月に吼える   作:maisen

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第四拾伍話。

――昼休み――

 

「タイガーのくせにぃぃっ!! ダイガーのぐぜにぃぃぃぃぃっ!!」

 

「け、血涙っ?!」

 

「そんなに悔しがる事無いと思いますがノー」

 

 もっしゃもっしゃと、巨大な、それこそ百科事典2冊サイズはありそうなお弁当箱の中身を幸せそうに頬張るタイガーを、忠夫の目から溢れ出す赤い液体によって染まった視界が映し出す。

 

 7割が白米で占められ、残りの3割にはやや黒く煤けた卵焼きや少々塩気の強すぎるウインナー等々、その隣で不恰好ながらも切り分けられたトマトやキャベツが彩りを添える。

 

 破けて中身が少し零れたコロッケを箸で摘み上げながら、タイガーの目じりは限界点を超えて下がりつづけ、そしてその油っこい揚げ物を宝物でも扱うように持ち上げ。

 

「ああ、幸せジャー・・・」

 

「ふぬぉぉぉぉっ!」

 

「耳血っ?!」

 

 ぷしゅー、と間の抜けた音を立てながら忠夫の耳から噴出する血液。

 

 タイガーの幸せに塗れた台詞を、忠夫の聴覚が拒否したらしい。

 

 床に倒れてじたばたともがく忠夫を尻目に、タイガーは今日も朝早くから手作り弁当を届けてくれた一文字魔理に感謝を捧げつつ、悪いと思いながらも優越感に浸り続けるのであった。

 

「横島サンも早く弁当を作ってくれるような人が出来るといいですノー」

 

「ぎゃぁぁぁっ?! 斬るっ! 武士の情け、離せ、離してくれピィィィィトォォォォッ!!」

 

「落ち着いて下さいぃぃっ!! タイガーも煽らないでくれぇぇっ!!」

 

 教室であるにも関らず、これまでにない高出力の霊波刀を展開して、哀れむような視線を向けてくるタイガーにその切っ先を向ける。

 

 羽交い絞めにして忠夫を抑えながら、ピートもまた、混乱と喧騒の真っ只中で健闘中。

 

 そんな彼らに、或いは鬱陶しげに、或いは嫉妬の涙を零しながら、或いは周りがそうするので何となく、てきぱきと食事を片付けたクラスメート達は立ち上がり、「せーの」と掛け声一つで男女問わず椅子を持ち上げ。

 

『食事中はお静かにっ!!』

 

 掛け声一つで投げつける。

 

 しかし、愛に目覚めた虎と、嫉妬に狂う狼は伊達じゃない。

 

「「ピート(サン)バリアー!」」

 

「なんで僕がーっ!! ぐわあああああっ!」

 

 生贄の羊を差し出しながら、尊い犠牲の末、辛くも窮地を脱出することに成功したのだった。

 

「ピートサンじゃ体格が違いすぎて隠れられんジャー!! んごっ?!」

 

「よーしっ! 敵は残り一人だ、次弾装填ーっ!!」

 

「なんのっ、このバリアーはリサイクル可能だぜっ!」

 

 バリアー(小)とバリアー(大)が抗議の唸り声を上げたとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、そっち椅子は足りてるかー?」

 

「えっと、後2個お願いー!」

 

「オッケー。おら、横島ー、早く持ってってくれよー」

 

「何で俺が・・・」

 

 昼休みも後僅か。

 

 あの後も幾度となく攻め立てる物量に抗し切れなかった2枚のバリアーは、保健委員達によってえっちらおっちらと運搬済み。

 

 無傷でそれを感謝の涙で視界を塞がれながら見送った忠夫は、3秒だけ黙祷を送ってそのまま教室整理に駆り出された。

 

 なにせ一応半人狼。

 

 肉体労働ならばお手の物、そのどちらかといえば細身の身体に、どうしてこれだけの運搬能力があるのだろうか、と首を捻られつつも「まぁ、横島だしなー」で片付けられる辺りがなんともはや。

 

 ともあれ、がたごとと騒音を立てながら、教室の中はあっという間に元通りになって行く。

 

 背中に重ねた机を5つ、両手に椅子を鈴のようにぶら下げながらお呼びのかかった方へと駆け回る忠夫も、手慣れた様子で受け取っては並べて行くクラスメート達も、日頃の行動が良く分かるほどの手際の良さではあった。

 

「これで最後、だよな?」

 

「ん、完璧ね」

 

