疲れた雰囲気の漂っていたその空間は、さっきまでのそれを忘れたかのように緊張感で満たされている。
生徒達の誰もが黒板を注視し、板書される一言一句を見落とすまいとペンを走らせ、あるいはこれまたピアノ線のように張り詰めた教師の声を全て留めようと全神経を集中させている。
例外は、その教室の後方に準備されたパイプ椅子に座る、足を組んでその膝の上で腕を組んでいるスーツ姿の女性と。
(見られている・・・! ミスったら死・・・! 死にたくねぇぇぇっ?! そんな刺し殺すような視線で見んといてー!)
その女性の視界の中心で、冷や汗を滝のように流す一人の男子生徒くらいであろう。
後方に意識の全てを割り振りながら、時折カタカタと貧乏揺すり――いや、緊張による震えを止められずにいる忠夫は、今ひたすらに精神力を削られている所である。
教壇に立つ教師、これまたスーツ姿に眼鏡をかけた愛子もそれに気付いてはいるが、授業参観を受けている生徒の反応なんてこんなものだろう、と割り切って流している。
本音の所では触らぬ神に祟り無し、なのであろうが。
教室を満たす緊張は、時を追うごとに高まりつつある。
ニトロで満たされつつある空間を、誰もが――百合子以外の誰もが願いつつも、はっきりいって怖すぎで動けない。
後方の女帝が何か動くたびに、教室中に反応が発生するほどに、それは皆の共通認識である。
今も百合子が軽く腕を持ち上げ、その手に巻いた細い皮製のベルトで固定された腕時計を覗き込んでいるだけであるにもかかわらず、教師の声は一瞬止まり、生徒達の意識も確実に半分以上が向けられている。
それを何事も無いように受け流し、彼女はゆっくりと手を上げた。
「・・・先生? ちょっと良いかしら」
「はっ、はいぃぃっ?!」
腕の内側に巻いた時計を指差し、軽く笑顔を見せながら時計の盤面を二、三度叩く。
「その時計、壊れてますわ。もう終了の時刻の筈ですよ?」
「え、あ、しまっ――そ、そうですか?」
慌てたように教室の隅に掛かった時計を見上げ、立ち上がった百合子の顔を動揺を隠し切れない様子で見る。
その視線も、前後の繋がりが不自然な愛子の台詞も、訝しげにこちらの腕時計を見ている忠夫の顔も、教室中の生徒達から収束する視線もそ知らぬげに、百合子は少しばかり呆れ気味に。
「こう見えても元会社員ですから、ここに――」
とんとん、と自分の頭、こめかみの辺りを人差し指で悪戯っぽい笑顔で軽く叩く。
「コンマ以下まで計れる時計が備わってますの」
「は、はぁ。・・・そ、それじゃあ、この授業は此処までにします。皆さん、次の授業の準備を忘れないで下さいね」
それだけ言い残すと、怯えたように素早い行動で教科書やらチョークやらを片付けると、そそくさと教室を出て行く愛子。
その瞬間、生徒達は骨が無くなりでもしたかのように脱力すると、皆揃って机の上に突っ伏した。
「忠夫、ちょっと来なさい」
「ぐえっ?!」
そんな中、気配すら半人狼に悟らせず、無音で忠夫の襟首を掴んだ百合子が後方の扉を開けて教室を出て行く。
いともあっさりとした退場に、教室の面々も呆気に取られて言葉も無い。
一部の女子生徒達は立ちはだかる壁の巨大さに闘志を燃やしたり頭を抱えていたり真っ白になっていたりする物の、殆どの生徒達は、疲れきった体と精神を労わる事に余念が無い。
