月に吼える   作:maisen

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第四拾漆話。

 朝だ。それも、めったにないほど空気の澄んだ気持ちの良い朝だ。

 

 清々しい朝の価値は計り知れない。

 

 窓から差し込む朝日は一日の活力を呼び覚まし、春の少しだけ肌寒い空気の中で囀る小鳥の鳴き声は、否が応にもこの季節の特別さを思い出させてくれる。

 

 しかしながら、此処最近は朝から増えた食い扶持を稼ぐ為に狩りに出かけていた半人狼にとって、日の出の時間が早くなった事と山菜が採れるようになった事、そして山々に新緑が増え始めている事の方が季節を感じさせてくれていたのも事実である。

 

「・・・あたたたた。ちっくしょー、山の主の子供らもでっかくなりやがって・・・親子連携で奇襲されるとは思わんかったぞっ!」

 

 朝日を背負いながら安アパートに向かうのは、足を引き摺りながら、拾ったらしい木の枝を杖代わりによたよたと歩く忠夫である。

 

 時の流れを強敵と言うか縄張り争いに近い関係の相手の戦力強化に感じながら、それでも背負ったリュックには山菜と川魚が突っ込んであるあたりは抜け目が無いと言うか何と言うか。

 

 肉が取れなかったのは残念だが、今日一日くらいは持つだろう、と溜め息混じりに歩く忠夫の耳に、朝の静けさを破りながら聞き覚えのある声が木霊を伴って響いてきた。

 

「・・・んあ? タイガーじゃねーか」

 

「――!! ――っ!!!」

 

 遠くに見えるビルの上、口元にメガホンの如く手を添えたタイガーが、朝日に向かって吼えていた。

 

 耳を澄ませば。

 

「何でジャーっ! 彼女持ちのタイガーなんてタイガーじゃ無いとはどー言う事なんジャァァッ!!! 幸せなワッシなんてタイガーじゃ無いとはどー言う意味ですカイノォォォッ?!!」

 

「朝っぱらからウチの事務所の恥晒すんじゃ無いワケっ!!!」

 

 ビルの屋上の扉をバイクでブチ破った褐色の肌の女性ライダーが、ウィリーしながら吼える虎に向かってブーメランを投げつける。

 

 モロに側頭部に直撃されて昏倒した虎は、追撃とばかりにバイクから降りた女性のくり出したストンピングを喰らって痙攣を始めた。

 

 超感覚と呼ばれる自分の視力のせいで朝からスプラッターな光景を目撃した忠夫は、触らぬ神に祟り無しを決め込む事にしたのだった。

 

「・・・春やなぁ。春だからしょーがねーよなぁー」

 

 そう呟きながらも歩き出す忠夫であったが、何となく自分の役割を取られたようにも思え、ちょっと背中を煤けさせていたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰宅し、世間一般よりもかなり早めの朝食を作る。

 

 とは言っても、採れたて、釣れたての食材に火を通し、塩を塗しただけの簡単サバイバル料理である。

 

 押入れの中で忠夫から強奪した布団に丸まっていたメドーサが、布団に未練がましくしがみ付いているのを引き剥がし、炊き立ての白米と共にちゃぶ台に置かれた朝食の前へと設置する。

 

 百合子が置いていった調理器具やら炊飯ジャーやらの文明の利器は大変便利であったし、食事のバリエーションが増えたのも確か。

 

 寝ぼけ眼の過去の凛々しさとか警戒心とか鋭さとかを何処かに忘れてきた娘は、見えているのかどうかも分からないような細目のままで、しかし正確に箸を運びながらゆっくりと咀嚼して行った。

 

「・・・肉が無い」

 

 食事終了と共に漸く目の覚めたメドーサから吐かれた言葉に苦笑いを零しながら、忠夫は食器を台所に運んで行く。

 

「ま、偶には不作の日もあるんだよ」

 

「肉が欲しいんだっ!」

 

 どん、とちゃぶ台を叩いたメドーサは、てきぱきと食器を片付ける忠夫に不満の意を大いに表明して見せた。

 

