月に吼える   作:maisen

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第四拾四話。

――AM 4:47――

 

 早朝、と言ってもまだ太陽は顔を覗かせてすらおらず、ただ、ぼんやりと東の空が明るくなってきたような気がする、そんな時間。

 

 ごそごそと起き出して来た忠夫は、寝不足の頭を抱えながら窓を開けた。

 

 冷たい、しかしほんの数週間前に比べれば段違いに暖かくなってきた朝の空気が部屋を巡る。

 

 その中で、背中を一杯に伸ばして大きく口を開けた欠伸を一つ放った青年は、何かを思い出すようにしばし頭を捻った後。

 

「・・・まぁ、いいか。さーて! 朝飯でも獲りに行くかっ!」

 

「『行くかっ!』じゃないよこの馬鹿っ!!」

 

 背後からの蹴りで窓から落ちた。

 

 気配を全く感じなかった忠夫が、きっちり地面にめり込んでから飛び起きる。

 

 朝露で湿った土を、全身を水でも払うように震わせ散らしながら蹴り落とされた窓を見上げれば、其処には仁王立ちでこちらを見下ろすスーツ姿の妙齢の女性。

 

 忠夫の叔母にして戸籍上の母、横島百合子の姿がある。

 

「ゆ、夢じゃなかったんかぁぁぁっ?!」

 

「朝っぱらから近所迷惑な声上げてないで、さっさと上がってこんかっ!!」

 

 すこん、と軽くも固い音を立てて、バンプスが忠夫の額に直撃する。

 

 仰け反った忠夫が額を擦りつつ涙目で入り口に向かって駆け出した事を確認し、百合子もまた窓を閉めて部屋の中に戻っていく。

 

「い、いきなり窓から突き落とす事ないやんっ!」

 

「黙らんかいっ! 昨日の夜に言われた事を寝て起きたら忘れる鳥頭が悪いに決まっとるやろうがドアホッ!!」

 

 玄関に立てかけてあったドアを蹴り飛ばして帰宅した甥に対し、その腰の引けた抗議よりも巨大な罵声を叩きつける。

 

 あっさり怯んで縮こまった忠夫にそれ以上の何を言う訳でもなく、鼻を一つ鳴らした百合子はその隣に据え置かれた簡易な台所に向かって歩き出した。

 

 その姿を若干怯えながら追いかけていた忠夫の目に入ったのは、何処から如何見ても新鮮ですよー、と主張してやまない食材の群を包んだ新聞紙やらビニール袋の一塊と、その直ぐ傍に転がる鍋釜包丁に炊飯ジャー等々の調理道具。

 

 そして、皿に茶碗にお椀が数組。

 

 一体こんな時間に何処で購入したのか不明であるが、必要な物が一通り、確かな存在感を持っている。

 

「全く・・・人狼だからって野菜を取らないのは、ただの好き嫌いの言い訳だって姉さんも良く言ってたじゃない」

 

「うっ?!」

 

「冷蔵庫も無いし、鍋も無い。調味料も碌なのが無い辺り、典型的な男の一人暮らしの台所ねぇ」

 

 根本的な所で別の種族である人狼に、人間の食生活が適用されるのかどうかは知らないが、それでも忠夫のその台所は確かに余り使われた様子が無い。

 

 最も、料理――と言うか、燻製肉を作ったり、干し肉を作ったりと言う事自体はこまめにやる忠夫であった。

 

 何時ぞやの空き巣騒ぎのせいもあり、ねぐらに溜め込む食料自体が減っているのは事実であるが。

 

 ともあれ、溜め息一つ付いて忠夫を邪険に追い払い、布団を片付けさせ、ちゃぶ台に座らせた百合子はおもむろに腕まくりをすると、食材の山に向かって朝の戦いを挑み始める。

 

 その音を何とはなしに聞きながら、忠夫はまだ碌な番組もやっていないTVのスイッチを入れるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、出来たよ」

 

「うわー、飯だ」

 

「当たり前でしょうが」

 

 30分ほどもして運ばれてきた、ほかほかと湯気を立てる料理の数々。

 

 白く艶やかに輝く白飯に、これぞ朝ご飯といわんばかりの醤油の匂いも香ばしい鮭の切り身にツンと黄身の立った生卵。

 