男子生徒達は男子生徒達で美人教師の到来、と吼え猛りたいところだが、休息を求める若い肉体が魂の叫びに答えたくても答えられずにダウン中。
人外ということもあり、日頃の生活のせいもあってか体力、精神力共にタフなタイガーとピートが、疲れた様子を見せながらも顔を突き合わせて小声で相談し始めたのは、そんな教室の片隅だった。
「タイガー・・・どう思う?」
「世が世ならどっかで初の女性大統領にでもなっていたかもしれませんノー」
「全く持って同感だけどそっちじゃなくて」
冷や汗を零したのは、その映像がくっきりと脳裏に浮かんだせいだが現在は関係無いのでスルーする。
ぱたぱたと手の平を振るピートの前で、タイガーは顎を押さえながら難しい表情を作る。
ピートの言いたい事は何となく分かる。
おかしいと思いつつも、何がおかしいのかが分からない。
そんな違和感が、何時までも消えずに思考の中をぐるぐると巡っているのだ。
顔を上げればピートもまた真剣な表情で窓の外やクラスメート達を見ながら考え込んでいる。
たった一時間の授業で疲れきった様子の級友達や、奇妙な色に染まった外を覗き見る度に何か危機感が込み上げるも、次の瞬間にはその思考に靄が掛かったように消えていく。
頭の中の靄を払おうと思考を、注視を繰り返す2人の視界が、授業が始まる前のように蛍光灯が瞬いた事で点滅した。
「――この電灯も寿命かなぁ」
「――放課後にでも新しい蛍光灯を貰ってきた方が良いですカノー」
朗らかな笑顔で交わされる会話。
互いに凝った肩を揉んだり首を捻ったりしながらの、ただの雑談。
「そうだね。教会の電気も何とかしないとなぁ」
「また止められたんですカイノー?」
「先生がねぇ・・・この前の依頼の報酬、全部落としたらしくて」
不思議な事など何も無い。
不可解な事など何も無い。
不自然な事など何も無い。
「ま、僕は里帰りしてたから知らないけど・・・多分、必要な人にあげたんじゃないかな」
「実に唐巣神父サンらしいですジャー」
故に、疑問は何も無い――
「なんでじゃーっ?!」
「五月蝿い」
鈍い音を立てて忠夫の顔面がリノリウム張りの廊下に突き刺さる。
次の瞬間には何事も無かったかのように体を起こし、己を叩き伏せた百合子を抗議の意味をふんだんに塗した視線で見返すも、圧倒的な圧力であっさりとおなかを見せて降伏した。
――敵は強大也! 勝算はゼロ! 全くのゼロです!
――ええいっ?! こうなれば降伏して反撃の時を待つのだ! チャンスは何時か来る! 今は雌伏の時! 総員、あたら命を無駄にするな!
――艦長ぉぉぉっ!!
「り、理由をお聞かせ願えますでしょうか?!」
「私に勝ちたかったら後20年は人生経験を積みなさい。決起するならそれからね」
「俺の脳内艦橋を読まないでぐぇっ?!」
看破された思考もありがたいアドバイスも、踏みつけられた後頭部の痛みで吹っ飛びそうである。
脳内戦艦の第三艦橋辺りが溶けるのをイメージしながらも、鼻を摘んでの気合で止まった流血を心の支えに立ち上がる。
――まだです! まだやれますよ!
――ようし! 機関全速! 日の昇る方角へ舵を向けろっ!