「わーったわーった。今晩は何とかすっから、さ。どーせ夜まで寝てんだろ?」

 

 台所に立つ背中越しに返って来たそんな言葉に何度か念を押しながら、同時に頼まれたのでちゃぶ台の足を畳んで部屋の隅に片付ける。

 

 ぶちぶちと不平を零しながらも、以外に素直に行動したメドーサは襖を開けて押入れの奥に潜り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 押し入れの中で勝手に引っ張り込んだ電球の小さな明かり点け、腰を落ち着けたところで、おもむろに着ている服の胸元を引っ張ってみるメドーサ。

 

 覗きこんだ所で、見えるのはすっかり寂しくなった曲線ばかりである。

 

 昨日は危うくアンドロイドの少女に懐柔されそうになった物の、まだ、色々と諦めている訳ではない。

 

 収集した「横島忠夫」のデータの中にあった、年上のスタイルの良い女性が好みである、と言う一文。

 

 どう見ても年上には見えず、ナイスバディと言うには物足りない胸と腰に歯痒さを覚えながらも、数年先を見越して努力を誓う。

 

 娘と言う位置は悪くない。

 

 男女の関係としては近すぎるような気もするが、何、あの無節操な男の事。

 

「ふ、ふふふふふ。まだ諦めた訳じゃないよ・・・。絶っ対に、私のモノにしてやるんだからねぇ・・・」

 

 一人胸の内に炎を燃やしながら、再び開いた胸を覗き込む。

 

 無い物は無い、と言う事実に少々落ち込みながらも、健やかな成長の為には栄養と睡眠、と割り切り拳を握り締めるメドーサ。

 

 と、一人世間的にはとんでもない方向に向かってひた走るメドーサの部屋、つまり押し入れの襖であるが。

 

 その薄暗い押入れの襖が、いきなり開かれた。

 

 そして差し込む光と、飛び込んでくる忠夫。

 

「すまんメドーサッ! ちょっと匿ってく・・・れ・・・?」

 

 上半身を押入れに突っ込んだ忠夫の前で、あるかないかの谷間を覗きこんだまま硬直するメドーサ。

 

 沈痛な、なんとも座り心地の悪い空気が満ちた。

 

 その向こうから聞こえてくるのはメドーサの知らぬ女性の声。

 

 忠夫にとっては昨日散々異空間の授業で聞いた、教師を目指す机妖怪愛子の声。

 

「ちょっとー! 横島くーん! 居るんでしょーっ?! 学校行くわよーっ!!」

 

「「・・・・・・・・・・・・・・・・・」」

 

「先生達から聞いてるんですからねーっ! 最近学校にまともに来てないんですってーっ?! 私がキッチリ更正させてあげますからねーっ!」

 

 どんどんどんどん。

 

 愛子の声と、薄い玄関のドアが叩かれる音。

 

 段々とテンポは速く、音は大きくなっている物の、気まずい空気を打破するには至らない。

 

 このままでは不味い、何が如何とは言えないが不味い、と言う思考が忠夫の脳裏を走り抜ける。

 

 混乱した脳味噌は「えーらいこっちゃえーらいこっちゃヨイヨイヨイヨイっ」と訳の分からない返事しか返さないし、硬直したままのメドーサがぷるぷると震え始めているのはとても危険な兆候のような気がする。

 

 どれほどの時間そのままで居たのだろうか。

 

 諦めたのかドアを叩いていた愛子の声は聞こえなくなり、目の前のメドーサの震えは段々と大きくなり、そしてその瞳には羞恥と怒りの色が浮かび始めている。

 

 だが、事此処に至って忠夫は父親であろうとした。

 

 そう、彼は彼なりに頑張ろうとしたのだ。

 

「・・・あ、明日があるさっ! ほら、今は公園の砂場の山でもいつかは富士山あうらばっ!」

 

「そこまで小さくないわぁぁっ!!」

 

 駄目だった。

 

 色々と、駄目駄目だった。

 

 朝は、アパートの一室が崩壊寸前まで追い詰められる事で終わりを告げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、舞台は少し遡る。

