やはり最初の方は説明文が多くなって、文章がくどくなってしまいますね。
―――国立音ノ木坂学院。
秋葉原と神田と神保町という三つの町の狭間に位置するその学院は、古くからある由緒正しい伝統的な女子校であった。
過去形なのは、今年からその前提が大きく覆るからだ。昨今の少子化、更に秋葉原に近年開校した別の学校の存在もあり、音ノ木坂を受験する学生は年々減っていった。
そうした背景もあり、学院はその歴史を変える大きな決断をした。それが女子校からの脱却―――つまり、共学化というわけだ。
いわずもがな、高校を受験する中学生の半分は男子であり、それらを取り込むために音ノ木坂学院は今年度から共学化として新しく生まれ変わった。
もちろん共学化したとはいえ、急に出願者が二倍になったりはしないであろう。
男子からすれば昨年まで女子校だった場所。男女比も女子がほとんどを占めるであろうことは想像に難くないので、多くの思春期学生は間違いなく二の足を踏む。
女子は女子で、『女子校』だから通っている学生、または入学しようとしていた学生も少なからずいたはずだ。そういった学生がどういうアクションを取るか分からない。
言わば博打に近い。これで今後、安定して出願者が増えれば問題無いが、これでも増えなければ音ノ木坂学院は最悪―――。
「……俺が考えてもしょうがない、か」
ため息と共に、意味のない憂慮を打ち消す。考えすぎが自分の悪い癖であることは自覚しているので、なるべくポジティブに行こうと顔を上げる。
上げた先に見えた校舎は、まさに今まで考えていた音ノ木坂学院のもの。今年度から共学化するその校舎の中に、俺は編入のための資料を手の中で弄びつつ入って行った。
「初めまして、瀬野浩一です」
「理事長の南です。わざわざ資料を届けてもらってありがとう」
「いえ、こちらの不備ですし。それに一度ご挨拶をと思っていましたので」
場所は変わって理事長室。目の前には、二十代と言われても余裕で信じてしまう若さと美貌を持つ、南理事長の姿があった。
「あら、しっかりしているのね。とはいえ、初めましてではないのよ? あなたが……三歳くらいの時かしら。一度会っているもの」
「そうだったんですか……流石に覚えていませんね」
「それもそうね。……美里は元気?」
「ええ、元気すぎるくらいに」
今の会話からも分かるように、目の前の南理事長とウチの母親である瀬野美里は知己の関係だ。昔は一緒にここ―――音ノ木坂に通っていて親友同士だったらしい。
ちなみに、俺が他の学校ではなく音ノ木坂に入ることになったのも、母親に勧められてのことだ。まあ周囲の高校と偏差値を比較して、という理由もあるけども。
っていうかこの人、本当にお袋と同じ年齢かよ。だとしたらこう見えて実年齢はよんじゅ―――。
「瀬野君?」
「……は、はい」
おーけー、黙ります。心の中だけど。何で気付かれたのかまったく分かんないけど。
理事長の目が先ほどの光を失った瞳から穏やかなそれに変わっていることを確認した俺は、内心で安堵の息を吐きつつ言葉を続ける。
「えっと、それで書類は……?」
「ええ、大丈夫よ。修正してもらったところも確認できたし、問題ないわ」
「良かったです。あー……それでは、そろそろ失礼します」
用事も済んだことだし、やはり偉い人の前というのは理由もなく緊張するものだ。向こうが一方的にこちらを知っているというのも、何となく居たたまれない。
しかし、一礼して辞そうとした俺の背中に、「瀬野君!」という複雑な感情が混ざった声が掛かった。
「? 何でしょう?」
「あっ……いえ、ごめんなさい。この学院での生活が、あなたにとって実りあるものになるよう祈っています」
「はい……ありがとうございます」
先ほどまでと同じく、穏やかな大人の表情。ただその後、申し訳なさそうにその瞳を伏せたことが、何故か酷く印象に残った。
理事長室を出た俺は、来賓用のスリッパをぺたぺたと鳴らしながら、校舎の中をのんびりと歩いていた。
後一週間もすればここの学生なのだ。春休み中ということもあり人通りはほとんど無いし、多少校舎内をぶらついた所で、咎められることは無いだろう。……たぶん。
「ここは……音楽室か」
何の部屋かを指し示すプレートには、まさに今声に出した文字が記載されていた。
中を覗くと、階段状になった小さなホールのような部屋の最前列に、教壇とグランドピアノが置かれている。
―――ちょっとだけならいいかな?