「2度ネタは死に値するわね」
「そう思うなら2回も後頭部踏まんでもえーやんかー・・・」
ややくぐもった声ながらも、顔面が床に密着した状態ではっきりと喋れる辺り無意味に小器用な男である。
鼻を摘んで気合一発の止血は、2度目が失敗してしまうので自然治癒に任せながら立ち上がる。
半眼でこちらを見てくる叔母に、誤魔化すような笑顔を向けると溜め息一つ付かれたが、ともかく話は先に進むようである。
「・・・分かってるわよね?」
「勿論っ! 教師と生徒が駄目なら卒業を待ってか・・・ら・・・」
咽元に当てられた鋼の冷たい感触に両手を上げて降参しながら、忠夫は百合子の殺気を何とかしてくれと斬ろうとした神様に縋ってみたりするのだった。
「ええと、時間と外、ですよね?」
ふぅ、と溜め息を付いた百合子が手首を返すと、持っていた凶悪なフォルムのナイフがあっさりとその姿を消す。
「他の皆は怪しいと思っていないみたいね?」
「・・・俺も百合子さんに蹴り出されるまでは不自然に思わなかったし」
おそらく、と百合子は続ける。
教室の皆が不自然に思っていない事、教室から蹴り出された忠夫がおかしいと思った事、そして、後から教室に侵入した百合子が騙されていない事。
何より、廊下に出たにもかかわらず、窓の外の光景に変化が無い事。
「入り口は教室の扉、とは言え、一方通行らしいわね」
「で、教室ごと取り込まれたのが俺たちで――」
「なんらかの方法で、一辺に騙した、と。GSの助手やってんでしょ? 何か良い手は無いの?」
「・・・あー、すんまっせん」
「ったく、知識と知恵は武器でしょうが」
「せ、説教はそのくらいで勘弁を・・・えっと、それから、維持できるのは教室内だけ――いや、限定するのは早いか。それより、出口と入り口がイコールじゃないって方が厄介・・・」
ぶつぶつと呟き始めた忠夫を見ながら、少々不満の残った、それでもどこか頼もしげな目で忠夫を見つめる百合子。
それは、やはり成長した息子を見る母の目、と言うのが一番近いのだろう。
「・・・でもって、校内が再現されてるみたいだから――全部危ないっ?」
「ま、ちょっと遅いけど間に合ったみたいだから良しとしましょうか」
そう言って、百合子は顔を跳ね上げた忠夫の襟首を掴み上げる。
その視界の先に写るのは、廊下の向こうからどんどんと連鎖的に点滅を繰り返しながら近づいてくる蛍光灯。
「下校までは待ってあげる、わ、よっ!」
残り数メートル手前の蛍光灯が点滅した瞬間、思い切り掴んだ忠夫を放り投げた。
ふわり、と浮かんだ瞬間に受身を取ろうと考えた忠夫の視界を、点滅する蛍光灯が埋め尽くし。
「――あだぁっ?!」
気が付いたら、受身も取らずに後頭部を地面に叩きつけていた。
「――っととっ」
「うわっ?!」
たたらを踏んだ百合子の目の前には、驚いた様子で立ちすくむ数人の教師達。
窓の外では先程よりも傾いた太陽が、それでも燦々と光を降り注がせている。
止まっていた腕時計の針は、今は再び何時ものように時を刻み始めていた。
「・・・やっぱりそう来るわよねー」
「よ、横島君のお母さん?! 今、何処から――」
駆け寄ってくる教師達を見ながら、百合子は営業スマイルを浮かべ、誤魔化しと時間稼ぎに入った。
下校時刻までには、しっかりと帰ってくるだろうと、心のどこかで確信しながら。
「すんませーん! ちょっと手強い相手だったんで遅くなりましたー!」
「何がですかノー」
「おっきい奴が」
教室中から教科書やら文房具やら机やらが飛んで来た。
きっちり全弾直撃を受けて扉の向こうで沈んだ忠夫を、少々顔を赤らめた女子生徒達と義憤に燃える男子生徒達が睨みつけてくる。
「いきなりセクハラ発言をかまさないでよね!」
「手前えぇぇぇ、横島! 折角新しい美人の先生が来たってのにこのクラスの恥を晒しやがって!」
自分の上に積み重なった机と教科書類の隙間から覗いてみれば、やはり教壇に立つのは――スーツ姿、眼鏡をかけた女教師然とした愛子。
ともかく、先ずは疑われないように!
