月に吼える   作:maisen

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第伍拾弐話。

「まったく・・・。「寝るから、残り録画しておけ」ってTV番組じゃないのになぁ・・・」

 

 ぶつぶつと愚痴りながら、高い天井の下をビデオテープを幾つも重ねて積み上げた台車を転がし、土具羅がとぼとぼ歩いていく。

 

 その全てに「初めてのおつかい:ルシオラ編」と書いてあり、しかも全て爪が折られている。

 

 その量と、彼女が人界へと命令を受けて出発してからの時間も逆算して換算すると、3倍ではなく標準で録画してあるようだ。

 

 ルシオラが開発したDVDもどきもあるのだが、ちょっとアナクロな外見の土偶はアナクロが趣味なのだろうか。

 

 いや、3倍ではなく標準で録画した事で、少なくともアシュタロスは「分かっているじゃないか」と満足げに頷くだろう事は間違い無い。

 

 きっと、その辺りの主を満足させたいと言う思考の結論だ。

 

「大体、いくら最近目立った争いが無いからって寝すぎじゃないのか? アシュ様は緊張感が足りない、絶対に」

 

 ここ最近、娘達関係の事以外で彼がやった事と言えば、二度寝、少し早い昼寝、シエスタ、就寝、それから娘達との3食ぐらいである。

 

 流石に寝ている主の姿を見るほど無作法ではないつもりだが、少しは魔神らしい事の一つもやって欲しいな、と切実に思う中間管理職。

 

 と、肩を落として台車の車輪を軋ませながら歩いていた土具羅の足が、止まった。

 

「――アシュ様が、娘の動きをライブで見ない?」

 

「ドグラ様ー!」

 

 そんな馬鹿な、在り得ない――と結論付ける直前で、ややハスキーな声が立ち止まった土具羅の後頭部に突き刺さる声。

 

 己を呼ぶ声に思考を一時中断し振り向けば、頭に蜂の触覚を生やした女性が慌てた様子で飛来するのが視界に写りこんだ。

 

 土具羅の傍を勢い余って飛びぬけた彼女は、着地と同時に固い筈の廊下を削ってド派手に制動を効かしながら、止まった瞬間獲物を狙う豹の如く飛び掛ってきた。

 

「アシュ様は?!」

 

「寝ていらっしゃる。何時ものようにな」

 

「またぁっ?!」

 

 非常に残念そうに肩を落とした、ファザコン気味の次女は頭の触覚もしょげさせつつ、諦めたように溜め息一つ。

 

 自分の掘り起こした廊下の欠片をつまらなそうに蹴りつつ、不満げな表情を浮かべる。

 

「姉さんばっかりずるいよ。私だってアシュ様の役に立ちたいのに・・・」

 

「そう急くな。年功序列のつもりじゃないのか、アシュ様は」

 

「でもさ、私だって――ああ、もうっ!」

 

 頭をがりがりと掻いたその女性は、少し寂しそうに悪態を突きつつ飛び上がる。

 

 どうせ部屋に戻って不貞寝でもするんだろう、と辺りを付けた土具羅も、再び台車に手を掛けきゅらきゅらと音を上げさせながら歩き出す。

 

 と、飛び上がった女性が、上空から眉根を潜めて声をかけた。

 

「ドグラ様ぁー? 埴輪兵が地下室になんか運び込んでたけど、知ってる?」

 

「ウム? 埴輪兵に特に指示は出してはいないが・・・また、アシュ様がなんかやらせてるんだろう。放っておけ」

 

「ま、良いけど」

 

 主が黙ってコソコソ何かをやって、部下を驚かせようとするのは今に始まった事ではないのだ。

 

 現に目の前に一人いる三姉妹達が産まれた時は、本当に無い筈の顎が落ちるかと思ったし。

 

 興味を失ったようにあっさりと身を翻し、さっき程ではない速度で飛び去っていった次女を見送りつつ、土具羅はふかぁ~い溜め息一つ。

 

