因になっていたりするのだが、特に困った事もないからまぁいいか、と進は思っていた。
「水崎」
「ん?」
「水崎はバスケ、嫌い?」
パリッ、とレタスの芯を齧る兎の歯音が嫌に大きく響いた。
「ひなはバスケ、好き。みんなとするバスケ、面白い。練習は大変だけど、みんなと一緒なら頑張れる」
「…………」
「ひな、水崎と違ってバスケ下手。みんなよりも下手。けど、みんなと一緒なら楽しく出来る」
宝石の様に澄んだ小豆色の双眸が、ジッと進の瞳を捉えて離さない。視線をそらそうとしても、まるで石化の呪文でも唱えられたかのように動けない。
「この間の試合の水崎、楽しそうだった。でもバスケ終わったら、水崎、辛そうだった。泣いてた。水崎はバスケ、嫌いだった?」
「…………そんな事、ない」
そんな事、在る筈がない。
あんなにも輝いた世界を見せてくれたバスケを、嫌いになれる筈がない。
ない、筈だ。
◆
『やっぱり兄貴が出来ると、弟も出来が違うんだよな』
『流石、水崎さんの弟さんね』
天才と謳われた兄。
兄と比較され続ける自分。
自分が『水崎進』である事を証明する為なら他にいくらでも方法があったかもしれない。
だが、自分が自分自身を『水崎新の弟』以上の存在として認める為には、これしかなかった。
バスケ以外の道で、自分は兄の幻影を振り払う事は出来ない。
バスケで、自分は兄を越えなければならない。
その為にもがいた。
その為に足掻いた。
初めてシュートを決めた瞬間の、初めてドリブルが上手く行った瞬間の感動を糧に頑張り続けた。
兄から様々なテクニックを教わって、学んで、時に盗んで。
そうやって自分を磨き続けて、高め続けて―――それでも結局、兄の背中は遠ざかる一方で。周囲はただ自分を『水崎新の弟』としてしか捉えず、そして自分がバスケで培った全てすら、むしろ『水崎新の弟』であれば当然であるとしか思わず、それ以上を求め続けた。
だから足掻いた。
だからもがいた。
地区大会も圧勝した。
県大会では最優秀選手に輝いた。
全国大会ではメディアにも取り上げられた。
―――――――それでも結局、つき纏うのは兄の影。
誰も彼もが自分の事を『水崎新』の付属品(スペア)としか見ない。
憧れは鬱陶しさに。
喜びは妬みに。
何時からか『楽しむ』事は『勝つ』事に変わった。
喜びも、嬉しさも、何もかもも勝つ為の方法として、手段として、基礎代謝として消費し続けた。
勝つ事が、勝ち続ける事が兄に勝る唯一の方法だと考えたからだ。
慣れ合いの仲間なんかいらない。
勝利に必要な要素なら誰でもいい。
チームの人間は所詮、勝利というパズルを組み立てる為の部品(パーツ)。
その為に利用して、利用して、利用して利用して利用して利用して利用して、いらなくなったら捨てる。
チームメイト?
自分が勝利という成果を得る為に使えそうな備品。
チームワーク?
隣に立つ事もままならないレベルの弱者がほざく、傷の舐め合いの為の妄言。
そうやって戦い続け、そうやって勝ち続けてきた。
―――それなのに。
あれ程盛名を轟かせた兄が、あれ程気高い目標として君臨し続けた兄が、たった一つの汚点によって全てを失った。
その引き金を引いたのは、付属品(スペア)でしかなかった自分。
その時から、バスケに関しては兄の幻影は振り払えたのかもしれない。
―――違う
こんな形で兄を振り払っても意味はない。
こんな形で終わっても何も解決しない。
自分が足掻き続けたのは、もがき続けたのは兄に、『水崎新』に『バスケで』勝つ為。
その為に何もかもをかなぐり捨てて、全てをバスケに注いできた。捧げてきた。
けど、
―――どうして俺は、強くなろうとしたんだ?
あんな兄に勝つ為?
あんな兄を超える為?
下らない。
下らない下らない下らないくだらないくだらないくだらないクダラナイクダラナイ!!!
そうして、自分は情熱を失った。
熱意も、意欲も、家族も、何もかもを失って、それまで抱えてきた重みすら失って。
残ったのは勝利に固執し続けて歪んだ、兄を蹴落として自分という存在を確立した、歪んだ『水崎進』という人間ただ一つ。
―――くだらない。
何の為に俺は生きている?
何の為に俺は存在している?
答えの見つからない問いかけを続けて、たった一人で戦い続けて。
兄からバスケを奪っておいて、そのバスケすら止めて。
そうやって残ったのは、この世界でたった一つの家族を狂わせた『水崎進』という存在の、父や母や兄に対しての罪悪感だけだった。
――――――水崎はバスケ、嫌い?
夕焼け色に染まった街をバスが往く。車内にはのどかな声が溢れ、それぞれが楽しそうな笑顔を浮かべている。
窓辺の席に座り、流れる様に過ぎていく車外の光景を眺めながら、ひなたの言葉が進の頭の中に反芻された。
噛み締める様にして、その言葉を心の中で繰り返し呟く。
「俺は…………」
分からない。
頭の中はぐちゃぐちゃにかき回された様に何一つまとまらず、答えのない問い掛けを繰り返してふと思う。
―――俺は、バスケが嫌いなのか?
――――――俺は、バスケから逃げているのか?