「それはともかく先生改めて嫁に来ないかー!!」
ジャンプ一閃、飛び掛る。
後方で重力を思い出したように積み重なった諸々が、忠夫の抜けた空間を埋めるように崩れ出しているが既に意識の隅にさえ無い。
「きょ、教師と生徒だから駄目よっ!!」
「そんな事言わんとー! さあさあさあさあさあっ!!」
「え、その、あの、だって、私、まだ――」
掴んだ両手を離さないように、しかし痛くないように絶妙の力加減で握り締めながら迫る。
動揺しているようであるが、物凄く嫌がって居る訳では無い。
――押せば行けるか?
当初の目的をほぼ忘れつつある忠夫の背中に、悪寒がマーチを奏でながら行進した。
「・・・横島君? 授業の邪魔なんだけど」
「・・・さっき男子の中で協定が結ばれてなぁ。抜け駆けした奴はリンチなんだ、これが」
背後なので見えないが、後方で何かぐつぐつと煮える音と怪しい呪文が聞こえ出した。
人狼の本能が危険を察知したので、脱出を敢行。
無論、チャンスを逃すつもりなど欠片も無い忠夫であるので。
「とうっ!」
「ちっ! 逃げたわよっ!」
「しかも先生を攫っていきやがった! 追えー! 奴を縛って重石をつけて、東京湾に沈めてやれー!」
出入り口を塞ぐ机を蹴倒し、愛子を抱えて全速力で駆け出す。
腕の中の彼女は状況を把握しきれずに疑問と動揺で一杯の表情であるが・・・それもまた、良し!
「と言う訳で駆け落ちじゃー!」
「わ、私の意思はー?!」
無視!
「ちぃっ! しつこい!」
「落ちろー!」
「待ちなさいっ!」
半分とは言え人狼である忠夫が全速力で廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、時には飛び跳ねるように階下に下っているにもかかわらず、曲がり角を曲がったり踊り場から廊下に飛び出すたびにそこには計ったようにクラスメート達が待ち受けている。
しかし、慣性ドリフトやフリーフォールを繰り返す度にお姫様抱っこされている愛子が悲鳴を上げてしっかりと抱きついてくるので、ちょっとの我欲に惑わされて駆ける速度も五割増である忠夫を捕獲するには至らない。
「うわははははー! 今、俺は星を取った配管工よりも早いぞー!」
「きゃぁぁぁっ?!」
ロッカーで作られたバリケードも何のその、蹴倒し飛び越え踏み砕く。
まさに無敵モードで快進撃を続ける忠夫を止める者は居ないのか、と思われたその瞬間。
「まちんシャイ!」
「そこまでです!」
廊下を塞ぐように、巨体と金髪が行く手に立ちはだかる。
「ピート・・・タイガー・・・何のつもりだ?」
「ふ、言わずと知れた事ジャー」
「乱暴狼藉も此処までです!」
二人は共に構えを取り、忠夫に攫われた愛子を助けようと霊力を漲らせる。
しかし、愛子の柔らかさと暖かさと良い香りに惑わされた忠夫に怖い物など無い。
例え、目の前を塞ぐのが友であっても、今は――
「目先の嫁の為なら全力以上を発揮できるのが俺じゃあぁぁっ!」
呼応するように霊力をぶん回す。
腕の中の愛子の体が緊張したように固まったが、直ぐに片付けてしまえば問題無しっ!
