雨は止んでいて、僕達は傘を持たずに家を出た。空は曇ってるし、水たまりもあるけれど、無駄に備えることもない。家の前の道をさっきと逆方向に歩いていく。でも気になることがあった。些細な会話の種だけど。
「どうして白のスニーカーを?」
このさっきまで雨が降っていて、これから降ることも否めない状況で沖野は汚れやすい白を選んできたのだ。
「ボクが履きたいと思ったから」
「そう、分かった」
雨では沖野を左右できない。そういうことらしく、そういう性格らしかった。
まずスーパーまでの途上にある服屋で僕の着替えを適当に見繕い、そこからまたスーパーを目指す。
歩きながら途切れ途切れに話をした。けれど、嫌な沈黙ではなくて、それが不思議だった。
それに対して雨はまた降り始め、その雨の強さに止むを得ず、途中のコンビニでビニール傘を二本買った。
エブリーマートは僕達の生活圏でも数店舗ほど見かけるスーパーだ。入り口の自動ドアを潜ると、気の抜けたカラオケ音源のような店内BGMが聞こえてくる。
スーパーで女の子(彼女とは言わない)と二人で夕飯の買い物と言うと、「何が食べたい?」という会話が連想される。だけど、僕はその会話をとうにすませてきた。そうだ、これでお約束はあり得ない。
カートを押す沖野の隣で、浮き足立たないようにしようという思考がすでに浮き足立っている僕がいた。周りからどう見られてるんだろうか、もしかしたら知り合いにこの現場を見られるんじゃないか……とつらつら考える。これは本来、彼女側が考えることなんじゃないのか。
「そうだよ、ミハル。お菓子とかも買っとこうよ。楽しいよ」
そんな内心を知ってか知らずか、沖野はわくどきと目を輝かせている。
「僕はそんなに食べないけど」
「違うの、こういうのは買ってるときが楽しいんだよミハル」
確かに楽しそうとしか言いようがない様子で沖野はお菓子の棚を物色していく。ポテトチップスだったりクッキーだったりジュースだったりをそんなに必要? と言いたくなるほどにカゴに放り込む。レジに向かう頃には、お菓子を買うついでに夕飯の材料も買いました、といった風情だった。
そして計算もせずに放り込み続けたせいでお支払いは沖野が「うわ」と口に出してしまうくらいになっていて、見兼ねて僕がお菓子代を援助した。
「ありがとうミハル。大好きだよ」なるリップサービスを頂戴して、それが概ね棒読みであったことを差し引いても、満足してしまっている僕がいた。最初の警戒心は何処へやら。これを吊り橋効果もといストックホルム症候群と呼んでいいのなら、それだけが救いだった。
予告どおり僕が荷物を持ち、身軽な沖野はどこかはしゃいでいる。
スーパーを出ると、まだ雨は降っていた。行きに買ってきたビニール傘を使おうと傘立てを見たけれど。
「ねえ、ミハル。傘が無いよ」
「盗られたか。二本とも?」
「ううん、ボクのだけ。ミハルのはあるみたい。傘無いと困るなぁ」
沖野の傘が盗られていた。少しむっとした表情をしている。僕は沖野に漠然と抱いていた薄幸というイメージが急速に浮上するのを感じた。
「でも悪いことだけじゃない、よね。相合傘しようよ。相合傘しかないよ。ボク、傘盗られて落ち込んじゃった。ミハルに慰めて欲しいなぁ」
振り向いて、沖野はそんな提案をする。その目ははぐらかすのを許さない。まあ、僕だけ傘差すわけにもいかないしな。
「もう勝手にしてくれ……そっちから言ってくれて助かったよ」
「やったぁ」
沖野と相合傘をして帰る。左手に傘、右手にお菓子その他を僕が持って、その左側に沖野がいる。
「手ぇ痛くない? ビニール袋って持ってると指に食い込むでしょ」
「家までそんなに距離はないし、なんとかなるよ。2リットルのジュースは重いけど」
庇いきれない体の右側が雨に濡れる。沖野は左側か。気にしてちらっと沖野を見る。相合傘に慣れてないと、お互い遠慮して本来なら濡れなかった場所まで濡れるようなことがある。
「ミハル? もっとこっち寄れるよ。遠慮してるんじゃない? 大丈夫だよ、怖がらないで、おいで?」
冗談めかして、沖野。
「ああ、うん。寄る寄る」
寄らずにそのまま歩き続ける。それが沖野にバレないはずがなかった。
「恥ずかしいのかな。ミハルから来ないなら、ボクから行くだけだよ。寄られるのならいいの?」