 豆腐やネギがゆらゆらと泳ぐ味噌汁など、見ているだけでもご飯をかっ込みたくなるオーラを放っている。

 

 陶器が古びた木の板の上に乗る音が暫し響き、簡素ながらも十分に食欲をそそる品揃えである。

 

 3人分のそれをちゃぶ台に置き、やれやれと自分の肩を揉み解しながら、百合子は押入れに向かって歩き出した。

 

 そして、忠夫が止める間も無くその襖を快音と共に全開にする。

 

 開いた襖のその奥で、ゆっくりと尻尾を振りながら小さく丸まり、なんとも幸せそうな寝顔をしてるメドーサの首を有無を言わさず引っ掴むと、そのままちゃぶ台まで片手で持ち上げて運んで座らせた。

 

 かくんかくんと前後左右に頭をふらふらさせながら、脳味噌の9割方が眠っているんじゃなかろーか、といった様子で目の前の料理に手をつけ始めるメドーサ。

 

 どうやら昨日は大変疲れていた性もあり、また、安心して眠れる、と気が緩みでもしたのだろうか、かなり深い睡眠を取ってしまったようである。

 

 あの緊張感は何処に行ったんだろーか、と現実逃避しながらも、目の前の叔母の視線が痛すぎて折角の暖かい朝食が冷えていくのをただ目を逸らしながら悲しむ忠夫であった。

 

 暫しの拷問のような沈黙の中、メドーサが糸目で朝食を口に運ぶ音だけが響く。

 

 殆ど無意識に動いているであろう手が食べ物を口に運ぶたびに、尻尾がぱたぱたと動いている所を見ると、かなり満足しているようではある。

 

 刺すような視線で忠夫を睨みつけていた百合子も、その視線を逸らさぬまま無言で箸をつけ始め、その流れに乗っかるように忠夫もまた朝食を食べ始める。

 

 折角のまともな朝食も、忠夫にとっては全く味の感じられない物だったとか。

 

「・・・・・・・・・・」

 

「・・・・・・・・・・」

 

「・・・あふ」

 

 流石に半分以上寝ぼけているメドーサの食事の速度は遅く、食べ終わったのはほぼ3人同時である。

 

 そのままひたすら冷や汗をどばどばと垂れ流す忠夫と、それを半眼無言で睨みつづける百合子を余所に、メドーサは欠伸を一つ漏らすと部屋の隅に畳んで置かれていた布団を剥ぎ取り、押入れの中に突っ込んだ。

 

 そのまま自分も這い上がり、おもむろに布団に包まると満足げな息を漏らして襖を閉める。

 

「むふぅ。はすはす・・・すぴー」

 

 どうやら、完全に惰眠を貪る体勢に入ったようである。

 

 奇妙な沈黙が一瞬部屋を包み、百合子がそれを破るように立ち上がると、額に青筋を浮かべながら拳を鳴らす。

 

 いやいやと首を振りながら部屋の隅まで尻を床に付かせたまま後退する忠夫。

 

 誤解だ、と言わんばかりに両手を前に突き出し必死で振ったが、目の前の般若はにっこりと笑って親指を下に向けた。

 

「人様の娘を連れ込むとは何処の何様やあんたはぁぁぁっ!!」

 

「違うんやぁぁぁぁっ!」

 

 説得というか説明するのに、太陽の光が部屋の中に差し込むまでかかったと言う。

 

 結局、完全に納得はしてもらえなかったようであるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――AM 7:50――

 

「あ、朝っぱらから、なんちゅうハードな・・・」

 

「無駄口叩かんとちゃっちゃと歩くっ!!」

 

 久方ぶりに着込んだ学生服の襟元を気にしながら、何時もに比べればそれこそ欠伸の出るような速度で学校に向かって歩いていく。

 

 保護者連れで登校する、と言うのも全く格好がつかないが、それを言って取り止めてくれるほど甘い叔母でなし。

 

 忠夫はがっくりと肩を落としながら、まるで普通の学生のように通学路を行く。

 

 何時もなら時間ギリギリに屋根の上を駆けて行く忠夫が、普通に通学路を歩いていけばそれなりに人にも出会う。

 

 そんな時間帯に、前方で、パン屋のウインドウを覗き込みながら何やら真剣な様子で話し合っているセーラー服を着込んだ女生徒と目があった。

 