「あっ! 一文字さんが暴漢にっ!」
「何ぃぃぃっ?! 魔理サンに傷一つでもつけたら「隙ありっ!」ジャー?!」
いともあっさり余所見をしてくれたタイガーの後頭部に、久々出番の唐巣神父特製聖水を塗した石が突き刺さる。
悲鳴を上げながら、それでもタイガーは満足げに。
(あそこで振り向けないような漢になりたくないんジャー・・・)
笑顔で、きらきらと涙を流しながら崩れ落ちた。
「タイガァァァッ!?」
「敵ながら天晴れっ! タイガー、お前も漢だ!!」
「くっ、ならば僕が!」
崩れ落ちたタイガーに賞賛の声を上げた忠夫は、両手に霊波砲の光を灯したピートの声に立てた人差し指を軽くニ、三度振って余裕の態。
「ピィィィト。大変だよなぁ、吸血鬼ってさあぁ」
「な、何を?」
にやりと笑って懐に手を突っ込んだ忠夫を警戒しながら、ピートは両手に霊力を更につぎ込んで行く。
直撃すれば愛子ごとダメージを負うと言うのは既に眼中に無かったり。
「ここは学校なんだ・・・つまり、家庭科室とかあるんだよなぁ・・・」
「ま、まさかっ?!」
「喰らえ、ガーリックパウダー爆弾っ!」
その言葉の内容に思わず防御体勢――鼻を摘むだけだが――を取りながら、顔を庇うように両手を上げて後方に飛び退る。
しかし、ニンニクの粉末の代わりに飛んできたのは。
「人狼サイクロンマグナムっ!」
「どわぁぁっ?!」
遠慮容赦の無いボディーブロー。
直撃を喰らったピートは後方のロッカーに激突し、それに埋もれるように消えていった。
「ふっ! この犬飼忠夫! 嫁の為なら修羅になる!」
「ちょ、一寸待ちなさーい! 友達じゃなかったのー?!」
「戦場に情けは無用っ!」
そう言い捨てて駆け出す忠夫。
ピートとタイガーが発見されるまで、もう少々時間が必要のようである。
「だっ、大体、何でこんな事をするのよっ!」
「何でって、そりゃ嫁に来るって言ったからっす!」
「言ってない! 一回も言ってないっ!!」
「・・・あれ?」
暫し全力で、しかし息も乱さず駆けていた忠夫が急ブレーキをかけた。
そして、中を睨んで思考の海に浸り――。
あ、と一言呟き漸く愛子をゆっくりと降ろす。
腰が抜けたのか、廊下に座り込んだ愛子の隣で忠夫は頭を抱えると。
「・・・当初の目的、忘れとったぁぁぁ」
そう呟きながら、今までの行動を思い返して「やってもーた」と後悔したのだった。
「・・・えっと、愛子先生?」
「な、何ですか?」
かなり長い間落ち込んでいた忠夫であったが、幸運にも――かどうかは定かではないが――クラスメート達の襲撃を受ける事無く、漸く、といった様子で立ち上がった。
隣に座り込みながらこちらを伺っていた愛子に声をかければ、愛子もまた立ち上がりながら、少々どもりながらだが聞き返してきた。
「――なんで、先生になろうとしたんっすか?」
「え・・・」
警戒心も露に身構えていた愛子は、そんな忠夫の質問にきょとんとした表情を返す。
そして、ゆっくりとその言葉を噛み砕くように沈黙し、暫しの間の後、一つ頷くと、ゆっくりと手近な教室の扉を開けて入っていった。
それを見つめる忠夫の視界に、教室の扉の中から手だけを出して招く愛子の姿が写る。
招かれるままに教室の中に入っていった忠夫は、机の上に行儀悪く腰掛けたスーツ姿の愛子を見て、なんとなく慣れた様子だな、と思う。
「問題児の悩みを聞く・・・青春よね・・・!」
小さく呟いた彼女は、嬉しげにガッツポーズを取って勢い良く机から立ち上がった。
「あのね、私、これでいいのかなって悩んでいた時に、ある人に出会ったの」
その人は、と言った後、少々小さな声で、照れたように言葉を濁しながら。