 

 魔界の、とある魔神の居城にて、物語の歯車は、歪な音を立てながら、無理矢理に回らせ始められていた。

 

『・・・本気ですかアシュタロス様?』

 

「うむっ!」

 

 二本の角をそそり立たせた紫色の角付き男が、重々しく――と言うにはちょっとばかり威勢良く頷いた。

 

 それを見た部下の土偶の目から光が消え、暫しの間を置いた後、再びゆっくりと再起動。

 

 主の顔を確認し、全く持って問題を感じていない表情である、と最早カウントする事すら億劫な程の年月によって積み重なっているデータが判断する。

 

『・・・アシュタロス様ぁぁぁぁぁっ?!』

 

「ん、なんだ?」

 

『な・ん・でよりにもよってこんな時期にそんな事をする必要があるんですかっ?! デタントだの何だので最近は問題が多すぎるんですよぉぉぉっ?!』

 

「ふ・・・そんな事か」

 

 鼻息一つで部下をあしらった上司は、やれやれ、と言った様子で両手を広げて肩を上げる。 

 

 しょうがないなぁ、と言う感じの表情と、大げさに過ぎるオーバーアクションに在りもしない額の血管が膨らんだような気がしたり、無い筈の胃がシクシクと痛みを訴えたような気がしたり。

 

「ふふふふふ・・・。無駄だよ」

 

『何がですかっ?! 納得の行く説明をして頂けるんでしょうねぇぇぇっ?!』

 

「もう行った後だからな」

 

 あっはっは、と快活に笑う魔神が土偶の肩を叩く。

 

 叩かれた土偶が言われた意味を理解するのに魔界でも群を抜いて優秀な演算装置でさえ十数秒の時間を必要とした。

 

 そして、理解した後、物も言わずに後方にぶっ倒れた。

 

「おわぁ! ちょっと待てこれは洒落にならんぞっ! 接着剤、接着剤は――」

 

 陶器の割れる音と、魔神の焦ったような声が、巨大な本棚に囲まれた部屋に響いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ういーっす・・・」

 

「あら、今日は珍しく遅いのね」

 

「朝からごたごたとしてたもんで・・・」

 

 何だかとても久し振りな事務所の空気は、やはりねぐらであるアパートの一室とは別の意味で落ち着く空間である。

 

 何時ものように高価な、だが機能的なデスクに腰掛けた美神は、昼間からあちこち埃っぽい格好で出勤してきた忠夫を苦笑いで眺めている。

 

 疲れた様子で柔らかいソファーに腰掛けた忠夫は、大きく溜め息をつくと体の力を抜いて脱力した。

 

「あれ? おキヌちゃんは?」

 

「学校に決まってるでしょうが、この不良学生」

 

 言われてみればその通りである。

 

 朝も早くからサバイバルに出かけ、月に行ってから一度も来ていなかった事務所に顔を出したいから、と言う理由でサボった忠夫と違い、おキヌは成績はともかくとしても真面目に学校に通う優等生なのだ。

 

 まあ、事務所に顔を出すというよりも、美神達の顔を見たかったと言うのが、忠夫も気付かないもう一つの大きな理由だったりはするのだが。

 

「そーゆー訳で嫁に来ませんかっ?」

 

「たわけっ!!」

 

 全く前後の繋がりも無く美神の手を取らんと飛び掛った忠夫であったが、美神の右拳が擦り抜けるようにその顔面にカウンターでジャストミート。

 

 重力を忘れたように空中に暫し留まっていた忠夫であったが、物理法則に抗える筈も無く轢かれた蛙のように事務所の床にずり落ちた。

 

「良し、今日も絶好調っ!」

 

「ひ、人を殴った感じで調子を計らんでください・・・」

 

 拳の得た感触に満足げな表情を浮かべる美神も、文句を言いながら鼻を押さえ立ち上がる忠夫も何処と無くほっとした様子が、ほんの僅かに見て取れた。

 

 月まで行って、魔族達と命を削りあう戦いをし、誰一人欠ける事無く無事に帰ってこれた安堵もある。

 