「あ、おはようございます横島さん! と、百合子さん・・・」

 

「お、小鳩ちゃん! よ――め・・・ごっほんっ!! うえっほっ!!」

 

「何を朝からムセとるんや? お二人とも、おはようさん!」

 

 危うく咽元まででかかった朝一番の求婚を無理やり飲み下した忠夫であった。

 

 己の後方で、笑顔でひらひらと手を振る叔母の顔を見た瞬間に僅かに後退さったようではあるが、気を取り直して深々と頭を下げる小鳩。

 

 そして、その隣でえらく気合の入った挨拶をする貧乏神。

 

「あら、2人ともこの時間に学校?」

 

「え、ええ。このパン屋さん、何時もこの時間に昨日の売れ残りを安く売ってくれますから」

 

「まぁ、お袋さんが働けるようになったと言っても切り詰められる所は切り詰めんとあかんからなぁ」

 

 朗らかに言う小鳩の笑顔に、曇りや悲しさは一つも無い。

 

 それよりも、小鳩の母が働けるほどに体調が良くなっている事を喜んでいる節がある。

 

 忠夫はそれに笑顔を返しつつ、疑問に思った事を投げかけてみた。

 

「あれ? 小鳩ちゃん、百合子さんと知り合いなのか?」

 

「え、ええ。昨日会ったばかりですけど・・・」

 

 その時の事を思い出したのか、少々蒼褪めながらも答える小鳩。

 

 背後では、なにやら貧乏神と百合子がごちゃごちゃと話し合っている。

 

 そちらに視線を向けながら、忠夫は苦笑いを見せつつ肩を落とした。

 

「そっかー。いきなりでびっくりしたやろ? ・・・あれ? ちゅー事は小鳩ちゃん家ってこの辺?」

 

「え? ・・・あのー、お隣さんなんですけど」

 

 気が付いていなかったのか、と拗ねるような、それでいて責めるような視線を向けてくる小鳩に、忠夫は硬直する事で肯定を返す。

 

 そのまま、ゆっくりと膝をつくと渾身の力で地面を叩いた。

 

 鈍い音と共にびしびしと罅の入ったアスファルトに、忠夫の涙が染み込んで行く。

 

「お、俺の馬鹿っ! そんな美味しい状況に気づかなかったんか・・・!」

 

「其処まで落ち込まなくても・・・」

 

 フォローのつもりか優しく声を掛けながら肩に手を置いた小鳩も、これほどショックな様子を見せ付けられれば悪い気はしないようであり。

 

「ほら、これから何時でも会えるじゃないですか!」

 

「小鳩ちゃん・・・」

 

「よ、横島さん・・・」

 

 その言葉に元気を取り戻したか、ゆっくりと立ち上がった忠夫の前に、両手を胸の前で組んだ小鳩が、すっ、と接近する。

 

 朝っぱらから中々良い雰囲気を作ってくれてる二人に対し、通勤途中のサラリーマンの方々が昔を懐かしむような暖かい目を向けていたり、家の前の掃除をしていたおばちゃんがハンカチで目元を拭っていたり、幼稚園児と思しき娘さんを連れた奥様が、子供にはまだ早いと愛娘の目を塞ぎつつじっくりと足を止めて鑑賞していたり、通りすがりの独り者っぽい方々が男女を問わず呪いの視線を向けていたり。

 

 しかし、なんだか2人の空間を作り上げている彼らにそんな物は目に入らない。

 

 ゆっくりと、だがしかし確実に2人の間の距離は縮まり――。

 

 

「・・・ま、試してみれば分かるわね。ほら、忠夫、口開けな」

 

「え? むがっ?!」

 

 百合子の声に振り向いた忠夫の口の中に突っ込まれた、曰く言い難い味の何かによって寸断された。

 

 口の中に広がる甘酸っぱくもこってりとしたあんことしめ鯖とチーズのかほり。

 

 それは非常に敏感な忠夫の嗅覚を満遍なく侵略し、そしてその刺激としか言い様の無い食べ物に対する侮辱とも取れる感覚が忠夫の脳髄を走り抜ける。

 

 気が付いた時には、忠夫は小鳩の豊かな胸に倒れこんだ己の身体を一寸高い所から見ていた。

 

『・・・ごーとぅーへぶん!!』

 

「帰ってきて横島さーん!!」

 