「・・・どうせ苦労するのは私なんでしょ、アシュ様」

 

 完全に諦めた思考とこれから起き得る事態への対策の演算に、先ほどの疑念は保存データの隅へと追いやられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――後に、それが全ての鍵となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年の姿になった忠夫は、とは言え自分にできる事は無いとすぱっと割り切り、すっかり気楽な子供生活を送っていた。

 

「ふぁあぁぁぁぁ~」

 

「兄上ー、父上達が修行しろって探してるでござるよー」

 

「んなもんパスだパス」

 

 大きな欠伸を一つうち、燦々と差し込む光を適度に遮ってくれる木陰で丸くなる。

 

 なんとも心地良い風が隠されていない耳を擽り、とっても眠気を誘ってくれるので抵抗の意思の欠片も見せずに従った。

 

「・・・情けない。それでも人狼の侍でござるかっ?! 昨日までは少なくとも修行に精を出していたではござらんか!」

 

「俺はそーゆーのには向いてねーの。ふぁ~、あ」

 

「・・・っ!!」

 

 欠伸の音に混じって、軽い音が駆け足で去っていく。

 

 薄目を片方だけ空けて見てみれば、憤懣やるかたない様子のシロが、尻尾と耳を逆立てながら里の方へと走っていく後姿が小さく見える。

 

 その反応に疲れたような溜め息を一つ突いて、また目を瞑った。

 

 ――瞬間、本能が悲鳴を上げた。

 

「どわぁっ?!」

 

「・・・ふむ、避けたでござるか」

 

 本能の警告に従って転がった忠夫の背中を掠め、気配の欠片も感じさせず出現した人狼の木刀が地面を抉る。

 

 もし避けていなかったら、今の小柄な忠夫の薄い腹には綺麗な形に木刀のアザが出来ていたであろう。

 

 ごろごろと転がった忠夫が立ち上がり、頭に巻いた鉢巻に小枝を突き刺した父親に怒鳴る。

 

「当たり前だクソ親父!」

 

 頭頂部に衝撃が入り顎から突き抜け、目の裏に火花が散った。

 

 犬飼ポチの振り下ろした木刀は、反応すら許さずに忠夫の頭をブッ叩いていた。

 

「呼び方は父上と教えたでござろうがー!」

 

「・・・・・・」

 

「む、気絶したでござるか」

 

 普通、子供が叩かれればそうなる。

 

 と言うか、気絶するほどの力で叩いたあたり大人げなさすぎではなかろうか。

 

「・・・不味いでござるな。沙耶に見つかると怒られるでござる」

 

 非常に困った様子でぷくりと膨らんだ忠夫のたんこぶに手拭をあてながら、周囲をきょろきょろと見回すポチ。

 

 実の親子だと言っても誰も信じてくれないであろう光景である。

 

 そして、辺りに誰もいないことを確認したポチは、ほっと一息つくと顎に手を当て、思案しながら木洩れ日を零す緑の葉っぱの天井を見上げた。

 

 暫しの後、ぽんと掌に拳を落として結論が。

 

「――置いてくるか」

 

「何処にでしょうか?」

 

「それは勿論川岸にでござるよ」

 

「何で、ですか?」

 

「川に落ちて頭をぶつけたと言う事にすれば、誤魔化せそうではござらんか?」

 

 うむうむ、と満足げに頷いて、気絶したままの忠夫を担ぎ上げるポチ。

 

 すたすたと2,3歩進んで、辺りの空間ごと凝結したように硬直した。

 

「遺言はありますか?」

 

「・・・誰も居なかった筈でござるが」

 

「あら、貴方が教えてくれたんですよ? 気配の消し方」

 

 油の切れたロボットのように、ぎこちなく振り向いたポチの額には滝のような冷や汗が。

 

 振り向いた先に居た笑顔の沙耶の瞳は全く笑っておらず、何故か先ほどのポチと同じように額に巻いた布には木の枝が二本刺さっている。

 