「えっと、その時、私は悪い子・・・不良って言ってもいいのかしら。そんなだったんだけどね」
そんな彼女を叱りつけ、生徒として暮らしていた彼女に、一つの道を示してくれたのだと。
「ちょっと、怖かったけどね?」
そう語る彼女の目には、恐怖の色は無く。
むしろ、尊敬の色が濃い。
その人は、纏まったお金が必要だろうから、と見知らぬ彼女に大金を渡し、困らせていた人達に一緒に謝ってくれ、そして色々と手を回してこの学校を紹介してくれたのだと。
――これは、言わない事だが。
――どうやら、そう決意した事で彼女はちょっと成長したようだ。
――先生として、生徒に接する為に、彼女は「こうなりたい」と思い、そして彼女は、その存在はその願いに答え、元々の本体であった机から少しだけ「卒業」させてくれたのだ。
――故に、今此処に居るのは、「机妖怪」でありながら、「先生になりたいと願う机妖怪」なのだ。
今、彼女の本体は、本来の学校の倉庫でひっそりとその存在を主張している。
「だから、生徒としてじゃなくて、私もあんな人になりたいな、って思ったの。先生に、人を導いて上げられるような人になりたいな、って」
その時の事を思い出したのか、微笑を浮かべる愛子の顔は服や眼鏡によって多少誤魔化されてはいるが、確かにまだ高校生と言っても十分に通じるものでもあり。
「だから、先生になりたいって、思ったのよ」
「だからって、生徒を騙して無理矢理勉強させたって駄目っしょ」
「――っ?!」
微笑が消え、緊張がその表情を覆い隠す。
「ショック療法・・・違うような気もするけど、そんな感じっす。百合子さんのお陰っすけどねー」
しかし、対照的に忠夫は笑みを崩さない。
先程見せた霊力を放つことも無く、何もしないと言わんばかりに椅子を引き出し、腰掛ける。
「よっ、と。授業中の皆の顔、見てましたか? 疲れきってて、殆ど耳に入ってない」
「・・・え」
「予想外だからって百合子さんを追い出して、無かった事にしてやり直して――それじゃ、駄目なんじゃないかなーって」
はっとしたように口元に手を当て、後退る。
がたん、と足に当たった椅子が乾いた音を立てた。
「わた、私、だって・・・」
「ま、気楽な学生の戯言っすけどね。生徒の事を考えてちゃんと休憩したり、親が授業参観とかいきなり言い出してもおどおどせずにしっかりと対応したり。――『あの人』は、そんな人じゃないんっすか?」
「・・・あ」
口元に当てた手が、ゆっくりと降りる。
俯いた表情は前髪に隠れて見えないが、多分、眼鏡は涙で濡れて居る事だろう。
今にも土下座したい気分ではあるが、もう一踏ん張り。
それが、必要だろうから。
「だから――頑張ってください!」
「えっ?」
「『これまで』が駄目でも、『これから』がありますって! なんぼでも取り返しは効きます! 美人の女教師! 最高の響きじゃないっすか! 皆に謝って、もう一回、ちゃんとやりましょうって!」
顔を上げた愛子の瞳は、溢れた涙で濡れている。
それでも、驚いた顔の裏側には、まだ、やる気が残っている筈。
だから、忠夫は手を伸ばしながら重ねて言う。
「頑張りましょ! 『愛子先生』!!」
「・・・うん。頑張る。謝って、頼み込んで――もう一回、頑張るから」
微笑を交わす二人。
ゆっくりと、愛子の手が忠夫の手に重なった。
「御免なさいっ!!」
生徒達を戻し、教室を開放し、先ず愛子がやった事は、教室の前に集まっていた教師達に頭を下げる事だった。
難しい顔をする教師達に説明をし、その後、何が起こったのか分からない、と言う表情で眺めていた生徒達にも謝罪と説明をする。
「学校妖怪、ねぇ・・・。おい、誰か校長先生に連絡来てないか確認とってくれー!」