 何かをやり遂げた表情の忠夫は、凄く良い笑顔を浮かべ、親指を立てながらゆっくりと上昇して行く。

 

 それを必死で忠夫の肉体の方を抱き止めながら制止する小鳩。

 

 ますますその柔らかさを享受する事になった肉体は、しかしその事を感じる余裕さえなくヤバげな痙攣を繰り返しながら白目を剥いている。

 

「駄目か」

 

「駄目ねぇ。売れないわよ、これ」

 

「上手く行ったらパン屋のおっちゃんと一緒に会社でも起こすつもりやったんやけどなぁ」

 

「一発狙うのもいいけど、先ずは地盤をしっかり固めないとねぇ。商品開発はお金も時間も、スタッフも要るから。持続的な新商品の展開が出来ないと一発屋で終わっちゃうわよ」

 

 至極残念そうに食べかけの危険物を弄ぶ貧乏神の隣で苦笑いしながら、百合子は足元の小石を拾う。

 

 気合一閃、投げ放たれたそれは、何処からとも無く近づいてきていた骸骨頭の黒い布を纏った、巨大な鎌を持った何者かの横を擦り抜け、今まさに恍惚の面持ちで上に向かって加速しようとしていた忠夫の後頭部を何故か直撃する。

 

 幽霊、と言うか魂の筈なのに物理攻撃だと思われるそれに打ち落とされた忠夫は、真っ逆さまに落下して動きを止めつつあった肉体に重なり、暫しの間を置いて心配そうな小鳩の目の前で復活。

 

「はっ!? 何かとても良い思いをしたようなっ?! 具体的に言うと柔らかくて何と言うか、こうっ、天国?!」

 

 どちらの意味にも取れる言葉であるが、肉体が感じた方であろう事だけは間違い無いだろう。

 

忠夫だし。

 

 両手で頬を押さえて鼻の下を伸ばした忠夫の襟首を、気配もさせずに接近した百合子が後方から引っ掴む。

 

「はいはい、ほら、さっさと学校行く!」

 

「あー! ちょっとまって百合子さん! いま、俺の人生で何か新たな境地が開ける所ー!」

 

 ずりずりと問答無用で引き摺られて行く忠夫を見ながら、小鳩は雲一つ無く晴れた空を見上げて誓うのだった。

 

「・・・小鳩は、小鳩は負けません。何時か、百合子さんみたいに横島さんをしっかり捕まえます!」

 

「・・・・・・・・・」

 

 何時もなら貧乏神の合いの手が入るのだが、今回ばかりは好奇心に負けて劇物を食べたせいであの世とこの世の境目を彷徨っているので無理だった。

 

 拳を握り締めてそらを見上げるセーラー服の少女の足元で、二口ほど齧られたハンバーガーらしき物体を持ったままビクビクと痙攣を繰り返す、エセメキシカンな神様は。

 

『六銭? ちょっと高くないけ?』

 

『と言うか、お前も一応神だろうが』

 

 少し斜め上で誰かと親睦を深めつつあるので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――AM 8:15――

 

 ざわざわと喧騒の響く廊下を一人で歩き、目的の場所まで一直線。

 

 薄い扉を横に動かせば、そこは忠夫の教室である。

 

「ういーっす」

 

「・・・え?」

 

「・・・タイガー、幻覚使いました?」

 

 気怠げに挨拶をした忠夫に向かい掛けられる、同業者2人の夢でも見てるんじゃなかろーか、と言う言葉に少々口元を引き攣らせながらも、何事も無かった風を装って席につく。

 

 空っぽの鞄を机の上に投げ出し、その中に入れっぱなしの新品同然の教科書たちをチェック。

 

 おぼろげな記憶を頼りに一揃いがあることを確認したら、未だに2人で頬を抓りあっている友人達の所に行くとしよう。

 

「横島さんの偽者がーっ?!」

 

『やっぱりそーかっ!!』

 

「マテやコラァァァッ!!」

 

 ピートの絶叫でそれまで動きを止めていた生徒たちが動き出し、机を教室の片隅に追いやり始める。

 

 何人かの男子生徒が外に駆け出し、女子生徒たちは開いたスペースに幾つもコンロを設置したりバケツに水を汲んできたりと大忙し。

 

