物語としての進展は……有るような無いような?
<other side>
「…………」
ピン、と人差し指で一音を奏でる。学校の備品にしてはそれなりに高級なピアノは澄んだ音を出したが、今の真姫の心の中はその綺麗な音色とは程遠く、くすんだ色をしている。
鬱々とした何かが、心に沈殿しているようであった。それは先ほどの、μ'sへの勧誘に対する回答で晴れるはずだったのに。――――あるいは、きっとそうだと自分に言い聞かせていたのに。
「スクールアイドル………そんなの、私には要らない」
またもう一音。目を閉じたまま適当に指で押し込んだ先は二つの鍵盤の中間で、二音が歪に重なった不協和音が鳴り響く。まるでピアノが意思を持って、真姫に嘘を吐くなと咎めるかのように。
「――――っ、嘘じゃっ!」
ない――――そう続けようとして、真姫は
何故これほどまでに動揺しているのか。部活に誘われて、断った。ただそれだけの事だというのに。
「……こんな私を見て、浩一なら何て言うかしら」
穂乃果が音楽室を出て行ってから、初めて真姫の表情に――――苦笑ではあったが――――笑顔が浮かんだ。
今の自分は、らしくない。こんなにもウジウジと悩み、自分の感情すら制御できないなんて、今まであったかどうか。
『それだけ、大事だってことなんじゃないか?』
「……っ!?」
突然、脳内で「浩一ならこう言うだろうな」という台詞が彼の声で再生されて、真姫は驚きと共に顔を上げた。
そして同時に、本当に言いそうだと納得もする。何が大事なのかを敢えて言わないところなどは、憎たらしいほど浩一だ。
「――――ばか浩一」
拗ねるような声で一言。そう口にするだけで、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。
<other side end>
『私、真姫ちゃんをμ'sに入れたいっ!』
夜。自室のベッドの上で仰向けに寝転がっていた俺の脳裏に何度も蘇るのは、今日行なったミーティングでの穂乃果の言葉だ。
唐突すぎて聞かされたときは思わず呆けてしまった。穂乃香の話を聞くと、どうやら先生の手伝いが終わった後、音楽室から聞こえる音色に釣られて真姫に出会ったらしい。
穂乃果の希望はひとまず保留としつつ、新メンバーの募集に関しては全員から快く賛同を得られたので、募集の告知を新しいポスターで行なうことにした……のだと思う。正直、色々考えていたためかあまり覚えていない。
――――いつかはそういう話になるとは思っていた。作曲の才能もさることながら、一年生ながら華美な印象を与える容姿は、贔屓目抜きにしてもアイドルに向いているのだろう。
俺個人としても、彼女がμ'sに入るのは賛成だ。ファーストライブの時、隣から伝わってきたのは確かな昂揚感と少しの羨望。真姫自身もそれを望んでいるのは明らかだった。
しかし同時に、彼女の将来の目標を知っている身としては、無責任に勧誘することはできない。
医者になる。言葉にするのは容易だが、本気で目指すとなれば話は別だ。青春の全てを勉学に捧げる覚悟が必要だろう。
そして真姫の父親であり、西木野総合病院の院長でもある
「………真姫も、辛いだろうな」
聞くと、穂乃果の勧誘を真姫は断ったらしい。
彼女もきっと悩んでいたはずだ。国公立の医科大学、もしくは大学の医学部を志望している人にとって、高校の三年間は言うまでもなく貴重なものであり、当然勉強に費やす時間となる。
だがμ'sに入ると――――今後の展開次第ではあるが、毎日の放課後はほとんど練習漬けとなる。真姫に至っては加えて作曲も任されることになるだろう。勉強時間が減ってしまうのは想像に難くない。
「でも俺は………何も出来ない」
正確に言えば、してはいけない。
俺から真姫に何かを言ってしまうと、もしかすると彼女の心の天秤を傾けてしまう結果になるかもしれない。それほど、今の真姫は揺れている。
しかしこれは、真姫自身が選択しなければいけない問題だ。後悔しないためにも。
そう、分かっている。それが今の最善なんだって。――――それでも、彼女たちと最初に関わらせたのは他でもない俺だというのに、俺は何を…………っ!