そう言って、傘を差している僕の左腕にぐいぐいと体を寄せてくる。左手を自分側に引けば一瞬は逃れられても、その後で沖野との密着度が上がってしまうだろう。僕にはどうしようもなかった。
押し付けられて、名状し難い柔らかさが腕を通して伝わってくる。それだけでなく、雨で強まったシャンプーのにおいが鼻をくすぐる。近づけば、沖野のほうが背が小さいんだからそれも当然と言えた。
「……さっきまでずっとじゃないけど話してたのに、ボクが寄ってから静かになったね。嫌だった? それとも……あっ」
これは良い獲物を見つけた、という顔だ。僕の表情から何かを読み取ったんだろう。だけど、それが計画的なものにせよ突発的なものにせよ、僕にできることは限られている。
「察したんなら、言わないでくれ」
「あぁ、うん。いいよいいよ、気にしない気にしない」
からかうような笑みが向けられる。そして、分かっていてなお離れようとしない。
だけれど僕はそれどころじゃなくて、これは良いことなんだから帰り道を短く感じそうなものの、実際は帰り道を途方もなく長く感じ––––––それでいて家に着いたときには、自分がどうやって家まで帰ってきたのかさっぱり覚えていないのだった。
エプロンを付けた沖野はキッチンでてきぱきと調理を進めている。はずだ。僕は料理ができないために手伝えることがなく、リビングでテレビを観ていた。包丁で切る、トントンという音が聞こえる。
とは言え、エプロン姿の沖野は見れたので構わない。駄目だ、さっきの相合傘が尾を引いてる。
女の子の手料理。それは例え、同じ材料同じ手順で女の子以外の何者かが作ったところで到底再現できないものだ。その子が作ってくれたという事実が特別なのだ。
沖野は僕のことを特別でないと言った。でも僕は、その沖野が作ってくれる手料理を特別と思う。いやだから何だ。相合傘に当てられ過ぎだ。
この時間のテレビは比較的どうでもいいニュースから、完全にどうでもいいニュースまでが流れる。七時くらいにならないと、観るものがない。
相合傘に影響を受けた思考に時間を割いたおかげで、沖野はもう調理を終えていた。エプロンは脱いでいる。
初めてこの部屋に来たときと同じく沖野はテーブルの窓側に、僕はその反対側に座る。テーブルの上にはオムライスが二皿。ふわふわしている。僕のほうが一回り大きい。
沖野の右手にはナイフ。それを僕のオムライスの中央線に走らせると、とろとろの卵が溢れる。家のオムライスで、なかなかこう上手くはできないだろう。普段からの自炊の賜物だ。それもメニューは僕が指定したことを考慮すると、一点集中の対策結果であるはずがない。
同じように沖野のオムライスにもナイフを入れれば、やはりとろとろと卵が溢れる。偶然じゃない。沖野が作るオムライスは、いつもこうなのだ。
「すごいな」
僕は褒める。褒めたくなった。
沖野は卵の残滓の付いたナイフを上向けながら、ふわりと笑う。
「でしょう。これがボクのオムライス。味も保証付きだよ、見た目を裏切らなくね」
「そうか、じゃあ食べてみよう」
「焦らないの。まだだよ」
机の上に載っかっていたケチャップを沖野が手に取る。その先は知れていた。
「書くのか? 文字を」
「そうだよ。そうしたらほんとの完成」
キャップを開けて、両手でケチャップの容器を包みこむ。力を込めて、込めて……ケチャップが勢いよく噴出した。事故現場はオムライスの上。
「あー……」
褒めたのがいけなかったか、ケチャップについてもいつもこうなのか。沖野のオムライスは無慈悲なケチャップに無残に塗りつぶされている。
不器用か器用かよく分からないやつだ。同じ料理の分野なのに。ともあれ、僕はフォローする。
「よくなるよくなる。まぁ、何、食えば一緒だろ」
「一緒じゃないよ……もう」
僕のオムライスには普通にケチャップをかけ、その後二人で食べた。卵だけでなく、チキンライスの鶏肉も美味かった。見た目に相応しい味だった。
洗い物も沖野が買って出たので、僕は食器を運ぶにとどまった。またの暇をぼーっと過ごす。
沖野が戻って、二人でバラエティ番組を観るともなく観て、気づけば風呂の時間になる。もちろん家主に先を譲った。
沖野が風呂に行ったが、暫くシャワーの音は聞こえない。湯船に浸かっているのだろう。シャワーのときより当然時間がかかるのは覚悟しておいたほうがいい。という考え方をするのは、沖野に早く帰ってきて欲しいみたいだ、なんて。