「な、納得行かんでござる! なんでちょっと教えただけで人狼を誤魔化せる気殺が出来るんでござるか?!」

 

「貴方の事なら何でも分かりますから。気配の探り方とか」

 

「非常に嬉しいが全く嬉しくないでござるぅぅぅっ!!」

 

 ポチは、沙耶の頭の布に刺された二本の木の枝がまるで鬼の角のように見えた、と数年後に長老に語っていたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う、あ・・・いっでぇぇぇっ?!」

 

「あ、こら。急に起きちゃ駄目でしょう」

 

 ゆっくりと浮き上がった意識が、頭部に走った激痛で一気に覚醒域まですっとんだ。

 

 跳ね起きた忠夫の身体は、しかし、柔らかい手に肩を押さえられてゆっくりと後ろに傾いていく。

 

 ぽすん、と軽い音を立ててひっくり返った視界を、優しく微笑む母の顔が埋めた。

 

「あれ、母上?」

 

「・・・せ、拙者にはクソ親父とか抜かした癖に、何で沙耶は母上でござるかぁぁ――くわぁっ?!」

 

 視界の隅を木刀らしき影が掠め、おそらくそれが飛んでいったであろう方向から奇妙な悲鳴と肉に鈍器がめり込んだような音が聞こえた。

 

 おそるおそるそちらを向けば、何故かボロボロの父親が涙を流しながら、頭に木刀を乗っけて悶えている。

 

「お父さんはしっかり怒っておいたから、もう大丈夫よ」

 

 にっこり、と笑うその背後に、阿修羅のような幻影が太字の「ゴゴゴゴ・・・」と共に浮かぶ映像が見えた。

 

「わ、分かった。分かったから、母上落ち着いてお願い!」

 

「あら、私は落ち着いてるわよ?」

 

「嘘でござ――げふんっ?!」

 

 忠夫の肩を押さえていた右手が、一瞬霞んだ。

 

 もはや動く音さえ聞こえなくなったそちらから必死で目を逸らしつつ、そう言えば結構バイオレンスな人だったなぁ、と遠い眼になる忠夫である。

 

「・・・悩み事?」

 

「え、あ、うん・・・」

 

「そう」

 

 続く言葉は、無かった。

 

 沈黙が、辺りを満たす。

 

 それでも、その雰囲気は、決して不安を呼び起こすような物ではなく。

 

 どこか、心の底まで、暖かくなるような、そんな空間。

 

 ざぁ、と強い風が吹いた。

 

 緑色の天井が揺れ、木洩れ日がその表情を変える。

 

 風に靡く髪を押さえる母は、それでも柔らかな表情を変えなかった。

 

 だから、忠夫は――。

 

「・・・しっ、しからば御免っ!」

 

「あ、こらっ!」

 

 泣きそうな顔を伏せて隠し、出来る限り足を動かし、逃げるように森の中へと駆け出した。

 

 だって、彼の微かな記憶が、間違っているのならばと何度も繰り返し夢にまで見た記憶が知っている。

 

 彼の母は――もう直ぐ居なくなるのだと言う事を。

 

 結局、忠夫は夜になっても戻らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜空には、季節外れの朧月。

 

 霧のような雲に覆われた満月は、揺らめくような光を下界に降り注がせている。

 

「――こほっ」

 

「・・・身体に障るでござるよ」

 

「あら、まだ起きてらっしゃったんですか?」

 

「まぁ、な」

 

 縁側に腰掛け、その月を見上げていた沙耶の肩に、薄い毛布が掛けられた。

 

 初夏が近いとはいえ、まだ辺りを野山に囲まれたこの土地の夜は冷える。

 

 ゆっくりと妻の傍らに腰を落とした人狼は、毛布を持っていた手とは反対側の手に抱えていた徳利と2枚の盃を置き、盃の一枚を手渡す。

 

 苦笑いと共に受け取った彼女の器に、不慣れな手付きで透明なそれを満たした。

 

