月に吼える   作:maisen

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第伍拾壱話。

 

 とある異界のとある一軒家。

 

 魔鈴さんちのお部屋の中で。

 

 見目麗しき美女と美少女が。

 

 白目を剥いた青年を囲んで。

 

「時空消滅内服薬・・・って、どーしてそんな危ない物置いてるのよっ?!」

 

「だっ、だって折角作ったのに捨てるの、勿体無いじゃないですかっ!!」

 

「ふぇぇぇーん! 横島さはぁ~ん!!」

 

 現在進行形で大混乱のど真ん中。

 

 問題の大元である薬を飲ませた美神は、非常に焦った顔で真っ黒なローブをきっちり着込んだ魔鈴に詰め寄り、詰め寄られた魔鈴もうろたえにうろたえ言い訳にもならない反論をのたまった。

 

 おキヌは完璧に昏倒しつつ、しかし徐々に血の気を失って逝きつつある忠夫の頭を抱えて抱きしめる。

 

 しかし意識があれば、言い争う二人と比べればささやかながらもそれなりの質感を持った幸せの何かが押し付けられている事に喜べるのだろうが、彼にとっては非常に残念な事に記憶に残らない出来事な訳である。

 

 そんな狂乱を、何となく乗り遅れた風に輪の外から見る二人。

 

「え、えっと、私悪くないわよね? 今回は」

 

「僕に聞かないでくれるかな・・・。と言うか、これどうやって収拾つければ良いんだろうね・・・」

 

 時空消滅内服薬を飲ませる原因となった飲み物を作り出したルシオラが、困った風に頬を掻きながら隣の男性に尋ねた。

 

 西条は、そんなルシオラの言葉に如何答えればいいものか、と頭の隅で考えつつも、むしろ落ちもついてこの話は終わりになったんじゃ、と油断してしまった己を悔いつつ頭を抱えてそっぽを向く。

 

 時空消滅内服薬、と言う言葉面だけでも危ない匂いがプンプンするそれは、魔法薬関係は専門外である西条でも聞いた事がある程、ある意味で有名な薬であった。

 

 

 

 曰く――それを飲んだ人物を、「因果ごと」消滅させる薬である、と。

 

 

 

 殺人を犯しても、その人物が居たと言う事実さえ残らない為、製造どころか所持すら固く禁じられるほどの「第一種危険指定魔法薬」である。

 

 とは言え現代ではその製造法さえ伝わっておらず、作れるとしたら中世の頃より生き延びているというドクター・カオス位の物である筈だが、イギリスで天才と呼ばれた魔女も伊達ではなかったらしい。

 

 魔女の使う魔法、薬、道具。

 

 そう言った物が最も発達したのは、やはり中世の頃であろう。

 

 彼女達だけでなく、オカルト関係者にとっても忌まわしい「魔女狩り」が全盛を迎えていたあの時代の技術は、そのあまりにも苛烈な弾圧の為、その殆どが失われて久しい。

 

 それを再び僅かに残された文献や情報から次々と復活させてきた才能は、この危険な薬もうっかり復活させてしまったのだろう。

 

 彼女にも使うつもりが無かったのは確かだろうし――おそらく、好奇心でやってみたらできたとかそう言う理由に違いない。

 

「勿体無いとかそう言う問題じゃないでしょ?! なんであんたが持ってるのかって聞いてるのっ!!」

 

「つ、作ったら出来ちゃったんですもの! 「著者:ドクター・カオス」って書いてあったら、どんな物ができるのかなーって、気になるじゃないですか!」

 

 ビンゴである。

 

 ともあれ、良い感じに話題の中心が逸れていっている事に気付いていない妹分も、作った後で処理しなかった魔女にも頭を痛めつつ、魔鈴には反省を促す為に三日くらい冷たいご飯でも食べてもらおうと決心した西条である。

 

 抜け目が無いようで何処かが思いっきり抜けている魔女に貸し一つ、それで今回の事は厳重な注意で済ませて、代わりに今度デートにでも誘おうか、と溜め息混じりにガードの固い魔女を見ながら、二人の頭に振り下ろす為に軽く拳骨を作る。

 

 ごっちんごっちん。

 

 あまり軽いとは言えない音を立てて、二人の頭に西条の拳が落ちた。

 