 だが、それ以上に。

 

 GS美神除霊事務所が、GS美神除霊事務所としてあるという事が、彼女たちにとっては何よりも落ち着くのだ。

 

「今日はまだ依頼は無いけど、ま、折角だからお茶でも飲む?」

 

「え? 美神さんがっすか?」

 

「おキヌちゃんのお陰で機会が無かったけど、あの子が来るまで誰がクライアントの応対してたと思ってんの?」

 

 ウインク一つ残して台所へと歩き出す美神の耳に、何処からとも無く声が響く。

 

『オーナー、お茶でしたら私が――』

 

「いーのいーの。偶には私が淹れるから、あんたもゆっくりしときなさい」

 

『ですが――』

 

「オーナー命令よ」

 

 ぴしゃりと言い放って部屋を出て行く美神を見送りながら、忠夫は撃墜された位置からソファーに移動し、今度こそ身体を落ち着けた。

 

 台所からは美神が紅茶の葉の位置を人工幽霊に聞く声が聞こえ、なにやらガチャガチャと引っ掻き回すような音も聞こえる。

 

 おキヌを雇ってからというもの、台所を完全に任されていた彼女は彼女が使いやすいようにレイアウトを変えたらしく、少々梃子摺っているようである。

 

 しかし、人工幽霊のサポートもあってか、暫くするとお湯が沸騰する音やクッキーの匂いが忠夫の耳と鼻を擽った。

 

「・・・へーわやなぁー」

 

 ずりずりとお尻をソファーに滑らせながら呟いた忠夫の鼻に、紅茶の香りが届き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま帰りましたー」

 

「おかえりなさい、おキヌちゃん」

 

「おキヌちゃん、おかえりー」

 

 事務所の玄関を潜って声を上げれば、応接室から響く声。

 

 スリッパに履き替え笑顔で駆け出したおキヌを、笑顔の二人が出迎える。

 

 その事に、なんでもない筈の事にたまらない程の幸せを感じながら、ソファーに腰掛けて垂れている忠夫とそれを横目で睨んでいる美神に笑顔を向けた。

 

「あ、横島さんもう来てたんですか?」

 

「この馬鹿、学校サボって昼頃には来たわよ」

 

「えーやないですか。お、おキヌちゃん六女の制服も似合うなー」

 

 自覚も無しにいきなりナチュラルに口説き文句をのたまった忠夫に美神が投げたペンが突き刺さり、涙をどばどば振りまきながら流血部分を指差した忠夫が美神に食って掛かる。

 

 それを間に入って押し留めながら、どこか嬉しそうなおキヌはスカートのポケットから取り出したハンカチで忠夫の顔を拭く。

 

 拭かれた忠夫がどぎまぎとしてるのがとても嬉しくて、でも後ろから不機嫌そうな視線を向けてくる姉のような女性の視線がちょっと痛い。

 

「あ、あはは・・・ちょっと着替えてきますね」

 

「覗いちゃ駄目よ、前科者」

 

「やだなー。おキヌちゃんを覗いたりしたら、俺完璧に悪者じゃないっすか」

 

「・・・・・っ! ・・・・っ!!」

 

「神通棍は嫌ーっ?!」

 

 無言で忠夫をシバキ倒し始めた美神の打撃音と忠夫の悲鳴を背に、苦笑いを浮かべながら事務所の一角にある部屋に早足で駆けて行く。

 

 できるだけ原型が残っている内に戻った方が良いかなー、とか横島さんなら、とか思いつつ、ちょっと火照った頬を人工幽霊が点けてくれた電灯の下、鞄を持った手とは反対側で押さえながら、少し足を速めるおキヌであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うー、食った食った」

 

 綺麗な満月が浮かぶ空を眺めながら夜道を歩く。

 

 切れかけた電灯が瞬きを繰り返し、道端に設置された自動販売機にはそろそろ姿を見せ始めた虫が数匹、羽根を動かしながら集まっていた。

 

 見上げた空には月と明るめの星が幾つか。

 