 軽くそれを呷った沙耶は、お返しとばかりに徳利をそっと奪い、小さく笑うポチの盃に手慣れた様子で注ぎ込む。

 

「・・・ふぅ。あの馬鹿息子、何処をうろうろしているんでござろうなぁ」

 

「年頃なんですよ。それに、何か・・・変わったみたい」

 

 ポチは昼間の出来事を思い返す。

 

 力、速度、ともに犬塚の娘にさえ敵わないとは言え、それでも真面目にポチとの修行を――親子のコミュニケーション、と彼は考える――やっていたのに、今日はサボって昼寝などしていた。

 

 思わず寂しくなって叩いてみれば、完全に寝に入ろうとしていた筈の息子は、振りかぶった所でそれに気付いて、尚且つ一度だけとは言え彼の攻撃を避けて見せた。

 

 気が緩んでいたように見えたのにもかかわらず、だ。

 

「・・・あれはあれで、自分のやり方を見つけたのかもしれん」

 

「ふふ、分かっているなら良いんです」

 

「・・・敵わんでござるなぁ」

 

 何もかもお見通し、と微笑む彼女の笑顔に当てられたように、ポチは己の額を片手で覆って顔を隠した。

 

 それでも、隠していない口元には、確かに笑みが刻まれてはいたが。

 

「――私は」

 

「うん?」

 

「私は、きっと、あの子を悲しませます」

 

 目を伏せた彼女の手元には、朧な月を移しこんだ盃がある。

 

 その月が、真上から落ちた涙滴を受け、真ん中から歪んで、揺らいだ。

 

「あの子も、気付いていると、思います」

 

 もう一度、月が揺れた。

 

 ポチは、何も言わずに空を見上げている。

 

 俯いた沙耶にポチの表情は見えず、見上げたポチに沙耶の顔は見えない。

 

「自分の体なんです。分かります。後、一週間も無いんです。私は――」

 

 盃が、落ちた。

 

 支えていた手は、今は月を揺らしていた雫を押さえるように、沙耶の顔に押し付けられていた。

 

「わ、私は、満足なんです。とっても、幸せだったんです。貴方と暮らせて、あの子が産まれて、3人で生きていけて・・・! 分かっていました、納得していたつもりでした。でも、でも――」

 

 30年、と言われていた。

 

 運命が決めたような30年だ、と。

 

 長いといえば長いのだろうか。

 

 それでも、短いと思うのは我が侭なのか。

 

 医術は、無力だった。

 

 霊能も、無力だった。

 

 ――どうしても、仕方の無い事だった。

 

 彼女の器は、彼女の魂には、人の器は脆すぎた。

 

 たった、それだけの事、だったのだ。

 

 だが、器の無理は、それを表に出すまいとする魂への負担となり、結局、夫と実家の者達以外には知られる事は無く。

 

 短い生涯が、結果として残るだけだった。

 

 それだけの事を、彼は、それでも良いと言って抱きしめてくれた。

 

「――私は、弱いです。どれだけ時間があっても、どんなに満足していたとしても、きっと、納得はできません。だけど、一人では耐えられない。だから、貴方とあの子を残して――貴方とあの子を置いて、一人になる事が、寂しくて、辛くて・・・」

 

 ぐい、と。

 

 沙耶の身体は、肩を抱えられて引っ張られていた。

 

 傾いた先には、しなやかで固い、夫の体があった。

 

 不器用な、どこまでも不器用な男は、黙って引き寄せる事しかできなかった。

 

「・・・だから、少しだけ、甘えても良いですか?」

 

「・・・」

 

 返事は無かった。

 

 ただ、抱きしめる腕に、柔らかな力が篭められた。

 

「・・・ふふ。結局、私の前でしか泣かないでくれました、ね。流石は、お父さ――」

 

 微笑みと共に、抱き返す為に差し出された腕は、しかし、何も掴めずに、ゆっくりと落ちる。

 