「うー、腹減ったー。全く、飯ぐらい食ってから肉体労働に呼べっちゅーねん」

 

 教科書やらノートやらが散らばっていたのも元の持ち主の所へと無事帰り、肩を回したり首を捻ったりしているクラスメート達の間を通り、自分の席へと着席した忠夫が、これだけは死守した鞄を取り出す。

 

「何言ってるのよ。大体原因は何時も貴方達でしょーに」

 

「そうそ。タイガーもピートも2人だけならそんなに騒がしくないのに、お前が来ると何時もあーだからな」

 

 鞄の中からごそごそと、変わり栄えのしない干し肉の塊でなく――周りからたまに恵んでもらったりしているが――綺麗に布で包まれた弁当箱を取り出した忠夫を横目に見ながらクラスメートが苦笑いを浮かべる。

 

「俺が悪いっちゅーんかっ?! おおっ?! 文句があるなら嫁に来いっ!」

 

「だが断るわっ!」

 

「即答っ?!」

 

 ひゅるりらと風が背中を撫でる感触を感じながら、さめざめと涙を流した忠夫が弁当箱の布を解いて行く。

 

 その背後でこの年代なら当然であろうが、反射的に求婚を断った少女がほんの少しだけ残念そうな表情をしていた事も、それを回りの少女たちが横目で見ていたりするのも非常に残念ながら視界の外である。

 

 弁当箱の蓋を開き、中身が少し片寄ってしまっていた事に心の中で百合子に謝りながら箸を取る。

 

 豪華でもないし、特に取り立てて何がどう、とも言えないその中身は一言で言うなら普通、であろう。

 

 だが、忠夫の鼻は、その蓋を開いた時から大きくなった匂いに、はっきりと何かを感じていた。

 

 感情の無い、と言うよりもまるで表情が抜け落ちたように、力の抜けた顔で出汁巻き卵を摘み上げる。

 

 無言でそれを口に含んだ忠夫の胸に、暖かいとも、寂しいとも言える感情が通り抜けていった。

 

「・・・美味い、なぁ」

 

 一言だけ呟くと、無言で、大事そうに箸を動かす。

 

 次々と口の中を満たす料理のあちらこちらに、その味は潜んでいた。

 

 僅かに違い、しかし確かに違う。

 

 確かに違い、しかし、どこか同じ。

 

 どこか同じで、でも、違う。

 

 ――久し振りに食べたような、それでも初めて食べたような。

 

 小さい頃に亡くした、もう食べる事の出来ないと思っていた、それは確かに――

 

「・・・ご馳走様でござる」

 

 ぱん、と軽い音を立てて両手を顔の前で打ち合わせる。

 

 久し振りの、食後にきちんと手を合わせて言ったその言葉。

 

 つまり、母の躾は、忠夫の根っこにしっかり根付いているという事なのだろう。

 

 ちかちかと、不意に瞬いた教室の灯りの中、タイガーとピートが保険医に追い立てられるように教室の中に蹴りこまれたのが視界の端に写った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――昼休み終了――

 

 きーんこーんかーんこーん。

 

 重々しさの余り感じられない、電子音で奏でられた鐘の音に背中を押されるようにして生徒達が席に付く。

 

 体中から湿布の匂いをさせているタイガーとピートを鼻を摘みながら横目に見つつ、忠夫も会話を止めて自分の席に向かって歩き出した。

 

 軽い音を立てて椅子を引き、勢い良く座ると尻尾が痛かったりするので位置を調節しつつ腰掛ける。

 

 何時の間にか奇妙な色合いに染まっている窓の外を何とは無しに眺めつつ、教室の扉を開いて教師が出てくるのを待つ。

 

「・・・あれ? 先生、遅いなー」

 

「珍しいわねー。あの先生、時間にだけはものすッごく煩いのに」

 

 午後一番の始業のベルが響いたにもかかわらず、薄っぺらなドアが開く事は無い。

 

 ざわめき出した教室の中、窓の外にある校門を何となく見ていた忠夫の視界に、荒れ果てた校庭が写りこむ。

 

「・・・まぁ、いいか」

 

 何かちょっと気になるが、何故だかとても如何でも良い事のような気がしたので、教師が来ないのを良い事に机に覆い被さって睡眠を貪る体勢へと移行する。

 

 何時もの合板でできた滑らかな感触でなく、ちょっとごつごつとした感じを受けるのが不満ではあるが、とりあえず睡眠を阻害するほどではないと判断して顔を伏せた忠夫の耳に、廊下をぱたぱたと誰かが駆けて来る軽い足音が聞こえた。