 手にはお土産に貰ってきた、おキヌ特製の肉料理の詰め合わせ。

 

 冷えても美味しいものを、と手を加えてくれたおキヌの心遣いにも、賞味期限ギリギリだから、と視線をあさっての方向に向けながらも許可を出してくれた美神にも感謝を捧げながら、揺らさないように歩いていく。

 

「これで機嫌直してくれるといいんやけどなぁ・・・」

 

 出かける前には完全に押入れに引きこもってしまった娘のような存在は、どうやら彼女なりに切実な思いでたんぱく質を欲しがっているらしい。

 

 それが、忠夫がモザイク寸前の物体になりながらも理解した事実である。

 

 とは言えもっと深いところの意味まで理解しろ、と言うのは忠夫には難しすぎる課題だろう。

 

 溜め息半分、苦笑い半分で匂いだけでも期待を持たせるそれを持ち替え、遠くに見えるアパートに向かって歩いていく。

 

 深夜というには早すぎるが、子供を寝かせるのならこれくらいの時間だろうという所である。

 

 依頼が来なかったと不機嫌そうな雇い主も、退院祝いに、と心持ち豪華な、それでいて心の篭った料理を作ってくれた同僚も変わり無く、それが安堵を呼び起こす。

 

 同時に、早く嫁さん欲しいなぁ、とも思うが未だに成果はゼロ。

 

「美人でナイスバディなねーちゃんなら言う事無しやのになぁ・・・」

 

 TVで聞いた、最近流行の歌を口ずさみながら空を見上げた。

 

 月は、何処までも優しく輝いていた。

 

 

 お風呂を済ませ、ちょっと晩酌でも、とおキヌが作ってくれたおつまみを上機嫌にテーブルに置きながらコップを取り出す美神。

 

 窓から見える満月が綺麗なので、静かにあれでも見上げながら飲もう。ならば、洋酒よりも日本酒の方が雰囲気的に良いわよね、と鼻歌交じりにグラスに氷を落とした。

 

 人工幽霊に頼んで電気を落とす。

 

 真っ暗な部屋のソファーに腰掛ければ、ちょうど月が窓枠に切り取られて絵画のようにも見えた。

 

「あまり飲み過ぎないで下さいねー」

 

「分かってるー。おキヌちゃんも、偶にはどう? 横島君も居ないから安心だし」

 

 未成年に飲酒を勧める美神の言葉に軽く遠慮の言葉を返しながら、後半部分に首を捻る。

 

 聞き返しても軽く誤魔化されてしまったので、大した事ではないのかな、と自分を納得させながら部屋のドアを開けたおキヌの耳に、事務所の中に響き渡る電話のベルの音が届いた。

 

 電話の所までスリッパの音を立てながら駆けて行けば、ちょうど、不機嫌そうな表情の美神が受話器を持ち上げた所に遭う。

 

 あの表情だと断っちゃうかもしれないなー、と思いながら歩みを遅くして近づいていけば、受話器の向こうから微かに聞こえるのは男性の声。

 

 何度か直接聞いたその声は、オカルトGメンと呼ばれる国際的な対霊機関に勤める美神の兄のような存在の声だった。 

 

「西条さんからですか?」

 

「ええ。それで、西条さん、詳しく聞かせてくれるかしら?」

 

 美神の顔には先程までの不機嫌な表情は既に無い。

 

 一流のGSとして名を馳せる、GS美神令子の真剣な表情に話し掛けるのを躊躇うおキヌの前で、美神は何度か頷くと厳しい顔のまま受話器を置いた。

 

「・・・どうしたんですか?」

 

「詳しい話は明日直接此処に来てから、って事だけど・・・」

 

 顎に手を当てて考える美神の態度に、おキヌは何となく不安を感じてしまう。

 

 それを見て取ったのか、美神はおキヌに笑いかけると手招きしながら応接室へと戻っていった。

 

 気を利かせた人工幽霊によって明るさを取り戻した応接室のテーブルには、何時の間にか大き目の氷の入ったグラスとオレンジジュースの瓶が一本。

 