 里に、悲痛な咆哮が木霊した――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その夜から、既に3日が過ぎていた。

 

「はぁっ! はぁっ! はぁっ! ぜはぁっ!!」

 

 あの夜、父の咆哮を聞き、倒れた母の姿を見た忠夫は、今はひたすら駆けている。

 

 「前」は、ただ呆然として・・・そこから先の記憶は、あまり覚えていなかった。

 

 でも、「今回」は、きっと何かが出来る筈だと――いや、何かをしたいと思ったのだ。

 

 何故母が突然倒れたのか、父は何も言ってくれなかったし、問うのも幼心に躊躇われた。

 

 だが、今なら。

 

 何か、やれる筈だと――きっと出来る筈だと、信じたかった。

 

「はっ、はっ、はぁっ・・・はぁっ」

 

 それだけに、思い通りに動かない体が憎かった。

 

 少し走っただけで息が切れ、まるで悪夢の中にでも居るかのように、歩みは遅々として進まない。

 

 だから、彼は直ぐに行動に出たのだ。

 

 後どれだけ彼女が持つのか分からない。

 

 最期の時まで母のそばに居ても良いのではないか、とも思ったが、やらなかったら後悔する。

 飛び出したまま、振り返らずに駆け出した。

 

 ギリギリだ、と彼の勘が告げている。

 後僅かで、引き返す為の時間も無くなると。

 

だけど、迷って、悩んで、それでも進んで――そして、彼はそこに辿り着いていた。

 

「・・・はぁぁぁぁ」

 

 大きく息を吸って深呼吸。

 

 乱れた呼吸をゆっくりと常の状態へと落ち着けていく。

 

 此処までは何とかやれる前哨戦。

 

 そして、ここからが、彼がやれるだけの、思いついた中での最後のそして最良の手段であった。

 

 息をゆっくりと、限界まで吸い込んでいく。

 

 目の前の切り立った崖も、森のど真ん中に不自然にある広場も、話に聞いた通りであった。

 

 

「――天狗殿ぉぉぉぉぉっ!!!」

 

 

 小柄な少年の、少し高い声が、朝靄の漂う森の中に響き渡る。

 

 幾つもの木霊が響き、無理矢理目覚めさせられた小鳥が、その声に篭められた気合に気圧されて飛び立った。

 

 ゆっくりと残響が消え、飛び立った小鳥の立てる音も消える。

 

 反応が無い事に焦りを感じながら、もう一度叫ぼうと大きく息を吸い込んだ少年の耳に、小さな足音が聞こえた。

 

 朝靄の向こうから、白装束の何者かが靄を割きながら歩いてくる。

 

 突き出た長い鼻。

 鋭い眼光。

 赤い肌。

 

 忠夫を知らぬ彼は、彼を知る忠夫の視線を受け止め、静かに呟く。

 

「・・・何用だ、小僧」

 

 この時ではないあの時に、彼を懐かしむような目で見ていた彼ではない。

 

 彼は――天狗は、忠夫をただ睨みつけた。

 

 それだけで、辺りの空気が一変する。

 

 押し寄せる威圧感と、背中が総毛立つような危険の香り。

 

 だが、奥歯を食いしばって、耐える。

 

「は、母上の為に、薬を頂きに参った!」

 

「・・・ほう」

 

 小さく呟いた天狗は、その手に持った粗い削りの木刀をゆっくりと持ち上げ、振り下ろす。

 

 それだけで、周囲に漂っていた薄靄が消し飛んだ。

 

「ならば、知っているのか、小僧」

 

「ああ、知っている! あんたに勝って、それで薬を持って帰る!」

 

「ふ、子供の割に、威勢の良い事を」

 

 鋼のような硬質な風が押し寄せるように吹き付ける。

 

 青年となった忠夫であれば、闘い方もあったであろう。

 

 だが、今のこの身には力が無い。

 

 それでも、何とかしたいと思った。

 

 ふと、天狗の視線が訝しげな物に変わる。

 