 

 教室の外からは、それ以外に全く音が聞こえない為良く響いたその音に生徒達の視線が集中する。

 

 ややあって教室の扉の前で止まった足音の主は、まるで逡巡するかのように、或いは覚悟を決めるかのように暫しの間を置いた後、からり、と軽い音を立てて教室の扉を開いた。

 

「皆さん、こんにちは! 今日からこの教室の担任になった「嫁に来ないかー!!」きゃあーっ?!」

 

 元気良く緊張の多分に含まれた笑顔を浮かべながら、それでも明るい声で挨拶をしてきた、まだ着なれていないスーツに身を包む長い黒髪の同年代にさえ見える歳若いその教師の挨拶は、半分眠っていた半人狼がいきなり求婚した為中断を余儀なくされた。

 

 教室の後方で顔を伏せていた筈なのに、一瞬にして手を握ってきたその生徒は、次の瞬間に教室中から飛んで来た罵声と文房具、教科書やら辞典やら、そして一人だけ無事だった忠夫に対する恨みの篭った霊波砲やらなんやらを真横から喰らって黒板に突き刺さる。

 

 嵐のような飛来物に埋もれつつ、黒板に穴を開けたその生徒をなにやら巨大な生徒と金髪の生徒が引っ張って行くのを尻餅をつきながら眺めつつ、その2人が全くの無表情で視線も合わせずハイタッチを交わした意味も分からぬままに。

 

「あ、気にせず続きをどうぞですジャー」

 

「ほら、横島さんも大人しくしててくださいね」

 

「て、手前ら後で覚えてろよ・・・!」

 

 なにやら不穏な視線を交わす3人組の内の一人に促され、ほかの生徒達も全く気にしていないようなので顔を引きつらせつつ立ち上がり、顔にかけた眼鏡を気を取り直すように慣れない手つきで位置を調節しながら。

 

「あ、愛子です。気軽に愛子先生って呼んで下さいね?」

 

「むしろ教師と生徒よりも夫婦の付き合いを希望し・・・ま・・・御免なさい」

 

 それでも懸命に笑顔を浮かべながら自己紹介をする新任の教師に対し懲りない馬鹿に、クラスメート達の視線の集中砲火はかなりの損害を与えたようである。

 

 教室の隅でいじけ始めた忠夫を余所に、他の生徒達は興味津々と言った様子で質問を投げかける。

 

「担当の授業は何ですかー?」

 

「え、えっと、その、古典・・・とか、かな?」

 

「うおおおおおっ!! 俺、俺、古典得意です!!」

 

 教室の男子生徒たちがヒートアップ。

 

 控えめに言ってもスレンダーな美人、しかも見た目も若く新任の眼鏡を掛けた不慣れな様子の女教師という単語がクリティカルヒットしたようである。

 

「そ、そうなの?」

 

「ええっ! だから「お、俺は物凄く苦手です! 是非放課後の個人授業をー!」・・・抜かった! その手があったか!!」

 

 悔しげに机を叩きながら殺意を篭めた視線で睨む他の男子生徒を尻目に、満面の笑みを浮かべた鼻息も荒い男子生徒が立ち上がる。

 

 その瞳に浮かんだ若気の至りに引きつつも、何とか教室を落ち着かせようとした愛子に続けて掛かる声。

 

「先生ー! 彼氏とか居ますかー?」

 

「えええっ?!」

 

 教室の中ほどから女子生徒が好奇心満載で質問する。

 

 顔を赤らめながら頭を振る初々しい教師の態度に、男子生徒はガッツポーズを取り、女子生徒たちは残念そうな、しかし親しさに満ちた笑顔を浮かべて歓迎する。

 

「何か俺ら放置されてんなー」

 

「横島サンは何時もそんな行動してるから飽きられたんじゃないですカイノー。ワッシは魔理サンが居るから気にならないですジャー」

 

「僕はそんな事にあまり興味が無いですからねー」

 

「「・・・ケッ!」」

 

「ちょっと! どう言う意味ですかそれはっ!!」

 

「へーへー、モテル男は言う事が違いますねー」

 

「彼女も居ないくせにそんな事を言っても、全く説得力が無いですノー」

 

「「ぐっ・・・!」」

 

 教室の前方で起きた初々しい教師とにぎやかな生徒達による喧騒と、後方で起きた霊能力者三名による乱闘が収まるまでにはもう少々時間が必要のようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええと、2-3、2-3は、と・・・」