ほとんど点いているだけのテレビから目を離して、部屋の中を見回す。本棚に差さっている文庫本の背に書いてあるタイトルと著者名は覚えがない。僕は本をあまり読まない。
することが何も無くなった。
放っておけば時間は過ぎるもので、今日何度目かの濡れ髪の沖野が目の前にいる。ほかほかと、湯気が見えるよう。
「次どうぞ、ミハル。お風呂はため直してるから。もうちょっと」
この間に僕はさっき買っておいたパジャマ代わりの新品の服の値札を処理する。処理しながら、することならあったんじゃないかと思う。
風呂はたまり、着替えを抱えバスルームへ行く。心理的抵抗感が無いとは言えないけど、まさか風呂に入らないわけにもいかない。
「シャンプーとかは自由に使ってね。ミハルの家だと思って、ミハルの家のお風呂だと思って寛ぐといいよ」
「うん」
寛げるか。薄笑いに見えたのは僕視点の補正なんだろうか。
脱衣所のカゴに着ていた服を放り込んだら、浴室に入った。濛々と湯気が立ち込めて、床はまだ乾ききっていない。嫌でもさっきまで沖野が入っていたんだと思わされる。
置いてあるシャンプーやコンディショナー、トリートメントも家のとは全然違う。お高そうなものばかり。
ためてもらったからには、浴槽に入らないといけない。なかなかに勇気がいるような、いらないような、そういうことを考えるのはちょっとどうかと思うと言うか、何と言うか。
浸かる。肩まで浸かる。浸かると色々あった疲れもあって、気持ちが良かった。けれど、それとは別に落ち着かなさもあって、早々に僕は湯船を出て体を洗うことにした。
風呂を出て髪を乾かし、自分の家でお手本のように寛いでいた沖野と顔を突き合わせる。頬の桜色は引いていた。
しかし、あれだ。自分の髪から沖野と同じにおいがする。厳密には同じではないのだろうけど、だいたい同じのにおいが。そりゃ同じシャンプー使ってるんだから、と内心セルフツッコミを入れる。
そんな取り留めのないことを考えていると、沖野に声をかけられる。
「そうだ、ミハル。明日のことなんだけど、デートしよう、デート!」
デート! と繰り返す。
「デートぉ? どこか出かけるのか、二人で外に。遊びに」
女の子が女の子と遊びに行くときにデートと呼ぶのはある気がする。けど、それが彼氏彼女でない男女の場合はデート、でいいのか?
「そうだね、二人で遊ぶんだよ。買い物したり美味しいもの食べたりして、一日の終わりに、今日は楽しかったねって言えるような土曜日にするの」
すでに楽しそうに沖野は言う。
僕は気づいている。僕が約束したのは、今日泊まることだけ。今言ったことは沖野の中でだけ決まっている予定に過ぎない。付き合う必要はない。
だったら、返事は決まっている。
「分かったよ」
別に誘いを断る理由もない。わざわざ逃げることでもない。もうなんだかその辺りの判断が滅茶苦茶になっている気もするが、考えるのは面倒くさい。楽しいならそれでいいんじゃないか。
「じゃあ明日は、ミハルは一旦家に帰って、用意をしたら待ち合わせね。待ち合わせ場所はボクの家。どこ行こうね、楽しみだね」
これは、明日の予定を考えておいたほうが良さそうだ。
それからまた暫くすれば寝る時間。
沖野は僕に予備で新品の歯ブラシとコップをくれた。歯を磨いた後は、それらがこの家の洗面所に普段から置かれることとなった。
部屋に戻ってきて、沖野は自分のベッドの中に潜り込み、僕は床のラグの上で寝ることにする。
と、沖野が潜っている布団の中からぽいぽいと何かが吐き出された。見れば、沖野が今着ているはずのTシャツと黒のハーフパンツ、そして––––––ブラ僕は何も見ていない。
「電気消すよ、おやすみミハル……ってどうしたのその顔?」
絶句している僕を横目に、沖野が電気を消そうとしていた。胸の高さまで布団を抱きながら。何故そんなことをする必要があるのだろう寒いんだろうか僕には分からない。何故だろう。
「お、おやすみ」
努めて普段どおりの声音で言った。
深夜。僕がベッドのほうに足を向けてラグに寝転がっていると。足を強かに蹴られた。
「痛ぇ」
足を蹴った張本人の沖野がいるほうを非難の目で見る。沖野は「あ、」と声を洩らした。
「そっか、いたんだ」
寝惚け眼を擦りながら、眠そうな声で沖野はそう感想を述べた。
「酷ぇ」
「ごめんミハル」
トイレに起きたのだろう沖野はそのまま歩いていく。応える声にはささやかに嬉しそうな響きがあった。