「「痛ぁっ?!」」

 

「いい加減にしないか! 今はそれよりも先にやる事があるだろう?!」

 

 涙目で睨みあげてくる二人に「君たちは何歳だ」と突っ込みたいのを堪えつつ、瞳に涙を湛えたまま硬直しているおキヌに頭を抱えられていた忠夫の脈を取り、白目を剥いている忠夫の口元に掌をあて、呼吸を確認する西条。

 

 脈、弱々しいながらも有り。

 

 呼吸、段々と小さくなっているようであるが、有る。

 

 意識、確認するまでもなく、無し。

 

「どうやら、完全に魂が抜けているようだね。生命活動は有るけど、魂が抜けたせいで徐々に弱くなっている」

 

「何でよお兄ちゃん?! 時空消滅内服薬でしょう?! 因果が消えるんだから、肉体が残っている事自体おかしいのよ?!」

 

 そう、因果ごと消滅するのであれば、今美神達の目の前に忠夫の肉体が有る事自体が妙な話なのである。

 

 「肉体」という「忠夫の因果」が残っているのだから。

 

 美神達の知識にある薬の発現状況は、何も残さず消滅する、と言うそれである。

 

 それこそ、肉体や魂だけでなく、彼女達の記憶から「忠夫」が消え去ってしまう効果があるのだ。

 

 しかし、彼女達の記憶からは消えていないし、肉体は確かにそこに在る。

 

 肉体が存在する以上、因果は消滅しない。

 

 つまり、不完全な発現をしたのだ。

 

「・・・消滅薬が発現する前に、肉体から魂が抜け出た、と言うことでしょうか」

 

「・・・しかし、内服薬なのだから肉体の方に影響が出ない筈が無いだろう?」

 

「いえ、そもそも魂にも干渉する薬の筈です。肉体が消滅しても、魂が残れば「因果」から消し去る事は事実上不可能ですから。薬という形を取ってはいますが、アレは実際の所強力な呪の塊みたいなものですし」

 

 魔法薬とは大なり小なり、魔力や霊力といった物の干渉を受ける。

 

 作り手たる魔女の力と、様々な呪物との錬金術。

 

 その結果として生み出されるのが「魔法薬」。

 

 伊達に魔法を名に冠した薬ではないという事だ。

 

「多分、魂が体内で発現した呪をそのまま持ってっちゃったんじゃないかと」

 

「・・・飲む前に、妙なの飲まされてたしねぇ」

 

 美神達の視線がルシオラに集中する。

 

 やや腰の引けたルシオラは、僅かに目を泳がせながら、それでも反論して見せた。

 

「べ、別に妙なのなんて飲ませてないわよ! ちょっと、手慰みに魔界で作ったサッ○リンの5倍くらい強力な奴を試してみただけで・・・」

 

「十分に毒薬よ、それはっ!!」

 

 ちなみにサッカ○ンとは、スプーン一杯でお風呂の水が濃い砂糖水程の甘さになるという魔法のような物質である。

 

 現在は発ガン性があるとかで、姿を見ることは先ず無いだろうが。

 

 だが、それを飲んだ時点では忠夫の魂は抜け出していなかった。

 

 問題はそれより後、昏倒した忠夫に無理矢理飲ませた魔鈴印の薬と、忠夫の体内にあった魔界製の珍品が妙な反応でもしたのだろうか、と辺りを付けたが特に役立つ情報でもない。

 

 それよりも、そのお陰――と言うか原因でもあるのだが――で、忠夫の肉体がそこに在ると言う事実だ。

 

 

「つまり、まだ横島君に干渉する事が可能な訳ね?」

 

「ええ、何処まで有効かは不明ですが・・・」

 

 それならば、とやおら混乱から立ち直った美神が気合の吐息を吐き出した。

 

「西条さんは横島君の身体をテーブルの上に動かして! 私が干渉できるか試してみるわ! おキヌちゃんは笛、ネクロマンサーの笛を準備っ! あれなら霊体に直接干渉できるから! あんたはとっとと使える薬でも持ってきなさい!」

 

 最後は顎に手を当てて悩む魔鈴に叫び倒しながら、慌てて笛を取り出したおキヌを引き連れ西条が担ぎ上げた忠夫を追って早足で駆けて行く。

 