 

 リノリウムの床をバンプスの踵がリズム良く叩く。

 

 懐かしい、と言うよりも記憶の中でさえ遠く、むしろ阻害されるような雰囲気を感じてしまっている自分に僅かに苦笑しながら目的地を探して百合子は歩いていた。

 

 通り過ぎる教室は、空いているものもあれば黒板に向かって数式を書いている教師と、それをノートに書き写している生徒達で埋められている物もある。

 

 あるいは真面目にノートを数字と単語で埋める者がおり、またあるいは目を開いてノートに芯の出ていないシャーペンを走らせながら寝ている者も居れば、堂々と船を漕いで教師に叩き起こされている者も居る。

 

 時折、興味深げにこちらを見てくる者や隣席の者とこそこそと話しながらこちらを見てくるものも居るが、特に興味以外の視線は感じない。

 

 それでも、何となく部外者である、と強く感じてしまう事が、歳を取ったと言う事なのだろう。

 

「ま、あっち側に居た頃は私も似たようなもんだった・・・かしら?」

 

 一応切れ者のお嬢様、で鳴らしていた筈ではあるが、それでも通りすがりに見ている教室の中の光景に懐かしい物を感じるのが、遠の昔に卒業した者の感慨なのかもしれないが。

 

 くすくす、と小さな笑みを零しながら先を急ぐ。

 

 そろそろ授業も始まっている筈であるし、甥の教室も次の授業も把握してはいるが、折角の機会なのだから出来るだけ沢山見ておきたい。

 

「・・・姉さんの代わりに、ね」

 

 母としての役割を果たす事はできないけど、と心の中だけで呟きつつ、足を進めていた百合子の視界に先程次の授業の担当だから、と挨拶をしておいた教師が戸惑ったように立ちすくんでいるのが写った。

 

「・・・どうされたんですか?」

 

「ああ! 横島・・・君のお母さん。いえ、それが――」

 

 教師がドアに手を掛ける。

 

 ぐ、と力を篭め、引いたにもかかわらず。

 

「鍵でも掛かってるんですか?」

 

「いえ、そんな事は無い筈なんですが・・・」

 

 教室の窓から中を覗いても、見えるのは誰も居ない教室。

 

 窓に鍵が掛かっていない事を確認し、引いてみるもやはり開かない。

 

「生徒達は・・・?」

 

「それが、私がここに来るまでは確かに声が聞こえていたんです・・・」

 

 困惑の表情を浮かべる教師を余所に、百合子の視線は舐めるように窓の向こうの教室を移動する。

 

 誰も居ない教室、整然と並べられた机と椅子、開いた窓、きっちりと纏められながらも風に煽られて揺れるカーテン、黒板の下に積もったチョークの粉。

 

 そして、その一点で停止した。

 

「妙ね」

 

「え?」

 

 こちらの呟きを聞いたのか、疑問を浮かべた教師を放置し隣の教室を覗き込む。

 

 別の教室で授業を受けているのか、それとも体育の時間なのかは不明だが、空き教室となっているその扉を開け、中に入って窓を開く。

 

 春めいた風が吹き込み、カーテンを揺らした。

 

 それを確認し、再び教室に取って返す。

 

 気圧されたように道を開けた教師に視線もやらず、再び窓越しに誰も居ない開かない教室を覗き込む。

 

「チョークの粉、動いてませんね」

 

「え? ええ。それがどうかしたんですか?」

 

 教師の疑問に答える事も無く、腕を組んで扉を睨み付ける。

 

「誰だか何だか知らないけど・・・私の楽しみを奪った代価――高くつくわよ?」

 

 にやり、と笑みを浮かべ、「全力を篭めて」目の前の扉に手を掛けた。

 

 視界の隅で教師が腰を抜かしていたが、放って置く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・つまり、作者が何を言いたかったのかというと――」

 

 リズム良く黒板をチョークが叩く音がする。

 

 それを既に半分以上が睡魔に襲われつつある脳で処理しながら、忠夫は愛子の後姿を見つめていた。

 

「・・・先生と生徒。年上のねーちゃん。イイっ! すっごく良い!! できれば優しくこう、ああっ?! ぼかーもうっ! もうっ!!」

 

「思考がだだ漏れですノー」

 

「むしろ眠気よりもそっちの方が優先される辺り、横島さんらしいけどね・・・」

 