 戸惑ったように、こちらに吹き付ける殺気が揺らいだ。

 

「・・・お前一人でやるのか?」

 

「勿論「二人でござる!」――ってなんで居るんだお前はぁっ?!」

 

 目の前の天狗に集中していた忠夫の真横から、何だかいきなり理不尽な声が叫ばれた。

 

 思わずそちらを向いた忠夫の眼に、短いながらも真剣を持った、忠夫よりも小柄な少女が震えながら、立っていた。

 

 顎が落ちるほど驚く忠夫に、シロは額に緊張の脂汗を浮かべながら、それでも気丈に笑ってみせる。

 

「あ、あ、兄上を探していたに決まってるでござろう? 父上は犬飼殿の家で色々やってるし、犬飼殿は倒れた沙耶殿の傍から動く気は無いそうでござる。――沙耶殿は、母の居ない拙者にとっては母と同じ。兄上を探すのは、拙者の役目だと思ったでござる!」

 

 ――追跡は、簡単だった。

 

 いまだ霊力に目覚めぬ子供である忠夫の足では3日の掛かったその道も、いまだ成長の戸口とは言え純血の人狼たるシロにとっては1日足らずの距離だ。

 

 彼女の鼻は微かに漂う彼の匂いを追いつづけたし、人狼の目はあちこちに残った忠夫の痕跡を見つけ出す事が可能だった。

 

 そして、いよいよ直ぐ近くと言う所まで来て、森に響いた忠夫の叫び。

 

 声の発生地に駆けつければ、凄まじいまでの気配を持つ相手に、徒手で向かい立つ忠夫の姿。

 

 そして、母の為に薬を貰うというその言葉。

 

 それだけで、家族の一大事に居なかった彼に対する怒りも、年上なのに情けない彼への歯痒さも消し飛んだ。

 

「深くはわからんでござる! しかし、兄上の言葉には義があった! ならば、犬塚シロ――助太刀しない理由は無い!!」

 

 震える膝を堪える子供が二人。

 

 方や何も持たず、方や真剣を持っているとは言え、其処彼処に未熟さが溢れるように見てとれる。

 

 それでも、天狗は一息つくと。

 

「・・・小僧と言った事は訂正しよう。小さな侍達よ、幼い狼の子等よ、未熟な戦士であろうとも、確かにお前達は「闘う者」だ」

 

「当然でござる!!」

 

「故に、我も――手加減はせぬ。死ぬな、未来ある者達よ!」

 

 唸り声を上げるシロと、先ほどにも増して威圧感を吹き付ける天狗。

 

 そして、忠夫は――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょ、ちょっと待った! おしっこ!」

 

 

 今までの緊張感も何もかも、全部台無しにしやがった。

 

 思わずシロと天狗も腰砕け。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「兄上ぇぇっ!!」

 

「良いからお前も来いっ!」

 

「え、ちょ、そんな! 拙者これでも女子にござるぅぅ!!」

 

 腰砕けになったシロを引き摺りながら、一目散に木陰に駆けて行く子供達を目にしても、天狗は動こうとはしなかった。

 

 というか、動く前に、引きとめる前にあっさり撤退かましてくれやがった少年の手際の良さに呆気に取られる暇も無かったし。

 

「・・・女子だったのか。子供は全部一緒に見えるのぉ」

 

 最近の子供は男も女も連れションをするのか、と驚いていたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ど、どーいうつもりでござるか! 嫁入り前の女子に何をー!」

 

「どアホっ! 前も後ろも無いようなガキにそんな事関係無いわいっ!」

 

「乙女に対し何と無礼な!」

 

 引き摺りこんで一息ついた忠夫の手を、噛み付くようにしてシロが振り払う。

 

 途端に伸び上がるようにして抗議の声を上げた彼女の頭に軽い平手を打ち下ろしながら、忠夫はどかっと湿り気を帯びた地面に座り込んだ。

 

「・・・まぁ、正直助かったが」

 