 脳裏に何種類かの交信術、召喚術を思い浮かべながらも条件を当て嵌めどんどんと使えそうなものを厳選していく美神の目には、何処か怒りが見え隠れ。

 

「あの、私は?」

 

「そこであっち逝っちゃってる蛇娘の面倒でも見ときなさい!」

 

 おずおずと問い掛けてきたルシオラに、この騒ぎの中でもただ一人輪の中に入らないまま、三途の川を眺めたと言う珍しい体験の為、呆けたまま虚空を見上げてぶつぶつと何事かを呟いているメドーサの面倒を押し付け、美神は押し殺したように呟いた。

 

「ふざけないでよね・・・。こんな事で居なくなったら、何が何でも、絶対ぶん殴りに行ってやるんだから・・・!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「不味いねぇ・・・」

 

「まさか、この時点で発現するとは誰も予想できなかったからね」

 

「起きてしまった事はしょうがないさ。不幸中の幸いだが、簡単なループに固定できたから良かった」

 

「何が「良い」ものか。連続する落下、停滞するだけで瓦解に至る。あやつがじっとしておるとも思えん」

 

 4つの声が響く。

 

 苦味を多分に含んだ、ややハスキーな女性の声。

 

 苦笑いを堪えた、少し高い青年の声。

 

 どこか軽い、性別の分からない声。

 

 批判を篭めた、低い男性の声。

 

 何処とも知れぬその場所に、誰とも分からぬ、だが何処か似通った4人の声が響いて消える。

 

「私と彼女は「彼」に干渉してるから、これ以上何かをするの余裕は無いよ」

 

「僕も、あっちに取り掛かってる真っ最中だからねぇ。よって、余ったのは――」

 

「・・・我、か。厄介な雑事を増やしてくれる。だが、無視も出来ん」

 

「そうだねぇ。万が一、は危険すぎる。全部台無しは御免だからねぇ」

 

 その言葉を最後に、何処とも知れぬその場所からは、誰とも分からぬ声が聞こえなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「落ちる落ちる。助けてくれー・・・」

 

 呟いた物の助けは無し。

 

 むしろ、何でも良いから反応が欲しいと切に願う忠夫である。

 

 一体、ひたすら落下すると言う世にも珍しい事態に陥ってからどれほどの時間が経ったのか。

 

 体感では既に数時間が経過しているにもかかわらず、空腹を覚える事は無いし、周囲の暗闇に変化が起きた様子も無い。

 

 最悪いきなり地面と衝突か、と緊張してみた物の、何時まで経っても終点に辿り着く様子も無い。

 

 実時間がどれだけだと言った所で、結局生物とは慣れる物だと言う事なのだろう。

 

 既に緊張も恐怖も薄れ、その反動か、ただ無為に落ち続けるだけの彼であった、が。

 

「・・・はっ?! イカン、イカンぞぉぉぉっ!! 俺はこんな所に何時までも居るなんて嫌なんじゃぁぁっ!!」

 

 そして、忠夫は考える。

 

 取り得る手段は無い物か。

 

「如意棒・・・は伸ばしても伸ばしても何にも当たらんかったしなー。右も左も何処まで続いとんのか分からんし、匂いも妙な気配もしなかった、と」

 

 ごそごそと懐を探り、何か無いかと探してみる。

 

 小さな手応えが、ズボンの右のポケットに在った。

 

「・・・骨っこやん」

 

 小さく細い、おやつ代わりのその骨を模したお菓子を咥えてみる。

 

 少々干からびてはいる物の、中々乙な味である。

 

「って違う! 何の役にもたっとらん!」

 

 ぶは、と叫んだ忠夫の口元から、半分ほどになった骨っこが飛んで上に消えていった。

 

 忠夫よりも小さいそれは、勿体無いと思わず伸ばした手を擦り抜けてあっという間に視界から消えていった。

 

 落胆する忠夫の手が、思案の形を取る。

 

 胡座を掻き、人差し指を伸ばした両手を頭の上でくるくると回す、所謂一休さんの構えである。

 

 どこからとも無く木魚の音が聞こえ始め、最後に小さな金属音がした――ような気がした。

 

「・・・やっぱ勿体ねぇっ!!」

 