扉に手を掛けると何故か鍵は掛かっておらず、俺はゲームの潜入ミッションさながら音楽室へと潜り込んだ。
「こうしてピアノの前に座るのも久しぶりだな」
ピアノ椅子に腰を掛け、無意識のまま鍵盤蓋を上げる。そして鍵盤に指をそっと乗せると、懐かしさがじわじわと込み上げてきた。
まだこっちに居た頃は、母親がピアノの先生ということもあり俺もピアノを習っていた。幼馴染のあの子も一緒に。
自宅で行なわれていた簡単なピアノ教室。生徒も確か5人足らずだったはずだ。俺以外全員女の子だったのはよく覚えている。
練習して、練習して、そうして難易度が高い曲に指が付いて行くようになった時の達成感は、今でも忘れられない。
そのピアノ教室の中でも、あの子は群を抜いて上手かった。ああいうのを才能というのだろうか。俺は嫉妬するよりも、綺麗な音を奏でる幼馴染を誇りに思った。
「さて……どれくらい鈍ってるかな……?」
もうかれこれ五年は弾いていない計算になる。
向こうの家でわざわざピアノを買うことはなかったし、最初は近くのピアノ教室に通ってはいたものの、やはり女の子が多くて気恥ずかしさから小学校卒業を機に辞めてしまった。
しかし第一音を奏でると、後は流れるように指は動いた。まるでこの両手の指が、再び鍵盤に触れることを喜んでいるかのように。
―――ああ、やっぱり俺はピアノを弾くことが好きだったんだな。
どこか他人事のようにそう思い、後はもう心ゆくままに。いつしか俺は、旋律を奏でることに没頭していた。
”パチパチパチ……”
「―――えっ?」
これまでの五年間を埋めるように満足するまで弾いて、ようやく一息ついた丁度その時。聞こえてきた控えめな拍手に、俺は閉じていた目を見開いて音が聞こえた方向に振り向いた。
「ハラショー。素晴らしい演奏だったわ」
「ど、どうも……」
誰?という疑問が頭を過ったが、それ以上に驚いたのはその容姿だ。
小さな輪郭の中は実に端正な顔立ち。おそらくこの学院のものであろう制服を抜群のスタイルで着こなし、最も目を惹く金色の髪と白い肌は、彼女に異国の血が流れていることを示しているようであった。
「でも、音楽室を勝手に利用しては駄目よ? 見たところ私服のようだし……この学院の関係者かしら?」
「えーっと、正確にはまだ違います。4月から編入することになってる、瀬野浩一といいます」
「ああ、そういうことね。私は生徒会長の絢瀬絵里よ。よろしく」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
生徒会長でしたか。内心で冷や汗をかきつつ、椅子から立ち上がって一礼する。生徒会長ということは、おそらく俺と同じく新三年生であろうが、同級生だとしても初対面なので礼儀は示しておく。
「編入生ということは、新二年生かしら。それとも三年生?」
「4月から三年生です。絢瀬さんは?」
「私も同じよ。同級生なのだし、敬語は無しでいきましょう」
「……了解。じゃあ、改めてよろしく、絢瀬」
「ええ、こちらこそ。男子生徒は数が少なくて大変でしょうけど、頑張ってね」
まだ生徒会の仕事が残っているからと去って行った絢瀬を見送った後、俺も学院を出た。
もう少し校舎内を見て回りたい気もしたが、暦の上では一応まだ女学院。ヒョイと覗いた教室で部活少女が着替えでもしていようものなら、即刻変質者のレッテルを貼られてしまうだろう。
ただ、時刻はまだ午後の4時過ぎ。昼過ぎに学院に向かったので、逆算すれば音楽室で結構な時間を過ごしていたようだが、それでもまだ日が沈むまでは時間がある。
「そうだな……久しぶりにあそこに行ってみるか」
思いつきのまま、足の向かう先を変える。懐かしい街並みをのんびりと楽しみながら。
目的地はとある神社。小さい頃、幼馴染の女の子と遊んだこともあるお気に入りの場所―――神田明神。
「……ふうっ、相変わらずえげつない階段だな」
何段あるのか数えるのも馬鹿らしい石段―――正式名称は男坂というらしいが―――をようやく登り終え、軽く乱れた息を整える。
開けた視界には、神田明神の堂々たる佇まいが窺えた。最後に大きく一度深呼吸。
自分でも不思議だが、この場所はとても空気が澄んでいるような気がする。ここがお気に入りの場所である理由の一つだ。
とりあえずはお参りでもしてみるかと、手水で両手と口をゆすぎ、神殿前へと移動してお賽銭を入れる。鐘を鳴らして二礼二拍手の後、願い事を頭に思い浮かべた。
「――――――よし」
最後の一礼して神殿前を辞すると、箒を持った巫女さんがこちらを凝視しているのが目に映った。
―――えっ、何か作法を間違えたか?