「うう・・・なら叩かなくても良いではござらんかー」

 

「それとこれとは別なんじゃい」

 

 助かった、と言うのは嘘ではない。

 

 危うく、勝ち目の欠片さえも見当たらない相手に真正面から挑む所であった。

 

 さっきまでの自分の直情過ぎる行動を思い返して冷や汗を拭う忠夫に、シロの拗ねたような視線が突き刺さる。

 

 同じように座り込んだ少女は、何か必死で思考を巡らしている少年が反応しない事に、彼女自身も不思議に思うくらい、唐突に不満を覚えていたが。

 

「早く戻らないと、多分待ってるでござるよ?」

 

「でもなぁ、正直勝ち方が思い浮かばんしなぁ・・・」

 

 思案げに天狗が居るであろう方向を見つめる忠夫。

 

 青年の彼ならばやり方も、選べる方法も多かった。

 

 絡め手、セコ技、それらを組み合わせて正面からのぶつかり合いを避けつづけ、ここぞと言う瞬間に渾身の一発。

 

 忠夫との戦いを経験していない天狗なら、おそらく勝率は5割くらいは見込める筈。

 

 だが、今の彼には何も無い。

 

 霊波刀も、如意棒も。

 

 人狼の身体能力も、超感覚も。

 

 唐巣神父の聖水も、人狼としての霊能さえも、無い。

 

 無い無い尽くし。

 

 あるのは余りにも弱々しい少年の肉体と、そんな彼よりも頭一つは小さい少女の助力のみ。

 

 ――逃げるか?

 

 と、当初の目的さえ忘れて、戦略的撤退を検討し始めた忠夫の頬に、シロの両手が添えられた。

 

「そっちじゃないでござるよ」

 

 ぐき。

 

 向いていた方向から無理矢理180度捻られた頚椎が、何だか立ててはいけない音を立てたような気がした。

 

 右、真横を向いていた頭部は、左、一度前を通って再び横へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待っているのはあの天狗ではござらん。兄上の、母上でござる」

 

 

 ――その一言で、腹が据わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無い無い尽くし?

 

 天狗に勝つ方法が無い?

 

 如意棒が、霊波刀が、霊能が、身体能力が無い?

 

 美神もおキヌも居らず、傍に居るのが子供の頃のシロだけ?

 

 上等だ。

 

 一切合切、全部が全部に、皆々様に、もれなく上等をくれてやる。

 

「・・・お~け~お~け~。やったろうじゃねぇか。あんな長っ鼻のおっさんなんか知った事か。俺は俺のやりたい事を、やれるようにやってやる! こちとら人命かかってんだ、あっちの都合なんぞ知ったことか!!」

 

「・・・あ、兄上?」

 

「ああ無いさ! なーんもねぇ! あのおっさんに勝つ方法も、罠を仕掛ける時間も必要な体力も、準備に使う余裕も無い!!」

 

 唐突に立ち上がり、ヤケッパチ気味に叫ぶ忠夫の足元で、いきなり立ち上がった為バランスを崩して尻餅をついたシロが尻尾を丸めているのが目に入った。

 

 おそらく、原因は。

 

「あああ、兄上、顔、顔が凄く悪いでござる!」

 

「んだとこらぁぁっ?!」

 

「ひゃいんっ?! て、訂正でござる! 悪人と言いたかったんでござるよー!」

 

 悪戯小僧を通り越して、魔族やらヨーロッパの魔王やら悪霊やらとやりあった青年の、目だけが異様に怪しいぎこちない笑顔少年バージョンは、少女にとって少々刺激が強すぎた事だろう。

 

 ともあれ、ふん、と鼻息も荒く拳を握り締めた小さな半人狼の少年は、大きく大きく吼えて見せた。

 

 誰に宣言する為でもなく、ただ、己にそれを刻む為に。

 

 

「――何にも無くても、「犬飼忠夫」が、俺が残ってるなら何とかしたらぁっ!」

 


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