 突如叫んで両手を蝿の如く動かし始める忠夫であった。

 

 どのような状況下にあろうとも、狼の習性だろうか、逃げた獲物を思わず追いかけてしまうのは仕方が無い――とは言えない。

 

 むしろ他にやる事が無いから、と言うのがその理由だろう。

 

 

 無為な時間は、何も出来ない退屈は、それだけでも心を壊す事ができるのだから。

 

 

「くっ・・・追いつけねぇかっ!」

 

 必死に手足をばたつかせた忠夫であったが、真っ直ぐ上に昇って行った筈の骨っこの欠片も見えてこない事に焦りを感じているようだ。

 

 飛べない狼は――いや、狼は飛べないだろうと言う突っ込みは無粋であろうか。

 

「ならば、羽みたいな物で・・・!」

 

 そう呟いて、霊波刀を顕現させる。

 

 蒼白く輝くその刀身も、何処までも続く黒を掻き消すにはか細すぎた。

 

 だが、今回は灯りを求めたのではない。

 

 彼が求めたのは、ついさっき、あの不思議な川のそばで見たあ高度な技術。

 

「やってやるぜぇっ! 必殺、霊波刀変化!」

 

 むやみやたらに気合の入った声は、忠夫の霊波刀に奇妙な変化をもたらした。

 

 真っ直ぐな、やや太目の刀身を取っていた忠夫の霊波刀が徐々に厚みを増しながら、亀のような速度でゆっくりと細長い長方形に変化していく。

 

 そして、血走った瞳の先で、それは変形を完了させた。

 

「・・・霊波ハーリーセーンー」

 

 微妙に嗄れ声で、間延びのした声が響く。

 

 ぱぱらぱっぱぱー。

 

 何処からとも無く気合の抜けるようなラッパの音が響いた・・・ような気がした。

 

 霊波刀が展開し、何枚にも重ねられた板状のそれが出現する。

 

 互いに干渉しない霊波刀の多重展開、それはとんでもなく高等技術のはずなのだが・・・何処までも小器用な男である。

 

「そしてぇぇっ! 霊波・・・ええっと・・・扇!」

 

 一端閉じられたそのハリセンが、今度は左右に開かれた。

 

 微妙に重なり合ったその形状は、確かに扇のようにも見える。

 

「そしてぇええええ!! 人狼・サァァイキック・フライングゥゥゥ!!」

 

 何だか背後に二本の斧を構えたロボットが見えたような気がした。

 

 ともあれ、やたらと気合の入った声を上げた忠夫が何をやったのかと言えば。

 

 火事場のクソ力じみた集中力で発現させたそれを下に向け、一生懸命ばっさばっさと動かし始めただけだった。

 

 飛び散る汗、盛り上がる力瘤、浮き出る血管。

 

 まるで扇と言うより団扇のような使い方であるが、何とも暑苦しい上に、本人は本気でやっているから始末に終えない。

 

 折角の高等技術の取得も、なんでこんな事に使われなきゃならんのか、と先程使用していた女性が見たら落ち込みそうな無駄使いっぷりである。

 

「おお、以外にやれるじゃねーか、俺!」

 

 だが、半人狼の膂力故にか、それともなんだか良く分からないこの空間の摂理か、あるいは忠夫の一念が通じたのか、彼の体が感じる速度がはっきりと緩やかになっていったのだ!

 

 不条理な事に。

 

「おりゃおりゃおりゃー! ・・・見えたぁっ!!」

 

 そして、彼の目は、霊波扇の僅かな光源の元でもしっかりとその物体を発見していた。

 

 落下を続ける「骨っこ」を。

 

 ここぞとばかりに全力を篭めて、更に仰ぐスピードを加速させる。

 

 見る見るうちに獲物との距離は縮まり、そして、それが射程距離に入った瞬間。

 

「トォォォォォォッ!」

 

 なんと、忠夫は切り離した霊波扇を足場に飛び上がったのだ。

 

 制御を離れた一瞬の間に扇は消えるが、その一瞬で最後の加速に事足りる。

 

 と言うか、例え一瞬であろうとも、今まで手から切り離して使用する事が出来なかったのに、目の前のソレの為ならあっさりとそれまでの常識を覆して・・・理由がとってもアホである為、凄いと素直に言えないのはしょうがない。