 愛子に突然奇声を上げた事を叱られつつも、どこか尻尾でも振っていそうな雰囲気の忠夫に溜め息を付く2人。

 

 そんなタイガーとピートの顔にも疲労の色が濃い。

 

 始めは興奮していた男子生徒達も一人、また一人と睡魔に襲われ何人かが顔を伏せてその度に怒られていたり隣の者に突付き起こされていたりするが、教室の中からも段々と活気が失せているような気がしていた。

 

 ノートは既に4ページ目に突入しており、体感時間では既に数時間経過しているのではないかと思われる。

 

 だが、教室の隅に掛けられた時計の針は殆ど動いておらず、ただ、皆、疲れていた。

 

 元気なのは教壇に立って笑顔を浮かべながら古典を読んでいる愛子と、突然叫んでは怒られている忠夫くらいである。

 

 堪らず、といった感じに前方の女子生徒が手を上げた。

 

「せ、先生、ちょっと休憩しませんか?」

 

「え? だ、駄目よ! まだ時間はあるじゃない! それとも、私の授業、詰まらなかった?」

 

 途端に動揺しながらも、涙目で詰め寄る愛子に手を上げた女子生徒も身体を仰け反らせながら両手を振る。

 

 安心したように息を付いた愛子は、再び眼鏡の位置を直しながら教壇へと、「うきうき」と言った感じで歩いていった。

 

「・・・おかしいんですがノー。何がおかしいのかが分からんですジャー」

 

「タイガーもかい?」

 

 板書を続けた手の痛みを散らす為にぷらぷらと手を振りながら、凝った肩に手を伸ばす。

 

 タイガーも背中を伸ばしたそうにしているが、流石にそれは憚られるのか背中を丸めて溜め息を付いただけに止めていた。

 

「先生ー! 俺の嫁に来ない理由を100文字以内で説明してくださいー!」

 

「だ、だって教師と生徒だし・・・」

 

「説明になってませーん! 早く早くー!」

 

 どうやら怒られた事で元気になったのか、がったんがったんと子供のように机を揺らしながら説明を求める忠夫に対し、困ったような顔で暫し考えていた愛子が一言。

 

「ほ、ほら、未成年の場合は保護者の同意が必要だしね?」

 

「ならば話は早いでござる!」

 

「ござるって?!」

 

 愛子の質問にも答えず、すっくと立った忠夫はおどろおどろしく雲が覆っている校庭への窓を開けて叫んだ。

 

「おばさ「百合子さんと呼びなさいってあれほど身体に教えたやろうがー!!」きゃいーんっ?!」

 

 轟音と共に扉を開いた百合子が、窓の外に向かって吼えるアホの背中にロケットのようなドロップキック。

 

 悲鳴のエコーを残しながら落下していった甥を余所目に、腕を組んで鼻息を一つ吐くと、愛子に向かって振り向いた。

 

 硬直していた愛子は、まるで怯えるかのように後退り、一瞬だけ迷いの表情を浮かべると、決意したように両手を握り締める。

 

 対する百合子は腕を解き、そして。

 

「・・・先生かしら? 家の息子が何時もご迷惑をおかけしています」

 

「え、あ、いえ。こちらこそ・・・」

 

 花の咲くような笑顔を浮かべ、深々とお辞儀した。

 

 思わずつられて頭を下げた愛子には見えない。

 

 下げた頭の向こうから、まるで猛禽類のような視線が見つめているのが。

 

 そして、その視線が、愛子が思わず頭を下げながら、照れたように頬を掻いた瞬間に緩まった事を。

 

「・・・ま、良いか」

 

「え?」

 

「何でもないですわ。校長先生には許可を頂いていますから、授業参観、させて頂いても――よろしいですね」

 

「あ、え、あの」

 

 言葉こそ質問であるが、口調では答えを求めていない百合子が愛子に背中を向け歩き出す。

 

 教室の一番後方まで辿り着いた彼女は、ゆっくりと腕を組むとまるで女帝のように教室を睥睨した。

 

 空気が一瞬で締まり、眠気に負けていた者達も完全に覚醒する。

 

 窓の外から這い上がってきた忠夫が何で百合子を呼んだのか、すっかり忘れて首を捻りながら着席するのを確かめながら。

 

 愛子が、警戒の残る視線を向けつつ、それでも決意したように胸の前で両手を握り締めたのを視界の隅に写しながら。

 

「ふふふ・・・」

 

 百合子は、楽しげな笑みを浮かべたのだった。

 


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