 更にその隣ではタイガーの巨体に肩車した男子生徒が、天井に滑車を取り付け始めるに至って漸く忠夫は抗議行動を取り始めた。

 

 嬉々としてロッカーから三角の怪しい覆面を取り出し始めた男子生徒に教科書を投げつけ、こちらから必死で目を逸らして肩車するタイガーの膝裏を蹴り飛ばし、その上の男子生徒もろともスッ転ばせる。

 

 涙目でコンロの火が点かないと何度も何度もスイッチを入れる女子生徒に新しいガス缶を渡しつつ求婚をかますも何故か泣きながらダッシュで逃げられ物凄く落ち込み。

 

 悔しいのでピートを先頭に人一人は簡単に中に入れるほど巨大な鍋を持ってきた集団に向かって、思いっきり机を投げつける。

 

「ああっ?! 折角徹夜で作った怪しい帽子がっ!!」

 

「タ・・・イガー・・・退いてく・・・れ・・・ぐふっ」

 

「大丈夫? 野良犬に噛まれたと思って諦めないで訴えましょ!!」

 

「ピィィィィト! 堪えろぉっ!! お前が崩れたら持ちこたえられんぞー!」

 

 一瞬の内に喧騒が狂乱へと変貌した教室内で、色々とドラマとか生死に関る事態とかが発生する。

 

 それを机をブン投げた姿勢で黙って見ていた忠夫であるが、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、おもむろに未だ落ち着かない集団に声を掛けた。

 

「気は済んだかお前らぁぁっ!!」

 

『わりとっ!!』

 

 ノリだけは良いクラスのようである。

 

 とは言え、半分近くは未だに疑いの視線を向けている辺りがなんともはや。

 

「いたた・・・横島さん、本当に久し振りに学校に来ましたねー」

 

「・・・そんなに久し振りだっけ?」

 

 虚空を見上げて記憶を頼りに指折り数え始めた忠夫の周辺で、またもや完璧なチームワークを見せながら教室が元通りになって行く。

 

 鍋は再び数人掛りで持ち上げられて何処かへ去って行き、コンロも簡単な点検をされた後何時の間にか消えている。

 

 覆面を破かれた男子生徒は近くの女子生徒から針と糸を借りて修繕を始め、タイガーに潰された男子生徒は担架に乗せられて医務室へと運ばれて行く。

 

 最後に女子生徒に声を掛けられた忠夫を含めた全員で机を元の位置に戻しながら、漸く一段落ついた教室内は何時もの喧騒を取り戻していた。

 

「・・・ふぅ。って、あー、確かに物凄く久し振りかもしれん」

 

「かもしれん、じゃ無いですノー。ほんとに良く進級できたとワッシは不思議で仕方ないんジャー」

 

 忠夫の記憶が確かならば、少なくともねぐらに貯める食料の量を減らし始める以前にはそれなりに登校していたはずである。

 

 そもそも、早朝から毎日の如く狩りに出かけたりしなければ、結構・・・とは行かないまでもそれなりに来れていた筈なのだ。

 

 そう、空き巣が入ってそのせいで食糧を余り貯めなくなるまでは。

 

「つまりあの空き巣が全部悪いんかー!!」

 

「うわぁっ?!」

 

「いきなりどうしたんですカイノー?!」

 

 突然大声を上げた忠夫の形相に、タイガーとピートは揃って下がる。

 

 教室の生徒達の視線が忠夫に集まり、「ああ、横島か」みたいな表情を作ると再び元の会話相手に視点を戻した。

 

 息を荒げて何故か怒る横島の背中を落ち着かせるように撫でながら、ピートは横島の家が空き巣に遭った事があるのを説明する。

 

 それを聞いたタイガーがなんとも哀れむような表情になり、ピートと同じくその背中を軽く叩く。

 

 それを見ながら一部の女子生徒達が歓声を上げていたりするが、力の限り丁重に無視させて頂いた。

 

 GS試験の頃から何となくそー言った怪しげな集団が発生していた事もあり、2人とも慣れた様子である。

 

 ただ、あんまり学校に来ていない為不慣れな忠夫が背筋に悪寒を感じて正気に戻ったのは予期せぬ幸運と言っても良い・・・のだろうか?