 

「頂きます!」

 

 忠夫の跳躍は砲弾の如くその身を加速し、目標に向かって一直線。

 

 獲物を捕らえ、一口にしてしまおうと口を開け――

 

 

 その速度がゼロになる。

 

 

「んがぁっ?!」

 

 視界が、閃光で埋め尽くされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

「――馬鹿な! 停滞だと! だからこやつは・・・!」

 

 何処かで誰かが、半人狼の食欲に負けていたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・あれ、骨っこ?」

 

 気が付けば、そこは暗闇の中では無い場所だった。

 

 頭上からは太陽の光がゆっくりと差込み、初夏の湿り気を含んだ生温い風が頬を撫でる。

 

 風に揺られてさざめく木の葉は、新緑の芽を既に濃い緑に変え、太陽の光を受けながらさわさわと木洩れ日を落としている。

 

「どーしたでござるか、兄上」

 

 背後から掛けられた声に振り向いた。

 

 十数年近くも傍に在ったその声は、だが、忠夫に確かな違和感を訴える。

 

 不思議そうな表情で忠夫の顔を覗きこんでくるその子供は、短い銀髪の中に一房だけの赤を鮮やかに映えさせている。

 

「し、シロか・・・?」

 

「そーでござるよ?」

 

 きょとん、と。

 

 何を当たり前の事を、と見返してくる、その少女だか少年だか良く分からない子供の名は、シロ。

 

 昔忠夫が着ていたような、動きやすい着流しにも似た和装を着込んだその少女は――。

 

「そろそろご飯の時間でござるよー。先に行ってるでござる」

 

 明らかに、昔のシロだった。

 

「・・・え? え? 何がどーなってんだっ?!」

 

 そこで、自分の声に違和感を覚えた。

 

 何時も耳に響く声よりも、高い。

 

 そして、視点がいつもよりも地面に近い。

 

 慌てて忠夫が自分の手を見れば、そこにあるのは小さな手。

 

 頭を押さえれば剥き出しにされた耳の感触があり、お尻を見れば着物に開けられた穴から飛び出す尻尾がある。

 

「え? 俺、ガキんちょ?」

 

 人間の子供で言えば小学校低学年くらいのものだろう。

 

 訳が分からない、忠夫の頭はそれで占められている。

 

 辺りの光景をよく見れば、そこは遊び場にしていた里に程近い野山であった。

 

「あーにーうーえー! 拙者より足が遅いんでござるから、早くしないとご飯が冷たくなって、おば、あぶあぶ! 沙耶殿に怒られるでござるよー!」

 

「ま、待てって!」

 

 叫ぶだけ叫んであっという間に視界から消え去った少女は、そのまま振り返りもせずに里に向かって駆けて行ったようだ。

 

 釣られるように駆け出した忠夫は、己の足の短さと、おもわぬ進みの遅さに愕然とする。

 

(そう言えば、昔のシロには結構舐められてたっけなー)

 

 半人狼の出自のせいか、この頃の忠夫は2歳も年下のシロよりも、明らかに身体能力では劣っていた。

 

 それこそ、普通の少年並みのソレしか持たなかったのだ。

 

 そして、大人たちはそれを「まぁそう言う事もあるだろう」と気楽に済ましていた物の、数少ない、それこそ忠夫よりも年上の「子供」が居ないこの環境下では、力という序列をその根に持った人狼の中では弱い者にカテゴリされてしまっていた。

 

 故に。

 

 最も歳の近い子供であるシロは、この時代、忠夫を物足りなさそうに見ていたものだ。

 

「って物思いに耽ってる場合じゃねぇ!」

 

 さっき、シロはなんと言った?