「…………あー、くそっ」
額に手の甲を当て、小さく悪態を吐く。
大事な幼馴染のために動けない自分が、酷く歯痒く感じた。
<other side>
「かーよちんっ、一緒に帰るにゃー!」
μ'sのミーティングが行なわれた翌日。一年生の教室では、帰り支度を整えていた花陽の背中に、幼少からの親友である凛がじゃれつくように帰宅を促していた。
幼馴染だけあって、彼女たちの家は近い。"お隣さん"である浩一と真姫ほどではないが、家に着く直前まで帰り道は同じだ。よって両者が特に用事の無い日は、帰路を共にすることが多かった。
「あ………ごめんね、凛ちゃん。今日はちょっと、寄るところがあって」
「寄るところ? アルパカのところかにゃ?」
「ううん。μ'sの――――」
「うにゃっ!? そ、それじゃあ凛は先に帰るねー?」
「あっ…………」
μ'sとその名称が出た瞬間、凛は急に逃げ腰になりながら飛ぶように教室を去って行った。
凛が出て行った教室の扉をぼんやりと見ながら、花陽は数日前のことを思い出していた。
μ'sのファーストライブの帰り道。二人は道中で、今日のライブについて語り合っていた。
自他共に認めるアイドル好きでμ'sのファンでもある花陽はもちろん、ライブを見てそのキラキラした世界に密かな憧れを持った凛も、熱に浮かされたように饒舌であった。
「――――かよちんは、μ'sに入らないの?」
ふと会話が途切れたとき、凛はそう訊ねてみた。
幼馴染が子供のころからアイドルに憧れていたことは誰よりも知っているし、それでも勇気と自信が無くて最初の一歩を踏み出せなかったことも知っている。
でも今は、その夢が間近にある。スクールアイドルになれるチャンスが、手を伸ばせば届くほど近くに。
「………私には無理だよ。可愛くないし、どんくさいし……」
「そんなことないよっ。かよちんはすっごく可愛いし、歌声も綺麗だし、アイドルにピッタリだにゃー!」
励ますように言ったが、内容はお世辞などではなく凛の本音だ。
そもそも花陽は、客観的に見ても平均以上の愛くるしい顔立ちをしている。本人に足りないのは、自覚と自信だけ。
――――尤も、それは全く同じことが凛自身にも言えるのだが。
「えへへ。ありがとう、凛ちゃん。………でも私は、凛ちゃんの方がアイドルに向いてると思うなぁ」
「にゃっ、凛が!?」
「うん、可愛いし、いつも元気いっぱいだし、運動も得意だし………」
「そ、そんなことないよ! 凛なんてがさつだし、全然女の子っぽくないし………」
「凛ちゃん………もしかしてまだ、あのときの――――」
「あ、あーっ! 凛、見たい番組があったんだった。ごめんね、先に帰るにゃー!」
そう言うと、彼女は残り100メートル足らずでいつも別れている十字路に着くというのに、花陽に背を向けて走り去ってしまった。
それ以来、凛はμ'sの話題が出ると分かりやすく動揺し、花陽が二の句を継ぐ前に話題を変えたり、今のように逃げ出したりするようになった。
――――花陽には、その原因もおおよそ検討は付いている。
しかし今はきっと何も出来ない。強引に事を進めると、大事な幼馴染の過去のトラウマを刺激することになりかねないから。
でも――――。
「思いっきり手を伸ばさないと、掴めない………うん」
数日前にライブ会場で出会った男の先輩のことを思い出し、花陽はその一歩を踏み出す。自分のために、そして幼馴染のために。
まだ覚悟が決まったわけではない。でももう、何かをする前に諦めるのは嫌だった。
そうして花陽が一人でやってきたのは、いつかも来た廊下の一角。
今日の朝、この掲示板の前でμ'sの三人を見かけた。何か作業をしている様子だったので、もしかしたら新しいポスターに変わっているのかもしれない。
「(色々見て、いっぱい考えて、悩んで………悔いが残らないようにっ)」
そう考えられるようになっただけ、大きな進歩かもしれない。浩一に会ったあの日から――――いや、μ'sのファーストライブに胸を熱くしたあの瞬間から、確実に彼女の意識は変わっている。
「…………あれ?」
花陽の視線がことりお手製の新しいポスターに行くその前に、廊下に落ちているものを捉えた。
紺色のパスケースのようなもの。しゃがんで拾い上げてみると、それは音ノ木坂学院の生徒手帳だった。
「これ――――西木野さんの?」
心の中で持ち主に謝罪してからそっと手帳を開くと、そこにはクラスメイト――――西木野真姫の名前と顔写真。
まだほとんど話したことはない。でもその目立つ容姿と、とても同じ一年生とは思えない大人びた表情、そして何より――――放課後の音楽室で奏でる、歌とピアノが印象に残っていた。
「…………届けなきゃ」
職員室に落し物として届け出るという選択肢もあったと思う。でも何故かこの時花陽には、手帳に記載された住所に直接届けに行くことしか思いつかなかった。
それが、単純にクラスメイトと仲良くなりたいという想いから来たのか、それともたまにこっそりと覗いている音楽室のあの心地良い音色に近付きたかったからなのかは、定かではない。それでも、昔の自分ならこんなに積極的にならなかったのではないかとは思う。
――――停滞していた物語が、また少しずつ動き始めた。
MUSIC-20へ続く
というわけで、ようやく原作の展開に戻ってきました。
まあどうせまた逸れるんですけどね。花陽がこれから向かう真姫の家には、原作には居ない人物がくつろいでますし(・ω・)
※11/15 原作と若干の矛盾があったため、加筆修正しました。