教師の一人が駆け出し、残った者はそれを待ってから、とばかりに沈黙した。
外は既に日も沈み始め、校庭は部活に汗を流す者達で溢れている。
しかし、横島も、ピートも、タイガーも、生徒達も、誰も帰ろうとはしていない。
「大丈夫かなぁ。心配やなぁ」
「ま、大丈夫でしょ?」
挙動不審に落ち着かない様子の忠夫の頭を、待ちくたびれたと笑いながら百合子が叩く。
その指が指す方向を見れば、こちらに駆けてくる老年一歩手前と言った感じの男性の姿。
呼びに行った教師と共に駆けてきたその男性、校長は、荒れた息を何とか落ち着かせると、空咳をひとつ打って重々しい口調で話し掛けた。
「――話は聞いている。どうやら、双方に手違いがあったようだ」
「はぁっ?!」
「先ず、愛子君」
「は、はいっ!」
俯いた表情で肩を震わせていた愛子が、飛び跳ねるようにして顔を上げた。
見えたのは、苦い顔の校長。
なんと言われるのかと緊張する彼女に、その言葉はかけられた。
「この学校に、『愛子』という名の教諭は居ない」
溜め息混じりに吐かれた言葉に肩を落とす愛子。
そして、その後方で、何処から取り出したのやらチェーンソーやら釘バットやら鎖チェーン付きのヨーヨーやらを取り出す生徒達。
それを冷や汗交じりに眺めながら、校長は慌てて続きを述べた。
「そして、ようこそこの学校へ。転校生の「愛子」さん」
「はへ?」
「教師となるには教職免許が必要なのだよ。そしてこの国は法治国家だ。・・・唐巣さんは説明してなかったのかね?」
呆然と、妙な声を上げた愛子の顔にだらだらと脂汗が流れ始める。
そう言えば、ちゃんと手順を踏む事も必要なのだと、あのちょっと額が広い男性は言っていたような・・・。
「・・・てへ」
『コラァァァァァッ?!』
誤魔化すように舌を出した愛子を、生徒達が揉みくちゃにする。
慌てて逃げ出しながら、それでも笑顔のままの愛子は。
「・・・ありがと」
「どーいたしまして。お礼は嫁に来てくれるだけでOK!」
すれ違いざまに忠夫にウインク一つ残して、僅かに頬を染めながら隣を駆け抜けていったのだった。
「やれやれ。んじゃ、私も帰るわね」
「え、もう?」
校門を出て数歩目、立ち止まった百合子は忠夫に言った。
肩と目頭を揉みながら、あっさりと踵を返して颯爽と歩いて行く。
「ま、色々見れたしね。人を見るのにトラブルって言うのは最適なのよ」
そう言って、ひらひらと手を振りながら歩いて行く。
そんなもんかなー、と首を捻った忠夫は、最後に一つだけ聞いて見たい事があったのを思い出した。
「そー言えばさー! 本当にコンマ以下まで時間分かるのー?!」
振り向いた百合子は、軽く鼻を鳴らして。
「キャリアウーマンにそんな技術が要る訳無いじゃない。競馬のジョッキーなら別だけどねー」
「んじゃ、ハッタリ?」
「そ」
呆れた顔の忠夫の耳に、付け加えるように呟かれた言葉が聞こえてきた。
「全世界の現地時間を、時差含めて秒単位で把握できる程度あれば十分よ」
そう言い残して、いろいろな意味で強烈な叔母は、叔父の所へと戻っていったのだった。
その後帰宅した忠夫の前に、マリアとその娘達が三つ指ついて出迎えしてたり、百合子に紹介してくれ、と言われて思わず「嫁ー!」と言いながら飛び掛ったところに寝起きの悪いメドーサの攻撃が直撃したり、気絶から覚醒したら覚醒したで日が昇り始めてたり、メドーサに散々マリアが長女として迎えようとしただの、ほんの少しだけ満更でも無さそうな表情で愚痴られたりした物の。
今日も今日とて、忠夫は朝から増えた食い扶持を稼ぐ為に、学校に行かず狩りに出かけるのだった。
――再襲来も、時間の問題かもしれない。