 

 そうだ、この頃は。

 

 ――まだ、この頃は。

 

 ――そう、あの人が。

 

「・・・っ!」

 

 記憶の彼方の、あの人が。

 

 身体を突き動かす衝動に全てを任せ、ただ、地面を蹴った。

 

 遅々として進まない光景が、今は、ただ、もどかしかった。

 

 あまりにも短い手足が、細く頼りない手足が、不安だった。

 

 それでも、もう一度、会えるのなら。

 

 だから、走った。

 

 木々を掻き分け、下草に足を取られ、小川のせせらぎを蹴立てながら、記憶の中のものよりも小さな里に駆け込む。

 

 息を乱し、汗だくで、必死の形相で里を駆けて行く少年を、すれ違う者達が驚いたように見送っている。

 

 少々風変わりな夫婦の、少し頼りなさげな一粒種は、何時ものような人を惹き付ける笑顔でなく、何処か泣きそうな顔で走っていく。

 

 ――目指す先は、彼の家。

 

 玄関を音を響かせながら引き開け、飛び込んだ先に、二人が居た。

 

「おかえり。・・・って、もう! またこんなに汚して!」

 

「ふゃんとふぇをあふぁっふぁふぇごふぁるか? ふぉがっ?!」

 

「あなた! つまみ食いしちゃ駄目って何時も言ってるでしょう! 子供に変な所見せる父親がありますか! ・・・どうしたの?」

 

 

 ご飯を米びつに移していた女性が、どろどろの格好で飛び込んできた忠夫に目を見開かせ、その背後でほかほかと湯気を上げていた煮物に手を伸ばしていた男性が、背後も見ずに振られた鍋の蓋に張り倒された。

 

 腰に両手を当てて倒れて悶える夫を叱っていた彼女は、きょとんと見上げる忠夫の前でゆっくりと着物の裾を折りながら視線を合わせ、その鼻の頭に付いた泥を、家事仕事で少し荒れた指先でそっと拭う。

 

 未だ悶えるポチを見ながら、台所のある土間を覗き込んだ犬塚がお腹を抱えて大笑いしており、その足元では板張りの廊下に腰掛けたシロが、人狼の里でも2,3を争う剣士を鍋の蓋で張り倒した女性を尊敬の目で見つめている。

 

「母・・・うえ?」

 

「ええ、貴方のお母さんよ」

 

 柔らかな笑みを湛えた沙耶は、忠夫の記憶と寸分変わらない、少しだけウェーブの掛かった長い黒髪を背中に流しながら、ゆっくりと忠夫の頭を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・固定、完了。だが、どうする・・・?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔鈴のお家は、ビリビリと振動中。

 

 原因はと言えば。

 

「おき、おキヌちゃん、落ち着いてー!」

 

 ひたすら響きつづけるネクロマンサーの笛の音だ。

 

 何時ぞやの冬山合宿の事を覚えているだろうか。

 

 あの時は、おキヌが吹いた笛の音があたりの山々に木霊し、共鳴すると言う現象が起きた為――大惨事だった。

 

「・・・・・・・」

 

「・・・・・・・」

 

「お兄ちゃんー! 魔鈴ー! 魂が出てるー!」

 

 あの大惨事をぎりぎりで思い出し、すかさず防御体勢を取った美神はともかく。

 

 至近距離で、しかも狭い部屋の中、異界という特殊な状況下で作られた魔鈴の家は一種の結界になっており、その中でおキヌの笛の音を存分に反響させ。

 

「すぅぅぅぅ・・・」

 

『ピュリリリリリリィィィッ!』

 

「待って! もう良いから! おキヌちゃんまた聞こえてないでしょおぉぉぉぉぉ?!」

 

「あうあうあうあうあうあう・・・」

 

「あは、あはははは。また川が見えるよ・・・」

 

「あんたらもかぁぁぁっ?!」

 

 更に、忠夫の為、と何時も以上に全力を超えて吹かれたおキヌの笛の音の威力は凄まじい物であった。

 

 メドーサを覚醒させる為に背中を向けており、完全に不意を突かれたルシオラの苦悶の声と、未だ混乱から立ち直っていなかったメドーサの二度目の旅立ちを横目で見ながら、美神はちょっと泣きそうだった。

 

 おキヌの笛の音は彼女の顔が酸欠で紫色になるまで鳴り止まなかったそうな。

 

「けほっ、けほっ! ま、まだやれます! すぅぅぅぅ・・・」

 

 本人に悪気が無いうえに健気なだけに困りもんである。

 

「おき、おき、おキヌちゃ――」

 

『ピュリリリリリリリリリィィィィィッ!!!』

 

「うあああぁ・・・」

 

 頼みの綱がこんな状況で、果たして忠夫は戻ってこれるのだろーか。

 


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