むしろ普通の人より丁寧なくらいだったと思うが……何分知識がネットから拾った程度の曖昧なものなので、そこは勘弁してもらいたい。
「えっと……」
「あっ、ごめんなぁ。えらい熱心にお祈りしてたから、ちょっと気になってもうたんよ」
俺がその視線に戸惑った声を思わず出すと、巫女さんは微笑みながらゆっくりと近寄ってきた。
先ほどの絢瀬とはタイプが違うが、彼女もまた目を見張るほどの美少女だ。巫女服の紅白に、二つに結んだ黒髪がよく映えている。
っていうか、関西弁? 関西出身の人なのか……それにしてはイントネーションに違和感を覚えるけど。
「そんなに熱心に祈ってました?」
「うん、学生さんにしては珍しいくらいね」
「あー……」
思い当たる節が無いわけでもない。俺が先ほど願っていたのは、今度七年ぶりに再会するであろう幼馴染のことだったからだ。
そこまで考えて、思わず頭を抱えそうになる。こっちに来てから、あの子のことを考えていることが多い。シスコンと言われても何ら反論できないだろう。
「あれ、学生さんじゃなかった?」
「いえ、学生です。今度音ノ木坂に転入することなったんですよ」
「え、そうなん? ウチも音ノ木坂に通ってて、生徒会の副会長をやってるんよ。もうすぐ三年生になる、東条希。君は?」
「じゃあ同い年ですね。同じく新三年生の瀬野浩一です」
「瀬野君やね。同い年なんやし、敬語じゃなくてええよ」
「じゃあ……よろしく、東条」
「うん、よろしくなー」
はんなりとした笑みを浮かべる東条。関西弁も相まって、何となく京都出身ぽい。いや、あくまでイメージだけど。
しかし、早くも同級生二人と面識が出来てしまった。しかも生徒会の会長と副会長。偶然にしては出来すぎなくらい幸先がいい。
その後5分くらい駄弁って、希はバイトの途中だからと名残惜しそうに社務所の方へと消えていった。
その5分の間にお互いに名前呼びになったのは、ほんわかとした彼女の人柄が成せる業か。
とにかく、そろそろ陽も暮れようかという時間だったので、俺はおとなしく家に帰ることにした。まだやること――――というか、本日のメインイベントも残っていたことだしな。
「……さてっ、そろそろ行きますか!」
自室のベッドで少し休んだ後、気合いを入れるように勢いをつけて跳ね起きる。
既に外は暗くなり始めている。しかしこのくらいの時間の方が家に居るだろうという予測の元、靴を履いて外に出た。
暦の上ではもう春とはいえ、流石にまだ夜は冷え込む。俺は上着のポケットに手を突っ込みながら、自宅の玄関から数十歩の位置にある家へと歩き出す。
「うわ、何か緊張してきた……」
広い敷地に、馬鹿でかい家屋。
二つ年下の幼馴染――――西木野真姫の家のインターホンを、俺は一呼吸ついてから、変な緊張感を持って押し込んだ。
MUSIC-02へ続く