 人工幽霊にお礼を言いながら、ソファーに腰掛けた美神の反対側のソファーに座る。

 

「お兄ちゃ――西条さんの知り合いに、ヨーロッパで魔術を学んだ魔女が居るらしいのよ」

 

「へぇ・・・魔女って言うと、エミさんみたいな黒魔術関係の人ですか?」

 

 さあ? と言ってグラスを傾ける美神の顔には、少しだけ不満そうな色がある。

 

 兄弟に知らない異性の友人がいるからかな、と口には出さずにグラスを傾けたおキヌは、美神が続きを言い出すのをゆっくりと待った。

 

 溶けた氷が、グラスの中で心地良い音を立てる。

 

 美神のグラスの中身が空になったのを見て、おキヌは傍らに置いてあった小さな瓶の中身を新たに氷の上から注いだ。

 

「・・・ふぅ、ありがと。それで、何を思ったか魔界と空間を繋いで、そこに自宅を置いてたらしいんだけど・・・」

 

「凄いんですか?」

 

「ま、只者じゃないわね」

 

 良く分からない、と言った感じに小首を傾げるおキヌに苦笑いを浮かべながら、もう少しすれば六道女学院でも習うわよ、と返しておく。

 

 まだ少し温いアルコールが落ち着くのを待つ間に、西条からの話を伝えておこう。

 

「所が、こっちに――日本にお店を移すらしくて、その調整をしてたらしいんだけど・・・その隙を突かれたらしいわ」

 

「・・・ええと、誰にですか?」

 

 美神がグラスをゆっくりと回す。

 

 その手の中で、氷とガラスがぶつかって、硬い音を立てた。

 

「・・・魔族、らしいわね」

 

「ええっ! あいたっ!?」

 

 思わず立ち上がった瞬間にテーブルで膝を打ってしまい、涙目で蹲るおキヌの耳に笑いを堪える美神の姿が映る。

 

「う~もうっ、美神さん!」

 

「くすくす・・・ごめんごめん。ま、正式に依頼を受けた訳じゃないし、今は西条さんとその魔女が走り回ってる最中だから、そんなに心配するような状況じゃないわね」

 

 そう言って、グラスの中身を一息に呷る。

 

 コトン、とテーブルの上に置かれたグラスが音を立てた。

 

 

「さ、もう寝なさい。明日も学校でしょ?」

 

 促した美神の言葉に従い、まだ少し恨みがましい視線を向けながらおキヌは今度はぶつからないようにソファーから立ち上がる。

 

 そして、おやすみなさい、と言って歩き出そうとした所で、一人の半人狼の顔が思い浮かんだ。

 

「横島さん、大丈夫でしょうか・・・」

 

「・・・さ、流石に大丈夫だと思うけど」

 

 美神の脳裏に浮かんだのは、中世ヨーロッパでアンドロイドが美神に言った一言。

 

――放って置いても、向こうからトラブルが寄ってくる。

 

「ま、まさかねぇ・・・」

 

「ま、まさかですよねぇ・・・」

 

 暫し、事務所に乾いた笑い声が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、そこの貴方」

 

「はい? ってうわぉ」

 

 アパートを目前にした忠夫の斜め上から声が掛けられた。

 

 振り仰いだ忠夫の目に写りこんだのは、綺麗に切り揃えられた短めの髪の――

 

 

――触覚と、バイザーのような物を付けた、空に浮かぶ一人の女性。

 

 

 ばさり、と音を立てて、忠夫の持っていたビニール袋がアスファルトを叩いた。

 

 月を背景に背負い浮かぶ彼女は、まるで彼女自身が光っているようにも見えた。

 

 そして、両手を広げ、まるでこちらを受け止めるように、妖艶な笑みを浮かべ――

 

「何か、叶えたい願いは無いかしら? 貴方の魂の代わりに、3つだけそれを――あれ、3つで良かったんだっけ? ちょ、ちょっと待ってね・・・ええと、確か此処にカンペが」

 

 出だしで台無しだった。

 


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