 

「OKOK落ち着いた。ピート、後で教会に遊びに行っても良いか?」

 

「駄目です」

 

 額にかいてもいない汗を拭いながら笑顔を浮かべる忠夫に対し、これまたピートも笑顔で拒否。

 

 ただ、その額に冷や汗が流れているのを見ると、しっかりと忠夫の行動は予測されているようである。

 

 流石に教会の像を切り倒されかけたと言う出来事は、記憶にしっかりと刻み付けられているようだ。

 

 至極残念そうに舌打ちする忠夫を警戒しつつも、やや焦った様子で話題の転換を図るピート。

 

「そ、そう言えばこの学校って不思議ですよね! 新年度になってもクラスメートが変わらないだなんて!」

 

『――っ!!』

 

 空気が、凍った。

 

「それに、ほら、教室も相変わらず2年の教室・・・あれ? 変だ、今度は3年――あ、あの、タイガーに横島さん? 何故僕の両手の関節を極めているのですか?」

 

 無言で固定させた両腕を持ち上げ、そのままピートを引き摺りながら教室を出て行く二人。

 

 教室の生徒達も、誰もが視線を合わせない。

 

 暫しの後、おそらく体育館の裏辺りで、忠夫とタイガーの声とピートの悲鳴が木霊した。

 

『狼!』

『虎!』

『『滅殺!!』』

 

『ちょっと2人とも! その闘気と妙な掛け声は何ですかっ?!』

 

『『快刀乱麻ッ!!』』

 

『ぎゃー!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――AM 9:50――

 

 たっぷり一時間以上もかけて常識と言う物を叩き込んだ2人は、とても良い笑顔で体中に足跡を付けたピートを引き摺って行く。

 

 教室の扉を開けて覗き込めば、丁度一時間目の終了を知らせる鐘が鳴る所だった。

 

「横島ぁー、今回はやむをえん事情があったから不問にするが、折角学校に来たんだから授業をしっかり受けろよー」

 

「ういっす! すんまっせんした先生!」

 

 チョークを片付けた男性教諭が忠夫の頭を軽く叩きながら教室を出て行き、同時に室内が喧騒に満たされる。

 

 教師でさえボロボロのピートに軽く視線を向けただけで出て行く辺り、一応タブーという物はしっかり伝わっているようだ。

 

 二人掛りでピートを椅子に座らせ、その学生服に付いた足跡を手際良くはたいて落として行く。

 

「全く、相も変わらずピートも迂闊だよなー」

 

「本当ですジャー」

 

「い、磯野家空間とか外国生まれの僕が知る筈無いじゃないですかっ!! ・・・あ” ――待った! 今の無しで!」

 

――再び凍りつく教室の空気。

 

 そして、溜め息をついた2人に再度抱え上げられ運ばれて行くピートの姿を目にしながら、教室の面々は何事も無かったかのように次の授業の準備を始める。

 

 前の席では、今度は誰が次の授業の担当をする先生にこの事を伝えるかじゃんけんしていたり。

 

「主よー! この扱いはあんまりではないでしょーかーっ!!」

 

「うっさい黙れこの天然地雷踏み!」

 

「一応わっしも南米生まれなんですがノー」

 

 そんなこんなで忠夫の新学期一日目前半は、特に何事も無く過ぎて行くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところでその頃百合子はと言えば。

 

「ええ、そうなんです。西瓜くらいのが、その、止まらなくなると言う――」

 

「そうですか――いや、一人暮らしの上そんな大病を患っていたとは・・・」

 

「知り合いの医師に見せた所、かなり高度な医療技術が即急に必要との事でしたので・・・私達の方も慌てておりました物ですから」

 

「いえいえ! そう言う事情があったのでは仕方ないですからね。幸い去年の単位はギリギリ足りていますし、まぁ、病欠と言う事で何とかしましょう」

 

「ありがとうございます・・・」

 

「いえ・・・ご苦労をされましたねぇ」

 

 涙と一流俳優顔負けの演技を縦横無尽に使いつつ、突然学校に行かなくなった甥のフォローに校長先生を始め職員達の元を動き回っていたりする。

 

 応接室、と書かれた部屋の扉を頭を何度も下げながら閉めた百合子は、

 

「・・・まだまだ甘いわねぇ」

 

 ちろっ、と舌を出し、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、そろそろ昼を指そうと言う腕時計の短針を眺めつつ歩き出したのだった。

 


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